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言葉の始まりには、もしかしたら、物や色を見たら音が聴こえる共感覚者たちが関わっていたのかもしれない…
2009年08月08日
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弟子「伝えてもらったんじゃないような気がする」師匠「え? どういうこと?」弟子「「この世界」のこと、師匠から伝わったわけじゃなく…」師匠「ああ、それはそうだね。ぼくの中にある何かを伝えたわけじゃなく、あからさまにひろがってる「この世界」に(自分で)気づくよう、しゃべってただけだからね」
2008年10月23日
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ゲストはヨガの先生でした。ヨガの先生になったのは、初めてのヨガで瞑想体験したからのようです。お話は楽しかったし、なるほどと納得することも多かったです。ただ、「目の変化」には興味は持ってもらったものの、残念ながら、なぜ「目の変化」にこだわるのかは、わかってもらえなかったようです…
2008年10月22日
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訳す事のできない言葉とは何なんだろうか不思議だね。」 タラマイカ国にしかなく、日本で暮らしておれば生まれてこのかた、見たことも聞いたこともないような〈何か〉については日本語に訳せない、といったことだと思うけど。 それはたとえば、立場を逆にしてとらえてみると、タラマイカ国にテレビがなく、テレビに関する情報がまったくタラマイカ国には流れない(見たことも聞いたこともない)なら、生まれてこのかたタラマイカ国から出たことのない人にとっては、「テレビ」というのは「知り得ない想像も出来ない〈何か〉」だから、「テレビ」という日本語はタラマイカ語に「訳す事のできない言葉」なんだと思う。 でもまあ、「訳す事のできない言葉」といったって、その言葉が指し示している「物事・現象・状況・状態」を提出してくれれば、なんとかそれなりに訳せる(だいたいの感じが伝わる)んだとも思うけどね。 そもそも「言葉」と「言葉の指し示しているもの」は別なんだから、自国語であってさえ、出来事や現象を言語化するときには、(自国語だと習慣化してて気づきにくいだけで)かなり無理矢理、ある種の翻訳をしているのだろうしね。
2008年09月15日
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お母さんが君の顔を見る目は、お母さん個人の脳につながっているお母さん個人の目だよね。 そして、君が鏡に映った君の顔を見る目、(もしくは)鏡がなくて君の顔が見えない君の目は、君個人の脳につながっている君自身の目だ。 別の脳につながってる目だから、見えてるものが違う。君とお母さんとは、別のものが目に映っている。 だけどね、「こころ」はね、たとえて言えば、「鏡を使って君自身の顔を見ている君と、鏡を見ている君をいとおしく思いつつ見ているお母さんと、ふたりのいる空間」なんだよ。 その空間は、君の脳がわざわざ情景を思い浮かべようが浮かべまいが、(誰のものでもない)「こころ」としてひろがってるんだ。「こころ」は誰かの持ち物じゃないんだよ。 じつは、ここはむずかしいところで、どうしてむずかしいかと言うと、ふつうは、学校とかで先生も友だちも、君の心と友だちの心を分けて考えるからなんだけど、もちろん、そういう考え方も日常生活では必要なんだけど、生きることのすばらしさを感じるためには、(ここでの言葉遣いでの)「こころ」に触れなくちゃ、せっかく生まれてきたのに、もったいないんだなぁ…(何を伝えたいか、わかりにくいだろうなぁ…ごめんね) ということで、君とお母さんがいる空間全体が「こころ」なんだ。 君とお母さんとでは目が違うから、見えてるものが違う。それはそうなんだけど、「こころ」はふたりのいる空間なんだから、ひとつしかないんだよ。 わかりにくいかもしれないけど、師匠としては、せいいっぱいしゃべってみたよ。 質問、ありがとうね。
2008年09月09日
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脳というのはね、ひとりにひとつ、与えられてるんだよ。だからね、君の脳と、お母さんの脳は別なんだ。 だけどね、心はそんなふうに分けられないんだよ。君がたったいま見たり聞いたり考えたり(たとえば「心は脳じゃないのか?」って考えたりね)してるとき、お母さんもまた、君といっしょにいて、君といっしょに見たり聞いたり、君といっしょになって「心は脳じゃないのか?」ってことについて考えたりしてる。そんなふうに、君とお母さんがいっしょになって見てる世界、いっしょになって考えてる世界が、たったいまの君の心だし、お母さんの心なんだよ。 そしてね、驚いたことに、この世には、たったひとつの世界のひろがりしかないのかもしれないんだ。だとしたら、もしかしたら、心はたったひとつしかないのかもしれないね。
2008年09月08日
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この世は舞台であり、ぼくらはみな、知ってか知らずか、俳優兼観客なんだろう。せっかくこの世という舞台に生まれたんだから、身を起こし、心を起こし、生き生きと、軽やかに、ときにはゆるやかに、ときにはすばやく、ダンスを踊ってみましょう。じつのところ、生きている間のぼくらの体の動きは、知ってか知らずか、ずっとダンスしている状態でもあるのでしょう。(8月のこと研のゲストは、ヒップホップダンスとミュージカル「エリザベート」(なんと、せりふを全部覚えているそうです!)と般若心経と線香に興味のある若者でした。ゲストと弟子は線香の話で盛りあがっておりましたが、師匠はついてゆけませんでした…)
2008年09月06日
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質問「すべてがきれいに見えたとして、それがどうしたというのでしょう?」心の状態とかも変化するのでしょうが、そうしたもろもろのことは人それぞれだと思います。きれいに見えると、ただきれいのです。質問「心が空っぽになって、いっさいの悩み苦しみが消えるのでしょうか?」頭に言葉が流れていようがいまいが、きれいのです。悩んでいようがいまいが、きれいのです。苦しんでいようがいまいが、きれいのです。質問「ただきれいなだけですか?」目の急激な変化のあと、それに伴っていろんなことが変化するかもしれませんが、それは人それぞれでしょうし、根本的には、そのとおり、きれいなだけです。
2008年08月30日
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『言葉は「伝達」するものだけど、この世界ではすべてが「共感」です。』いやー、いいですね。なんだか味わい深い(共感できる)表現ですね。
2008年08月28日
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いわゆる「悟り」と呼ばれているものにたいするとらえ方は、その道の人たち(?)にしたって、ぼくのこれまでの読書からすると、とてもあいまいです。じつのところ、たとえば仏教(のことなんてほとんど知りはしないのですが…)とかで、「悟り」として伝えられているものについても、いろいろバリエーションがあるように思えます。ただ、そうした「大きな何か」のなかの、かなり重要な要素のひとつとして、「視覚の急激な変化」があるんだと思っています。
2008年08月17日
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こと研で伝えようとしている「視覚の急激な変化」は、目的として設定してはいけない「禁忌」なのかもしれない。でもまあ、狭い範囲での実験だし、まるで強制力はないし、どんな行為でもそれなりに人に迷惑をかけはするのだろうし、目的を明確にすることで、どのように実験を進めてゆくか迷ったときの指標になるんじゃないかなと、楽観的に考えています。
2008年08月12日
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『経験(それはときに試練のようなものでしたが)や出会いはすべて、今の私になるために、私の中に注がれてきた。 だから、それがひとつでも欠けていたら、花ひらくことはなかっただろう。 それは起こることすべてに線路がひいてあったような感覚…そして、これからも線路はひかれてゆく…』うーん、さすが弟子、見事な表現だな。だいたい、弟子の登場がなかったら、こと研は存在しなかった。ひとりで書きつづけしゃべりつづけてきた6~7年の間、なんだか変なことを言ってる奴だな、と思われてきたのだろうし、そしていつまでたっても「なんだか変なことを言ってる奴」にすぎなかった可能性は高い。ところがふいに、ある人に「これ」が伝わって、伝わることによってその人は弟子になり、そのおかげでこちらも師匠になれるわけで、じつに心強い味方です。ということで、師匠がまた困ったこと言いだすかもしれませんが、そのときには説教、よろしくおねがいしますね、弟子さん!
2008年08月05日
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「考えないようにしようと、息を止めて何かをじっと見る、といったことをいくら試みても、考えは止まらないんですけど…」「考えないようにする試みは必要だと思うけど、そうすることによって考えなくなることが重要なんじゃなくって、私たちが普通に暮らしているあたりまえの世界が、頭の中以外は言葉でできていない、ということに気づくのが大切なんだ。 ここで使ってる「考える」という表現は、「言葉を使って考える」ということなんだけど、つまり、頭の中以外のすべての存在は、言葉を使って考えてはいない、という事実が身にしみることが重要で、そのための方便として、たとえば、頭の中に言葉が流れるのを一時的に止めてみよう、といった試みがあるんだ。 そうすると、今見えているものも感じていることも、すべて、色・形・温度・味・匂い…そんなこと全部が、自分の頭の中で勝手に仕分けして、勝手に名づけて、勝手に納得してるだけなんだ、ってことに気づく可能性が出てくる…」
2008年08月03日
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誰かに影響を受けた場合でも、誰かに影響を与えた場合でも、起こってしまったことは起こってしまったのだし、いいもわるいも考えたってしようがないのだろうけど、「これ」を伝えてもらったこと「これ」を伝えたことの影響については、たんによい。
2008年07月27日
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ことばはたんにことばである。 文字はたんに文字である。 たとえば文字である数字「3」と、3そのものは別である。「3」をことば・文字・数字として認識するのと、「3」を曲線として、色形として、パソコンの画面にあらわれた模様として、物として認識するのとは別である。 そして、ああなるほどそうか! と驚いたなら、もうひと押し、 そのように「3」を物として認識するのと、「3」を物として知覚するのとは別である! 認識と知覚は別である。「3」を物として知覚している瞬間、認識は背後に隠れる。「図と地」のようなものである。
2008年07月23日
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結局のところ、言葉を使って考え抜くことは重要である。なぜなら、「言葉は事実ではない」という文章をきちんと理解するには、言葉抜きの知覚だけではなく、言葉を使っての把握が必要なのだろうから。
2007年11月10日
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