山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

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2023.02.17
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テーマ: 街歩き(651)
カテゴリ: 街歩き

 雪の少ない冬だと思っていたが、2月に入ってからだいぶ降るようになった。とはいえ、仙台では「雪掻き」というほど大業なことにはならないし、わが家では硬い箒で掃くくらいで済んでいる。
 5センチくらい積もったら玄関から車道まで人が歩ける程度に掃くのである。玄関から車道まで15メートルくらいの細い雪道ができる。また少し積もったらすぐに掃く。夜中でも早朝でもちょっと積もるとなるべく早く掃くことにしている。
 雪掃きの回数が増えるのだが、あまり気にならない。雪掃きが好きなんだろうかとも考えたが、どうも人一人が通れるぐらいの雪道が出来上がるのが楽しいらしい。そういう雪道を見るのがなんか楽しいということなのだ。
 私が小学生のころ、学校までの通学路の大半は車の通らない道で、雪の日は子供たちが一列になって踏み固めた雪の細道が続くことになる。そんな道が切なくなるほど懐かしくなる時がある。そういえば、雪道をあるく子供たちのゴム長靴の底にはたいてい稲藁が敷いてあるのだった。
 雪に日には、そんなことを思い出しながらせっせと雪を掃くのである。







元鍛冶丁公園から一番町へ。(2023/2/17 18:17~18:28)


 元鍛冶丁公園に着いたらスタッフの一人が急ぎ足で寄ってきて「西さんが来てますよ!」と嬉しそうに教えてくれた。病が癒えた「脱原発みやぎ金曜デモ」代表の西さんが3か月半ぶりに金デモに復帰したというのである。
 「まだ体慣らし程度の参加ですよ」と笑っておられたが、とにかく頑張る人なので年寄りとしてはとても心配なのである。私よりずっと若く、みんなが頼りにしている人なので、何とか自重と頑張りのバランスを上手に取りながら元気でいてほしいと願うばかりである。
 スピーチでは、電力料金値上げと原発再稼働の連動させる動きや、原発再稼働についての世論調査の話題がでた。最後に西さんがスピーチをして、25人のデモは繁華街に向かった。













一番町。(2023/2/17 18:30~18:36)


 フリースピーチでは、2月13日の原子力規制委員会で反対意見があるにも関わらず原発運転60年超を認める規制制度案を異例の多数決で採択したという話題もあった。この採決に対して多くのマスコミも自公政府案に合わせるための政治的判断だとして規制委員会の役割に疑問を投げかけている。
 反対を表明した石渡委員は地質学の専門家で日本地質学会の会長を務めるなどの泰斗であるが、委員長はじめ残りの4人の委員は原子力工学、放射線医学など原子力関連の専門家である。この専門家たちは政府の立場に立って原発推進することで、原子力の安全を担保するために「規制」すべき委員会の役割を放棄してしまったようである。

 9年ほど前に、原子力工学の専門家は「科学者」であるのかと考えてみたことがある。再掲しておく(「​ 「7月27日 脱原発みやぎ日曜デモ」 憂鬱を晴らしにデモへ! ​」)。


 だいぶ前に読んだ本で、科学哲学者ジェームズ・R・ブラウンが次のような一文を記していた。

「物理学者は、量子力学は基本的には間違っているかもしれないということを認める。物理学者なら誰でも、まったく予想もしなかったような実験結果が出たり、新しくて深い理論的洞察が得られたりすれば、量子力学が明日にもひっくりかえる可能性があると思っているのだ。もちろん、その新しい証拠をきちんと調べるためには時間がかかるだろうし、これほどみごとな理論をあっさり捨てるのは軽率というものだろう。しかし原理的には、量子力学もまた、天文学における天動説(地球中心説)のような道のりをたどる可能性はあるということだ。
 それとは対照的に、キリスト教徒のなかに、キリストの神性にたいする信念を捨てられる者が一人でもいるだろうか? あるいは、キリストは私たちの罪を背負って死んだという信念を捨てることができるだろうか? 神がいっさいをつくったという信念は? 物理学者と司祭との大きな違いは、あつかうテーマの違いではない。その違いは、つきつめれば次のようなことなのだ。物理学者は、現行の物理学の中核的信念をすべて捨てたうえでなお、物理学者でいることができる。司祭は、中核的信念を捨てるなら、司祭をやめるしかない。忠誠は、宗教においては徳である。しかし科学においては罪なのだ。」( ​​ジェームズ・ロバート・ブラウン(青木薫訳)『なぜ科学を語ってすれ違うのか ――ソーカル事件を超えて』(みすず書房、2010年)p. 80-81。)​​

 この考えは、科学(物理学を科学一般と考えてよい)と宗教に関するきわめて常識的な考え方である。〈3・11〉後、福島の悲惨を目にして多くの人は原発の存在そのものに否定的な考えを示した。しかし、テレビで原発について語る原子力工学の専門家や政府関連の委員会の原子力専門委員のなかで、原発の存在を絶対的な前提としない考えを語る人物をついに見かけることはなかった。
 彼ら、原子力工学の専門家にとっては、原発はキリスト教徒におけるキリストに等しい絶対的存在らしい。たしかに、原子力工学を学んだ学生が進むべき道は原発を作るか、原発を保守するかしか進路はない。核融合炉という道もあり得るが、いずれ原発と同じ運命をたどることは明白だ。
 ブラウンの言葉に照らせば、原発が信仰の対象のようになっていてその対象を相対的に思考できない原子力の専門家は、科学者ではないということだ。
 フクシマ以降、科学者は信用できないとか、政府御用の専門家は信用できないという言葉をいろんなところで聞いた。当然なのである。彼らは科学者ではないのだから、科学者として信用すること自体間違っていたのだ。
 科学者としての〈知〉とか〈学〉とかを期待してはならないのである。ましてや、よく言われる科学者の〈良心〉などはないのだ。なにしろブラウンの定義上、彼らは科学者ではないのだから。
 科学者に期待できないなどと言いたいわけではない。科学者ならざる原発信仰者としての原子力工学者に期待できないだけである。全人格的にすぐれた科学者はたくさんいる。
 残念なことに(当然でもあるが)、そのような科学者は政府委員会には不都合なので、権力機構の中に地位を占めることができないのだ。 ​(2014年7月27日)​ ​​


 原子力行政に忠誠を誓う規制委員会の委員(石渡委員を除く)が真正の科学者かどうか、あえて語る必要などないのかもしれないが………。







青葉通り。(2023/2/17 18:40~18:47)


 病後間もないというのに西さんは最後までデモを歩かれて、それはそれで安心したのだが、できるだけゆっくりと確実に体力の恢復をはかってほしい、と心配症の年寄りは元気な顔を拝してもやはりいくぶんオロオロしているのである。  次回のデモは日曜日12時からの昼デモという案内があったが、その時間帯の参加は難しい。たぶん、お休みである。

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Last updated  2023.02.19 08:48:59
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