【西洋陶器を求めて】 0
― 0
・ 0
, 0
・・・・ 0
- 0
・・ 0
. 0
~ 0
** 0
*** 0
・・・ 0
' 0
全40件 (40件中 1-40件目)
1
にほんブログ村 今までコンクリート像や石像を数多く見てきました。当然、多くは作家不明ですが、その中でも特に印象に残った作品もあります。その幾つかをご紹介したいと思います。ご紹介することで、有識者からの情報が集まるかもしれませんので。例えば、先日、浅野祥雲の兵士像をご紹介した日泰寺の墓苑。その兵士像と同じ墓苑のエリア、胸像の兵士像から100m程度の距離に、次のお釈迦様のコンクリート像があります。天上天下唯我独尊。その言葉とは裏腹に、なかなか親しみやすい御姿です。なにか既視感を覚えるお顔です。わかりやすい場所にあり、浅野祥雲作品の近く。コンクリート像に興味をお持ちの多くの方がご覧になっていると思います。既に作家がわかっているのかもしれません。ご存知の方は、情報を頂ければと思います。【関連記事1】 「日泰寺の浅野祥雲作品1」【関連記事2】 「日泰寺の浅野祥雲作品2」【関連記事3】 「日泰寺の高見彰七の観音像」【 名古屋コーチン とろけるプリン 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.08.31
コメント(42)
にほんブログ村 豊田市の霊岩寺、謎の巨大なコンクリート像、続きです。霊岩寺の山門は、檀家以外には閉ざされています。過去に不審者の侵入などがあったかもしれません。コンクリート像は高台にあり、階段もありません。足場の巨石は傾き、落ち葉で滑ります。地蔵の高さが3メートル超ですから、かなりの高さにあります。落下しないように注意して、コンクリート像を見ましょう。前後合わせ目を、ノロで埋めた様な痕が見えます。これは高見彰七作品の特徴です。足元付近、前後中心線にヒビ割れが少しあります。背側のモルタルも粗くはありません。型を使ってはできないような鋭い線刻もあります。錫杖さえも平面的に作り、体にくっ付けてしまう。故に錫杖が短い。これも高見彰七作品の特徴です。近くで見ると、高見彰七作品の特徴も見えます。お地蔵様、貴方を作ったのは誰ですか?【 甘夏もち 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.09
コメント(39)
にほんブログ村 高見彰七作品を探していて、巨大なコンクリート像に出会いました。場所は愛知県豊田市の霊岩寺です。まずはご覧ください。大きな地蔵菩薩が、高台に立っています。見覚えがあるようなコンクリート像です。高さは足場が不安定で計測できませんでしたが、3メートル超はあるでしょう。手前にある花入れの造形は、浅野祥雲の作品に似ています。これだけ大きな像ですから、何か情報がありそうです。私は情報を持っていませんので、なにかご存知であればお知らせください。コンクリート像右側にある石碑の裏に何か書かれていたかもしれません。私は確認を忘れました。霊岩寺の境内には、檀家以外立ち入り禁止です。このコンクリート像は山門に向かって右に行き、かなり離れた場所にあり、境内には入りません。次回、このコンクリート像の現地確認情報をもう少しお伝えします。【 贅沢パフェアイス 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.06.07
コメント(38)
にほんブログ村 「水子弘法の謎を追って」、最終回です。なぜ多くの場合、立像の作家は、その名を作品に残さないのでしょうか。一方で、寄進者の名は作品に刻まれます。寄進者はなんらかの想いを持って、立像を発注します。そして、その想いが具現化されたのが立像です。寄進者の想いを残すことが重要ですから、寄進者の名は作品に刻まれます。一方で、作家は想いを立像に変える「通訳者」にすぎません。通訳者が目立てば、立像が持つ本来の想いがぼやけます。だから、通訳者である作家は、作品に名を刻まないのでしょう。*豊明市の神社散策中に、毛受善市氏の名を寄進者の中にみかけました。阿野八剱神社でのことです。善市氏がどの様な想いで、各地で寄進したかはわかりません。残すべき想いさえも、こうして消えてゆきます。水子弘法像も、私有地にある性格上、長期の保存は難しいでしょう。作家名は忘れられ、作品も失われ、想いさえも消えてゆく。すべて人の営みは、儚いものなのです。全9回に渡り続いた「豊明市 水子弘法の謎を追って 最終章」、これで終わります。長くお付き合い頂き、ありがとうございました。(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」【 記事 5】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 5) 」【 記事 6】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 6) 」【 記事 7】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 7) 」【 記事 8】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 8) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 サクラビスク 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.16
コメント(34)
にほんブログ村 瀬戸の原型師 稲垣勝美氏。その存在は、哀しい報せとともに知ることになりました。稲垣勝美氏のアトリエは、家族の皆さんにより保存されていました。しかし、2021年12月の公開を最後に、アトリエは解体されてしまったとのことでした。詳細は下記にあります。【瀬戸ノベルティ文化保存研究会】 「瀬戸ノベルティの名原型師・稲垣勝美アトリエ、最後の見納め見学会」アトリエは、資料館として保存されても良いレベルかと思います。研究会の皆さんの努力があっても、保存されませんでした。原型師が、その名を遺すのは難しいことでしょう。それでも知名度を得た稲垣勝美氏は、如何に優れた技能を有していたか、推し量ることができます。それでもなしえなかった、アトリエの保存。文化財を守ることの難しさを再確認した、哀しい出来事でした。次回、ついに最終回です。【次の記事へ】 「最終章 9 最終回」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」【 記事 5】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 5) 」【 記事 6】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 6) 」【 記事 7】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 7) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 雛人形 有田焼 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.14
コメント(37)
にほんブログ村 豊明市 水子弘法像の謎を追い、手掛かりを得た毛受家照像。善市氏も寄付をしたという、その銅像の作家は「稲垣勝美」氏でした。稲垣勝美氏は、瀬戸ノベルティの有名な原型師です。1913年に生まれ、1995年に他界されています。あの彫刻家・北村西望に師事し、名古屋製陶所や大倉陶園で勤め、その後は、丸岡陶器など、多くの原型作りを手掛けられました。瀬戸ノベルティとは、瀬戸で作られた陶磁器製の置物や装飾品。輸出用を中心に人気を博し、瀬戸の産業の振興に大きく貢献しました。豊明市の水子弘法像の作家が、稲垣勝美氏という記録はありません。ただ、水子弘法などの顔立ちは、陶磁器の人形の顔立ちにも似ています。私が毎回、ビスクドールをリンクしていたのは、そのためでもあります。謎を追い、たどり着いた稲垣勝美氏。ただその調査では、哀しい出来事を知ることになります。【次の記事へ】 「最終章 8」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」【 記事 5】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 5) 」【 記事 6】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 6) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 サクラビスクドール 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.11
コメント(42)
にほんブログ村 豊明市 水子弘法像の謎を追い、たどり着いた別の立像。それは愛知県尾張旭市の文化会館前にあります。毛受家照の銅像です。(画像出典:https://www.asuka-tobira.com/dozo/album/index.html)毛受善市氏はこの像を建てる際に寄付されたそうです。毛受家の子孫としての立場から。この像は、昭和63年に建てられています。豊明市の水子弘法が建てられた昭和57年の6年後。時期も近く、関連性がありそうです。(画像出典:https://www.asuka-tobira.com/dozo/album/index.html)次回、この像の作家のお話をしましょう。【次の記事へ】 「最終章 7」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」【 記事 5】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 5) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 ノリタケ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.08
コメント(56)
にほんブログ村 豊明市 水子弘法像の謎を追い、毛受組を探しました、毛受組は当初予想した国道1号線沿いではありませんでした。毛受組は豊明幹部交番の近くにありました。しかしコンビニの壁の陰になり、県道239号線からは見えません。毛受組の場所は、少しわかり難くなっています。毛受組で聴き込みし、下記の情報が得られました。●水子弘法を建てた毛受善市氏は、ご夫婦ともに他界されている。●善市氏にはご子息がおられるが、話を聴ける健康状態ではない。つまり、水子弘法の作家は、まだ解明できませんでした。しかし新情報が得られました。善市氏が関わった別の立像があるというのです。その立像から、一人の作家につながります。【次の記事へ】 「最終章 6」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」【 記事 4】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 4) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 Made in Japan 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.06
コメント(36)
にほんブログ村 謎の水子弘法像、その後、日を改めて再調査しました。調査方法は、弘法像近所での聴き込み。その結果、下記がわかりました。水子弘法の横には祠があり、内部に千体弘法(身替り弘法)があります。●祠の中の千体弘法はもともと山中の別の場所にあり、 初代毛受組(毛受善市氏)がこの地に移設した。●千体弘法は「江戸時代後期の瀬戸の名陶工 弘法善治」が製作。まず千体弘法の由来はわかりました。次に水子弘法です。●水子弘法は昭和57年に、初代毛受組 毛受善市氏により建てられた。●毛受善市氏は他界。 水子弘法の経緯を知る人はいないだろうとのこと。まだ水子弘法の調査は続きます。次回からは、未公開の新情報です。【次の記事へ】 「最終章 5」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」【 記事 3】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 3) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 ビスクドール 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.04
コメント(38)
にほんブログ村 謎の水子弘法像、調査の経緯を振り返ります。まず現地では、石碑に書かれた説明書きが参考になりました。「毛受兄弟四百年祭に當 昭和五十七年四月 十五代毛受善市建也」「昭和五十七年癸亥年正月 初代毛受組建之」この説明から、下記が分かりました。 ・水子弘法は「毛受(めんじょう)兄弟400年記念」で建てられた。 ・建てられたのは、昭和57年4月である。 ・建てたのは、初代毛受組の毛受善市氏 (毛受家15代目)。ネットでは、有名なコンクリート像作家の作品とも噂されていました。しかし、像は昭和57年(1982年)製。作家は、後藤鍬五郎(1976年没)や浅野祥雲(1978年没}ではあり得ません。また作風から、高見彰七でもないでしょう。まず、この時点では作家の謎は深まった形となりました。【次の記事へ】 「最終章 4」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(最新記事)【 記事 1】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 1) 」【 記事 2】 「豊明市 水子弘法の謎を追って (最終章 2) 」(過去分)【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 ビスクドール 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.01
コメント(40)
にほんブログ村 愛知県豊明市の水子弘法。この作家不詳のコンクリート像(セメント像)を覚えておられますか。実は、2022年の初夏には、一人の作家にたどり着いていました。しかしそれは、消えてゆくものの寂しさを感じざるを得ない結路でもありました。全調査の内容を振り返りつつ、一人の作家へ。「豊明市 水子弘法の謎を追って 最終章」、始めます。【次の記事へ】 「最終章 2」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 以前の記事 4 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 2 」【 ビスクドール (陶器製の人形) 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.01.28
コメント(32)
にほんブログ村 愛知県豊明市の謎のコンクリート像、聞き込み結果の続きです。「身替り弘法(千体弘法)」は、山中からこの地に移設されたとわかりました。移設したのは、初代毛受組 毛受善市氏。昭和57年のことです。では、水子弘法など、3体のコンクリート像は?以下、その情報です。●水子弘法も、同時期に初代毛受組 毛受善市氏により建てられた。●ただし水子弘法は、移設ではなく新作であった。●「毛受組」は豊明市内の国道1号線沿いの「毛受コンクリート㈱」ではない。 (毛受組は「毛受建材」?)●毛受善市氏は、かなり前に他界された。●今では水子弘法の詳しい経緯を知る人はいないだろう。昭和後半の出来事が、既に闇の中。作家銘のない作品は、驚くほど早く、その記憶が失われることを実感しました。【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 以前の記事 3 】 「謎のコンクリート像の情報収集をしました 1」【 晴れても暑いので、聞き込みは辛い 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.06.06
コメント(38)
にほんブログ村 こちらのコンクリート像(セメント像)を覚えておられるでしょうか。愛知県豊明市の作家不明の水子弘法です。以前の記事で、製作年から「作家は浅野祥雲ではない」と推定しました。浅野祥雲作ではないとしても、実によくできた弘法様です。そこで、作家が知りたく、今回、現地周辺で聞き込みしました。聞き込みからは、意外な事実もみえてきました。では、調査結果を列挙します。まずは水子弘法の横にある、御堂の中の「身替り弘法」の情報から。「身替り弘法(千体弘法)」●石碑にある通り、この場所は「昭和57年」に「初代毛受(めんじょう)組」が整備した。●毛受組は現在も、この場所の地主である。●千体弘法はもともと山中の別の場所にあり、初代毛受組(毛受善市)がこの地に移設した。千体弘法は移設されていました。次回は続いて、本命の謎の水子弘法の情報です。【 以前の記事 1 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像」【 以前の記事 2 】 「毛受兄弟記念の謎のコンクリート像 2」【 晴れないと聞き込みも辛い 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.06.04
コメント(38)
にほんブログ村 薄暗い木立の中、立ち並ぶ人物像。御嶽社は霊山、そこを歩けば異界との狭間が見えてくる。落ち葉を踏みしめ斜面を登ると、そこにはあの美しいヒトがいた。僕はカメラのレンズを、あのヒトに向ける。すると、周囲の人物像達の視線が僕に集まる。写真の画角を迷う僕。右の方から、咎めるような視線を感じる。ピントの調整に手間取る僕。左から、つぶやくような声が聴こえる。光を選び、シャッターに指を掛ける僕。後ろから、吐息のような生暖かい風が首筋をなでる。夕暮れに響くシャッター音とともに、僕は斜面を駆け下りていた。写真は撮った。明るい場所まで、何も近寄れない場所まで、駆けていく。撮れた写真を見て、驚いた。ありえないモノが写っている。写ってはならないモノが、写っている。勇敢にも、いや、無謀にも、僕はその写真を掲げよう。次の写真は、その写真。写ってはならないモノが、写った写真。写真を見て欲しい。異界の美意識は 現実の美を拒絶する。あらがう異界の声を、あなたにも、よく聴いて欲しいから。【 般若心経 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.03.13
コメント(42)
にほんブログ村 日像と月像。日像は、夜明け昇る太陽。月像は、何度も満ち欠けを繰り返す月。日像と月像は、いずれも再生と不死を象徴する。日本にも、死者の復活や生者の不死を願う信仰はあった。その想いに近づくために、霊山には無数の人物像が残された。この霊山には生への未練の数だけ人物像がある。無数の人物像は、生きる力を得ようともがく。岩崎御嶽社を歩けば、いつもと違う気だるさに襲われる。また今回も、無数の人物像たちに「生」を奪われてしまったようだ。【 キャット&ムーン 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.03.11
コメント(42)
にほんブログ村 ふと、思い立った。スフィンクスを見に行こうと。しかし、残念ながら空路の利用には制限がある昨今。やむを得ず、陸路での移動となった。車を降りてからは、薄暗い地下道を通る。そして再び陽光の下に出ると、視界の左にあの目的の地が見えてくる。意外に湿度の高い空気、さほど暑さも感じない。広がる砂地の向こうに、スフィンクスは鎮座していた。思うより、やさしい表情。しかし、その表情に隠された恐怖の姿を、あなたは知らない。その恐怖は、スフィンクスの後頭部を見ればわかる。見えるだろうか?闇の中に光る眼が。これがスフィンクスの真の表情。偽りのやさしさには、見方を変えれば恐怖の素顔が見えてくる。当然、ピラミッドもあるが、海外観光客の姿はない。渡航制限の影響は深刻だ。オアシスには、きのこも生育している。かたつむりまでいるのだから,水の心配はないのだろう。人はこの地を、草刈公園と呼ぶ。先ほど車を止めた場所は、愛知県知立市の福祉体育館駐車場。草刈公園とは名鉄の線路を挟んで隣接し、両者は地下道で結ばれている。スフィンクスの前の砂地を「砂場」と呼ぶ人もいる。怖いもの知らずの子供たちは、今日もスフィンクスによじ登り歓声をあげる。だれもスフィンクスの恐怖を知らない。恐怖は気付かなければ、恐怖にもなりえないのだろうか。恐怖は身近に隠されている。でも、それをだれも知らない。そのあせりに押しつぶされそうになりながら、見上げた空は青く澄んで美しかった。【 あかりをともせ! 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.03.08
コメント(54)
にほんブログ村 愛知県豊明市のコンクリート像、身代わり弘法の続きです。まずは、先回ご紹介できなかった像のご紹介から。二体の弘法大師像の像の間には、少女の像があります。いわくがありそうな少女像。一方の足が裸足なのにも、意味があるのでしょう。弘法大師が抱く赤ん坊、そして水子弘法の名称にも背景があるのでしょう。さらに御堂もあります。内部には、12体の弘法大師像。「身替り弘法」として説明の木板があります。木板には、この12体の弘法像が「江戸時代後期の瀬戸の名陶工 弘法善治」が製作した「千体弘法」の一部と記されています。木版の記載日は「明治9年4月吉祥日」。この「身替り弘法」が、本来の「身代わり弘法」だと思われます。では、コンクリート像は何でしょうか。それは傍にある2本の石柱にヒントがあります。2本の柱には、下記の記述があります。「毛受兄弟四百年祭に當 昭和五十七年四月 十五代毛受善市建也」「昭和五十七年癸亥年正月 初代毛受組建之」つまり昭和57年に、初代毛受組の毛受善市という人物が建てたとあります。毛受家の子孫は、多くが水野に改姓しています。そのため毛受は全国で1,200名しかいない姓で、そのうちの840名が愛知県在住です。特に豊明市には、毛受姓の方が多くおられます。善市という人物は、毛受兄弟の家系なのでしょう。では、コンクリート像の作家は誰でしょうか?像は昭和57年(1982年)製とあります。つまり作家は、後藤鍬五郎(1976年没)や浅野祥雲(1978年没)ではあり得ません。また、高見彰七とも作風が異なります。毛受組というのは建設業者。セメント会社も傘下にあります。作家は、毛受組の職人か、毛受善市自身なのでしょう。ただ作家が誰にしても、その技量はかなりのものです。これらのコンクリート像は、昭和57年の400年祭に、毛受組の作家が造った。そうですよね、弘法大師様。【前の記事】 毛受兄弟記念の謎のコンクリート像1【 戦国武将せんべい 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから >にほんブログ村
2021.04.26
コメント(52)
にほんブログ村 愛知県豊明市にある、謎のコンクリート像。それが身代わり弘法(水子弘法)です。大きな弘法大師。身代わり弘法と水子弘法のふたつの銘がありますが、一般的に言うと子安弘法でしょう。やや小ぶりな像もあります。生々しい顔つきです。謎なのは、傍の石柱に「毛受兄弟記念碑」とあること。毛受(めんじょう)兄弟は、柴田勝家の家臣。賤ヶ岳の戦いで、羽柴軍から敗走する柴田勝家。この際に、毛受兄弟は柴田勝家にフリをして、敵の注意を集めました、結果、毛受兄弟は討ち死にしますが、柴田勝家は逃げることができました「身代わり弘法」とあるのは、この逸話からでしょう。では、なぜ毛受兄弟記念碑がこの地にあるのか。このコンクリート像の作家はだれか。今日の2体以外にもあるコンクリート像の紹介も含めて、毛受兄弟記念碑と作家の謎を、次回考察してみます。【 鯉のぼりブッセ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2021.04.24
コメント(50)
にほんブログ村 光徳稲荷社の謎のお狐様の考察です。作者は後藤鍬五郎の可能性もあります。そこで関連する年譜を検討します。光徳稲荷社は、かつてこの地にあったマキノ中部撮影所の中にありました。この道徳の地にあった銭湯は、女優松原智恵子さんの実家でもあります。【年譜】1927年 マキノ中部撮影所が開所 「実録忠臣蔵」撮影開始 聚楽園の大仏開眼 (後藤鍬五郎 作) , ※光徳稲荷社は、マキノ中部撮影所で祀られていた1928年 マキノ中部撮影所 閉鎖 刈宿(常福寺)の大仏完成1929年 道徳公園のクジラ製作 (後藤鍬五郎 作) 道徳観音像 製作 (後藤鍬五郎 作)1943年 山神社現在地に移転 ※この際には、光徳稲荷社はマキノ中部撮影所跡地に残されていた●1975年 光徳稲荷社のお狐様の台座の年号1976年 後藤鍬五郎 逝去(85歳) 1978年 浅野祥雲 没ここで次の3点がポイントになります。光徳稲荷社は1927年にはあったこと。しかしお狐様の台座の年号は、1975年であること。光徳稲荷社が移設されていること。私の推察では、お狐様は1927年頃に作られ、台座は後か移設時に作り替えられたのではないかと思います。つまりお狐様の作者は、 道徳にゆかりが深い後藤鍬五郎氏ではないかと。[宝珠]台座の作り替えはしばしばありますが、皆さんは如何思われますか?【 前の記事 】 「光徳稲荷社の謎のお狐様1」・・・・・・・・・・・・・・・・【 「鬼滅の刃」画集 】 にほんブログ村
2021.03.27
コメント(48)
にほんブログ村 愛知県名古屋市南区 道徳公園傍の山神社。その境内社に、光徳稲荷社があります。そしてそこには、謎のお狐様がおられます。単純に考えれば、作者は後藤鍬五郎の可能性があります。近くの道徳観音と大くじらの作者が彼だからです。お狐様の台座には、次の文字が刻まれています。台座の年号は「昭和50年」です。息二村久和二村久一昭和五十年一月〇〇 (〇〇は読めません)狭くて撮影が厳しい。父二村久七息二村繁春この年号の解釈は厄介です。このお狐様の作者は誰か?次回、この点を考察します。【関連1】 道徳観音 (後藤鍬五郎 作)【関連2】 道徳公園の大くじら (後藤鍬五郎 作)・・・・・・・・・・・・・・・・【 おまもりマスコット 】 にほんブログ村
2021.03.25
コメント(50)
岡山県岡山市の最上稲荷山 妙教寺の仁王像の背面。そにも福崎日精の白狐像が2体あります。白狐「阿」金色の仁王像に対して、白狐は銀色です。白狐「吽」台座には「奉献 株式会社 寿屋 鳥井信治郎」とあります。鳥井信治郎氏は、サントリーの創業者。株式会社 寿屋は、サントリーの旧社名。最上稲荷はサントリーの地元にはありません。それでも信心深い鳥井信治郎氏は、白狐を 奉献されたようです。鳥井信治郎氏は1879年生まれ。福崎日精氏は1905年生まれ。仁王像と白狐像が仁王門再建の1958年とすれば、鳥井氏は79歳、福崎氏は53歳。円熟の期にあった福崎氏に、鳥井氏は信仰心の具現化を託しました。仁王門再建の4年後、鳥井氏は他界しました。そして作品を残した福崎氏は、仁王門再建の8年後、61歳で他界しました。神社仏閣の境内を見回せば、様々な人の生き様の一端を伺うことができます。・・・・・・・・・・・・・・・・【 狐 法被 】 にほんブログ村
2021.02.20
コメント(20)
岡山県岡山市の最上稲荷山 妙教寺。ここには、2体の仁王像があります。撮影時は知りませんでしたが、福崎日精(ふくざきにっしょう)という方のコンクリート像でした。仁王像を納める仁王門は、昭和33年に完成しています。金色の仁王像、足元にも金箔貼りのガラス製草鞋。これらをライトアップしているので、反射で写真写りが悪く、すみません。手前のガラスの写り込みもあります。福崎日精さんは、1905年生まれ。没年は1966年。謎の多い作家です。仁王様の足元の基台には、「奉納 サントリーホールディングス株式会社」とあります。本日は仁王様をご堪能ください。・・・・・・・・・・・・・・・・【 金パンダまもり 】 にほんブログ村
2021.02.18
コメント(12)
この東昌寺の道徳観音様には、苦難の歴史があります。かつて、名古屋市南区には、道徳観音山がありました。道徳観音山は、1932年にこの地に築かれた人工の山。道徳観音山には、高さ10mの滝やプールもありました。そして山の内部には、スケートリンクもありました。その南にあったのが、道徳公園でした。山頂には高さ6mの観音様、山の中腹には小さな観音様が複数ありました。いずれもコンクリート製です。「道徳観音山」(画像出典; http://blog.livedoor.jp/minami758/archives/2137533.html)1964年、山頂の観音様は観音山とともに撤去されました。中腹の小さな観音様は、1体のみが近くの寺院で保存されました。その観音様が、東昌寺の道徳観音様です。観音様の作者は、聚楽園の大仏などの作者、後藤鍬五郎。道徳観音山の跡地の大半は、今は住宅地に変わりました。ただひとり残された観音様は、どの様な想いでこの地をご覧になられていることでしょう。・・・・・・・・・・・・・・・・【 名古屋のお土産なら、なごやん 】 にほんブログ村
2021.02.05
コメント(18)
名古屋市南区の道徳公園。ここには大きなクジラ型のコンクリート製の噴水があります。これは1927年(昭和2年)製の後藤鍬五郎の作品です。ここは尾張徳川家から名古屋桟橋倉庫へ売却された土地。そこに道徳公園が作られました。クジラの背中のには噴水があります。子供たちが噴水のレバーを操作していましたが、水は出ないようでした。大きなクジラは子供たちに人気の施設です。写真の撮影直後にも、子供達が群がっていました。約100年、このクジラは、子供の人気者であり続けています。【後藤鍬五郎の作品】〇愛知県東海市 聚楽園 阿弥陀如来坐像「聚楽園 阿弥陀如来坐像」〇聚楽園 仁王像「聚楽園 仁王像」〇愛知県西尾市 常福寺 「刈宿の大仏さん」「刈宿の大仏さん」〇愛知県西尾市 焔魔堂 閻魔様「焔魔堂 閻魔様」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・※ くじら つながり【 ライト / スプーン 】 にほんブログ村
2021.01.08
コメント(17)
今日は”面白スポット”をご紹介しましょう。こちらは愛知県西尾市の閻魔堂(えんまどう)です。常福寺の「刈宿の大仏」から国道247号線に沿って、碧南市方向へ100メートルほどの場所にあります。この建屋の内部には「常楽院」と表示があります。そして入り口には、目を惹く鬼のコンクリート像があります。この鬼は、澤常吉という人の作品らしい。製作は昭和4年と伝わります。建屋の内部には、建屋一杯の大きさの閻魔様がおられます。こちらは知名度が高い後藤鍬五郎の作品と伝わります。そしてこの完成度が高い閻魔様の傍には従者が・・・・・・。従者はなぜかシェパードです。後藤鍬五郎は、以前にご紹介した刈宿の大仏の作者です。そして澤常吉は刈宿の大仏の世話人です。「刈宿の大仏」それにしても、2匹の鬼には独特の魅力があります。稚拙さがなんとも言えない愛嬌になっています。最後にもう一度、鬼をご覧ください。【 ねこカップ 】 にほんブログ村
2020.09.16
コメント(10)
これだけ大きいと迫力があります。子供を抱いた弘法大師様。この「●●弘法大師」様の「●●」が何かはご存知ですね。そうです。「子安弘法大師」様です。ここは、愛知県蒲郡市の弘法山 金剛寺。こちらの子安弘法大師様は、「三谷の弘法さん」とも呼ばれます。なぜか、にらまれている気がします。その表情では、抱いている子供が泣きますよ。全高約30m、台座約7m、身長18.78m、錫杖22mの弘法大師像。東洋一の大きさの子安弘法大師様です。電柱と比べると、大きさが分かるでしょうか。身長を18.78m(=62尺)なのは、弘法大師(空海)様の享年62歳にちなんでのこと。この像は、1938年(昭和13年)に開眼しました。これほどの巨像は、通常は足元が壁状の支えになっています。この弘法大師像の様に、2本の脚で自立している像は稀です。それにしても、愛知県民は巨像が好きですね。【巨象】にほんブログ村
2020.07.04
コメント(12)
全国的に有名なこの御方。サングラスがお似合いです。この大仏様は、愛知県江南市の御嶽薬師尊。奈良の大仏様よりも約2メートル高い、高さ18メートルの通称「布袋の大仏」です。布袋の大仏様は「サングラス大仏」として、メディアでも何度も紹介されています。江南市の広報にも登場する街の有名人です。木の陰になりますが、大仏様の背面は接骨院の建物と一体化しています。大仏様を建立したのは、接骨院の医院長。病を退ける御嶽薬師尊への信仰から、この大仏様を建立しました。私財を投じての、5年がかりでの建立でした。大仏様の背面には、鐘楼もあります。街中での大仏様の存在感は絶大。サングラスに見えるのは、名鉄犬山線の信号機。そのため、赤く色変わりもします。布袋の大仏様は街の人気者。その視線の先にあるものは、ぜひご自分でおたしかめください。【猫用】
2020.06.25
コメント(14)
姫路市、太陽公園「石のエリア」の石像の人気投票結果を発表します。★ 【第3位】は2件⑪ 憎めない顔の 「ミクトランテクートリ」 ミクトランテクートリ は、メキシコ、アステカ神話の「冥府の王」にして「死の神」。 死者の国、地底世界「ミクトラン」の支配者。 愛嬌がある顔ですが、怖い神様。 実は⑰と同じ神様でしたが、石像でイメージが違いますね。⑱ いけにえの心臓を入れる容器 「オセロクワウシカリ」 説明通り、メキシコの怖い容器。 細工が細かく、正統派の石像と言えるでしょう。★ 【第2位】⑥ やんちゃな 「オセロット」 アステカ神話のジャガー神。 動物好きの方に好まれそう。 南米に生息する肉食のネコ科のオセロットは、人間の乱獲で絶滅危惧種。★ 【第1位】⑧ ひょうきん顔の 「エヘカトル」 アステカ神話の「風の神」。 ケツァルコアトルも化身のひとつでもあります。 暗闇の星の魔物ツィツィミトルに、恋人マヤウェルを殺されてしまいます。 ひょうきん顔ですが、哀しい物語の主人公でもあります。★【番外】㉑巨大埴輪 兵馬俑の兵士との大きさについてご質問を戴きました。 次の写真をご覧ください。 埴輪の左に兵馬俑の兵士が見えます。 埴輪の大きさは7~8メートルはあります。 巨大埴輪は、実は私のお気に入り。 どうせなら「大魔神」にしたらというご意見もありました。 しかし、そこは著作権という名の、大人の事情があるのでしょう。【太陽公園の日記1】 「ノイシュヴァンシュタイン城をまねるなら」【太陽公園の日記2】 「人喰い熊、あらわる!」【太陽公園の日記3】 「いきなり凱旋門」【太陽公園の日記4】 「石のエリアは予測不能 (モアイ像)」【太陽公園の日記5】 「とりあえず作ってみた? (兵馬俑坑)」【太陽公園の日記6】 「ピラミッドぐらいでは驚かない(五百羅漢)」【太陽公園の日記7】 「なんでも2個造るのが好き」【太陽公園の日記8】 「人気投票します!」【これは何かおわかりでしょうか?】
2020.05.26
コメント(9)
姫路市の太陽公園「石のエリア」、最深部までやってきました。ここには東洋の建築物が並びます。例えば中国の天安門。天安門なら、あのお方の肖像画を掲げて欲しいところ。紫禁城は、中国の技術者が製作しただけあり細部も良い出来。ただ、中国の本家を見ているので感動はありません。さらに進めば、中国の双塔寺。なぜ双塔寺と呼ばれるのかは、寺の背後の景色に答えがあります。背後に塔が見えますね。双塔寺の名前のとおり、塔が2基あります。これほど大きな塔まで2基建てたことに私は驚きました。同じ物を2個作らないと気が済まないという”ルール”は、ここでも守られていました。塔を見るには、万里の長城を登らなくてはなりません。万里の長城は、滑り落ちそうな、とんでもない急坂です。入り口から右に登ると、頂上には見晴らしの悪い展望台があります。万里の長城を下り、鐘楼で鐘を撞きました。勢いよく鐘を衝いたら、鐘が割れるのではないかというほどの大音響。怒られるのではないかと、つい周囲を見回しました。石のエリアは広さ4万坪で、上り下りあり。(先日の日記で広さ3万坪と書きましたが、太陽公園のH.P.に4万坪とありました)万里の長城だけでも長さ2kmあると聞いていて、しかも足下が危ない急坂です。予想外に石のエリアで時間がかかり、まだ城のエリアを私は見ていませんでした。時間に焦り、疲れもあり、万里の長城は右方の頂上まで見て戻ることにしました。万里の長城は、まだ左に登るルートもあったというのに。万里の長城を右の頂上までで止めたこと。これが私の大失態。この結果、私は石のエリア最大の展示物、摩崖仏を見落としてしまいました。摩崖仏は高さ25mで、東大寺の大仏の1.7倍の大きさ。半彫の大仏では、日本最大の大きさです。 (画像: ウィキペディアより)摩崖仏の存在を知りながら見落としたのは、それだけ太陽公園のスケールに圧倒されていたということでしょう。最後に、皆さんにアドバイスを。城エリアで岐路に付こうとした時、ひとりのツアー観光客の男性に会いました。帰りのバスへ向かうその男性は、石のエリアが見れなくて残念と言っていました。ツアーでは、石のエリアは別料金と聴かされていたそうです。しかしそれは間違いです。太陽公園は、石のエリア、城のエリア、モノレール、全て共通の入場券で大人1,300円です。時間がないため、ツアー観光の運営者は城エリア限定としたかったのでしょう。城エリアは内部にトリックアートの展示があり、くるみ割り人形も見ることができます。それでも太陽公園の本当の面白さは、石のエリアにあると私は思います。白鳥城は工費40億円ですが、残りの工費120億円は石のエリアなどに使われています。皆さんが健脚で、面白く太陽公園を堪能したいなら、私は石のエリアをお勧めします。【太陽公園の日記1】 「ノイシュヴァンシュタイン城をまねるなら」【太陽公園の日記2】 「人喰い熊、あらわる!」【太陽公園の日記3】 「いきなり凱旋門」【太陽公園の日記4】 「石のエリアは予測不能 (モアイ像)」【太陽公園の日記5】 「とりあえず作ってみた? (兵馬俑坑)」【太陽公園の日記6】 「ピラミッドぐらいでは驚かない(五百羅漢)」【これも2個】 にほんブログ村
2020.05.09
コメント(12)
太陽公園で驚いた石造物のひとつ。それはピラミッドではありません。姫路市の太陽公園「石のエリア」では、ピラミッドに存在感はありません。小さなスフィンクスが2体、まるで狛犬の様にいる違和感があったとしても。ピラミッドは当然、内部にも入れます。器の中には、お賽銭。ピラミッドにお賽銭を入れることには、違和感がありますが。予想外の規模で驚いたのは、その隣の丘。丘の上には鶏足寺が再現され、石像の五百羅漢が並びます。大きな羅漢様が丘を埋め尽くしています。鶏足寺はかつて姫路にあり、豊臣秀吉の中国攻めに反対して滅ぼされました。個々の羅漢様をゆっくりと見たいですが、あまりの数に諦めます。羅漢の丘の下や、向かって右にはレリーフが並びます。このレリーフは、なかなか面白い。五百羅漢をもう一度見たいとも思いましたが、もう一度坂を上る気にはなれませんでした。また機会があれば、ゆっくりと見たいものです。この先には、さらに驚きがありました。そこで私は大失態をすることになりますが、それはまたのおはなしで。【太陽公園の日記1】 「ノイシュヴァンシュタイン城をまねるなら」【太陽公園の日記2】 「人喰い熊、あらわる!」【太陽公園の日記3】 「いきなり凱旋門」【太陽公園の日記4】 「石のエリアは予測不能 (モアイ像)」【太陽公園の日記5】 「とりあえず作ってみた? (兵馬俑坑)」にほんブログ村
2020.05.05
コメント(12)
石像が並ぶ通りを奥に進みます。多数の石像を御紹介したいのですが、ここは我慢しましょう。本日は、姫路市の太陽公園「石のエリア」で有名な展示のひとつを御紹介しましょう。それは、あの中国の兵馬俑坑です。ここには1000体の像で兵馬俑坑が再現されています。設置場所は3ブロックに分かれ、これは左端のブロック。これは中央のブロック。兵馬俑は素焼きの陶器製で、中国で製造してここまで運びました。大きさも実物大とのこと。馬も再現されています。太陽公園らしいこだわりは、右端のブロックに見られます。兵馬俑が壊れている?実は意図的に壊しています。兵馬俑坑が発掘された時の状況を再現しているのです。見事なこだわりですが、この暴走を許して良いものでしょうか?皆さん、お忘れかもしれませんが、ここは「石のエリア」です。石のエリアに1000体の”陶器”の像。まるで「西洋容器を求めて」という名のブログで、”石像”を取り上げるのに匹敵する暴走ぶりです。それともこの陶製の兵馬俑は、私のブログへの配慮でしょうか?しかし、皆さんご安心ください。外には、(あまった)石製の兵士像が無数に並んでいます。ここにも、(作りすぎた)兵士像。こちらにも、(置き場所に困った)兵士像。あちらにも、(ここならごまかせそうと)兵士像。そちらにも、(それらしく置いてみた)兵士像。すぐそばにも、(とりあえず並べた)兵士像。写真、撮り飽きました。太陽公園、ここまでは想定内。さて、事前情報があっても愕然とした、真の太陽公園はこれからです。【太陽公園の日記1】 「ノイシュヴァンシュタイン城をまねるなら」【太陽公園の日記2】 「人喰い熊、あらわる!」【太陽公園の日記3】 「いきなり凱旋門」【太陽公園の日記4】 「石のエリアは予測不能」【電子書籍】 にほんブログ村
2020.05.01
コメント(13)
姫路市の太陽公園「石のエリア」。入口の凱旋門をくぐると何が見えるでしょう。自由の女神でしょうか?違います。自由の女神は、もう少し奥にあります。凱旋門から見えるのは、モアイ像に決まってます。当然ですね。11体のモアイ像の傍には、済州島のトルハルバン。10体以上、あちらこちらにあります。その傍には、メキシコのオルメカヘッドが幾つもごろごろ。そして必然的に、チャックモールもあります。これはマヤ文明のチチェン・イッツァ遺跡のチャクモールですね。なぜかおなじものが2体ずつあります。これはアステカのチャックモール。文明による、チャックモール違いが分かってお得です。どれも同じものを2体は作らないと満足できないようですね。心臓は1個しかないのに。はい、これもマヤ文明のチャックモール。ちょっとこれは出来が悪いかな。やはり2個あるけど、心臓は捧げませんよ。モアイ像の背後に、廃墟が並ぶ上り坂があります。では、いきなりルートをそれて上りましょう。坂を上り、右の林に向かうとケツァルコアトルの神殿。だれがこんな場所を見に来るでしょうか。(私は除いて)坂を下りて、モアイの背中に哀愁を感じつつ、正規ルートへ戻りましょう。では、これから石のエリアが始まります。もう、疲れた?何をおっしゃいますか。まだ石のエリアを1000分の1も見ていませんよ。【太陽公園の日記1】 「ノイシュヴァンシュタイン城をまねるなら」【太陽公園の日記2】 「人喰い熊、あらわる!」【太陽公園の日記3】 「いきなり凱旋門」【楽天】 にほんブログ村
2020.04.29
コメント(10)
エリアの入り口から、いきなり凱旋門です。これは兵庫県姫路市の太陽公園「石のエリア」。私が太陽公園で期待していたのは、この石のエリアです。入り口から漂う無秩序感。御紹介にも悩みます。ですので、まずは次回は、日記更新では別の話題にしましょう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この土日、自宅のネットが不通となっていました。初めはサーバートラブルかと思っていましたが、原因は光ケーブルのつぶれ。屋内にいる時間が増えて掃除をした際、家具でケーブルを押しつぶした様です。慣れないことをすると、思いがけないことも起きます。この警戒下で、すぐに修理対応くださったメンテナンス対応の方。お仕事を増やしてしまって、すみませんでした。【楽天】
2020.04.20
コメント(11)
その熊は人喰い熊と呼ばれ、恐れられていました。真っ赤な口、口元や前足に生えた赤毛。その見た目の怖さが呼び名の由来でしたが、実は優しい熊でした。熊は孤独でしたが、誰もが彼を見ると逃げてしまいます。そんなある日、お城の傍で大きなトナカイに出会いました。その大きなトナカイは、お城のふもとの町の警備員でした。トナカイは、熊に言いました。「きみは強そうだから、いっしょに町のみんなを守ってくれないか?」町のみんなも出てきて、熊に町を守ってほしいと頼みました。家族連れからもお願い。仔象からもお願い。夫婦の象もお願い。熊はためらいましたが、おためしにならとトナカイたちの申し出を受け入れました。町のみんなは彼を受け入れ、熊の友達も増えました。さあ、お祝いです。でも、みんな、はしゃぎすぎないでくださいね。・・・・・・この動物たちも、兵庫県姫路市の太陽公園「城のエリア」にいます。この展示物の無秩序ぶりは、私は嫌いではありません。【太陽公園の日記】 「ノイシュヴァンシュタイン城をまねるなら」【楽天】 にほんブログ村
2020.04.18
コメント(10)
この城は太陽公園の白鳥城です。白鳥城は兵庫県姫路市にあります。太陽公園には「石のエリア」と「城のエリア」があります。白鳥城は城のエリア。太陽公園は敷地面積3万坪、総工費160億円。白鳥城にも工費40億円がかかっています。モデルは、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城。城の内部にも入れます。城のテラス部も綺麗です。内部は7階建てです。太陽公園は、愛光社会福祉事業協会が運営する障害者の雇用の場でもあります。協会の理事長であった門口堅藏氏の力で開設されました。この太陽公園のご紹介は長くためらいました。私好みのコンセプトの公園ですが、見れば見るほど違和感が増してくるからです。例えば次の写真をご覧ください。撮影時には気づきませんでしたが、バルコニー下部に妙なものがあります。左から6つ並ぶ人物の顔。実はこれ、元理事長の門口堅藏氏の若い頃からの年齢別の顔です。私はこれに気づいた時、寒気が走りました。一見、太陽公園は愛好家の建造物に見えますが、これはそうではないことを示しています。本家、ノイシュヴァンシュタイン城のバルコニーを見ましょう。(出典: https://osmo-edel.jp/column/1775-2/)城愛好家のルートヴィヒ2世は、彫刻でバルコニーを飾りました。この素晴らしい彫刻をモデルにした時、愛好家ならレプリカに自分の顔を刻みはしません。それでも、そこには忘れてはならない事実があります。門口堅藏氏は太陽公園を造り、障害者の雇用の場を生み出しました。一方でルートヴィヒ2世はノイシュヴァンシュタイン城を造り、国家財政を破綻させかけました。この事実の対比が、社会の深奥を見せるようで、私はたまらなく嫌なのです。【楽天】
2020.04.16
コメント(13)
あるところに、背の丈が1メートルはある大狸がいました。大狸が住む森に、その大狸より大きな狸はいません。大狸は森の主として、森の狸たちを従えていました。ある日、大狸は、遠征に出かけることにしました。となりの森の狸たちも、自分に従わせようと思ったからです。意気揚々と出掛けた大狸。しかし、その森で、大狸は驚きました。大狸の前に現れたのは、その大狸以上に大きな狸。背の丈で5.2m、胴回りは8mもある超大狸でした。大狸は知りました。世の中には、さらに上があるということを。とてもかなわない。そう悟った大狸は、すごすごと自分の森に帰ってきました。遠征地で、大狸が出会った超大狸は、愛知県高浜市の大山緑地にいます。その狸の胴回りは、陶管製としては日本一と言われます。遠征した大狸がかなわなかったのは、仕方がないことでしょう。超大狸は笠を被り、左手で背に徳利を背負い、腰の右に通い帳を下げています。建立は昭和39年とのことですが、通い帳には昭和38年とあります。製作年は昭和38年なのでしょう。冒頭と最後の狸も、大山緑地にいます。タヌキやその道具には、次の意味があります。タヌキ: 「他を抜く」意味から、商売繁盛の縁起物笠 : 災難避け徳利 : 人徳通い帳: 信用第一超大狸は、きっと日本一の縁起ものなのでしょう。大山緑地は、桜の名所でもあります。今頃は、とても桜が綺麗なことでしょう。【楽天】にほんブログ村
2020.04.06
コメント(12)
にほんブログ村 いよいよ、刈宿の大仏様の内部へ入ります。入ってすぐには金色の阿弥陀様。左右に階段があります。胎内窟かと思いきや、意外に内部は明るい。電灯ではなく、太陽光の明るさです。フラッシュなしで撮影可能な明るさ。見上げると、大仏様の内部が見えます。写真の左が大仏様の前面。写真右の大仏様の背面側には、明り取りの窓があるようです。こうしてみると、大仏様がコンクリート造りとわかります。参拝者も少なく、落ち着ける場所でした。ゆっくりと、大仏様と語り合ってみては如何でしょうか?【日記】 「この大仏様はどちらのおかた?」【楽天商品】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2020.02.15
コメント(12)
こちらのおかたをご存知でしょうか?座高は7メートル、台座を含めて全高14メートル。褐色の端正な御姿。昭和3年生まれのコンクリート造りです。この御方は、愛知県西尾市の常福寺におられます。地元では「刈宿の大仏さん」と呼ばれているとか。海に向かって鎮座されています。露天の大仏で、光背があるのは珍しいそうです。大仏の下の入り口が気になりますか?実は大仏内部に入れます。内部の御紹介は次回で。【楽天商品】
2020.02.13
コメント(9)
巨大なワンちゃんに出会いました。場所は名古屋市昭和区白金の若葉児童遊園地です。児童遊園地なので遊具と思われるでしょう。しかし、そうではありません。後ろから見るとわかります。入口があります。「白金消防団詰所」と表示があります。建物らしく反対側には窓もあります。このワンちゃんに出会いたい方へ。公園名では場所が検索できないかもしれません。「昭和消防署白金出張所」の隣で検索ください。子供たちに愛されそうなワンちゃん。とても素敵な建物です。【楽天商品: おもちゃ大賞受賞】にほんブログ村
2020.01.08
コメント(12)
にほんブログ村 この大仏様「北の大仏」があるお寺。それは先の日記でご紹介した、名古屋市の久国寺から徒歩数分の普光寺です。大仏は黄金色、緑の螺髪と、本来の大仏様の姿をしています。これで髭を生やせば、建立当時の奈良の大仏様の姿になります。普光寺は見所が満載。その一部を紹介しましょう。小さな石仏も。この石仏は造形が面白い。愛知県も見ごたえがある寺院がありますね。 【楽天商品: 2020年イヤープレート】 にほんブログ村
2019.12.09
コメント(15)
全40件 (40件中 1-40件目)
1