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ベートーベンの弦楽三重奏曲は通常初期の作品とされ、弦楽四重奏曲の為の習作程度にしか位置づけられていないのですが、果たしてそうでしょうか?「このトリオ形式はアマチュア音楽家達の為の作品群で、プロの演奏が求められた1800年以降は需要が無くなって仕舞った」との推論もありますが・・真実は楽器相互のバランス、音色を調和良く達成するが難しく、ベートーベン自身が時代の好み感覚を捉え弦楽四重箏曲に作曲の重点を置いたことによる様です。ハイドンによって構築された弦楽四重奏曲が将来方向に向いていたのに対して。弦楽三重奏曲は寧ろバロック時代の通奏低音付きの演奏スタイルで寧ろ過去の遺産を引きずっていたとベートーベンが考えたからだろうと推定されます。微妙なバランスを要求する演奏はディベルティメント(喜遊曲)タイプの音楽に向いていました。ベートーベンはOp. 3、Op. 8、Op. 25の多楽章を持つ愛らしい曲を発表しました。1792年22才で作曲したOp. 3にて、モーツアルト晩年の名曲ディベルティメントK. 563に並んだとするのは考え過ぎでしょうか?しかし、ベートーベンのことですから、構成力に優れるソナタ形式を入れたOp. 9の三曲も作曲することも忘れていません。それらはこのジャンルでの最高の作品と評価されています。Op. 9の三曲は1798年、ロシア貴族のブラウン・カミュ伯爵に献呈された曲群で、Op. 3-3のハ短調の作品の開始部は特に素晴らしく、ベートーベンも気に入って様です。彼の生涯最後の作品である弦楽四重奏曲Op. 135に同じ音符配列が見つけられるのです。この頃から、ベートーベンには難聴の予兆が始まり、湯治治療したりするのですが効果が無く、遂には音楽家の生命と言うべき聴覚を失うことになりました。悩んだ末に不屈の精神力で克服し、作曲家として音楽家活動を続け精神性の高い曲を後世に残してくれることになりました。ベートーベン生家中庭にある胸像このような運命の乱れが無ければ、ベートーベンは弦楽三重奏曲の延長上にあって旋律の美しい曲のみを作曲したのではと考え、彼の難聴は後世の人達へ“魂の音楽”を残すには必要なことだったのかと思うと複雑な心境となります。
2003.05.28
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モーツアルトの“不協和音”4重奏曲のその不安な序奏を聴く内に、もっと不安な序奏とものすごい強奏を持つベートーベンの弦楽四重奏曲を聴きたくなりました。最初は古いバリリ四重奏団の演奏をかけたのですが、何かダイナミックな演奏に触れて見たくなり、アルバン・ベルク四重奏団にかけ直しました。その作曲経緯も上記の本を読みながら、半分納得しつつ二回程“ラズモフスキー第3番”を堪能しました。著者の井上和雄氏はベートーベン弦楽4重奏曲OP. 59-3通称ラズモフスキー第3番について次の様に解説します。不安に揺さぶられた序奏が、ためらいがちな第1バイオリンのアレグロに受け継がれるや、殆ど野蛮とも言える主題が爆発するのである。それ以外の部分が素晴らしいだけに、この強奏が訪れる度に僕は殆ど絶句する。これは人格の強靱さと言ったものを遙かに越えている。ベートーベンは、この世の不条理に向かって怒りをぶつけ、己の情念を解放し、情念と共に生きることに己を賭けたと言っても良い。それこそ、あらゆる人が心に抱えている悲しみであり怒りであり、人間が生きて行く限りおわされた根源的な情念なのだ。人々が世の中の不条理を嘆く時、世の中の常識や冷静な判断から見て、本人の我が儘な感情に過ぎないことが多い。現にベートーベンがこの世を理不尽だと言って怒る時、ベートーベン自身がその理不尽な事態を自ら招いた場合が非常に多い。しかしよく考えて見れば、この世それ自身が理不尽に出来ているのではなかろうか。この世の様々な成り行きが、自然の秩序という点から見て合理的であろうと、嘗て幸せだった人間の感情世界から見て、これほど理不尽な世界は無い。僕らは心の底でそのことを知っている筈だ。ベートーベンの音楽が僕らの心を揺さぶる根源が此処にある。人格性よりも何よりも、僕らと共に彼の中にある根源的情念が音楽の中に溢れ出すからである。ベートーベンは19世紀以降の音楽のみならず人間の生き方に対して、巨大な扉を開いてしまった。つまり、パンドラの箱を開けてしまったのである。それ以降、内に潜むあらゆる情念が、人間の名の下に謳い挙げられて行くことなる。その意味でベートーベンは近代音楽及び近代人間に決定的な影響を及ぼした「大事件」であった。
2003.04.28
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バッハはライプチッヒの聖トーマス教会での職責をこなす為、およそ300曲に亘る宗教カンタータを作曲しました。その内200曲程が現在に至る迄伝えられ、我々が聴ける様になっています。一方、宗教的色彩の無い世俗カンタータも50曲程作曲し、その内20曲が完全な形で伝えられています。その大部分がザクセン選定侯、ポーランド王等を褒め称える様な世俗カンタータですが、ライプチッヒ大学合唱団の為のもの等もあります。又良く知られている“珈琲カンタータ”は1735年に喫茶店で初演された楽しい曲です。珈琲は1670年からドイツ輸入され始めたのですが、国家専売の対象品で裕福な階層にしか愛飲されていなかったのです。その後、段々と一般庶民に楽しまれる様になったのですが、バッハはそれを“茶色の毒物”と揶揄しながら、作曲・初演したのです。Die Katze laesst das Mausen nicht,Die Jungfern bleiben Coffeeschwestern,Die Mutter liebt den Coffeebrauch,Die Grossemama trank solchen auch,Wer will nun auf die Toechter laestern !“猫がネズミを捕ることが止められない様に、小娘達も珈琲を飲むのを止められない。彼女らの母親も、祖母も好きなものだから、小娘達に文句を言うのはおかしなことです”と三重唱で優雅に唄われるのです。農民カンタータはライプチッヒの貴族を褒め称える世俗カンタータで、これは最後の曲目でソプラノ・バスの二重唱です。エディット・マティスのソプラノを聴いて見て下さい!
2003.04.15
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グレン・グールドはカナダのトロントに生まれ、数々の名演奏をして名声を得ましたが、1982年10月僅か50歳であったのに脳卒中でこの世を去りました。50才の風貌はまるで70才の老人の様でしたが、彼の天才ぶりを天がもう充分と判断し人生を加速してしまったのでしょうか?彼は死の前年にバッハの《ゴルトベルク変奏曲》をデジタルで再録音し、しかも映像版を残したのです。ほとんど再録音をしなかったスタジオの隠者が、デビュー盤の《ゴルトベルク》(1955年録音)に回帰し、それが「白鳥の歌」となったという事実に誰もが驚きました。主題のアリアで始まり、30の変奏を経て、ダ・カーポのアリアで終わるこの作品の構造にグールドの軌跡を重ね合わせ、その象徴的な関係に想いをめぐらしている様でした。 22歳で録音した衝撃のデビュー曲《ゴールドベルグ変奏曲》がクラシックの常識を破るベストセラーとなり、世界中の賞賛を浴びながら、32歳で唐突にすべてのコンサート活動から身を引いてしまいました。歌いながらと言うか“うなり声”を挙げながらピアノを弾き、指揮するように腕を振り上げ、自分の思い通りの演奏をすることで知られていましたが、社交界的な演奏会では思う様に演奏出来ないと判断したのだと言われています。実生活でも変わった人の様で、夏でもコートとマフラーと手袋を離さず、人前から姿を消し、レコードだけを発表し、生涯独身で過ごしたのです。数えきれないエピソードは、奇人なのか?天才なのか?と人々を悩ませますが、確かなのは、その演奏には誰もが心奪われずにはいられなかったということの様です。 《ゴルトベルク変奏曲》再録音は、米国では亡くなる前の1982年9月に、日本では追悼盤として1982年12月に発売されました。国内盤は諸井誠氏が「27年前の初録音をはるかに凌駕する世紀の名演」と題する解説を寄せ、テンポ、リズム、装飾音等に着目しながら、新旧両録音の各変奏の解釈を仔細に比較検討しています。諸井氏は旧盤を「若い才気の飛翔」と、新盤を「賢者の深慮にもとづく確固たる造型と技巧の勝利」と評し、「あらゆる音に奏者の意識が働いている、演奏のマニエリズムの極致」と賞讃しています。 その他、平均率ピアノ曲集、イギリス組曲、フランス組曲、イタリア協奏曲など独奏曲に優れた演奏を残しましたし、彼も楽しんで録音したと思われるキーボード協奏曲も、その演奏を凌駕するものが今になっても出ていないと思っています。 数ヶ月前には、愛聴していたトッカータ全曲集のテープがすり切れてしまいましたので、インターネットでCDを買い求めた程、魅力的です。バッハのパルティータ1番(BWV825)のメヌエットを聴いてみて下さい。何とメリハリの或る演奏でしょうか!
2003.03.31
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3月23日のテレビ日曜洋画劇場での「ハンニバル」は、前作「羊たちの沈黙」程の切迫感・緊張感はありませんが、シリーズ第二作としてはなかなか良く出来た作品では無いかと想いながら鑑賞出来ました。原作の翻訳版は二年程前に読んではいたのですが、映画は視覚を主とした総合芸術だと感心したのは、冒頭から響いてくるバッハの「ゴールドベルク変奏曲」が何度も効果的に使われていることでした。「ゴールドベルク変奏曲」は正式な題名を「種々の変奏曲を持つアリア」と呼ばれている名曲です。バッハが、カイザーリンク伯爵に仕える弟子のゴールドベルクの為に作曲したことから通称そう呼ばれています。経緯としては、カイザーリンク伯爵が極度の不眠症に陥ってしまったので、ゴールドベルクはバッハに眠れない夜を慰める曲を書いてくれる様に依頼して完成させた様です。従って、チェンバロ又はハープシコードで淡々と眠りに誘う様に演奏されるのが通例でしたし、現在でもその様なCDは手に入ると思います。我が家には、盲目のオルガニストWalchaのチェンバロ演奏レコードをテープにしたもの、グレン・グールドの二つのピアノ演奏テープがあります。昨日は、グールドの1955年衝撃のデビューとなったピアノ作品を聴いて見ましたが、やはりものすごい魅力に溢れていました。グールドはピアノを使って、チェンバロの様な効果を出しつつ、歯切れの良いフレーズ感でダイナミックさを最大限に発揮しています。演奏時間も通常50分程度は掛かるのですがこの演奏では30分程度で猛烈に速いのです。これは眠りを誘うどころではありません、嵐と衝撃を聴き手に提供する原曲の意図とは全く異なったものとなりました。この様な演奏新解釈には賛否両論があるのでしょうが、提示したグールドの天才には敬意を表します。テープはCBS RecordsからMYT38479で発売されていたもので、録音が古いのでダイナミックさには不満が残ります。
2003.03.25
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モーツアルトは弦楽5重奏曲を6作品作曲しています。勿論白眉とされる作品は、昔評論家の小林英雄氏が「悲しみが疾走する」と評したト短調のK. 516でしょうが、最後に位置するK. 614はテーマ性はそれ程ありませんが魅力のある作品です。旧モーツアルト全集ではK. 407が加えられて全7曲とされているようですが、元来がホルン5重奏曲であった作品でホルンをチェロに替えても良いと言うものなので一般にはこれを除外して全6曲としているようです。弦楽5重奏曲はイタリア人でスペインで貧しく死んだボッケリーニが数多く作曲しているので知られています。チェリストで会った彼は、バイオリン2、ビオラ1、チェロ2の弦楽5重奏曲として作曲しています。一方、モーツアルトの弦楽5重奏曲はバイオリン2、ビオラ2、チェロ1の構成で作曲されています。作曲形態では天才的な才能を発揮していないモーツアルトはこの様な構成を自ら進んで開拓しては行きません。彼は有名なハイドンの弟、ミヒャエル・ハイドンが作曲した6曲のビオラ2挺の5重奏曲に触発されて作曲したのです。しかし、曲想・構成では彼は天才です。明るい曲想のハ長調K. 515、救いの無い暗さのト短調K. 516は白眉の2曲ですが、最後の2交響曲、ト短調K. 543、ハ長調K. 551にも比肩される対曲となっているようです。K. 614は1791年4月に作曲されました。逝去する8ヶ月前のこととなります。この曲の後、大きな器楽曲は有名なクラリネット協奏曲K. 622しかありません。芸術的には最高に洗練された美しさを持つ作品ですが、この年に命を奪われると言う予感の影は、やはりこの作品にも少しも現れていないのです。ハイドンの音楽を念頭に置いて作曲しつつ、ハイドン以上に人間的情感を込めることに成功しているように思います。
2003.03.10
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カール・ライスターの演奏会に行ったのは1997年11月と随分前のこととなりました。彼の60才記念コンサートと言うことでライプチッヒ弦楽四重奏団との日本公演を行っていたのです。場所は埼玉県松伏町の田園ホール・エローラと言う所でしたが、本当に田園の真ん中に建てられたホールでした。しかし、東京のホールとは違い愛好家が集まったと言う雰囲気があって演奏終了後、サイン会も行われましたので彼のサインをプログラム冊子の中にして貰えたのです。演奏されたブラームスのクラリネット5重奏曲は素晴らしいものでした。耐え難いまでの侘びしさと諦観の念が感じられ、それでいて交響曲の様にがっしりとした5重奏曲を見事に演奏して呉れたのです。カール・ライスターは1937年北ドイツのヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)に生まれ、ベルリン音楽大学卒業後東ベルリンに二年間いて、1959年ベルリンフィルの第一クラリネット奏者となり、1993年迄34年間その重職にありました。1993年9月にベルリンのハンス・アイスラー音楽大学教授となってからは、もっと自由な演奏活動に専念しているようです。昨日は名盤とされているOrfeo版のブラームス・クラリネット5重奏曲CDを聴いてみました。Vermeer四重奏団との演奏でしたが、渋さと侘びしさを見事に表現していました。北ドイツの重厚な雰囲気に生まれ、子供の頃失語症に罹ってひたすらクラリネットを吹いていたと言う彼の経歴が、尚一層そうゆう気にさせるのかも知れません。でも、モーツアルトのクラリネット協奏曲はパイヤールとランスロのフランス・エラート版の方が華やかさが感じられて良いかなと思います。モーツアルトはフランスの華やかで繊細な雰囲気がぴったりすると思いますので。
2003.02.22
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ピアノ三重奏曲第4番Opus 11は“町の歌(Gassenhauer)”と呼ばれている作品ですが、有名な“大公トリオ Op. 97”“幽霊トリオ Op. 70-1”に隠れてしまい、あまり聞くチャンスがありません。その第三楽章は作曲家ジョセフ・ワイグルのオペラ“愛人マリネロ”の主題による変奏曲形式の魅力ある作品です。どこかに伝えられたメロディーであると言う解説もあるのですが、確かめていません。ベートーベンの作品はピアノ三重奏曲の三曲が作品番号1番として、その後出版年代に従って番号が付けられています。Op. 137が最終作品番号ですが作曲は1817年ですので、最後の作品は作曲年が逝去する1827年の弦楽四重奏曲第16番Op. 135となりましょう。“町の歌”は1797年に作曲・出版された作品ですが、元来はクラリネット、チェロ、ピアノの為の三重奏曲でしたが、クラリネット部をベートーベン自身のバイオリン演奏に替えて行われたのが好評でピアノ三重奏曲となりました。魅力的ではありますが、それ程重要とされないこの作品は、その当時の流行を取り入れた作品群の一つと言われています。楽章は三楽章構成で、Allegro con brio、Adagio con espressione、"l’Amor Marinero"Theme & 9 Variationsとなっていて、特に最後の変奏曲は天才的なカノン風に作曲されていますので、非常に明快で楽しく聴くことが出来ます。その後11年に亘るピアノ三重奏曲の空白があって“幽霊トリオ”が登場するのですが、三種の楽器の音量の違いを克服するのに時間を要したのかも知れません。1824年に出版された変奏曲のみのピアノ三重奏曲“仕立屋カカドゥ Op. 121a”は、ミューラーの音楽劇“プラハの姉妹”の主題による10の変奏曲とロンドです。多分“荘厳ミサ曲”のプレッシャーをはね除けるべく、気楽に作曲された色彩が強いのですが、それが気楽で魅力的な作品となっています。我が家にはマンハイマートリオ、ヤニグロのアナログレコード二枚ありますが、Mannheimer Trioはテープに落としたのですが、ヤニグロの方は現在聴くことが出来ないのは残念です。
2003.02.20
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1月31日、東京池袋にある東京芸術劇場大ホールでユニセフ支援記念のコンサートがあったので行って来ました。シューマンの交響曲4番とドボルザークのチェロコンチェルトがプログラムされていました。私のお目当ては韓国女流チェリストのチョン・ミュンファが1731年ストラデヴァリ製造の通称ブラガと呼ばれる名器を演奏するチェロ協奏曲でした。私の耳がそれ程鋭敏ではありませんので、感動する程の音色に響きが聞こえなかったのは残念でした。チョン・ミュンファ女史が、管弦楽団の音量に負けない様に弦押さえ駒の近くを強く弾くので「音量が大きくするのは良いのだが、音が少し濁らないかな?」等とつまらない心配をしながら聴いてしまったのです。かえって、彼女がアンコールで弾いたバッハの無伴奏チェロソナタは、そんな気負いも感じられず悠々と弾いて呉れたので、優雅な音が響いていた様な気がしました。自宅にあるロストロポーヴィッチのドボルザーク音楽テープを聴いている時には、そんなことは全く気にしないで聴いているのに、生演奏はいろんなことが気になるものです。それにしても、弦楽器は300年以上も経過したものが演奏楽器の最高峰として君臨していますが、現代の名工も沢山いると思いますのに其処に到達出来ないのは不思議です。「ブラガ」にしても、チョン・ミュンファ女史が退場する時に胴裏が見えたのですが、大分ニスが剥がれている様でした。ニスが音色に影響する研究をしたのはロケット工学の権威であった糸川英夫でしたが、ニスの塗り直し補修も難しいとなると、この先弦楽器の名器の寿命が気になる所でした。大ホール内は撮影禁止ですが、開場直後デジカメでフラッシュ無しの自動撮影でこっそり撮りました。ASA400相当なので結構撮れていると思います。それにしても、フラッシュ無しの撮影も禁止する意味はあるのかと疑問に思いました。
2003.02.01
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彼女はモーツアルト弾きとして1970年代に名を馳せ日本での演奏会も盛況で、私も「戴冠式」等のレコードを持っていました。しかし、アナログレコードプレーヤがもう無いので聞くことが出来ません。僅かにカセットテープでのK.467(Elvira Madigan)等が残っているに過ぎません。CD時代になってからは、ブレンデル、内田光子のCDの方に移ってしまいましたので、ヘブラー女史のピアノ協奏曲CDは持っていないのです。彼女の演奏は、内田光子の感情移入が激しい演奏と較べ、譜面にあるがままに弾くことで知られています。演奏する前から既に全てが徹底的に考え抜かれ、検討されて整然と弾くのです。彼女の思いつきとか恣意的なものは無く、徹底的に忠実に従うのですから、これ位作品に献身的な演奏をする人も無いのです。彼女の緻密な演奏は、如何に彼女の本性に合って、又如何に自分の理想を自然に追求している印象を与えることに成功しているのです。彼女が過去に教えられ、現在教えているモーツアルテウム音楽院の目標が彼女を介してにじみ出てきているのだろうと思われます。彼女の特質は、主任教授として後世に間違い無く伝えられるのだろうと安心感に似たものも感じざるを得ません。モーツアルト6才の時の作品を演奏している彼女を聴いて下さい!
2003.01.14
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今では、音楽の巨塔としてバッハの地位は揺るぎないものがありますが、彼の生きていた時代はテレマン、パッヘルベルに較べて評価は低かった様です。彼は10才の時に両親を失い、長兄に養育されたのですが経済的理由から音楽大学に行くことが出来なかったことが、音楽的才能を云々する前に、世の中の尊敬を得るのに困難さがあった様です。ライプチッヒの聖トーマス教会の合唱長に就任するに際しても、テレマンが断り、次の候補も駄目になり、三番手としてバッハが選ばれるのですが、「最良の人物が得られなかったのだから、中ぐらいの者で我慢しなければなるまい」と言うのが選定理由でした。しかも、晩年は作曲法は古いと言われ半ば忘れられた存在になり、眼の手術にも失敗し盲目となってしまうのです。そんな彼を暖かく支えたのは、二番目の妻アンナ・マグダレーナでした。彼女が綴ったと言う想定で書かれたこの本「バッハの思い出」は真筆か否かは1936年発刊当時からあった様です。訳者の山下肇氏はあとがきで次の様に述べています。戦後版(1962年)には、あるドイツ人読者の読後感が「私の長い読書生活の中で、この本は最愛の書と言って良い。この魅力的な文学ほど、ドイツの家庭を美しく深く描いた書物は無い。」として紹介されている。このドイツ人読者は、本書がマグダレーナの真筆かどうかと言う疑念を承知の上で、優れた文学作品であることを主張しているのです。その後、この疑念も次第に明らかになり、本書が真筆でないと言う見解が有力視される様になっているが、だからと言ってバッハの人間像の忠実な再現、資料としての正確さ等、その価値がいささかも減じているとも思われない。バッハの再評価は死後100年を経て、メンデルスゾーンにてマタイ受難曲の演奏が行われて以後のことです。それ以降は彼の評価は高まる一方で現在に至っています。バッハの平均率ハ長調の前奏曲をグノーが歌曲に編曲した“Ave Maria”をお聴き下さい
2003.01.10
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ヘルマン・プライ(1929 -- 2001)はドイツ・リート界において、フィッシャー・ディスカウと天下を二分するバリトン歌手であったが、惜しくも一昨年、帰らぬ人となってしまいました。ヘルマン・プライは、フィッシャー・ディスカウの知的分析力と明晰な歌唱理論で唄うのに較べ、先ず重要視したのは「初心の感動」の様です。プライは常に胸一杯の心のときめきを、ふるえを、感動を訴えかけるのに情熱を燃やす人でした。プライは、その明るい発声法によって、オペラ歌手として「フィガロの結婚」でのフィガロ等の当たり役があるのですが、彼はゲーテの言う“人が苦しみのあまり黙する時、神は何を悩むかを言い表す力を与える”、そうした心の極限状態を訴えようとするひたむきさを唄う永遠の青年でもありました。「愛するツィターよ」(K. 351)では、ツィターの替わりにマンドリンが使われていますが、マンドリン伴奏は日本人の越智 敬氏です。録音は1975年11月ドイツのミュンヘンで行われました。
2003.01.05
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アルカンジェロ・コレルリ(1653~1713)ボローニャで修行の後、ローマに出てスウェーデン女王クリスティーナ。枢機卿オットボーニと言った有力者に庇護されながら、バイオリンを主体とした多数のコンチェルトやソナタを作曲している。彼のソナタは全部で60曲が在世中に出版されている。二巻の三声部教会ソナタ24曲(作品1-1681年、作品3-1689年)、同じく二巻の三声部室内ソナタ24曲(作品2-1685年、作品4-1694年)、そして独奏バイオリンの為のソナタ(作品5-1700年)という内容になる。三声部ソナタつまり「トリオ・ソナタ」は、三つの声部が記譜され、バイオリン二つ、チェロ、それに鍵盤奏者の4人で奏される。独奏バイオリンの為のソナタは、モーツアルトやベートーベンの場合と異なり、バイオリン、チェロそして鍵盤奏者の3人で奏されるのが立て前である。教会ソナタは典型的な構成で緩急緩急の四楽章でホモフォニックな形をとるものが多い。一方、室内ソナタは、短い前奏曲に続いて、数曲の舞曲が奏されると言う形をとっている。何れの楽曲にしても、コレルリの音楽には、激情の表情とか巨匠風の技巧誇示と言ったものが一切避けられ、寧ろ独自の気品と格調によって貫かれており、柔らかい旋律は極めて端正であり、高貴であり、しかも生きた肌の暖かさを伝えて呉れる。これは彼が、古代ギリシャの古典美に憧れる文化人グループの有力メンバーであったことによることにも起因している。独奏バイオリンの為のソナタからの一曲を聴いてみて下さい!
2002.12.27
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彼の経歴は次の通りです:近頃は指揮にも熱意を示している様です。Andras Schiff was born in Budapest, Hungary, in 1953 and started piano lessons at the age of five. Subsequently he continued his musical studies at the Ferenc Liszt Academy, and in London.Recitals on the major keyboard works of J.S. Bach, Haydn, Mozart, Beethoven, Schubert, Chopin, Schumann and Bartok form an important part of his activities.He performs with most of the major international orchestras and conductors. During the next few years the main part of his activities with orchestras will be performances of the Piano Concertos by Bach, Beethoven and Mozart, which he will be directing from the piano. In 1999 he created his own chamber orchestra, the Cappella Andrea Barca.For the Bach celebration year he gave many Bach recitals and conducted Bach’s St Matthew Passion and other compositions.In 2001 he directed concert performances of Mozart’s Cosi Fan Tutte in Vicenza and at the Edinburgh Festival.From 1989 until 1998 he was artistic director of the "Musiktage Mondsee" near Salzburg, an annual one-week chamber music festival. In 1995, together with Heinz Holliger, he founded the Ittinger Pfingstkonzerte in Kartause Ittingen, Switzerland. In 1998 he started a similar series, entitled "Homage to Palladio", in Vicenza, Italy.彼のバッハのキーボード曲演奏については、音楽評論家の吉田秀和氏が次の様に述べています。シフの「ゴールドベルグ変奏曲」を聞いたが、それは素晴らしかった。しかし、「ゴールドベルグ変奏曲」と言うと、どうしてもグレン・グールドのそれが目の前に立ちふさがっている。新しい演奏で、グールドを抜いたと聴き手を納得させる力のあるものに巡り会うのは難しい。シフの演奏は、グールドと較べても、尚かつ、新鮮なものを感じさせる点、流石とは思う。そうして、何故選りに選って、この難曲をわざわざピアノで弾くかと言う問いに対して、聴き手を納得させるのは、グールドの他にはシフしかいないのではと考えさせる所までには行っている。「平均率」の演奏も素敵である。シフの弾き方は、ノン・レガートに傾斜するグールドとは逆に、レガートを主体に、そこにノン・レガートを混入させることにしている。ペダルは勿論殆ど使わない。弱音ペダルも同じであるが、音の強度としては、弱音にずっと近い所で弾く。曲の全部がmpと言う場合もある。その結果。小声でそして円滑に、語られて行く話を聞く様な気持ちを与えるのです。バッハの二声のインベンション第8番ヘ長調をお聴き下さい!
2002.12.20
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ブレンデル氏はポリーニ氏と共に現在最高のピアノ奏者だと思います。モーツアルトのピアノ協奏曲全曲集もCD発売されていますので楽しんでいます。彼の演奏について下記の評論がありますが、当たっているか否かは視聴者の判断となりましょう。音楽評論家の吉田秀和氏が「レコードのモーツアルト」(中央公論)でブレンデルの演奏を次のように述べている。ブレンデルのモーツアルトのピアノ協奏曲を弾くに際して、それぞれの性格の違いをこれ位鮮やかに弾き分けるのは珍しい。それでいて、演奏には音の即興的な流れがあって、装飾的なパッセージやカデンツァが普段耳慣れない箇所にも盛んに出てくる。しかし、放胆では無く寧ろ緻密な演奏をしている。彼は、予め隅の隅まで考え抜き、鍛えぬいた演奏を用意しながら、実演となると、用意してきたものをそのまま反復してはいられなくなる。演奏中に何かが彼の耳に何かを囁きかけるのだ。それは、何も楽譜に書いて無い即興的な戯れだけに見られるのでは無い。先ずどこかで気が付くと、あとの所にも、そのほとばしりの痕跡が見えてくる。そういう彼の演奏から特に強調されて聞こえてくるものは、エスプレッシーボの音楽としてモーツアルトの魅力である。情感の非常に細やかで豊かな音楽としてモーツアルトを弾くピアニストなのである。 小品コンチェルト・ロンド(K.382)の第2楽章をマリナー指揮の管弦楽団との共演でお聞き下さい!
2002.12.15
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インターネットでの音楽配信、音楽CD等で自分の好きなクラシック音楽が気軽に楽しめます。しかし、弦楽器の伸びやかな音楽の再現は今一つで、本当の音を表現していないようです。実際の演奏会に出掛けて聞いて見ると、バイオリンは木工の共鳴板を使った、柔らかい音がするのです。演奏会に出掛けるのが本当の音楽の楽しみ方でしょうが、日本でのクラシック音楽会のチケットは高すぎると思いますし、又普通演奏会の行われる相当前に購入する必要がある様で不便だと思っています。音楽会はもっと音楽愛好家・聴衆の手軽な要望「何か音楽したくなったので、音楽会に行きたい」、「此処1-2週間の間に好みの音楽会は無いか?」等に答えて欲しいのです。ニューヨーク等での旅先でもリンカーンセンターでの演奏会チケットは即日でもクレジットカードを使った電話予約も出来ますし、価格も手頃です。そんな要望に沿ったビジネスが展開されていますがご存知でしょうか?近日中に行われる音楽会チケットを半額で提供するURLがあるのです。このURLは“朝日新聞”では8月に、“日経新聞”では12月に紹介されましたのでご覧になった方もおられるのではないでしょうか? 私は別に関係者ではないので宣伝する必然性は無いのですが、何回か利用しましたので利点・欠点等を紹介致したいと思います。URL(チケット・ポンテ)はこちらです! http://www.tponte.com利点:1.販売価格が半額であるのが、最大の魅力で二人で行くのには最適です。2.数日後から1ヶ月後迄の演奏会チケット販売がされていますので、熱が冷めない内に聴くことが出来ます。3.演奏内容はパンフレットが画像で見られますので、購入検討に便利です。欠点:1.多分、売れ残ったチケットの委託販売なので席の選択は出来ません。この前に利用した時は、団体用のチケットがキャンセルされたものの様でした。2.手数料が一枚当たり360円掛かります。つい最近迄は一回購入毎に360円でしたが、改悪となりました。3.東京地区の演奏会が多いので、それ以外の地区に住んでいる方には利用しにくい面がある。サントリーホールでの交響楽団演奏会は一万円を超えるものが殆どですが、これを利用すれば節約効果は大きいのです。是非検討して見て下さい。
2002.12.13
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マスコミが創り上げるスターダムは彼我を通じて、数多くあると思います。しかし、其処に彼我の差を感じてしまいます。近頃、日本では「モー娘」、一寸可愛い少女達をテレビのバラエティ番組で、才能の感じられない歌・踊りを披露させる。一方英国では、将来スカラ座のプリマになりたいと広言する少女の発掘しているのです。CDのジャケットには次のように書かれています。英国で「天使の歌声」がリリースされたのは1998年11月、ウェールズから飛び出したシンデレラガールは、既に世界的名声を博している。ことの始まりは、イギリスでの子供募集の番組に自分で電話をかけ、オーディションに参加したことにある。番組のプロデューサはわずか13才の少女の透き通る様なソプラノの美声に仰天したのでした。オペラ歌手として円熟期を迎えるのは30才を越えてからが常識なので、彼女の成功を色眼鏡で見る人は少なくない。マーケティング戦略で仕立て上げられたスターだと言うのです。彼女は謙虚に「自分は天才なんかじゃない。たまたま歌という才能を神に授けられただけ」に言います。彼女の夢である“スカラ座でのプッチーニ・オペラのプリマ”を磨き続ける意志を持って努力を続け、いかなる時でも1日二時間の歌唱レッスンを欠かさないと言われています。この少女の光は、これから長い間魅了して呉れると思います。二番目のアルバムに収められている、シャルル・グノーの「ファウスト」から宝石の歌(何と美しきその姿)を聞いてみて下さい。
2002.12.11
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キリ・テ・カナワ(1943~ )ソプラノ歌手。マオリ族出身の父親とヨーロッパ人の母親のもと、ニュージーランドのギズボーンで生まれ、ニュージーランドで音楽を学んだ後、英国のロンドン・オペラ・センターに入学。1969年キャムデン音楽祭でデビュー、1971年「フィガロの結婚」の伯爵夫人を歌って大成功を収め、国際的な舞台へと活躍の場を広げました。1982年エリザベス女王より男性の“サー”の称号に当たる“デイム”の称号を受け、1983年オクスフォード大学から音楽博士号を授与されました。「オペラの世界」での陰影豊かなクリーミーな響きを、「宗教・歌曲の世界」での透明感溢れるシルキーな美声を、「ミュージカルの世界」での情感豊かな歌唱を、幅広いレパートリーと見事な歌唱で聴き手を魅了しています。1989年2月、米国ユタ州ソルトレークシティーのモルモン教総本山でのライブ録音によるバッハ(グノー編曲)のアベ・マリアを聞いて見て下さい。ジュリアス・ルーデル指揮のユタ交響楽団及びモルモン・タバナクル合唱団です。
2002.11.29
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ナルシソ・イェペス(1927~ )12才でバレンシア音楽院に入学、20才で名指揮者アルヘンタに見いだされ、マドリードでロドリーゴ≪アランフェス協奏曲≫を演奏し、センセーションを巻き起こした。25才の時、ルネ・クレマンの名画≪禁じられた遊び≫の音楽をギターのみで支え、その音楽と共に一躍世界に知られる所となった。彼は、その名声に安住することなくスペインギターを芸術の域に高めたセゴビアのギター奏法にも異を唱え、音量の小さいギターはセゴビアの指を丸める奏法では無く、指を立てて強く弾くことで弱点を克服するべきであると主張し実際に演奏している。又、従来の6弦ギターでは無く10弦ギターであった方が最適な和音を得られるとし、実際の演奏でもその使用を続けている。コンサート活動を続ける一方で、エネスコには指揮法を、ギーゼキングにはピアノ奏法を学ぶことで音楽を深める努力をしている。バッハを演奏する為には、ギターでなくリュートの方が良いかも知れないと判断するとリュートをもマスターしてかかる等、常に自身の音楽を作る前向きの姿勢を惜しまず、現代最高のギタリストとして名声を得ることになった。日本人ギタリストでも、彼の門を敲いた人は大勢となっている。バッハのリュート組曲の録音は1972年、45才の円熟期に行われたが、10弦ギターを使用している。やはり、音量は強く音色が硬い感じがするが、それは彼の音楽に対する主張だと考えれば納得出来るものと思う。
2002.11.27
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エミール・ギレリス(1916 - 1985)1916年ウクライナのオデッサに生まれ、モスクワ音楽院在学中にベルギーの国際コンクールに優勝し、1948年西欧デビュー、1955年アメリカデビューで圧倒的評価を得、日本にも4度に亘って訪問。1985年モスクワで心臓発作で逝去。ギレリスが独グラモフォンにベートーベンのピアノソナタ全集の録音を開始したのは1972年、足かけ14年という歳月を費やしましたが、全32曲を完成させることは出来ませんでした。1984年最後の訪日時、“ハンマークラヴィア”が発売されたばかりであったがインタービューに答えて彼は次のように言ったそうです。「“ハンマークラヴィア”は初めての録音です。ご存じのようにこのソナタは大変に巨大で偉大な作品です。技術的に練習して表面的に弾けるようになったからと言って録音出来るような作品では勿論ありません。私も以前からこのソナタを弾きたいと思っていましたし、若い頃にも随分練習しました。しかし、それはエベレストに登る様なものだと思うようになりました。レコード会社はどんどん録音してくれと言いますが、私は自分が納得出来るまでは出来ませんし、やりません。“ハンマークラヴィア”もそうでした。ですから、私もエベレストに登れる様になったから録音したのだと、この演奏を聴いて思って頂けるとしたら、大変誇りに思います。」 演奏を単に技術だけでなく、作品を作曲家の全体像の中で捉えようとする彼の音楽に対する真摯な姿勢が感じられます。彼の最後の録音はベルリンの教会にて、ソナタ11番が1985年6月、“選帝候ソナタ”2作品(WoO47-1及び-2)が1985年8月に行われました。何故ベートーベン自身が高い評価をした11番と、13才の時ケルンの選帝侯に献呈したとは言え修行時代の作品をカップリングしたのか、その理由は語られていませんが、鑑賞するものへの問いかけをしているかも知れません。音楽評論家の吉田秀和も新潮文庫の中で「ギレリスのベートーベンは、模範演奏的な堂々たる足取りと精密さを以て弾かれている。イン・テンポの格式美を土台とする自分の行き方について完全明確な意識を持っているからだろう。同じソ連のピアニストでも、リヒテルと違う点であろう。リヒテルは、時にエキセントリックな位、自分の霊感に任せた演奏に突っ走りかねない。」とも述べているのです。
2002.11.25
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11月21日夜、10時のNHKニュースでストラディバリの名器デュランティ(1716年製作)が千住真理子女史に貸与されたニュースがありました。彼女の真摯な姿勢が世界的に評価された結果で、80年振りで陳列棚から演奏者に亘ったのは喜ばしい限りです。バッハの無伴奏ソナタの1番、3番が披露されていたが、無伴奏と言えば思い起こすのが30年前に亡くなったヨーゼフ・シゲティだと思います。シゲティ Joseph Szigeti [1892-1973]ハンガリー生れのバイオリン奏者。生地のブダペスト音楽院に学び,13歳でベルリンに独奏者としてデビュー。深く作品の本質に肉薄する演奏を追究し,その姿勢はピアノ奏者のギーゼキングなどとともに〈新即物主義〉とも形容された。J.S.バッハからロマン派まで幅広いレパートリーを誇り,同時代の音楽も好んで演奏。バルトーク,プロコフィエフ,ブロッホとは深い親交を結んだ。1951年米国の市民権を得,晩年はスイスに住む。1931年に初来日。 シゲティのバイオリン演奏は、音の美しくないことで有名でした。“シゲティはボーイングに力が入りすぎて音が汚く、ビブラートもあまり使わぬ上に、細かい音の粒が綺麗に揃わず、技巧的に鮮やかな切れが無い”と酷評もあり、その通りと思うのです。彼の来日公演でも演奏途中で失敗して中断、最初からやり直した等のエピソードも残っています。だが、彼の演奏を聴き進む内に、そういう欠点はどうでも良くなって、私たちの心に直接語りかけて来る音楽の迫力に訳も無く圧倒されてしまいます。シゲッティは、音楽に徹することで、自己を磨きぬくと同時に、聴く者の精神のあり方をも支えて来た音楽家だったのです。死後30年となりますが、未だ数多くのCDが発売されています。バッハの無伴奏バイオリンソナタは、シェリングの名演奏等もあるのですが、彼の演奏は絶品だと言われています。私の所には、アナログレコードが無伴奏を含めてあるのですが、プレーヤも無くなって残念ながら紹介できません。是非、機会を捉えて聴いて見ることをお勧めします。パールマンとかヨーヨーマ等の技巧を誇示する自信たっぷりな名演奏とは、違った世界が展開すること請け合いです。ただ、各種音楽コンクールが演奏家の登竜門となっている現状では、彼の様に精神性を第一とした演奏家は浮かび上がれないスタンダードが確立しているのでは危惧しています。田中耕一氏のノーベル化学賞も日本の化学学会では、何の対象にもならず名前も知られていなかったにも拘わらず、学術功績としてスウェーデンのノーベル賞選考委員会で認められました。このような従前のしがらみとは、違った観点での選択肢が音楽界にもあって欲しいと思います。日本では残念ながら、無理な懇願とはなりましょうが・・
2002.11.22
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コンスタンティン(ディヌ)リパッティは1950年に33才で白血病により亡くなった伝説的なピアニストです。「神によって、ほんの束の間、貸し与えられた楽器」と評されたリパッティは1917年3月19日、裕福な音楽好きな両親の元にルーマニアの首都ブカレストで生まれました。14才で初演デビューを果たし、16才で作曲家以外には異例となるジョルジュ・エネスコ賞を受賞することになりました。その翌年にはウィーン国際ピアノコンクールで2位となりますが、その結果に審査員であったコルトーは抗議して、審査員を辞退する騒ぎに発展しました。コルトーはその才能を高く評価し、パリに招いて5年間共演者・アシスタントとして処遇することとなりました。又指揮をシャルル・ミュンシュに、作曲をデュカス、及びナディア・ブーランジュに学びました。1937年ブーランジュ女史との初レコード録音をした後、第二次世界大戦が勃発したのでルーマニアに戻ったのです。しかし、1943年ナチスドイツの迫害を逃れるべく、ルーマニアからスカンディナビア経由スイスに亡命し、1944~1949年の間ジュネーブ音楽院で教鞭と取ることになりました。虚弱体質なので遠隔地への演奏旅行は出来ませんでしたが、フランス、英国、ベルギー、オランダ、イタリーへの演奏旅行を行い優れた演奏家と認識される様になりました。その間彼の評価は確立され、英コロンビアレコードとの独占録音契約が成立したのです。しかし、生来虚弱体質であったこともあり、戦時中の逃避行で健康を害し、既に不治の難病が悪化の兆しを見せていました。1949年に健康が急激に悪化し、米国で開発された新薬「コルチソン」で一旦は回復も見られ、演奏活動も再開したのですが、再び悪化し1950年12月2日に永眠致しました。未だステレオ録音の無い時代でしたが、類い希なる作品解釈・周到な準備による演奏はモノーラルの名盤の誉れ高く残されています。シューマン ピアノ協奏曲グリーク ピアノ協奏曲モーツアルト 第21番ピアノ協奏曲(K. 467 カラヤンとの共演)モーツアルト 第8番ピアノソナタ(K. 310) ショパン ワルツ14曲ショパン マズルカ映画「短くも美しく燃え」の主題曲、K.467の第2楽章は上記から選定されたのことですが・・、未確認です。 バッハのパルティータ第一番(BWV 825)は彼の最後のスタジオ録音で、1950年7月9日スイスのジュネーブのスタジオで行われたものです。Gouldの演奏に較べて、きらびやかさはありませんが、詩情に溢れていると思うのです。
2002.11.20
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クララ・ハスキルをご存じですか?1960年代のモーツアルトのピアノ協奏曲レコードの名盤と言えば彼女の演奏が多かったのです。20番(K.466)、24番(K.491)はとりわけの演奏と言われていたのです。録音が古いので今ほどのダイナミックさは無いのですが、内田光子とは異なり感情移入も程々で、気品があったと思うのです。クララ・ハスキル女史は1960年12月に亡くなっており、既に40年以上経過しています。不世出のピアノ奏者であり、古典派バッハ、ベートーベン、モーツアルトからロマン派シューマンに至るまで、優れた解釈による演奏に優れていました。ステレオ録音が殆ど無い時代に無くなりましたが、各種名演奏を惜しんで今でも復刻版が出版される程です。彼女は1895年にユダヤ系ルーマニア人として生まれました。 才能豊かでしたが病弱で、病気と療養の繰り返しが人生の殆どでした。 円熟期が第二次世界大戦と重なっていた時に、脳腫瘍を患いナチスドイツ占領下のヨーロッパでは手術そのものが危ぶまれましたが、愛好家の助力もあって南仏マルセーユで九死に一生を得ることが出来ました。第二次世界大戦後は、著名な指揮者との優れた名演奏を残すこととなり、モノーラル時代のモーツアルトピアノ協奏曲9番(K.271)、19番(K.459)、20番(K.460)、ステレオ時代の20番(K.460)、24番(K.491)は名盤とされています。しかしながら、1960年ベルギー・ブリュッセルで残念にもあっけなく客死することとなりました。録音技術の発達はその後急速であり、音質の優れた作品が残されなかったのは残念でなりません。やはり、天は二物を与えないと言うことかもしれません。 シューマンの「子供の情景」の第7曲「トロイメライ」、録音は古く1955年です。
2002.11.19
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