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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2023.10.14
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 徳川慶勝1824年生まれの幕末から明治初期にかけての大名・政治家です。
 ”写真家大名・徳川慶勝の幕末維新 尾張藩主の知られざる決断”(2010年10月 日本放送協会出版刊 NHKプラネット中部編/徳川黎明会監修)を読みました。
 江戸幕府の幕引き役となり日本を守った御三家筆頭の徳川慶勝撮影の生涯を、本人撮影の写真や貴重な史科を通して紹介しています。
 尾張藩支藩だった美濃高須藩主・松平義建の次男です。
 1849年に宗家の尾張名古屋藩主徳川家14代となり藩政改革を実行しました。
 日米修好通商条約の調印に反対し、将軍徳川家定の継嗣問題でも井伊直弼と対立し隠居謹慎となりました。
 のちゆるされ、公武合体運動の中心として幕末に活躍しました。
 第1次長州征伐のときは征長総督となりましたが,第2次の征長には出兵を拒否しました。
 明治維新後に議定、名古屋藩知事となりました。
 本書は2009年8月23日のNHKハイビジョン特集「幕末知られざる決断~尾張藩主・徳川慶勝」に関連して、NHKプラネット中部が編集したものです。
 株式会社NHKプラネットはかつて存在した日本放送協会グループの放送番組制作会社です。
 地域情報番組の制作・地域放送局のイベント支援を専門としていました。
 各地域ごとに作られた番組制作会社6社があり、NHK中部ブレーンズ(東海・北陸)はその一つでした。
 しかし、NHKの経営改革の一環として関連会社の整理・統合が求められました。
 地域情報番組を担っていた6社を2008年4月1日に統合して発足したのがNHKプラネットです。
 NHKプラネット中部は株式会社NHKプラネット中部支社となりました。
 NHKでは経営改革の一環として、更に業務分野ごとに関連会社を整理することを求められています。
 これに伴い、2020年4月1日にNHKグループの番組制作会社でコンテンツビジネス全般も担当しているNHKエンタープライズに吸収合併されました。
 そして、これまで行っていた事業はNHKエンタープライズの地域支社として継続しています。
 徳川慶勝は1824年に江戸四谷の高須藩邸に生まれました。
 母は徳川治紀の娘の正室・規姫で、徳川斉昭は母方の叔父に、斉昭の子徳川慶篤と徳川慶喜は従弟にあたります。
 また11代藩主・斉温がその在世中に一度も尾張に入国せず江戸暮らしをするなど、藩士の士気を落とす出来事が続きました。
 慶勝の擁立は12代・13代と取り沙汰されましたが実現せず、1849年に慶臧が死去してから、慶勝の14代藩主就任が実現しました。
 藩主就任後の慶勝は、内政では倹約政策を主とした藩政改革を行いました。
 他方、外国船の来航が相次ぐ情勢下にあって、徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城らの感化もあり、対外強硬論を幕府に繰り返し主張しました。
 1858年の日米修好通商条約の調印に際しては、慶勝は徳川斉昭・慶篤父子と共に江戸城へ不時登城し、大老・井伊直弼に抗議しました。
 この行為が咎められ、井伊政権による安政の大獄により隠居謹慎を命じられ、代わって弟の茂徳が15代藩主となりました。
 このころから、欧米から伝来した写真術に興味を持ち写真を撮影しています。
 撮影した写真の中には名古屋城二の丸御殿、幕末の広島城下、江戸の尾張藩下屋敷などの写真が1,000点近く残されました。
 1860年に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、1862年に「悉皆御宥許」の身となりました。
 その年に上洛し、将軍・徳川家茂の補佐を命じられました。
 1863年に茂徳が隠居して実子の義宜が16代藩主に就任することとなり、慶勝はその後見として復権しました。
 他方、慶勝に茂徳も家中に影響力を保持したため、文久期以降、尾張家は慶勝・茂徳の二頭体制の様相を呈しました。
 復権後の慶勝はたびたび上洛して京都政局に関与しました。
 京都では1863年に会津藩と薩摩藩が結託して8月18日の政変が起こり、京から長州藩および尊攘派の公卿らが追放されました。
 1864年に慶勝は、雄藩の最高権力者からなる参預会議への参加を命じられましたが辞退しました。
 その年、長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変を引き起こし撃退された長州藩は朝敵となり、幕府が第一次長州征討を行うこととなりました。
 征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられましたが慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征しました。
 この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋しました。
 しかしその後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定しました。
 慶勝は再征に反対し茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就きました。
 長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり、幕府軍を藩境の各地で破りました。
 1866年12月に、徳川慶喜が家茂のあとを継いで15代将軍に就任し、幕府の復権を目指しました。
 しかしそのわずか20日後、公武合体を支持し幕府の後ろ盾となっていた孝明天皇が突然崩御しました。
 1867年10月に、徳川慶喜は倒幕の大義名分を失わせる策に出ました。
 朝廷に政権を返上する「大政奉迷」を行ったのです。
 慶喜の構想は、天皇をいただいた新政体のもとで幕府が衣替えして政治の中枢を担い、引き続き実権を掌握し続けようというものでした。
 しかし慶喜の構想は、薩摩や長州そして公家の岩倉具視など、強硬な倒幕派に阻まれました。
 12月に有力諸藩の藩主などが参内し、天皇の御前で会議が聞かれ、「王政復古の大号令」が発せられました。
 このとき慶勝は新政府の「議定」の一人に選ばれ、総裁に次ぐナンバーツーになりました。
 引き続き聞かれた小御所会議で、岩倉具視や大久保利通らによって、慶喜の辞官納地が提議されました。
 会議に出席していた慶勝、そして元福井藩主松平慶水や元土佐藩主山内豊信らは、新政府に徳川慶喜が参加することを想定していました。
 しかし激しい議論の末、岩倉たちに押し切られるかたちで、慶喜に辞官納地を促すことが決定されました。
 そして、新政府から旧幕府勢力を排除する方針が示されました。
 こうした動きを前に、慶喜の周囲で薩摩や長州を討つことを望む声が高まりました。
 その中心にいたのは、慶勝の弟の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬でした。
 1868年1月に、会津藩と桑名藩を主力とする旧幕府の軍勢が、本営を置いていた大坂城を出発し御所を目指しました。
 その途上、京都南部の鳥羽において、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府軍と遭遇し、戦闘が開始されました。
 戦いは当初膠着気味に進みましたが、、新政府軍の陣営に翻った旗が流れを一気に変えました。
 それは天皇の軍隊を意味する「錦の御旗」であり、敵陣に錦の御旗が翻ったことで、旧幕府軍は戦意を喪失しました。
 さらには、旧幕府方の淀藩や津藩が新政府側にまわったことなどにより、旧幕府軍は窮地に陥り敗走しました。
 容保と定敬は、慶喜とともに軍艦で江戸へと退却しました。
 慶勝は旗幟を鮮明にするよう最後通告を突きつけられ、人生最大の決断の時が訪れました。
 新政府にくみすれば、血を分けた弟たちを窮地に追いやることになります。
 さらに、徳川を名乗りながら江戸幕府の息の根を止めた「裏切り者」の汚名を着せられるかもしれません。
 下された慶勝の決断は、新政府側につくことでした。
 慶勝によって江戸に至る街道沿いは新政府支持一色に染まり、旧幕府派と新政府派の戦闘が起こる心配がなくなりました。
 新政府軍は悠々と東海道や中山道を進み、1868年4月の江戸城の無血開城を果たしたのです。
 明治に入ると、領土と領民を朝廷に返す「版籍奉還」や、独立性を持つ藩を廃して国の行政単位として県置く「廃藩置県」など、中央集権国家を作り上げるための政策が次々に実行されますた。
 そして1871年に、慶勝は殿様の座を降り、華族として東京に移り住みました。
 名古屋城を去ることになった慶勝は、名残を惜しむかのように集中的に城の姿を写真に収めました。
 東京に移り住んだ慶勝は、隅田川のほとりの下町・本所に屋敷を構えました。
 慶勝は、ここでも多くの写真を残し、下町の庶民たちの暮らしを写しました。
第1部 政治家徳川慶勝ー日本近代化、陰の功労者(徳川慶勝の生涯ほか)/第2部 殿様徳川慶勝ー殿様らしい最後の殿様(特別対談・徳川慶勝の魅力ー竹内誠×黒鉄ヒロシほか)/第3部 写真家徳川慶勝ー江戸の原風景をとらえた記録写真家(慶勝の写真術ほか)





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Last updated  2023.10.14 07:25:36
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