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世界文化遺産 平泉
平泉文化は平安時代後期、奥州平泉に陸奥の豪族藤原清衡を父として子の基衡、
孫の秀衡の奥州藤原三代がおよそ100年にわたって築いた文化をいいます
平成23年に中尊寺を含む「平泉文化遺産」が世界文化遺産に登録されました
開山 中尊寺
月見坂
中尊寺の表参道を月見坂の道の両脇には
樹齢300~400年ほどの杉の並木が続いています
江戸時代に伊達藩によって植樹されました

弁慶堂
この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である
藤原時代五方鎮守のため火伏の神として
本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す
弁慶像は文治5年(1189)4月
高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり
更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に
義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である
-案内板より-




本堂
明治42年に再建されました
中尊寺は高僧慈覚大師円仁によって嘉永3年(850)開かれ
その後、奥州藤原氏の初代清衡が
江刺豊田館から平泉に移し、長治2年(1105年 )に造営に着手しました



鐘楼
当初は2階造りの鐘楼であったが、建武4年(1339)の火災で焼失
梵鐘は康永2年(1343)の鋳造
銘に中尊寺の創建や建武の火災のことなどを伝え貴重である
-案内板より-

金色堂新覆堂
この建物の中に金色堂があります
金色堂は天治元年(1124)に建てられた奥州藤原文化の少ない建物の遺構の一つ
初代藤原清衡により建立され、当時の技術の粋を集められています
一辺が3間(5.46m)の宝形造、木瓦葺の小堂で
柱、壁、床、天井、扉など総漆塗りの上に布を張りさらにその上に金箔を張っています
堂内には奥州藤原氏四代のご遺体が
金色の柩に納められ安置されています


旧覆堂
金色堂を風雪から護るため正応元年(1288)に
鎌倉幕府によって建てられた五間四方の堂で古くは「鞘堂」と呼称
-案内板より-
源義経が自害し、奥州藤原氏が滅亡した1189年
その500年後の1689年に奥の細道の旅に出た松尾芭蕉が
金色堂を参拝しました
「五月雨の 降りのこしてや 光堂」
この句の「光堂」が金色堂

白山神社

能舞台
現在ある能舞台は嘉永6年(1853)伊達藩主伊達慶邦朝臣から
再建奉納されたものです(平成15年国の重要文化財指定)
現行の能舞は天正19年時の関白豊臣秀次と藩主伊達政宗両公が
当社参拝の節観覧に供し依頼続行今日に至っている





武蔵坊弁慶大墓碑
文治5年(1189)義経の居城高館焼打されるや
弁慶は最後まで主君を守り遂に衣川にて往生す
遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて
後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた
「色かえぬ 仏のあるじや 武蔵坊 」
-案内板より-


源義経、終焉の地
高館義経堂(たかだちぎけいどう)
高館は北上川に面した丘陵で判官舘(はんがんだて、ほうがんだて)と呼ばれています
判官舘と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来します
この一帯は奥州藤原氏初代清衡公時代から要害地とされていました
兄 頼朝に追われ、少年時代を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経公は
藤原氏三代秀衡公の庇護のもとこの高館に居館を与えられました
しかし文治5年(1189)四月三十日
頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子、泰衡の急襲にあい
この地で妻子と共に自害したと伝えられています

弁慶の立ち往生
藤原泰衡に館を攻められた際、弁慶は並み居る敵兵を次々倒すが
ついには無数の矢を受けて薙刀を杖にして仁王立ちのまま息絶えたと伝えられている

義経堂
天和三年(1683)、仙台藩主四代伊達綱村公が
義経を偲んで建てました

平泉を訪れた松尾芭蕉は高館の丘陵にも登りました
「夏草や 兵どもが 夢の跡」

転勤先や旅行先で義経ゆかりの地を観て回りましたが
とうとう終焉の地に来てしまいました
大河ドラマ「義経」のタッキーの顔が思い浮かびます
世界遺産 平泉2 2014.10.03
おなごりフェスティバルin能代2014 2014.09.22