誠実でありたいと思える本


自分をひどい目にあわせた人に不幸が降りかかったとき、それをざまあみろと心から思う人はどれくらいいるだろうか。私はざまあみろと思いながら、でもそんな風に思う自分をちょっと嫌悪するだろうと思う。

「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典の心は、実は同じだけの仕返しをするのは仕方ないが、やられた以上のことしてしまう、過剰な仕返しを戒めるものらしい。自分にひどいことをした人に対して、同じことをするのは自分を同じレベルにまで引き下げることにもなる。
聖書には「あなたを迫害する人のために祈りなさい」とある。
そんな崇高な精神は私には持てるわけないわ、と思っていた。

「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、私が報復する、と主は言われる』と描いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
ということを聞いた主人公が結局人生の真理として「あるべき姿としての人間の行為をとらねばならぬこと」の本質を直感する。
主人公だけでなく、私の目をも開いてくれた一節である。

楽な道よりつらい道を選ぶ。怒りにまかせて相手を呪う。うまくいかないことに対する他人の責任を追及する。そのときだけ気は晴れるが、本当の満足が得られない理由がわかったような気がした。

オットとの関係は何よりそう。「私ばかり大変」と口に出し、これ見よがしに溜息をつき、時には怒りに任せてののしる。「俺なりに一生懸命やってるんだよ、足りないって思うんなら勝手に思ってろよ」と言われると「一生懸命さなんて要求してない。結果をみせてよ」と思っていた。
怒鳴りまくり、支配した結果として、彼がイヤイヤ家事に参加しても実は嬉しい気持ちにはなれなかった。

あるとき、「俺はじゅんのことを他人に悪く言ったことはない」と悲しそうに言われたときにガーンとした。確かに彼はいつでも私のことをよくやっている、すごいと思うと周囲の人に言っている。
私は彼の本心をちゃんと聞いていなかった...と心の底から申し訳ないと思った。

そして、「すべきことをすることが本当の満足につながる」ということを実践してみようと、まず自分がいつも笑顔でいることにした。
「疲れちゃったんだ~」と怒らずににっこりと言ってみることにした。
「とっても愛してるよ。あなたのそういうところ、尊敬してる」と口に出して言ってみることにした。

朝、出勤前のバタバタ。一番先に起きて、オットと自分の弁当を作り、子供達に食事をさせ、歯を磨いてやり、着替えを手伝う。自分はトイレに行くヒマも化粧を丁寧にするヒマもなく、保育園におくっていかなきゃならないといつも不満に思っていた。
でも、笑顔でおはようと言い、普段通りに家事をしながら、「顔洗ってくるからお願いね」とハブラシと着替えをおいておくと、彼が子供の世話をしてくれるようになった。

復讐というのは、実は自分の優位性を自分が実感するためにすることではないかと思う。傷つけられたプライドを修復しようとすることだと思う。
私がオットにしてきたことはこの意味での復讐だったのだ。
でも「復讐したいという気持ち」を脇に置いてみたら、少しずつ関係がよくなってきた。

今は5歳と2歳のKentuckyを時として支配しようとしてしまう。
子供に迎合するのではなく、でも彼らの尊厳を大切にして、真に母として自分のするべきことをするというのは、自己本位な考え方をしてしまう私にはとても難しい。「母としてするべきこと」というのは、年齢に応じて変わっていくことだろう。心を鬼にしてするべき道を選択することもあるだろうし、自分の本心を隠して正しいと信じることをするべき日も来るだろう。
どうか私に「正しい道」を選ばせてくださいと神様に祈っている。

そして。愛する人のためにも、私に仇なす人のためにも、等しく祈ることができるようになったら、私は本当に自分に満足することができるだろう。
誠実に生きることが難しくなり、人に怒りや妬みを感じるときはこの本を繰り返し手にとっている。


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