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ほんとうのことを知るほんとうのことを知る、というのは、知識として知る、ではなく、知恵として知る、でもなく、知覚として、ありありと知る、ことになる。なので、ほんとうのことを知ったとき、ほんとうに知ったのかどうか、迷うことはない。
2022年03月01日
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「世界」という言葉と世界自体は別だし、「意味」という言葉と意味自体は別だし、「別だし」という言葉と別だし自体は別だし、「言葉」という言葉と言葉自体は別だし、「自体」という言葉と自体自体は別だし…ということに気づくことは、世界が変わるくらいすごい発見である。
2020年10月26日
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「自覚」というのを、感覚を自ら楽しむ、ととらえてみる。生きてる間しか感覚を楽しめない。生きてる間しか「自覚」できない。
2020年04月06日
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まったくのすべてが、どんな物事にせよ、(いしきできるのは)じつに、生きてる間だけの出来事なので、それはもう、なんというか、まったく!
2020年02月20日
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私以外の何かにとって、私の何らかの行為が有用であれば、私は何かにとって役に立っている。楽しめる文章を読んだり書いたりするのは、有用と思う。もし、このブログに似た文章を見つけたら、ぼくはその文章を楽しむだろうから、その文章を書いているひとは、ぼくの役に立っている。なので、ぼくがこうして書いていることはぼくじしんの役に立っているばかりでなく、誰かの役に立っている、と思う。
2014年04月26日
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いま何をしているのかに気づけば、次に何をするかをそこそこ選べる。いま何を考えているのかに気づけば、次に何を考えるか(考えるのをやめようと試みるか)をそこそこ選べる。
2014年04月16日
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「不思議でない現象などありえない」というあきらかさに気づけば、「不思議でない現象などありえない」ことに気づかないでいることの不思議におどろく。
2014年04月13日
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「空間」という言葉と「空間そのもの」とは別である。「時間」という言葉と「時間そのもの」とは別である。「言葉」という言葉と「言葉そのもの」とは別である。「そのもの」という言葉と「そのもの、そのもの」とは別である。「別である」という言葉と「別である、そのもの」とは別である。(言葉は言葉である)(それはそうとして)我々の深層は、いわゆる「空間」「時間」の中で生きているわけではない、としてみる。我々の深層は、科学的空間・社会的空間の中で生きているわけではない、としてみる。我々の深層は、科学的時間・社会的時間の中で生きているわけではない、としてみる。我々の深層は、いわゆる「空間」「時間」という、ひろがりの中で生きているわけではない、としてみる。我々は、なんというか、大きさも位置も測定できない「点」として生きている。
2011年10月23日
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本気で客観的な立場に立つなら、人(わたし/あなた/わたしたち)の一生と、ゴキブリの一生と、素粒子の一生(そんなものがあるとして)と、似たような現象である。そういった現象において、何をしようが、何が起ころうが、優劣は無い、というか、どうでもいい、というか、どうなってるのかわからない。しかも、「自分なんてほんとは無いんだよ」とか「自分なんて幻に過ぎないんだよ」とか、あれこれささやかれるなかで、にもかかわらず、『生きている間、命をかけて楽しむ』というゲームは、誠実に取り組まないと、せっかく、偶然、必然、奇跡的に生きてるのだから、ぼんやりしてたらもったいない、と、ぼくはほんとうに、まじめに思うのです…
2011年09月20日
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「神」が神秘なのは、「石」や「水」や「体」が神秘なのと同様だ。「石」や「水」や「体」が言葉でできていない(存在は言葉でできていない)ように、「神」も言葉でできていない。存在は言葉でできていないということの、途方もない驚き!
2009年06月30日
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詩や小説、いや批評思想読書感想文ブログ含めて、文章は書いた人の病歴ではなかろうか。このブログはぼくの病歴…
2009年04月05日
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たったいま自分が消えても何ひとつ問題はない。生きていることをめぐって考えるのも死をめぐって考えるのも自分なので、自分が死んだなら考えることもない。考えなければ問題はない。自分はいずれ確実に死ぬのだから、生きている間に起こっていることは問題ではなく奇跡である。
2009年01月18日
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見れば、空(くう)と気づく可能性が出てくる。空と気づくまで、観察する。言葉抜きで観察する。頭の中の映像抜きで、頭の中の音声抜きで、見る。
2009年01月06日
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「いま、この瞬間」というのは、時間ではない。もしかしたら、現象でもなく、存在でさえない。「いま、この瞬間」は言葉にするなら「奇跡」としか言いようがない。
2009年01月02日
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存在は濃く、言葉と言葉の組み合わせは…
2008年12月06日
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ふと、答だけがはっきりわかる。だけど、そこで、解法に思考を向けると、わからなくなる。
2008年10月14日
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「あるがままのもの」というのを、これまで「いろんな思惑つきのあるがままのもの」という、言わば否定すべきものとしてとらえてきました。なので、「幻想だらけのあるがまま」でいいわけがない、そのようなくだらない「あるがままのもの」をしっかり見つめることによって、「あるがまま」がいつのまにやら変化していく、と思っていました。 ところが、「幻想のないあるがままのものは神である」、という引用(クリシュナムルティ)を和。。さんのブログで読んで、おお、なるほど、「あるがままのもの」とは「存在のひろがり」のことだったのかと、びっくりしました。 和。。さん、ありがとうございます。
2008年10月05日
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「ぼくは天使だ」と言ってたら、弟子に「言ってること、わかりますけど、ぜんぜんイメージちがいますよ」と言われた。「じゃあ何?」と尋ねたら、「石ころ、ですね」 なるほど…道元さんと同じようなこと言ってるじゃないか…道元さんの表現だと「土壁瓦礫」かな(ちょっと文脈はちがってそうだけど)…弟子は道元さんなんて読んでない(たぶん)はずなのに…さすが弟子、するどい!
2008年09月30日
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「この世界」には「はんぶん人間はんぶん天使」として生まれるんだろう。
2008年09月29日
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物や言葉に恋するように、出来事に恋をしてしまえば…出来事は瞬間ごとに起こってて、これはちょっとついてくのがたいへんだけど…たぶん瞬間ごとであってしかもひとつ(永遠)としてとらえる、といったようなところ…
2008年09月29日
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身心はとらえようによっては、穏便な表現を使わなければ、化け物である。
2008年09月24日
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「あなたの目の変化」の鍵は誰が持っているのかというと、あなたが持っている。あなたの心の奥深くに潜ってゆけば、ふと、そこにある。 あなたの外側の世界を探したって見つからない。見つけたと思っても、それは、あなたのための鍵ではない。「目の変化」が起こった「ある人の鍵」が外側の世界に落ちていたとしたって、その鍵はその人のための鍵でしかなく、その鍵であなたの扉はひらかない。 だから、心の奥深くに潜ってゆく、自分に向いた方法を探すことになる。
2008年09月09日
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自分がたまたま人であることに気づいたときの驚き!自分がたまたま生き物であることに気づいたときの驚き!自分がたまたま物体であることに気づいたときの驚き!
2008年04月27日
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今ここが原風景であるので、今ここにしか原風景はない。 それは、はじめて目をひらいたときの光景であり、さいごに目をとじるときの光景である。
2007年05月30日
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原風景というのは、過去のある印象的な場所や気配の記憶というふうに捉えてしまいがちだが、じつのところ、たった今、目の前の場所を、心をこめて言葉抜きで努力せず見れば、いつでもどこでも、「ここ」が原風景である。 幼いころのあの懐かしい空間は、たった今ここにひろがっている。
2007年05月12日
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「私」「=」「瞬間」「脳」「知覚」「認識」「言葉」もまた、言葉であり、あらゆる言葉と同じく、言葉の「指し示しているもの」とは異なっている。 そして、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】の本質もまた、あらゆるものの本質同様、たとえば、何でもいいのだけれど、たとえばボールペンの本質同様、たとえば空腹感の本質同様、「奇跡」である。 「私=瞬間ごとの脳の知覚/認識」と考える瞬間、「(私=瞬間ごとの脳の知覚/認識という思い)=私」であって、それよりほかに、「私=瞬間ごとの脳の知覚/認識」について考えている「私」はいない。 上記の文章をまとめてA とする。 すると、「A」と思う瞬間、「Aという思い=私」であって、それよりほかに、思っている「私」はどこにもいない。
2006年12月14日
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あるとき「奇跡」が起こるわけではない。 起こっていることがすべて「奇跡」である。
2006年12月13日
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「私の世界」は「私の言葉」が作る。「あなたの世界」は「あなたの言葉」が作る。「Aさんの世界」は「Aさんの言葉」が作る。 だけど「誰のものでもない世界」は「誰かの言葉」でできてはいない。「誰のものでもない世界」ではひたすら光が降りそそいでいる。「言葉」が落ちれば、それはそこにある。
2006年12月12日
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『考えていては見えない』「見る」というのがある全体的な状態を指すにせよ、視覚で色形を見る場合でも、考えていては素直には色形が見えない。 色形を素直に見ている瞬間、考えてはいない。『見ているときには考えていない』
2006年12月08日
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「何かをしている僕」はつねに虚しい。 ところが、「僕がしている何か」に囚われなければ、「僕」と名づけず、「何か」と名づけなければ、たった今ここで起こっている現象は、ときめきをもたらす。
2006年12月07日
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たった今ここは、いつも新しい。 【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】は、いつも新しい。
2006年12月06日
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起こっている現象すべてが私である。 しかも、 起こっている現象は私ではない。
2006年12月05日
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自然の美しさを強調する人はたくさんいるけれど、自然はもちろんのこと、人工物だってじつに美しい。 見れば美しい、というんじゃなくって、見られている物はすべて見ているわけで、見てたり見られてたりじゃなくって、【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】だし、なんというか、生きているのは途方もない現象です。 個人的には、本来自然しかなく、自然物が作った物もまた自然物であり、人は自然物であり、人が作った物もまた自然物だと感じています。
2006年11月19日
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言葉(時間)の側に立たない「とき」を、言葉の側で暮らしつつ、ていねいに組みこんでいくこと。 結局のところ、時間はすべて失われるのだから。
2006年11月17日
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起きている間は覚醒しているよう試みること。 たった今にいつづける(たった今の変化にずっとついていく)ことなんてできない、と考える余裕があるくらいなら、そんなふうにたった今から目をそらす余裕があるくらいなら、たった今にいる試みをつづけてみること。 過去や未来について考えているのもまた、たった今考えているのだから、過去や未来の場所に立って考えるのではなく、たった今ここで考えること。 たった今ここで考えることによって、考えから自由であること。 と、たった今ここで、言い聞かせています。 たった今ここにいれば、物はきれいで、色は鮮やかです。
2006年11月15日
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虚無感というのは、物事への意味付けを苦しんだり楽しんだりしているとき、何らかのきっかけで、それまでの意味付けに実感が持てなくなったとき、起こる。 そして、せっかく意味付けが止まったのに、また別の意味付けできそうな物事を探して虚無感から抜け出そうとして、虚しさを繰り返す。 どうせそのうち、意図しなくても、何かに意味付けしてそれに実感を持ってしまうのだから、せめて意味付けの落ちているうちは、意味付けの落ちた世界の、意味付けの落ちた人生の、途方もない豊かさ、美しさに、うっとり溶けていよう。
2006年11月14日
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しんどくて、しかも「しなければならないこと」がないにもかかわらず、そして横たわることによる不都合がない状況であるにもかかわらず、横たわることを怠けて、ついつい「しんどくなければしたいこと」をしてしまうことによって、心の静けさを見失っている、という状況に気づくこと。
2006年11月13日
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「時間からの自由」というのは、夢中で何かをしていて時間を忘れている、という状態のことではなく、「何時までに何々をする」「何時にある場所にいる」という予定があっても、そのことが「たった今ここ」を妨げない状態なんだろう。
2006年11月12日
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たった今の状況Aにおいて「Bをしよう」と思う。 じっさいに状況Bになるかどうかは、どちらでもいい。 避けたいのは、BにこだわることでAを見失うことだ。 結局のところ、たった今の状況Aしかなく、BもまたAなのだから。
2006年11月11日
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「僕は色形である」とか「僕は音である」とかだと、感情抜きですんなり入れるのだけれども、「僕は思考である」となると、「思考」という言葉はどうしても感情を呼びこむので、ぎこちなさ(自我)が生じる。 それに、「思考」と呼ぶと、なんだか偉いことのように妄想してしまう。 だったら、思考は言葉でできているんだから、「僕は言葉である」という表現にしてしまえば、思考という言葉を使うことによって何となく物事が複雑に精密に妄想されて「偉そう」になる前に、ぎこちなさ(自我)を落としやすくなる。
2006年11月08日
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思考があるとき、私は言葉であり、「私=言葉」は迷うか遊ぶ。そして、たんに遊んでいる状態はまれである。【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】「思考があるとき、私は言葉であり、「私=言葉」は迷うか遊ぶ。そして、たんに遊んでいる状態はまれである」と思う瞬間、「思考があるとき、私は言葉であり、「私=言葉」は迷うか遊ぶ。そして、たんに遊んでいる状態はまれである、という思い=私」であり、それよりほかに、それについて考えている「私」はどこにもいない。
2006年11月06日
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私は色形ではない私の色形なんてどこにも無い色形に見とれる私は音ではない私の音なんてどこにも無い音に聞き入る私は言葉ではない私の言葉なんてどこにも無い言葉で遊ぶ
2006年11月05日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】私は色形である。色形が悩むことはない。私は音である。音が悩むことはない。そして、ここが最高のポイントなんだけれども、私は言葉である。言葉が悩むことはない。
2006年11月04日
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「気づく」というのは、森羅万象の教えを聞くことである。 なので、「気づき」が法悦をもたらす。
2006年11月01日
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気づく試みをしているうち、気づきの仕組みにも、いっそう気づいていく。 気づきの仕組みといっても、「たんに気づいている」というだけ(もちろんこの単純さを把握するのが難しいのだけれども)のことである。 気づきの仕組みがそれなりに身にしみてくると、やがて、気づいているうち恍惚感がやってくる。 体調がよければ、気づきと恍惚感は同時である。 そのためにも、充分な睡眠、適度な運動、暴飲暴食をしないこと、といった生活が必要なんだろう。 恍惚感が目的ではないにせよ、恍惚感は、日常生活を元気に生きるエネルギーを与えてくれる。
2006年10月31日
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僕たちは、ほとんどの場合、相手が目の前にいる瞬間、目の前にいる相手に気づいていない。 相手の過去の言動やイメージを持ちこんで相手を判断してしまい、目の前の相手に気づいていない。 反省するに、僕自身、その瞬間目の前にいる相手に、いかに気づいていないかは、ひどいものである。
2006年10月30日
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ある泥棒がいて、ナーガールジュナ/龍樹に、「自分は泥棒なのだが、真理を教えてほしい」と頼んだところ、「ずっと気づいていなさい。泥棒をしているときも、そうでないときもずっと、心の動きや外で起こっていることを観察し、気づいていなさい」と教えてくれて、泥棒は半信半疑ながら試してみたところ、いつのまにやら泥棒することができなくなってしまい、そのかわり、ある種の法悦を得てナーガールジュナに弟子入りした、というような話を読んだことがあるのですが、読んだときには、何だかとても面白い話ではあるけれども、いったい何が言いたいのか、不思議な気がしたものでした。 今考えてみると、ナーガールジュナは泥棒に瞑想を教えていたわけで、それに、その泥棒もまたすごい泥棒で、というより、ナーガールジュナに話を聞きに行った時点でもうすでに生き方の変化を求めていたわけでしょう。 僕たちもまた、ナーガールジュナに、「自分は何々なのですが、真理を教えてほしい」と頼んだなら、「何をしていてもいいけれども、ずっと気づいていなさい」と教えてくれるのでしょう。
2006年10月29日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】 見ているわけではない。 色形が私である。 見ている私はいない。 聞いているわけではない。 音が私である。 聞いている私はいない。 考えているわけではない。 言葉が私である。 考えている私はいない。
2006年10月24日
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【私=瞬間ごとの脳の知覚/認識】 死について考えているときもまた、その瞬間、「死について考えている」という「知覚/認識」だけがあるわけで、ようするに、「Aについて考えている」瞬間、その「A」がその瞬間、「死」だということだ。「死」も「机」も「水」も「青」も「無」も「すべて」も平等である。
2006年10月23日
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脳は「知覚/認識」をもとにした「実感」を作り出す。 そこには、瞑想的でない「実感」があり、瞑想的な「実感」がある。 瞑想的な「実感」というのは、「気づき」によって作り出せる。 人生を楽しむため、どちらの「実感」も使えばいい。 ただ、「実感」を変えれるという「実感」は、自分で実験して確認してみないことには納得できない。
2006年10月21日
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