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旅行時期:2018年10月9日目次はリプシマ教会へ移動。=====ガイド=====リプシマ教会は618年に建てられた世界遺産。リプシマという修道女のお墓の上に建てられた教会で、リプシマに纏わる伝説がある。かつてアルメニアとローマは仲良しでお互いに行き来する関係だった。あるとき、非常に美しい修道女だったリプシマは、ローマ皇帝の目に留まり求婚された。しかし、異教徒とは結婚できないと断り、36人の修道女とともにアルメニアに逃れて布教活動を始めた。すると、アルメニア王のティリダテス3世にも求婚されたが、その王も異教徒だったため断ると、王は怒り、36人の修道女とともにリプシマを石で殴り殺してキリスト教徒の迫害を始めた。その後ティリダテス王は、顔が豚になるという病気にかかってしまった。王の妹(姉説も)が、迫害によりとらわれていたキリスト教布教者のグレゴリウスを助ければ病気が治るという夢を見て、グレゴリウスを助けると王の病気は治った。王はこれをきっかけにキリスト教に改宗し、キリスト教を国教とした。===============つづきを読む »
2024年08月28日
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旅行時期:2018年10月9日目続いて、敷地内にある博物館へ。ここでは、大聖堂の床にあったモザイクや、建物の破片、45mの大聖堂の模型なども見ることができます。つづきを読む »
2024年01月09日
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旅行時期:2018年10月9日目大聖堂の周りの遺跡を見ていきます。=====ガイド=====ズヴァルトノツ遺跡には神父たちが暮らしていて、ローマ時代のお風呂や会議室、祭事などを行うホール、ワインの貯蔵庫などがあった。総司教のカトリコスの宮殿跡にワシの像があるが、ワシは紀元前9世紀からアルメニアのシンボルとなったもの。聖堂の柱の上にも鷲のレリーフが見られる。聖堂の出入り口は普通1つしかないが、ここには5つある。建築家によると、ここは神様が選んだ神聖な場所なため5つになったそう。クサビ型文字で王のメモが彫られている石板や、5世紀に発明されたアルメニア文字の日時計もある。この日時計は9世紀のもの。アルメニア文字は、発明時は36字だった。4つのレイズがあり、1番目は1~9、2番目は10~90、3番目は100~900、4番目は1000~9000。これらの古い遺跡は他にもたくさんあるので、わざわざ博物館に貯蔵したりせず野ざらしになっている。この穴はワインの貯蔵所。アルメニアでは紀元前8世紀からワインを作っていた。12種類のブドウがあり、今でもアララト盆地で栽培されている。また、山梨県へも種が持って行かれて同じブドウが作られている。===============つづきを読む »
2024年01月06日
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旅行時期:2018年10月9日目ズヴァルトノツ遺跡に着くとまだオープン前でしたが、ガイドさんが係員に連絡すると開けてくれました。早朝のまだ誰もいない遺跡は、とても静かで神秘的です。つづきを読む »
2023年07月09日
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旅行時期:2018年10月9日目いよいよコーカサス旅行最終日。アゼルバイジャンから始まり、ジョージアを経てアルメニアまでの3カ国周遊も、残すところ実質今日一日となりました。まずはホテルのレストランで朝食。早朝でしたが、何種類もの料理が綺麗に並べられ、さすが都会のホテルといった感じ。つづきを読む »
2023年04月08日
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旅行時期:2018年10月8日目お店は、エレヴァンの市街地にある「Tavern Yerevan」というアルメニア料理が食べられるレストラン。今夜のメニューは、チーズの盛り合わせ、きゅうりとトマトのサラダ、チキンサラダ、クスクスが入ったグリーンサラダ、野菜スープ、羊肉や野菜の包み焼き、バクラヴァなど。つづきを読む »
2023年02月04日
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旅行時期:2018年10月8日目今日宿泊するアルメニアの首都エレヴァンへ向かいます。つづきを読む »
2023年01月22日
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旅行時期:2018年10月8日目トルコとの国教に思いをはせた後は、教会の内部を見学。=====ガイド=====ホルヴィラップ修道院は、ホル(深い)、ヴィラップ(場所)という意味で、現在の教会は1662年にできた。紀元前2世紀から多神教の神殿と牢獄として使われていて、キリスト教を布教した聖グレゴリウスが13年間幽閉されていた穴もある。その上に教会が建てられ、現在まで修復を繰り返している。内部には、キリストを刺した槍や、アルメニアの王とグレゴリウスの肖像、洗礼式などの絵画が飾られている。グレゴリウスが幽閉されていた穴の深さは7mほどあり、今でも下りていくことができる。===============つづきを読む »
2023年01月08日
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旅行時期:2018年10月8日目山道を下って、アレニ村のワイナリーやブドウ畑などのどかな風景の中を進んで行きます。つづきを読む »
2022年09月24日
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旅行時期:2018年10月8日目アストヴァツァツィン教会から中庭を通って、聖カラペト教会と聖グリゴール教会へ向かいます。途中、石垣で囲われた竪穴があり、井戸かトンネルとして使われていたらしい。まずは、聖カラぺト教会から。=====ガイド=====この教会は最初に建てられたもので、ガヴィットの入り口の上の窓には、人の始まりであるアダムが彫られている。その左には磔にされたキリスト、右には平和の象徴の鳩がいる。その下いくと涙があり、さらに下に、年数を表すアルメニアの文字で囲まれた聖マリアとキリスト、ザクロ、ブドウの葉などが描かれている。ガヴィットの中には、ライオンと戦うオルベリア王のレリーフがあり、強さを表現している。教会の中に入ると、建物が十字架の形をしているのがわかる。祭壇では結婚式や洗礼式などが行われる。===============つづきを読む »
2022年08月13日
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旅行時期:2018年10月8日目レストランを後にし、建築家モミックの最後の傑作でアルメニアの至宝とも称されるノラヴァンク修道院へ。=====ガイド=====ヴァヨツ・ゾル地方にあるノラヴァンク修道院は、アルメニア使徒教会の修道院で、オリベリヤン時代の1205年に建築家モミックによって建てられた。ノラヴァンクは、「新しい修道院」という意味。なぜ「新しい」のかというと、他のアルメニアの教会と比べると別のスタイルの建築となるため。ノラヴァンク修道院が建つ前にも教会があったが、地震で倒壊してしまった。ノラヴァンク修道院も戦争で壊れたが修復された。ノラヴァンク修道院では、アストヴァツァツィン教会、ステファノス教会、グリゴール教会の3つの教会を見ることができる。アストヴァツァツィン教会のところに10世紀ごろまで別の教会があり、地震で倒壊。その後、オリベリヤンのお墓を作り、その上に現在の教会を建てた。アルメニアの教会では、普通アダムのことは描かないが、ノラヴァンクではモミックによって描かれている。キリストと聖マリアと共に見ることができる。ここも修道院なので、会議室や図書室もあったが、倒壊後は教会だけ修復されたため今は見ることができない。モミックについての伝説がある。トルコのキリキアにいたモミックは、彼が作った建築物に惚れたオリベリヤンの王(正確には王ではないがその代わりの偉い人)によってアルメニアに呼ばれ、この地に教会をいくつも作った。モミックはオリベリヤンの王の娘のことが好きになった。そこで、王がモミックに、もし自分のために特別なスタイルの教会を作ったら娘と結婚してもいいと言った。モミックは約束通り作ったが、完成間近に、約束を守りたくない王に殺されてしまった。教会の階段から落ちて死んだが、それが理由で階段は最後まで造られていない。ここにある十字架はモミックが最後につくった十字架とされている。===============つづきを読む »
2022年05月22日
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旅行時期:2018年10月8日目キャラバンサライのご夫婦とお別れし、次の目的地アレニ村へ。険しい山道を下っていきますが、途中でタイヤから変な音が。どうやら何かの不具合が発生。いったん停車して運転手さんが調べ始めました。しばらくして原因を突き止め、オイルで真っ黒になりながら華麗に復旧。さすがプロ!つづきを読む »
2022年03月27日
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旅行時期:2018年10月8日目次の目的地のキャラバンサライまでの間、のどかなアルメニアの景色を見ながら、アルメニアの文化についてのガイドです。つづきを読む »
2022年02月06日
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旅行時期:2018年10月8日目バリルイス!バスが出発すると、ドライバーさんから「おはよう」の挨拶。「バリ」は「優しい」、「ルイス」は「光」という意味で、バリルイスは「これから優しい一日になるように」と言う、とっても素敵な朝の挨拶となっています。今日はこれから、アルメニアの首都エレヴァンまで移動。直行すると1時間もかからない距離ですが、途中でいろいろ観光しながら進んで行きます。まずは、ガバル町のノラドーズ村にあるお墓へ。=====ガイド=====ここにあるアルメニアスタイルの墓は9~13世紀のもので、それよりも新しいロシアのお墓も見ることができる。十字架の形(ハチカル)をしたものがアルメニアのスタイルで、ここには900ほどある。ロシアのお墓は石だけで、名前や顔などが彫ってある。13世紀にモンゴル人が攻めてきたときに、このお墓に軍服を着せたくさん軍人がいると見せかけて、モンゴル人を撃退したという伝説がある。===============つづきを読む »
2021年12月05日
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旅行時期:2018年10月8日目朝起きてさっそく外を見ると、朝日に照らされる絶景が広がっていました。まわりの樹々が紅葉で色づいていてとっても綺麗です。昨夜、遠くに街の灯りが見えたところは雲海に覆われていました。つづきを読む »
2021年11月28日
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旅行時期:2018年10月7日目セヴァン湖を後にし、今日のホテル「MULTI REST HOUSE」へ。湖からは車で30分ほどの場所にあるリゾートホテルです。つづきを読む »
2021年10月30日
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旅行時期:2018年10月7日目山道をしばらく走ると、セヴァン湖と丘の上に建つセヴァン修道院が見えてきました。=====ガイド=====ここはゲガルクニク県でアルメニアで一番大きく、寒い場所。冬になるとマイナス30度くらいになる。夏は22~23度。ここにあるセヴァン湖は、標高1900mの高所にあり、日本の琵琶湖の60%くらいの大きさで、深さは99m、幅は72㎞。この湖は淡水湖で、飲み水としても利用されている。28の川が流れ込んでいて、一つの川から出ている。マスが採れてとても美味しい。1928年まで、深さは125mだったが、水力発電のために湖に流れ込んでいる川のひとつに設備を建設したら、水深が浅くなった。これから行くセヴァン修道院のある場所は、1928年までは島だったが、水力発電所ができて水位が下がり半島になった。セヴァン湖は、西アルメニアにあるヴァン湖の名前で呼ばれていたが、黒っぽい色なので「黒いヴァン」という意味の「セヴァン」と呼ばれるようになった。セヴァン修道院は9世紀のもの。240段の階段を登ると二つの教会がある。地震で何度も倒れ、何度も修復されたので世界遺産にはならなかった。でも修復には9世紀の石を使った。9世紀はバグラトゥニ時代で、アショト王の妹マリアンヌがセヴァン湖の横に30の教会を作った。なぜ30なのかは、マリアンヌの夫が30歳で亡くなったため。修道院ではアラビア人との戦争があったが、アルメニア人は簡単に勝つことができた。アルメニアの軍人は200人だったが、200の船に乗って、木で軍人の姿を作って船にのせた。アラビア人はこれを見て大規模な軍隊だと思った。湖の向こうには3000m級の山があるゲラマ山脈があり、それを越えるとアゼルバイジャンになる。===============つづきを読む »
2021年09月23日
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旅行時期:2018年10月7日目次の目的地セヴァン湖までの移動の間、アルメニアについて色々な話をしてくれました。=====ガイド=====アルメニアの旗の色は、赤、青、オレンジで、1918年につくった。1911年から1918年までロシアの中にいたが、1915年にオスマントルコが西アルメニアで100万人のアルメニア人を虐殺し政略した。その後、東アルメニアに侵攻してきたが、この時はアルメニアが勝った。それでロシアから離れて、1918年に独立し旗をつくった。赤は、これまでに流れたアルメニア人の血、青色は平和、オレンジは仕事の意味。 軍隊のシンボルは、ライオンと鷲。アルメニアにはライオンはいないが、紀元前9世紀からアルメニアは王国で、この時代では一番強い王国だった。なので動物の王者ライオンをシンボルとした。また鷲は空で一番強いからこれもシンボルになった。その他に、ザクロ、ブドウ、アンズもアルメニア人のシンボルになっている。ザクロは「豊か」の意味、ブドウはキリストの血の意味で教会でよく見る。アンズはノアの箱舟からアルメニアに下りてきたハイクのシンボル。アルメニアでは、軍隊が一番大事。ずっと昔からあって、故郷を守るために必要だった。現在は、男性は18歳から2年間必ず軍隊に入隊する。行かなくていいのは、病人と神父さんだけ。2年の間は、1回だけ10日間家に戻ることができる。携帯電話も使えない。大学に行く人は、入隊前に大学に入学しそのまま軍隊に入隊し、兵役が終わったらまた大学1年生として戻る。軍人になると、いろいろな割引などを受けることができ、バス代や医療費などが無料になったり、その家族も30%オフになったりする。アルメニアの学校は小学校(4年間)、中学校(5年間)、高校(3年間)の全部で12年間。2010年までは10年間ですべて同じ学校で授業を受けていた。しかし今は、小学校と中学校は同じ学校だが、高校は自分で選べるようになっている。小学校から中学校、中学校から高校に上がるためにも試験があり、落ちたら小学校や中学校に戻るシステムだが、今のところ戻った人はいないらしい。つづきを読む »
2021年08月01日
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旅行時期:2018年10月7日目ランチの後再び観光開始。=====ガイド=====これからの予定は、ここから30分ほどかけて世界遺産のサナヒン修道院に向かう。この修道院はハフパト修道院と同じ時代の10~13世紀に建てられたもので、ハフパト修道院より10年だけ古い。「サナヒン」というのは、「ハフパト修道院より古い」という意味。ソ連時代の戦闘機「ミグ」をつくったのは「ミコヤン」というアルメニア人。そのミグが展示されている博物館にも寄る。今いるアラヴェルディの街は、アルメニアの中でも古いスタイルを保っている場所。人口は5000人ほどの小さな町だが、鉱石の産業でとても豊か。胴の鉱山がたくさんあり、昔はアルメニア人だけでなく周辺の国の人がたくさん働いていた。今はほとんどがアルメニア人。アルメニア人全体の20%は失業しているが、鉱山のあるアラヴェルディでは、みんな仕事についていた。アルメニアの首都エレバンからジョージアのトリビシまで走る鉄道がある。1980年に完成し、外国まで行ける鉄道はこれだけ。===============つづきを読む »
2021年06月19日
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旅行時期:2018年10月7日目「ハフパト修道院」の見学後は、近くのレストラン「FRLORA」でランチ。=====ガイド=====メニューは、アルメニアのパン「ラヴァシュ」や豚肉のバーベキュー「ホロヴァッツ」。アルメニアの豚肉のバーベキューは世界一美味しいと思う。「ラヴァシュ」は、ユネスコの無形文化遺産になっている。食べ方は、チーズとかトマトなどを巻いて食べるのが一般的。===============つづきを読む »
2021年05月08日
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旅行時期:2018年10月7日目いったん外に出て、会議室だった建物へ。=====ガイド=====12世紀に創建され、ここもガヴィットのスタイル。昔、ソ連時代に入るまでは、アルメニアの教会はとても強く、王様よりも強かった。そのため、重要な会議があるときはここにみんな集まって話しをした。ここは会議室だが祭壇もある。これは、戦争中などで急に誰かが入ってきても、会議をしているとバレないようにするため。会議には必ず神父様も参加した。===============つづきを読む »
2021年03月21日
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旅行時期:2018年10月7日目ジョージアの国境から約30kmの場所にあるハフパト村の「ハフパト修道院」へ。=====ガイド=====アルメニアの教会は、カトリックやロシア正教とも違い、アルメニア使徒教会で、アルメニアだけのもの。 これから様々な修道院や教会を見学するが、ジョージアなどと違って、キリスト教でない人はスカーフを被らなくても大丈夫。 ハフパト修道院では、10世紀から13世紀の建物を見ることができる。建物は固い玄武岩でできており、アルメニアにある教会などはどこでも使われている。ハフパトとは「強い壁」という意味で、これまで地震や戦争などでも倒れなかったからこの名で呼ばれるようになった。しかしそれ以前は、太陽が昇ると最初に教会に光が射したことから「聖なる光」という意味の「スビリシ」と呼ばれていた。1996年に世界遺産に登録されている。 修道院というのは、修道者がいて神父さんが住んでいたところで、教会というのは教会だけがあるところ。ハフパト修道院には18世紀まで神父さんが住んでいて、教会もある。=============つづきを読む »
2021年01月31日
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旅行時期:2018年10月7日目最初の見学地に行くバスの中で、まずはアルメニアという国の紹介。 =====ガイド===== アルメニアは、コーカサス山脈の南側にあり、標高は平均1600mくらいの山国。国土は2万9千平方キロメートルで、アゼルバイジャン、トルコ、ジョージア、イランの4ヵ国に接している。ジョージアとイランとは仲が良いが、アゼルバイジャンとトルコとは仲が悪い。ジョージアとイランにはビザはいらない。つづきを読む »
2020年09月13日
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旅行時期:2018年10月7日目今日は、ジョージアから国境を越えてアルメニアへ入国です。ジョージア側のサダフロ国境までは、1時間半ほどの移動。つづきを読む »
2020年08月17日
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旅行時期:2018年10月6日目この後はトビリシのレストランで夕食ですが、その前に、今日がジョージア最終日なのでスーパーマーケットでお買い物。さすがにワイン発祥の地だけあって、ワインの種類が豊富です。つづきを読む »
2020年07月31日
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旅行時期:2018年10月6日目カズベキ村を後にし、トビリシへ戻ります。途中、ジンヴァリ貯水湖畔に建つアナヌリ教会を見学。つづきを読む »
2020年07月11日
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旅行時期:2018年10月6日目来た道を戻り、カズベキ村のゲストハウスでランチです。村の高台にあるので庭や周辺からの景色は最高。今行ってきたツミンダ・サメバ教会やカズベク山も綺麗に見えます。つづきを読む »
2020年06月27日
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旅行時期:2018年10月6日目どんどん標高を上げていくと、視界が開け一面緑の草原が広がりました。本当は、教会のすぐ近くまで車でいけるのですが、今日は天気がいいので少し手前で降りて、景色を見ながら歩いて向かうことに。周りはさらに高い山に囲まれ、遠くの丘の上にはツミンダ・サメバ教会(聖三位一体教会)が小さく見えます。そして後ろを振り向けば、雪を被ったカズベク山が目の前に!360度の絶景祭りです。つづきを読む »
2020年06月07日
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旅行時期:2018年10月6日目クヴェミムタ山頂まではオフロードのガタガタ道を上っていきます。※私が訪れたときは新しい道を整備していたので、今は綺麗な道で行けるかも。つづきを読む »
2020年06月06日
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旅行時期:2018年10月6日目十字架峠を後にし、壮大な風景の中を進んでいきます。道路脇の草原を見るとテントが見えたのですが、これは観光客用のものらしい。こんな場所でキャンプなんて最高だろうな~つづきを読む »
2020年05月31日
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旅行時期:2018年10月6日目「ロシア-グルジア友好記念塔」から5分ほどいくと、グルジア軍用道路で最も標高の高い十字架峠(2395m)に到着。=====ガイド=====ここの十字架は、最初は11世紀のダヴィド4世によって、イスラム教国のオセチアとの境界を示すためにたてられた。今あるのは石だが、この時は木製。彼が王様になったあとは、軍隊を強くするために北コーカサスの民族をジョージアに亡命させた。今のような十字架峠と呼ばれるようになったのは、19世紀のエカテリーナ二世の女王のお陰とされる。ここは冬にたくさん雪が降るため、みんなが安全に通れるようにという願いを込め、コーカサスの総督だったロシアの将校アレクセイエルモーロフによって石の十字架が建てられた。そして道路も、昔はもっと悪い道だったがアスファルトにした。十字架のある丘の上には、聖ニノを祀る修道院を造る予定で、現在は牧師さんが暮らす家がある。麓には、ドイツ人捕虜のお墓もある。コーカサスの地下水も流れていて水の確保も問題ない。===============つづきを読む »
2020年05月27日
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旅行時期:2018年10月6日目カズベギ(ステパンツミンダ)村までは、途中にある写真スポットに寄りながら進んでいきます。まずは、何もない山の中に突然現れる「ロシア-グルジア友好記念塔※」。※ジョージアは以前グルジアと呼ばれていた。=====ガイド=====ロシア-グルジア友好記念塔は、1983年にロシアがジョージアとの友好200年の記念として建てたモニュメント。壁画の中央に描かれている女性(母)と男の子は、女性が「ロシア」で男の子が「ジョージア」を表している。つまり、ロシアに守られるジョージアという意味で、地元の人には不評。向かって女性の左側にはジョージアの文化、右側にはロシアの文化が描かれている。===============つづきを読む »
2020年05月24日
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旅行時期:2018年10月6日目8時、ホテル出発。今日は「ジョージア軍用道路」を通って、ロシア国境にほど近いカズベギ(ステパンツミンダ)村へ向かいます。=====ガイド=====ジョージア軍用道路はロシアの北オセチア共和国のウラジカフカスまで約206kmある。この軍用道路は、18世紀の終わりから19世紀はじめに、ジョージアに目を付けたロシアが、アスファルトで道を作った。そして、1801年にロシアがジョージアに侵略したときこの道を使ったことから、軍用道路という名前になった。軍用道路はロシアとジョージアをつなぐ唯一の道で、さらにヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。他の道もあったが、今はロシアによって支配されている。ジョージアの国土の20%はロシアの支配下。===============つづきを読む »
2020年05月23日
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旅行時期:2018年10月6日目朝起きると、ちょうど日の出が綺麗だったので、ホテルのベランダから撮影。薄い雲はありますが、今日も晴れそうで良かったです。実はこの日は、ジョージアの山岳地方へ行く予定で、私的には今回の旅行のハイライト。なので、どうしても晴れてほしかった。つづきを読む »
2020年05月16日
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旅行時期:2018年10月5日目本日から二連泊するホテルは、トビリシの中心街にほど近い「Astoria Tbilisi Hotel」。つづきを読む »
2020年05月15日
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旅行時期:2018年10月5日目トビリシの市内観光の最後は、丘の上にあるレストランで夕食です。今夜のメインは、ジョージア名物「ヒンカリ」(下から3番目の写真)。見た通り、水餃子の大きいやつで、中央アジアのマンティ(餃子)が伝わったのだそう。つづきを読む »
2020年05月09日
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旅行時期:2018年10月5日目メテヒ教会から歩いてトビリシの旧市街へ向かいます。石畳の細い路地が続く街並みは、おしゃれなカフェなどが並んでとってもいい感じ。=====ガイド=====18世紀にきたシャルデニというフランス人が、トビリシのスケッチを描いていた。前大統領はそのスケッチをもとに町を再開発した。この通りはシャルデニの道と呼ばれている。カフェやレストランが立ち並び、ランチ時から翌朝の3時とか4時とかまで開いていて、水たばこなども楽しめる。座ってグラスを持っている像はタマダ像で、タマダとは、宴会で乾杯の音頭をとる役目の人のこと。ここにあるのはレプリカで、本物は博物館にある。紀元前7~8世紀のもの。8000年まえのワインのツボもタマダ像と一緒に発見された。乾杯したら一気にワインを飲み干さないといけない。===============つづきを読む »
2020年05月06日
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旅行時期:2018年10月5日目ムツヘタからトビリシに戻り市内観光です。=====ガイド=====トビリシの街は、イベリアのワフタング・ゴルガサリ王が最初にこの場所を発見し5世紀にできた。伝説によると、彼は自分の鷹を連れて狩りに来た。その鷹が鳥を追いかけて飛んでいったため、それを追っていったら、鷹も鳥も熱いお湯に落ちて死んでいた。彼は、そのことによってここに湧き出る温泉を発見し、町を作ることを命じた。トビリシの「リシ」はジョージア語で「熱い」という意味。そしてこの場所を首都にしたが、その理由は、街が3つの山に囲まれて、4本の川があるため防衛に都合がよかったため。山の上に城壁が残っているが、これはナリカラ要塞。4世紀にはあったため、ワフタング・ゴルガサリ王は、この町を首都としてからさらに強化拡大していった。ナリカラ要塞は長さが4キロ、高さは25m、門が7つあり、中には300の家族が住んでいた。しかし、保管されていた爆弾などの武器が爆発して壊れてしまった。その後20世紀の終わりには、教会が建てられ現在に至っている。「ナリカラ」という名前は「侵略し辛い」という意味がある。丘の上に建っている女性の像は「ジョージアの母」と呼ばれるもので、剣とワイングラスをもっている。剣で戦い、ワインでお客をもてなすという意味。旧ソ連時代の像で、当時は木造だったが、今はアルミでつくられている。高さは20mほど。ムトゥクヴァリ川に架かるメテヒ橋では、13世紀にモンゴル人に侵略されたときに、踏み絵のようなものがされたらしい。モンゴル人が聖マリアなどのイコンを置いて、それを踏むか死ぬか選ばせた。結果、数万人の人が断って殺された。それにより、この川は血で赤く染まった。===============つづきを読む »
2020年05月03日
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旅行時期:2018年10月5日目これから見学する世界遺産の「スヴェティツホヴェリ大聖堂」は、ジョージア最古の大聖堂。重厚な城壁の間にある入り口から入ります。=====ガイド=====赤レンガの城壁のオリジナルは11世紀、現在見られるのは18世紀のもの。門に牛の頭がついているが、角が月の形ににているため月の神様の象徴で、古い文化の影響が残っている。牛はキリスト教以前から、農業のシンボルでもあり、月の神のシンボル、また、4福音書のルカのシンボルだった。ジョージア語で「スヴェティ」は「柱」、「ツホヴェリ」は「生命を与える」という意味。柱の伝説から名付けられた。この建物はジョージアが経済的に豊かだった11世紀に19年の歳月をかけて創建。13世紀の地震で崩れたが修復され今に至っている。元々は、キリスト教がイベリア王国の国教となった後、ムツヘタの王宮の庭の木造聖堂の跡地に建てられた。ジョージアの聖堂の中では古さと大きさの点で群を抜く。首都がトビリシに移った後も、長くグルジア正教の総主教座が置かれていた大聖堂であり、王の戴冠式などもこの大聖堂で挙行され続けた。===============つづきを読む »
2020年05月01日
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旅行時期:2018年10月5日目絶景のジュワリ教会を後にし、ムツヘタの町中にある「スヴェティツホヴェリ大聖堂」へ向かいます。=====ガイド=====ムツヘタは、ムツヘタ(ムティアネティ州)の古都。首都トビリシから北西に20kmで人口は約7600人。紀元前6世紀に成立した西部グルジアのコルキス王国東側の内陸部は、同じころアケメネス朝ペルシャの一部であったが、紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、ムツヘタを首都とするイベリア王国(カルトリ王国)が成立した。温和な気候と肥沃な土地に恵まれているムツヘタは交通の要衝にあり、紀元前4世紀にイベリア王国の首都になった。西暦334年には、聖女ニノの働きかけによって、ミリアン国王によって、キリスト教がイベリア王国の国教と定められ、首都ムツヘタにも最初の木造聖堂が建設された。世界で初めてキリスト教を国教にしたのは古代アルメニア王国。そのため、後のジョージアとなるイベリア王国は世界で二番目にキリスト教を国教として国となる。この時期がムツヘタの最盛期であったが、5世紀の王ヴァフタング1世(ワフタング・ゴルガサリ)がトビリシに遷都。町の規模は小さくなったが、その後も総主教座が残るなど、グルジア正教の中心地であり続けた。===============麓からは丘の上にポツンと建つジュワリ教会がよく見えます。つづきを読む »
2020年04月30日
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旅行時期:2018年10月5日目ランチの後は、トビリシから40分ほど移動し古都ムツヘタへ。賑わう都会の街並みを見ながら、ムトゥクヴァリ川(ロシア語ではクラ川)を走っていきます。この川は、トルコから流れてきてカスピ海に抜けているそう。つづきを読む »
2020年04月26日
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旅行時期:2018年10月5日目ノダリさん一家とお別れした後は、一路ジョージアの首都トビリシへ移動。ここから約2時間ちょっとの道のりです。つづきを読む »
2020年04月23日
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旅行時期:2018年10月5日目テラヴィの市場でスワヌリというジョージアの塩をお土産に買い、次はベリスティ村にあるワイン農家へ。長閑な風景の中、市場からは約40分の移動です。こちらのワイン農家は、約300年ほど続く「ノダリ・ワインセラー」。仲の良いご夫婦が出迎えてくれました。つづきを読む »
2020年04月12日
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旅行時期:2018年10月5日目朝窓から外を見ると今日もいい天気。さっそくテラスに出てみました。キリっとした空気の中、朝日に照らされた大コーカサス山脈がとても綺麗に見えました。絶景を見て目が覚めた後は、ゲストハウスの食堂で朝食です。手作りジャムやゆで卵などシンプルなメニュー。つづきを読む »
2020年04月11日
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旅行時期:2018年10月4日目本日の宿は、テラヴィの高台にある「Hotel Dzneladze」。ホテルとは名の付くものの、民家を宿泊施設にしたゲストハウスです。ここの売りは、なんといってもテラスや部屋から見える大コーカサス山脈の眺め!何物にも遮られることなく真正面に山並みが連なり、その手前にはテラヴィの街が広がっています。つづきを読む »
2019年12月07日
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旅行時期:2018年10月4日目「キンズマラウリ・ワインハウス」でワインをお土産に買った後、今日の宿へ向かう途中にあるグレミ修道院を見学。=====ガイド=====大天使教会グレミ修道院は、1565年に建立された。グレミは16世紀にカヘティ王国の首都だったが、1614年のペルシャの侵略により荒廃。現在はこの修道院のみが残っている。=============つづきを読む »
2019年11月24日
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旅行時期:2018年10月4日目ほろ酔い気分でバスに乗り、次はクラヴェリの町にある「キンズマラウリ・ワインハウス」へ。さすがにワインの生産地だけあって、ブドウ畑があちこちに広がっています。つづきを読む »
2019年11月17日
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旅行時期:2018年10月4日目動物が草を食む長閑な景色を眺めながら、ニノさんによるジョージアについてのご案内。=====ガイド=====「ジョージア」という名前は英語読みで、ソ連時代にはロシア語で「グルジア」と呼ばれていた。しかし、ジョージア語では「サカルトヴェロ」といい、ジョージア人はそう呼んでいる。この意味は「ジョージア人が住んでいる場所」という意味。ジョージアの国旗は白地に赤い十字架が5つあるファイブ・クロス・フラッグ。聖ゲオルギウス十字とエルサレム十字が四隅に配され、大きな十字架はキリストを意味し、4つの十字架は4福音者を表している。聖十字が色々な方向からジョージアを見守るという意味が込められている。ジョージアは東ジョージアと西ジョージアに大きく分かれている。西は黒海があり亜熱帯気候、東は乾燥した気候。ジョージアの北側には大コーカサス山脈があり、高さは2500mから始まる。一番高い山はシュハラ山で5201m。キリスト教のジョージでは、埋葬は土葬で火葬は認められていない。理由は旧約聖書にあり、神様が人間を土から創ったとされているため、土に戻る土葬となっている。お墓の場所は政府によって決められている。ジョージアは9の地方があり、今はカヘティ地方にいる。ゴンボリ山脈が走り、それを境に東側が「内カヘティ」、西側が「外カヘティ」。内カヘティの主な川はアラザニ川で、外カヘティはイオリ川。アラザニ川の土はとても豊かで野菜や果物はジョージアで一番おいしい。さらにカヘティ地方はワインが有名で、ブドウも多く育てられている。ワインの作り方が独特で、無形文化遺産にも登録された。8000年前のワインのツボが発見され、ワイン発祥の地として知られている。現在全ジョージアでは500種類以上のブドウが栽培されているが、昔はもっと多かった。一番有名な赤ワインはサペラヴィ、一番古くて有名な白ワインはルカツィテリという。自分がお勧めするのは、白はキシとチドリ、赤は西ジョージアのクワンチュカラ。他にも珍しいものでは、ウサテラウリという赤ワインがあり少し値段が高い。※ツボのマークがあるのはジョージアスタイルのワインという意味=============つづきを読む »
2019年10月26日
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旅行時期:2018年10月4日目シェキバザールを楽しんだ後は、いよいよジョージアへ向かいます。まずはアゼルバイジャン側のバラカン国境までドライブ。つづきを読む »
2019年10月22日
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旅行時期:2018年10月4日目8時ホテル出発。今日はアゼルバイジャンを後にし、国境を越えてジョージアへ入ります。その前に、せっかくなので、近くのシェキバザールに寄っていくことになりました。朝のバザールはどこの国でも活気があり、見学するのには一番楽しい時間かも。つづきを読む »
2019年10月12日
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