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フィンランド、まずはヘルシンキから再来年でなく、来年行こう、と思った
2012年04月30日
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歩きながら、できるだけ言葉を頭に流さないようにしたり、料理しながらできるだけ言葉を頭に流さないようにしたり、たんにすわって目を閉じ、できるだけ言葉や映像を頭に流さないようにしたりしているのだけれど、こうした試みは「目の変化」がどうのこうのは置いといて(何かしら関係あるとは感じていますが)、精神(心身)状態安定化にはかなり有効と感じます。
2012年04月22日
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そうだろうな。はじめからわかりきったことだった。ロープウェイに乗ってわざわざ地下劇場までやってくるNさんがそうそう何人もいるわけがない。それどころか僕は、ほらほらあなたですよ、あなたが呼ばれているのですよ、と人から念をおされるのを、なんとはなしに待っているのだろう。『お呼び出しいたします。Nさん、Nさん、至急、舞台まで』「ほらほら、あなたのことですよ、Nさん」(ああ、やっぱり…)「たとえそうとしたって、どうやってあそこまで行くのです? 泳ぐ(クリックしてね)のですか?」
2012年04月19日
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ふいに背中をつつかれ、やや驚いて振り向くと、僕をこの街に招待した人がすわっていた。「どうしてこんなところにいるのです?」「どうしてって、私はここに住んでいるのですよ」「ああ、そうでした…」「それより、呼び出されているのはあなた、Nさんですよ」 ああ、そうだろうな…ロープウェイでここまでやってくるNさんがそうそう何人もいるわけがない。
2012年04月12日
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2012年04月12日
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マントラとか唱えるとかいうのも、ある種の効果はあるのだろうけど、それは夢中で何かを(夢中で本を読むとかゲームをするとか)していて、(それをしている間は)それ以外のことは考えられない、という状態と大差ないような気がします。それだと、言ってみれば「言葉で言葉を隠している」みたいな状態なのでは?「考えない」というのは、とにかく言葉を抜いてゆく作業で、心身の使い方が「考えられない」とは異質なんだと感じます。
2012年04月09日
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最近、「頭に言葉が流れるのを消す」「目を閉じ、映像が浮かぶのを消す」のが上手になってきた。じっさいにすっかり無念無想になるわけでなく、無念無想になろうとする努力が、考えるのが習慣になっている心身に大きな負荷をかけ、別の世界(この世界を言葉でとらえる割合を減らし、この世界を感覚でとらえる割合を増やすことによって出現する世界)への扉をがちゃがちゃさせる。そして、やがて努力感が失せてゆく…どうしてここにきて上手になってきたの?そいつはたぶん、来年4月からフリーターになると決めたことで心身に余裕ができて、さあ、いまから考えないぞ、という「考えないための時間」を多く持てるようになってきたからではなかろうか。まあね、上手になった気がするだけかもしれないけれど…
2012年04月07日
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『お呼び出しいたします。Nさん。あなたが来られていることはわかっています。準備は整っておりますので、舞台まで』 どうしてNさんはぐずぐずしているのだろう? たとえば僕がNさんだったとして、舞台に行くつもりなのにぐずぐずしているとしたら、どういう理由からだろう? 水面に浮くガラスの舞台がきらめいている。ああそうか、Nさんは、プールのまんなかまでどうやって行けばいいのかわからないのだ。 水面が揺れる。
2012年04月01日
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