気まぐれの風

気まぐれの風

中国 母と娘の二人旅2


「どうする?」
と母に聞くと
「入ってみる!」
と言うのでお店に入った。
窓側の席を勧められたが周りに人がいなかったので、奥のテーブルを指差して
「可以 ?」
と聞いた。
「可以」
と答えてくれ、メニューを渡された。
沢山の中国語が書かれていて、それもほとんど四文字だから面白い。
まずはメインメニューであろう天津包子を注文した。
あとはビールを注文して、他の料理は後で注文するからと言って、メニューを置いていってもらった。
料理の注文は難しい。四文字の料理名から実際の物を想像することは、ほとんどできない。
しかし、メニューに「素菜」が載っていたのでそこから選ぶことにした。それは去年の秋に三峡下りの旅行をした時、駒先生が頼んでいた素菜(スゥツァイ)はどれも美味しかったからだ。この素菜とは肉、魚などの動物性のものが入っていない、いわゆる精進料理のことで、さっぱりとして美味しい。
素菜のところを見ると、最近日本でも売り出し始めた「豆苗(トウミョウ)」が載っていた。これは字のとおり豆の苗で栄養価が高いそうだ。
その他に母が斜め後のテーブルで食べているものを食べたいと言うので、お店の人になんと言う料理か聞いて、注文した。
料理の名前は「金笋」。細い筍の拉油炒めで、とても辛いが後を引き、ビールのおつまみにはもってこいの料理だった。
天津包子は思ったより時間がかかり、豆苗や金笋も半分以上も食べてしまった。
確かに日本人は食べるのが早いと言われているが、それにしても時間がかかっていると思う。
周りの家族連れも遅いと怒っていた。
しばらくして、天津包子六個がお皿に乗って運ばれてきた。普通の包子とは味がちょっと違っているように感じた。
最近の中国では料理の最初に地方の名前を付けると良く売れるそうだ。
天津包子は のようで結構味が濃かった。周りを見ると二人しかいない席のお皿に山盛りの天津包子があり、一人あたり六個以上は食べるのだろうかと驚いた。
中国では料理を残すことが礼儀(家庭に招待されて綺麗に食べ尽くすと、まだ食べ足りないと意味するらしい、しかし、現在はそうでもないと言われている)と言うが、私達は礼儀知らず?で、綺麗に食べ尽くして店を後にした。
ホテルの目の前のちょっとした広場では、夜十時だというのにダンスをしていた。
母は
「私も交ぜてもらおうかしら?」
などと言出したが、私は
「明日も早いんだから」
と言い、ホテルに戻った。
朝早くから公園で大極拳や気功をやったり、夜にはダンスを踊るの?と中国のおばさん、おじさんのパワーに関心してしまう。
いつものことだがホテルに戻って、シャワーを浴びてベットに入ると、既に十二時を廻っていた。
私が行く旅行はいつも合宿のようなスケジュールになってしまう。それだけ充実していて楽しい旅行だと思えば良いのだが…。

五月三日(日)

今日は礼平さんが故宮を案内してくれる。
十時にホテルのロビーで待ち合わせ。何年ぶりだろう。わざわざ電話をくれて、本当に有り難いと思う。
ロビーに行くと既に礼平さんが待っていた。日本にいる頃はスポーツ刈りだったのだが今は毛が伸びていて感じが違う。それに何年かぶりで逢うので少し緊張してしまった。
母は
「きっと礼平さんは女二人を相手に、それも私が一緒で厭だなぁ、と思っているのではないかしら?」
と言う。
それに礼平さんは一八〇メートル以上の長身で、反対に私達はチビなのだから、見た目は変だと思う。
簡単な挨拶をして礼平さんの車で故宮に向かった。
礼平さんの車はアメリカのJEEPと中国との合弁で作られた「チェロキー」という車で、ちょうど私が中国に来る前に読んでいた小説の「天怒(テンヌ)」に出て来た車だった。JEEPだから車高も高く、見晴らしが良い。
故宮に着くと案の定、今日も込み合っていた。
車も停めるところが無く、仕方なく外へ出た。
しばらく駐車できるところを探して、やっと故宮の周りの歩道の上にスペースを見つけ駐車した。するとどこからともなく人が現れ、駐車代を請求した。
正式の駐車場でないようなのに駐車代を請求するなんて、本当に払っていいのかしら、と私達は心配したが、礼平さんは大丈夫だと言う。
再び故宮に入ると、礼平さんが入場券を買ってきてくれた。「午門」から入り、日本語の説明テープを借りる。礼さんは十年以上も前に来たっきりなので、上手く説明が出来ないと言い、保証金三十元と身分証明所と引き換えに借りてくれた。外国人が借りるときは保証金三十元とパスポートになる。
テープを聞くと、十年ぐらい前のローカルテレビの男性アナウンサーのような声で説明している。
所々に番号の立て看板があり、そこで説明テープを聞くようになっている。
しかし、自分だけが聞いていられるわけでなく、母や礼平さんにも説明をしようとすると見学どころではなくなってしまう。太和殿、中和殿など同じような建物になにがなんだかわからなくなってしまわないよう、一枚づつ写真に収め、あとからガイドブックを見ながら思い出せばいいと思った。
故宮は広いので急いで見ても三時間、ゆっくり見たら一日でも足りないと言われている。
もちろん故宮の中は歩きで見てまわるのだから、三時間以上は歩き続けることになる。
観光も三日目になり、緊張も緩んだのか、母は途中で休憩した時計館で居眠りをしていた。そんな姿を見ると、申し訳ないと思う。
今回の旅行は、「中国は好きじゃない」と言っていた母が、今行かなければ、きっと行けないだろう、と思い切って決心した旅行なのだ。去年の三峡下りの旅行を誘った時も断わったし、私が中国語の勉強をしていると、タモリがでたらめの中国語をしゃべるようにでたらめの中国語を言って私を冷やかしていたぐらいなのに…。
どうした風の吹き回しかと思っていたら、やはり周りの人達が中国を素晴らしいと言い、世界遺産の万里の長城や故宮は一度自分の目で見たいと、また、広い中国を旅するには今の年齢が限界だと思ったらしい。
私自身もそうだが、自分の親はいつまでも元気で、ずっと側にいてくれると思っている。母と二人だけの旅はこれで二回目。一回目はやはり何年か前のゴールデンウィークで、北海道へ行ったのだった。喧嘩しながらの旅だったが、良い思い出になっている。テレビで行った場所が出ると
「あっ、あそこ行ったよね」
と懐かしそうに言う。
今回も色々な意味で良い思い出になると思う。
休憩の後、再び博物館へ入った。
そこは玉でできた置物などがあった。深い緑色の があり、そこで監視係のおじさんが説明してくれた。
龍が全部で五匹彫られていて、指が五本ある。指が五本あるのは皇帝の龍だけなのだと言う。確か去年の秋に行った上海の にも五本指の龍がいて、同じことを言われた。
次に入った博物館には象牙でできたゴザがあった。細く糸のような象牙で作られたゴザでまるで布のようなしなやかさだ。象牙だと聞かされなければ気がつかない。これは本当に見る価値がある。その他には身につける装飾品で、目の見張る物ばかりで昔の贅沢さが感じられた。
一応、故宮の全てを見終わって、次に坂倉取締役から「良いよ、感動したよ」と聞いた「北堂」へと行くことにした。
車に乗って五分もしないで「北堂」に着いた。場所は住宅地の路地のような所でここだよ、と言われなければ通り過ぎてしまうような所だった。
ここはキリスト教の教会で、門は赤い鉄の扉で閉められていた。
礼さんが横にある小さな扉を開けて中に入って行ったので、私も続いて入った。門を入ったすぐ横に管理室のような部屋があり、若い男の人が出てきた。礼さんがその男の人に、私が北堂を見たくてわざわざ日本から来たと話してくれた。
すると彼は
「信者ですか?」
と聞いてきた。
私は信者と言っておいた方が良いのか?と思い、うなずくと
「キリスト教の名前は?」
と聞かれた。
さっき信者だとうなずいていながら、クリスチャン名を聞かれ、すぐ信者じゃないとバレてしまった。苦笑いをしていると、礼さんが取り繕ってくれたようで、見学しても良い、と言われた。
車で待っていた母を呼び、礼拝堂へと歩いていく。
いままでの外の喧騒は聞こえず、ちょっと違った場所にいるようだった。
敷地内は綺麗に管理されていてゴミひとつも落ちていない。
礼拝堂の前で写真を撮っていると一人の老人が話しかけてきた。礼さんが話して判ったのだが、彼は八十歳でここの教主さまだった。
もし、良かったら礼拝堂の中も見せてあげようと言ってくれた。彼の後について横にある通用口風のドアから入って見ると、坂倉取締役が感動したと言う訳が判った。
私はキリスト教の信者ではないので、礼拝堂に入ったことが二、三回ぐらいしかなかったが、窓を飾るステンドグラス、中央に飾られたキリストの像、静寂の礼拝堂に感激した。記念にと教主さまと一緒に写真を撮った。
彼は大学の時、フランス人の友達に影響されてキリスト教の信者になったそうだ。
「フランス語を話せるか?」
と聞かれ、一旦は話せないと言ったが、何年か前にニューカレドニアにダイビングで行った時、少し言葉を教えてもらったことを思い出した。
「少しなら話せる」
と、礼さんと話しているのを中断させ
「ボンジュール(こんにちは)、サバァ(元気ですか)、メルシィー(ありがとう)、エトナ(あなたは?)」
と、ただ知っている単語を並びたてた。
教主さまの反応は驚きと呆れとの間のようだった。
ちょっと無理があったが、せっかくの質問だったし、私の存在を変わった意味ででも印象づけようと思ったのだ。
すると、教主さまは、夜にミサがあると教えてくれた。
午後六時から一時間おきに数回あるそうだ。
ミサに出席したことがないし、初めてのミサを中国の教会で体験できるなんてと喜んだ。また夜来ることを約束して、礼拝堂で教主さまと別れた。
外にでるとマリアさまの像があった。
そこで写真を撮ろうとしていると、母が
「このマリアさま、すごく綺麗で優しいお顔をしているわ」
と夢見る少女のように言った。
それを聞いて、改めてマリアさまを見上げると、確かに優しいお顔をしていた。記念にとマリアさまの前で写真を撮り、北堂を後にした。
休憩なしに歩きまわっていたので、北海公園で休むことにした。
どのベンチも人が座って、空いているベンチを求めて、奥へ奥へと歩いて行った。
やっと一つの空きベンチを見つけて座り、礼さんが買ってくれたジュースを飲んだ。礼さんは私が勤めている会社と中国のある会社が合弁で作った会社に勤めていて、同じ事業所で働いていて知り合ったのだった。
礼さんが日本にいた時はよく一緒にハイキングに行った。
そのハイキングを計画してくれていたのは、その時部長だった田中さん。礼さんも田中さんも一八〇センチ以上の長身で、とても仲の良い二人だった。
今回の旅行も、年末に崔さんが出張で日本に来て、一緒に食事をした時に漠然とだけれど
「ゴールデンウィークぐらいに中国に行きたいんだぁ」
と私が言った時、田中さんも
「行きたいなぁ、礼平や他のみんなにも逢いたいなぁ」
と言っていたのだった。
中国へ来る時にわざわざ電話して報告することもないと思い、田中さんには言っていなかったのだが、王さんから洩れてしまって、
「中国へ行くそうで、礼平に逢って案内してもらえば?」
とメールをもらった。それなのに私は
「今回は自分で自由に観光するつもりなので」
と返事をしてしまった。
来る前は本当にそう思っていたし、まして礼さんとは思いがけない再会だったのだ。
北海公園で休憩している時に礼さんが
「田中さんに電話したら驚くかなぁ」
と私に言った。
私は中国の電話、しかも国際電話となれば、そう簡単には出来ないと思っていたので、何を言っているのか把握できなかった。
すると
「連絡先知ってますか?」
と聞かれて、言われるままに手帳を出した。
礼さんは自分の携帯電話を出して番号を押していた。
「えっ、携帯で国際電話できるの?」
と言ったが、返事が戻って来る間もなく、相手が出たのか話始めた。
「田中さんですか?礼平です。おひさしぶりです。お元気ですか?今、jiaziさんが隣にいるんですよ。えっ、中国からです。jiaziさんのお母さんもいます。」
と言った。
「じゃぁ、代わりますね」
と言われ携帯電話をもらうと、なんだか後ろめたさを感じた。
来る前には礼さんとは逢わないような事を言っておいて、実際は逢っているじゃないかと思われやしないかと…。

五時を過ぎて足の疲れも癒えて、そろそろ北堂へ行こうかと公園を歩いていると、秋に上海で書いてもらった花文字の店があった。
どんなものかと近くまで寄ってみると一枚十元だと言う。
えっ?上海では百元だったのに?
一文字ではないかと聞いてみると、やはり一枚十元だと言われた。
せっかくだし、上海よりも安いし、書いてもらうことにした。
始めに母がフルネームで、私もついでにフルネームで書いてもらった。
なんとなく、書いているお兄さんが不機嫌そうに見える。礼さんとそのお兄さんが話をしたことでは、中国人はフルネームで二文字か三文字なのに本当に四文字なのか?と言っていたそうだ。
礼さんが「日本人には五文字や六文字の人もいる」と言うと驚いていた。
これに懲りて彼は今後、一文字十元にするのではないか?
まだ乾かない花文字の紙を持ちながら、北海公園を後にした。
途中で手の平に三つの玉を乗せ、回しながら歩いているおじいさんとすれ違った。こういう場面に出会うと中国に来ているんだと感じる。
六時からのミサにちょうど良い時間に北堂に着いた。
礼拝堂へ入ると、なんとも言えない神聖な気持ちになった。信者の人達が一人また一人と集まってきて、六時になった時ミサは始まった。
初めての経験でどうしていいのか判らず、周りを見渡し、それに従った。歌が歌われ、その後に教主さま(後の席だったのでどこでしゃべっているのかわからなかった)のお言葉があり、次に澄んだ女性の声で聖書が読まれた。
その澄んだ女性の声に感動し、なんだか胸がじーんと熱くなった。
ミサを途中で抜け、念願の北京ダックを食べに行った。
「全 徳」という北京で一番(いや北京ダックは北京の料理なので中国で一番ということになる)のお店に連れて行ってもらった。
ホテルのようなレストランで、二階に行くと三階に行くようにと言われ、三階でエレベータを降りると、まるで体育館のような、よく言えば迎賓館のような広間に出た。
天井が高く広々とした所で、後や隣の人の話を気にしながら食事をする日本とは大違いだ。注文は礼さんに任せた。
「水掻きは好きですか?」
と聞かれ、とっさに首を大きく横に振った。ダック一羽とフォアグラと他に何品か注文してくれた。今思えば、礼さんは水掻きを食べたかったのかも。昔の皇帝料理に確か水掻きの料理があったと思う。私も一口ぐらい食べてみたかったと後悔した。
北京ダックは焼いた丸々一匹をワゴンで持ってきて、調理師が切り分けてくれる。皮のパリパリしたところを餃子の皮のようなもので白髪ネギとみそと一緒に巻いて食べる。あまり脂っこさは感じない。
まだ、二、三個しか食べていないのにお腹がいっぱいになってしまった。今日はお昼ご飯も抜いたのに…。
ここに来て気が付いたのだが、中国人はどこでもお友達のように話す。ここでも礼さんと料理を運んで来る女の人が仲良く話をしていた。
彼女は私が日本人だとわかると、「昔日本語を少し習ったことがあるのよ」と言った。私が驚くと
「でも昔のことだし、もう忘れてしまったわ」
と言う。
その女性は自分の名前を日本語読みで何と言うかと私に聞いた。
「 」
だと言って、紙に書いてあげると嬉しそうにその紙切れを持って行った。
お茶を注ぎに来るおじさんは、私が中国語を少し話せると知って、きっと喜んだのだろうか、レストランの名前が入ったナプキンに記念の言葉を書いてくれた。
その後も私達の席に何回もお茶を注ぎに来てくれた。

五月四日(月)

今日は午後、北京事務所のIさんを訪ねる。
Iさんはお土産を買うのに付き合ってくれると言ってくれた。
だからそれまでの時間はフリーで、今回の旅行初めての自由時間だ。自由時間と言っても時間が少ないので、天安門広場の中にある「毛沢東記念館」へ行くことにした。
ゆっくりめの朝食を取り、ホテルから天安門広場までホテルの車で行った。
普通ホテルの車だったら無料で送迎してくれるのに、タクシーよりも高い二十元だった。それに天安門広場の手前で降ろされてしまった。一方通行かと思って降りてみると、車は一台も走っていない。
歩道の上には地方から観光に来たような格好の人達が沢山、何かを待っていた。毛沢東記念館へ行こうと思ったら、道路は完全に封鎖されていた。
所々に緑色の制服を着た警察官が立っていて、少しでも歩道からはみ出た人を厳しく注意していた。
何のために通行止めなのかわからないまま、周りの中国人と一緒に歩道で立っていた。
母は
「何故こうしているのか、いつまで通れないのか、誰かに聞いて」
と言ったが、周りの中国人は地方の人のようだったので
「言葉が通じないと思う。もう少し待ってみよう」
と言った。
これだけ人がいるんだから日本人だって一人はいそうなものだが、周りを見渡しても日本人らしき人は見当たらない。
そう言えば、今まで観光した所でも日本人とは出会わなかった。
飛行機で一緒だった人達は、みんなどこへ行ってしまったのだろう。
少し時間が経っても一向に変化がない状況だったので、母は痺れを切らしたのか
「jiaziが聞けないなら、私が聞いてみるから、なんて言うのか教えて」
と言った。
仕方なく私は規制の為に張られているロープをくぐり、無愛想に立っている警察官に聞いた。
「なぜ通行止めなの?」
「……」
「何時まで?」
「わからない」
埒が明かない…。
この会話を母に説明すると、今度は
「じゃぁ、他の警察官に聞いてみて」
と言う。振り返ると私達と同じ歩道にアイスキャンディーを食べている警察官がいたので聞いてみた。
返事は同じだった。彼らは今日は非番のようだ。非番の時でも制服を着ているらしい。
それをまた母に伝えると今度は
「じゃぁ、Iさんに電話して聞いてみてよ」
と言った。
Iさんに電話しても判らないだろう、と思いながらも、電話を貸す商売をしている角のお店で電話した。
ちょうど良くIさんが電話に出てくれたが、私の予想どおり、判らないと言う。
「中国では要人が動く時、突然、通行をストップさせます。」
そうだろう、天安門広場の横には人民大会堂があり、何かの催しをやっているのだろう。
仕方ないので瑠璃廠にでも行こうかと歩いていると、ワゴンに乗っている、ちょっと偉そうな警察官達を見つけた。最後にもう一度、と思い、
「どうして行けないのですか?」
「……」
と返事がないので、改めて
「何時まで行けないのですか?」
と聞くと
「十二時半まで」
と一人が言った。
やっと通行止めが終わる時間だけが判った。
まだ一時間以上もあるので、タクシーで瑠璃廠まで行こうとしたが、どうせならまだ乗ったことのない人力車(と言っても自転車で引いているのだが)に乗ってみたい。
歩いていると嫌でも声をかけて来る。
「瑠璃廠まで」
と言うと
「二十元」
と言った。
タクシーでホテルからここまでで二十元だったのだから、それよりも距離が短いし、乗り心地も良くないのだから、もっと安くなければと首を振った。
すると、
「十五元」
と言ったので乗ることにした。
母は、
「ねぇ、二十元っていくらなの?」
と聞くので、
「三百円ぐらい」
と答えると、案の定、
「こんな重い二人が乗ってかわいそう。二十元あげたら?」
と言った。
私達にとって十五元も二十元も大して変わらない。
しかし、外国人だからと値段を吹っかけているのだし、お客が中国人だったら十分の一ぐらいだと思うので、値切った方がいいのだ、と心を鬼にして、十五元だけ手ににぎっていた。ようやく瑠璃廠に着き、十五元を出そうとすると、なんと人力車のお兄ちゃんは
「二人だから三十元」
だと言う。
シマッタ!「二人で十五元ね」と確認するのを忘れていた。
仕方なく三十元を出しながら母に言った。
「ねっ、しっかりしてるでしょ。」

この「外国人には料金を吹っかける」と言うのもアメリカやフランスなら絶対に許せないが、中国では「まっ、いいか」と思ってしまう。
なぜなら、例え中国人相場額の二倍になろうが、大した金額ではないからだ。
中国では、今まで外国人は「兌換券」という券しか使えず、決まった所でしか買い物ができなかった。それに観光地などでも外国人料金が中国人の二倍以上で設定されていた。
それが最近になって「外国人をもっと受け入れよう、外貨を稼ごう」と兌換券が無くなり、外国人料金も無くしたのだ。
ただ、だまされたと思うと不愉快になる。


瑠璃廠では全てが高かった。骨董品、筆、紙などであまりにも有名だからなのか。
しかし、旅行も最後になっていたし、せっかくここに来たのだからと筆を買うことにした。日頃冷やかしのお客が多いのか、私には声をかけてこない。ガラスケースの中には同じ様な筆が沢山並べてあり、もちろん金額も違う。この値段の差は何なのか?
こちらから中国語で声をかけると、なんと日本語が通じる。いままでのこちらの会話が聞かれていたのか。
筆は産地毎に分かれて置いてあるそうで、質もピンからきりまであり、簡単には選べない。普段書く字の大きさと書体を言って、大体選んでもらった。その中で中間の金額のを二本買った。せっかくだからと印泥も買った。
本屋にも寄ったが適当な本が見つからなかった。
天安門広場の通行止めも、もう終わった頃だと広場に戻ることにした。
通りに出ると早速自転車のお兄さんが声をかけてきた。今度はタクシーに乗ろうと思っていたので、お兄さんの顔を見ないように止まっているタクシーの近くへと行った。
タクシーの運転手はなぜか声をかけてこない。私から乗ってもいいかと聞いて、乗せてもらうことになった。

先程とは打って変わって、天安門広場は沢山の人がいた。
タクシーも毛沢東記念館前につけてくれた。
しかし、タイミングが悪いかった。記念館は二時からだった。
仕方がないので毛沢東の肖像画!?をバックに写真を撮った。
天安門広場を挟んで、毛沢東と向かい合わせに孫文の肖像画があった。毛沢東のよりも数倍大きく、立派であった。
そこでも写真を撮っていると一人の青年がカメラを持って、私に近づいてきた。
「シャッターを押してくれませんか?」
と言うので
「いいですよ」
と写真を撮ってあげた。
彼は反対に私達のカメラのシャッターを押してくれると言う。
しかし、私達は既に写真を撮り終えていたし、二人の写真はもう沢山あるので遠慮した。そして、せっかくだからと、他の人に頼んで三人の写真を撮ることにした。彼は私達を中国人だと思っていたらしい。それに私のことを自分より年下だとも思っているようだ。
写真を撮り終えても、何故か立ち去らない彼と再び毛沢東の肖像画がある方へと歩き出した。途中簡単な会話をしたが続かない。何か話さないといけない、と思うと余計に会話が出てこない。日本語でさえ思いつかない。
「どこに住んでいるの?」
「湖南省、毛沢東の故里だよ。」
「ふ~ん、旅行?」
「ううん、北京に家があるの。今日は友達と待ち合わせをしているんだ」
「???」
(湖南に住んでいて、旅行じゃなくて、北京に家があって?)
理解できないうちに毛沢東の肖像画の近くへ来た。彼はまた私達の写真を撮ってくれると言う。本当にもう写真は撮りあきていたので、要らないと断わって彼を撮ってあげた。
やはり彼も中国人だ、サングラスをし、斜めにポーズを取ったのだった。
何枚か撮った後、毛沢東記念館の開館時間近くになったので、記念館へと向かうことにした。再び彼と歩く。
「今日はどこへ行くの?」
「友達とここで待ち合わせをしているんだ」
あ~、私の中国語じゃ通じないのかしら!?
(友達と待ち合わせをしているのに私達と一緒に歩いていていいの?)と聞きたい所だが中国語が出てこない…。
しばらく沈黙が続いた後、彼はバックから手帳のようなものを出し、見せてくれた。それには中国陸軍の軍人証となっていた。
(そうか、軍人さんだったのか。)
年端二十三才。
出身は北京で湖南省の陸軍に入っているようだ。だから北京に家があるのかぁ。きっと今日はお休みで里帰りで、地元の友達と逢う約束をしたのだろう。
毛沢東記念館の近くまで来ると、なんの団体なのかすごい人だかりだ。
それが毛沢東記念館に入るのに切符を買うため並んでいる人達だとわかるまで、そう時間はかからなかった。
見ているとみんな焦っているのか押し合いをしている。前の方では押し潰されそうになっている人もいた。午前中に入れなかった人達もいるのでこんなに混み合っているのだろう。とても並べる状態ではなかった。
時間を見ると二時になっていた。
それならば、もうお土産を買う時間にした方がいいと思い、案内してくれるIさんが待つ北京事務所へ向かうことにした。
軍人の彼にたどたどしい中国語でその旨を伝え、そこで別れることにした。
タクシーを拾うため反対車線に渡ると、ちょうどそこには中国歴史博物館があった。
最後に入ってみようかと思ったら、月曜の今日は定休日だった。どうりで人が少ないはずだ。
仕方なく北京事務所へ向かうため、タクシーを拾おうと道路沿いに出ると、自転車のお兄さんが寄ってきた。いちいち断わるのも厭なので、自転車が来ない所まで歩く事にした。
ちょっと歩くつもりでも中国は広いので、五分、十分はすぐ歩いてしまう。
角を曲るとタクシーが止まるのにちょうど良い広場があった。そこへ行くと、違法駐車等を注意したりしている、だけどどこか優しそうなおじさんがいた。
「タクシーに乗りたいんですが」
と言うと、ちょっとうなずいて手を挙げて一台のタクシーを呼んでくれた。おじさんが私達の為に停めてくれたタクシーを綺麗な女の人が横入りしようとした。もちろんおじさんが怒ってくれ、私達は乗ることが出来たのだが、どうして中国人は横入りをするのだろうか?
「国際貿易センタービルまで」
と言って乗り込んだ。
乗ったタクシーは中国の人が普段使っているもののようで、少し汚く、少し小さい。
でも、運転手は優しそうな人だったので、安心して乗ってられる。
五、六分乗って、北京事務所が入っている国際貿易センタービルに着いた。
さすがに外資系の会社が入っているビルで日本のオフィスビルにも引けを取らない。
ロビーで階を調べて、エレベータに乗った。
二十三階にあったオフィスは想像していたよりも狭く、簡単な作りだった。
中を覗いても誰の姿も見えない。オフィスの中に入って声をかけてみたら、Iさんと森本さんが出てきてくれた。
Iさんはワイシャツにネクタイ姿で、いかにもサラリーマン。森本さんはストライプのシャツにチノパンというラフな格好だった。
今日は所長がいらっしゃらないと言うことで、私達は所長室に通された。所長室は応接室と兼用らしい。
高そうな壷やゴルフのトロフィーなどが飾られていた。
森本さんがぎこちない仕草で私達にコーヒーを出してくれた。中国でコーヒーはとても高価らしい。インスタントでさえも。
コーヒーを飲み終わり、事務所の看板の所で写真を撮り、友誼商店へと行くことにした。
「運転手付きの紅旗」。
この紅旗は中国生産の車で、普通の人が乗ることは出来ない。
中国の要人や外国の要人、外資系の会社の社用車としてぐらいしか走っていない。
本当は普通のデパートに行きたかったが、Iさんは案内できるのは友誼商店と市場だと言う。時間もないし、お土産も全然買ってないので、Iさんに従って友誼商店と市場に行くことにした。
まずは友誼商店へと向かったが、その立派さに驚いた。外見はもちろんのこと、入り口を一歩入るとそこはハワイのデューティーフリーと見間違える程だ。
一階は化粧品が置いてあり、特有の香水の香りがした。奥に入っていくとお茶や薬が売っていた。
取りあえずは上から下まで目を通してみようと、各フロアーを廻った。中国へ来たら中国の物を、他の国へ行ったらその国の物をお土産に買おうとすると思うのだが、この友誼商店には外国の化粧品や外国の衣料品が多かった。確かに中国の化粧品や衣料品しか売っていなかったら、あまり売れないとかもしれないが…。
ちょっとがっかりしながら、それでも中国らしいものをと見て廻った。
シルクのパジャマでも買おうかと思ったが、日本で買うのと変わらない金額だった。去年の秋、買いそびれてしまった龍井茶を買った。真珠の粉も買った。母は漢方薬の「冬中夏草」を高いのに三つも買うと言う。「清涼油」と言う虫刺され、頭痛、筋肉痛と何にでも効く薬も箱単位で買っていた。
買った品物はIさんが持ってくれて、車まで戻った。
車に荷物を置くと今度は市場へと行く。
そこには野菜から果物、衣料品、ジーパン、鞄なんでもあった。Iさんがいつも出張者を案内する果物屋へ連れて行ってもらった。その果物屋は外国人もためらうことなく買い物ができる小綺麗なお店で品物も良いものだった。そこで何個かのくだものを買った。これでIさんの立場も良くなっただろう。
この後は雑技団を見に連れて行ってもらった。始まるまで時間があるので食事をすることにした。
行ったお店は日本料理のレストラン、と言っても基本的にはラーメン屋で、しかし、餃子もあるし、キムチもあり、ちょっとした小料理屋のようなところだった。
Iさんがキープしている焼酎をお湯と梅干しで割って飲んだ。日本でも焼酎のお湯割りなんてしたことがないのに、中国でこんな飲みかたをするとは思わなかった。
ラーメンも使う材料を全て日本から取り寄せているらしく、日本のものと変わらない。
時間が早く、三人しかいなかったお店に会社が終わったのか日本人サラリーマンが次々と入って来た。
やはり、日本食が恋しくなるのか,日本人が恋しくなるのか、夕方から夜遅くまで日本人でいっぱいになると言う。
雑技団の開演時間近くなり、劇場へと向かった。
建物の中に入ると既に観客でいっぱいだった。しかし開演時間にはまだ少し時間があったのでロビーにあるお土産屋を冷やかした。Iさんは真面目な人なのでひやかしは好きじゃないらしい。私が鼻煙草入れの値段の交渉をすると、お店のお兄さんは
「いくらだったら買う?」
と言って、私が考えているとIさんが
「いくらって言って、相手も合意したら買わないと駄目ですよ」
と厳しく言われてしまった。
座席に戻っると、Iさんが
「あっ、あの人◎◎会社の人だよ」
と言った。
駐在員は少ないし、同じ鉄鋼会社なので仕事でも関係があるのだろう。
開演時間になり、雑技が始まった。
十才ぐらいの男の子二人が主にやっている。表情も豊かでかわいい。
女性は十代後半から二十代前半ぐらいまでいるようで、みんな美人だ。
私達は前から二番目の席だったので、かぶりつき状態で見てしまった。見る前はあんまり面白そうに思わなかったが、見る価値はある。
約一時間半だったが、あっと言う間に過ぎてしまった。
劇場を出ると運転手さんが待っていてくれて、感動した。先程ここまで送ってもらってから約三時間。偉くなるとこうまでしてくれるのか。
「あと行きたい所ありますか?」
とIさんが言うので
「もう十分です。それに今から行く所なんてないでしょ?」
と言うと
「ディスコとかカラオケとか」
と冗談まじりで言った。
今、中国ではディスコもカラオケも人気があるらしい。
「もう十分です。ありがとうございました。」
感謝を込めてお礼を言った。
Iさんは北京に駐在して、何度もこのような接待をしたのだろう。きっとみんな満足したと思う。
ホテルに着いて、玄関前で紅旗をバックに写真を撮った。
Iさんと運転手さんにもお礼を言い、別れた。

続く。。。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: