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(ベルリン終戦日記/ある女性の記録:山本浩司(訳):白水社:p54)より引用『一九四五年四月二十五日、水曜日もう一度思い出してみよう。午前一時ごろ、地下室から二階に上がり未亡人のソファーに倒れこんだ。急に激しい爆撃の投下がはじまり、高射砲が猛り狂う。私は様子を見ることにする。とても眠くて何もかもがどうでもいい。窓ガラスはまっぷたつに割れて、焼け焦げた異臭のする風が吹き込んでくる。』
2009年11月25日
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(ベルリン終戦日記/ある女性の記録:山本浩司(訳):白水社:p54)より引用『地下室は薄暗い。石油ランプがくすぶる。暗がりでうっかり頭をぶつけないように、目の高さのところで梁の周囲に塗られた燐が緑色に輝いている。新しい一員が加わった。書店主の夫婦がカナリアを持ち込んできたのだ。タオルで覆われた鳥かごが向うの梁にかかっている。外では銃声、内は静か。みんなうとうとしているか、眠り込んでいる。』
2009年11月11日
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(ベルリン終戦日記/ある女性の記録:山本浩司(訳):白水社:p51)より引用『爆弾が地上に炸裂する音が絶え間なく轟きはじめた。私はすっかり戦争を忘れ去っていた。そもそも私の頭は奇妙なくらい空っぽだった…こう書いた瞬間に私はびくっとさせられた、近くで何かが落ち、窓ガラスがガシャガシャーンと音を立てて割れた。食べたばかりなのに、またひどい空腹感が私を苦しめる。何か噛むものが欲しい。ミルクのない乳飲み子はいったい何を食べさせてもらっているのだろう?』
2009年11月08日
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(ベルリン終戦日記/ある女性の記録:山本浩司(訳):白水社:p50)より引用『ヘフター精肉店のまえに並ぶ行列に直撃弾が落ちた。死者三名、怪我人十名…それでも行列はもう持ち直している。周りに立っている人々が肉の配給券から血しぶきを袖で拭き取っている様子を未亡人は実演してみせる。それからこう言うのだ。「ええまあ、三人だけですからね。空襲を考えれば、こんなものが何だというのでしょう。」確かに私たちは贅沢にならされ、これくらいの死者には驚かなくなっている。 それでも私は驚かずにはいられない。仔牛四分の一頭と豚の頬肉がわずかばかりあるのを目にして、どんなによぼよぼのおばあさんも断固として頑張っている。彼女たちは壁のように立っている。以前には中部ドイツ上空を三機の戦闘機が飛んできたというだけで地下壕へ一目散に逃げ出していたというのに、その同じ女たちが今ではせいぜいバケツか鉄兜を頭にかぶるだけですませている。』
2009年11月05日
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地上5階、地下1階の防空壕。各階には120の部屋。6500人収容。エレベーター3機。台所25。各階に病院。郵便局に行けば、電報や電話でほかの防空壕につながる。刑務所あり。
2009年10月20日
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フィヒテシュトラーセ防空壕(クリックしてね)
2009年10月20日
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(ベルリン終戦日記:山本浩司(訳):白水社:p44/p45)より引用『真夜中ごろ眠気に耐えきれず、私は地下室椅子(どこから寝椅子を手に入れられるというのか?)から転げ落ちそうになった。そこでガラスが散乱する螺旋階段を躓きながら上って、二階にある薬剤師の未亡人宅のソファーで六時ごろまでぐっすり眠ることができた。後から聞いてびっくりしたのだが、その間に連続して空襲があったらしい。ちっとも気づかずに寝ていた。 パン屋には小型パンがまだ置いてあった。最後のパンだ。これで私のパン用配給切符も尽きてしまった。新しい配給切符の見込みはない。 そもそももう命令もなければ、情報もない、何もない。誰も私たちのことなど気にかけていない。私たちは急に個人になり、民族共同体の一員ではなくなった。友人や仕事仲間のあいだの古いつながりにしても、二人のあいだに三軒以上の距離があると、すべて死に絶えてしまった。 洞穴の人々、これこそが家族である。太古の時代とまったく同じだ。この世界の地平線の長さは三百歩もあれば足りてしまう。』
2009年09月16日
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(ベルリン終戦日記:山本浩司(訳):白水社:p40)より引用『待つより他はない。砲と高射砲が一日の経過にアクセントを置いている。時どき望むのは、すべてがもうお仕舞になればいい、ということ。何とも奇妙な時代だ。歴史を、後になって歌われたり、物語として語られたりする事柄を、じかに体験しているのだから。しかし間近にいると歴史はばらばらに解けて重荷と不安に姿を変えてしまう。』
2009年08月23日
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(ベルリン終戦日記 ある女性の日記:山本浩司(訳):白水社:p39)より引用『一九四五年四月二十二日、日曜日、夜一時 ガラスの破片が靴の下でじゃりじゃりと鳴り、開いた天窓を抜ける風がぴいぴいと音を立てる。台所のすぐ脇にある手前の小部屋で、ソファーが私を受けとめ、他人の匂いのする毛布の下での二時間の眠りを恵んでくれる。 真夜中までに近くで爆弾が落ち、私たちはまた地下室へ逃げこむことになった。ひどく長い夜の時間、疲れ果てた。もう今日は地下室で日記を書きつづけるのは止めにしよう…。』
2009年08月08日
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コーヒーをひとくち飲み、手にとった『ベルリン終戦日記』をひらく。『一九四五年四月二十一日、土曜日、深夜二時 壁をがたがたと揺らす爆弾。ペンを握る指の震えが止まらない。重労働の後のように汗だくだ。以前なら地下室で分厚いバターパンを食べることも平気だった。焼け出されたのと同じ夜に、生き埋めになった人たちを掘り出すのを手伝ってからというもの、私は死の恐怖に苦しめられるようになった。いつも同じ症状だ。まず髪の毛の周辺が汗だらけになる、背中がずきずきと痛み、喉にも突き刺すような痛み、口のなかがからからになり、心臓が止まりそうになる。目は真向かいの椅子の脚をじっと見て、その技巧を凝らしたクッション部分や脚の部分を頭に焼きつける。今なら祈ることができる。頭は祈りの定型表現にしがみつき、ことばの切れ端にしがみつく。「世界を素通りしなさい、それは何でもない……この世界から落ちる物はない……恐れるな……」そうやって大波が引いていくまで。』(ベルリン終戦日記 ある女性の日記:山本浩司(訳):白水社)より引用
2009年05月05日
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第二次大戦後、ベルリンはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって分割占領され、西側3か国占領地域はソ連占領地域(東ドイツ)の中に位置する「飛地」西ベルリンとなった。西ドイツ本土と西ベルリンは空路または直通専用道路で往来が可能だったが、形式的には西側3か国の管理下に置かれたため、西ベルリンの空港への乗り入れは、米・英・仏の航空会社のみが認められ、ルフトハンザの乗り入れは禁止されていた。
2009年01月27日
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