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努力することについて


●努力も才能のうち

 大江健三郎が『「自分の木」の下で』(朝日新聞社)の中でこんなことを書いている。中学校二年生の時に将来学者になりたいと思い始め、そのことを友達や先生に話していたところ、そのことを間接的に担任ではない先生が聞きつけて、わざわざ呼び止めて、
「三ごんなくしては学匠になりがたし、というよ!」といった。大江は「意味はわからなかったのですが、私は傷つきました」と書いているが、学者になれないといわれたので傷ついたのか、それとも「三ごん」という言葉の意味がわからないので傷ついたのかははっきりとしないが「担任の先生に、それがどんな本に出ている言葉かをたずねてもらうよう、おねがいしました」といっている。直接たずねないところが大江のプライドの高さを示しているといえるかもしれない。
 上野千鶴子が東大生は上野が言及する人でわからない人があっても決してたずねない、次の時にまでに調べてくると書いている。それは誰ですかとたずねたらいいだけと思うのだが。大江もすかさず「三ごんとは何ですか」とはたずねられなかったわけである。
 この言葉は新井白石の『折たく柴の記』の中にある。大江は公民館の図書館で長い時間をかけて調べた。大江の説明によれば三ごんとは「利根、気根、黄金」つまりかしこい性質、ものごとに耐える気力、金銭…これらが豊かにないと、学者になることは難しいという意味である。「自分について最初の二つはまだよくわからなくても、私の家にお金が十分にはない、それははっきりしていました」と大江はいっている。
 倫理社会の先生が僕が哲学を専攻したいといっていることを間接的に聞いた時、先生は僕を職員室に呼びだして哲学はやめるように、と説得した。僕はその忠告を受け入れなかったのだが先生が哲学を学ぶといかに経済的に苦労するかということを強調したことが印象的だった。後に京大の教授は給料を取りにこない、なぜなら家が裕福だから給料をもらわなくても大丈夫だからというような話がまことしやかにされているのを聞いて僕には学者になるのは無理かもしれないと思ったものだ。家の経済状況はともかく博士課程を終えても就職がなければ経済的にはかなり大変であることは僕自身の、あるいは友人の経験からもよくわかる。
 大江はどう考えたか? 白石が三歳で文字を書くことができるようになった時ちゃんとした先生についていたら書がうまくなったのにとか、六歳で中国の詩を覚えて意味も習った時、その勉強を伸ばす場所があったらなどと残念なことを思い出すことに同情しながらも、この一節は後に立派な政治家、学者になった白石が、自分は「いつも忍耐できにくいことを忍耐しようとしてがんばって、世のなかの人が一度することなら十度、十回することなら百回したおかげで」このようになれたというところにつながるのだといっている。
「努力も才能のうち」と僕はいつもいっていた。努力しか僕にはできることはなかったからである。大江はいう。
「十五歳になったある日、私が文学関係の仕事をしよう、と思い立ったのは、他の分野の努力と比較して、本を読んだり文章を書き写したりすることには、自分が苦しいと感じない、と気がついたからです」
 努力はするが自分が苦しいと感じないということは大事なポイントだと思う。

●喜びとしての努力

 大江健三郎が、
 ここで注意すべきことは、文学分野での努力は「他の分野と比較して」苦しいと感じないといっているわけであって努力していないとか苦しくないといっているわけではないということである。
 アドラーがよく勉強できる人があまり勉強していないというが(そしてそういうふうにいうことを好むけれども)本当は努力しているはずであるといっている。授業中に集中して聞いているので課外に格別の勉強を必要としないということもあるだろう。
 自叙伝などで若い頃は勉強はあまりしなかったが成功したというようなことが書いてあることがある。たしかにそんな人がいるのかもしれないが、努力したことを公言すれば才能がないと思われると恐れるからだろうか。
 いきすぎの努力というのもある。アドラーが『個人心理学講義』(pp.176-8)であげている男性は問題である。この男性は学校では誰からもかまわれることがなかった。ところがある日担任の代わりに教えた教師がこの男性の可能性を見て取り、勇気づけた。
「このような扱いを受けたのは、少年の人生において初めてのことでした。その時から、彼は才能を伸ばし始めました。しかし、いつも後ろから押されているかのようでした。自分が優れているとは本当には信じられず、一日中、夜も遅くまで勉強しました。このようにして、仕事をするために夜遅くまで起きていたり、あるいは、全く眠らず何をすべきかを考えながら時間を過ごすようになりました。その結果、何かを成し遂げるためには、ほとんど一晩中起きていなければならない、と考えるようになったのです」
 アドラーはこの男性について「優越性の目標を持っており、この目標は強い劣等感を持った人の目標である」とまとめている。
 このような劣等感とは関係のない努力があるはずである。本当に興味をもっていることであれば努力はたしかにしているが、努力が苦痛とは感じられないことがあるというのは本当である。強いられた勉強はつらいがテーマを見つけて自分から進んで取り組む時は時が経つのも忘れてしまう。このような努力を知っている人は幸いである。


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