ジョニーの桜最前線!

No.2  翁

  ~~ 宇宙に行かずして宇宙を語る人々 ~~
      No.2  翁
 No.1のコラムでは、感じるということについて、その入り口をお話しした。
 今回は「感じる」という事についてさらに深くところお話したい。
 「感じる」は「考える」と比べて、動物が行動する時に効率よく働く。
 現代では、「考える」という事を非常に重要視するようになり、
 「感じる」という事を時代遅れの精神論のように扱われることがある。

 しかし、「感じる」は学問が進んだ現在においても、
 けして「考える」に劣るものではない。

 良い例がある。ロボットにパターゴルフをさせると、
 一秒間に何百万回もの足し算や掛算が必要となるらしい。
 ボールを捜し距離を計算し横に立ち、自分の腕の長さを計算して、立ち位置を修正する。
 ボールを打つ前にこれだけの行動があるが、人間がゴルフをするときに
 何百万回もの足し算や掛算をするだろうか?
 もしするとしたら、ボールを打つまでに何日かかるかわからない。
 では、ロボットの計算にあたるものは、人間では何にあたるのか?
 それは感じる力「感性」である。
 距離、方向、風、落差、疲れ、湿度などを感じボールを打つ。
 人間は、それをわずかな時間の間に行う。
 しかし、21世紀の二足歩行ロボットが、一秒間に何百万回もの足し算や掛算を行っても、
 幼稚園児のパターゴルフ止まりである。

 さて、ここで切り口を少し変えみよう。
 「三倍段」なんていう言葉、耳にした事は有るだろうか?
 これは、剣道2段の人に勝つには、空手6段必要だというたとえであるが、
 それに当てはまらない人物がいた。

 合気道の開祖、植芝翁である。植芝翁

 かの人は、晩年このような言葉を残したらしい。
 「我は宇宙成り」
 オギャーと生まれて、「我は宇宙成り」と言うまでに、どんなことを体験してきたのであろう。
 私はその中に、人間の感性について、一つの答えがあるようが気がしてならない。

 ここで合気道について、少し話しておこう。
 合気の「合」とは、もともと「愛」であった。
 「戦わずして勝つ」そういった術である。
 あるアメリカの大統領が来日した際に
 合気道の道場を見学した。
 しかし、老人が大男を投げている姿をみて、
 八百長ではと考え、その老人に屈強なボディーガード2人をけしかけたが、
 その老人はボディーガード2人を一度に相手取り、
 ほんの一瞬に2人を倒し、右手で一人の手首をひねり上げ、
 いくらもがこうがピクリとも動けなくし、もう一人も左手で
 同じ様に抑えつける。
 これは有名なエピソードであるが、
 こんなことを現実のものとしたのが合気道である。

 もちろん、その老人が怪力だった訳ではない。
 ただし、植芝翁の一番弟子だった。
 相手の力を利用し相手に返す。
 つまりは、相手の力も自分の力である。
 相手の意思も自分の意思である。
 相手も自分である。
 全てが自分である。
 その行きつく先に、翁の言葉がある。

 翁も初めから、強かったわけではない。
 合気道が生まれるまえに、翁は「感じる」ということを知った。

 日本が戦争中だったころ、翁も戦争に借り出されていた。
 その戦火の中で彼は、白いつぶてが見えたという。
 そして、白いつぶてを避けると、その後に弾丸が飛んでくる。
 彼は自分におきたその現象について考えた。
 これまで学んできた柔術の稽古の中にも、そんな事はなかった。

 戦争がおわり、日本に帰ったころ、一つの答えに辿り着く。
 「白いつぶて」とは、相手の「殺気」だったのではないか?
 そして、有る道場での試合で確信にかわる。

 相手は真剣をもった剣の達人、対する植芝翁は素手である。
 見守るものも勝負は見えていると感じていた。
 真剣と素手では、「3倍段」を通り越している。
 しかし、植芝翁は何かを悟っているかのように、「剣」にも勝てるといってしまった。
 もちろん、剣の達人は大人気無いと解っていながらも、その自信の有り様に腹がたった。

 試合の結果は、「3倍段」を覆す結果となった。
 刀が当らないのである。
 もちろん、手加減はない。しかし当らない。
 体捌きで全てかわされる。
 植芝翁は、一切手を出さなかったが、相手のスタミナが無くなり試合は終わった。

 試合の後、植芝翁が井戸の水で身体を濡らしていると、
 剣士が掛けより何故避けられるのかを聞くと、
 「白いつぶてが見える」と答えた。
 そうして、合気道が生まれた。

 「考える」や、「ロジック」の先に「白いつぶて」は無いだろう。
 もし有るとしたら、1秒間にどれだけの計算をすれば良いのか。
 「感じる」とはそれだけの力がある。

 最近では、「マニュアル」というものが増えてきた。
 ビジネスの中では必須で私も必要だと感じている。
 しかし、「マニュアル」を用いるのも人であり、
 「マニュアル」を用いる人の相手も人である。
 考えに考えに考え抜かれた「マニュアル」を用いるのであっても、
 「感じる」ということを疎かにしたくないものである。

                           以上



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