花夢島~Flower Dream Island~

花夢島~Flower Dream Island~

12~追悼の記憶~


 明緋はそう言って電話を置いた。
「2人、なんだって?」
 麻衣ねえと芽衣のことだ。そう易々と外泊を許してくれそうも無い。
「反対されましたけど、無視してしまいましたわ」
 まあ絶対に許可は下りないだろうし賢明な判断なのだろうな。
「じゃあ湊くさん、先にお風呂に入って来るといいのですよ。確りと体を癒してきて下さいです」
「その間に私達は御夕飯の用意を致していますので」
 俺は2人の煽動により風呂場へと向かう。寮だからと言う理由で勝手にユニットバスを想像していたのだが、トイレと風呂場は別々だった。うえに浴槽も充分に足を伸ばせるスペースがあり、ゆっくりと体力の回復を図ることができた。
「他の部屋もこんな広いのかな」
 どの部屋もここと同じくらいだったらあの学校はどれだけお金持ちなんだろう。きっとこの部屋だけなんだろうな。明緋、学院長の孫って言ってたし。学院長の采配かな。
 俺は湯から出ると掛けてあったバスタオルで体を拭く。そして、ドアを開けて脱衣所に脱ぎ散かしてあったはずの服に着替えようとした。
 だが、
「あれ……制服が無い……」
 何故かその場所には制服――どころか下着すらなかった。そして、換わりにどちらのものだか知らないが、女性物の下着に、これはネグリジェだろうか、女性用の寝巻きが置いてあった。
「一体どうしろってんだ……」
 俺はともかくドアを少し開け、2人に聞こえるように声を張り上げた。
「ねぇ、俺の制服は?」
 俺のその問いにすぐさま答えが返ってくる。返事をしたのは亞姫菜さんだった。
「制服で寝てもらう訳にもいかないので、私のネグリジェで我慢してくださいなのです」
 いやいや、我慢してくださいじゃないよ。亞姫菜さんだってそんな自分の服を男性に着られて嫌じゃないの?
「湊さんなら大丈夫なのですよ」
 それはどういう意味だろう。ひょっとして男として見られてない?
 俺は抗議の声を上げようとしたが、さすがに夏とはいえ全裸でいると多少の肌寒さを憶える。
「これは、覚悟を決めなければならないのだろうか……」
 息を飲み、そして目の前でキチンと陳列されている標的(ターゲット)を注視する。
「さすがにこれは……」
 当然、俺は中々意を決せない。嘗てメイド服を装ったことがあるとはいえ、それとこれとは話が違う。今回は亞姫菜さんが実際に着ていたものを着なければならないんだ、しかも下着まで。 
 やはり無理があるが、何時までもこの格好でいるわけにも行かず、他に手はないんだ。だったら、もう諦めてきてしまってもいいのではないか。そんな考えが頭を過ぎった。
「はぁ……」
 俺は本日何度目かの溜息を付き、ピンク色のショーツに手を伸ばした。



「やっぱりすっごく似合ってるのですよ」
 結局用意された衣類を着て俺は2人の前に姿を参上させた。悲しいことに、亞姫菜さんのネグリジェはピッタリのサイズだった。胸のところ以外は。
「湊様はどんな格好をしても似合いますね」
 明緋までも俺を称賛してくれた。まあ嬉しくないけど。
「できれば似合いたくなんて無い……」
 俺のぼやきも2人には聞こえなかったようで問答無用で話は展開されていく。途中夕食を机に並べて夕食を取りながらの会話が展開された。
「そういえば、前にメイド服を着ていたとき人格が変わっていたような気がするのですけど」
 不意にそんなことを言い出してきた。メイド服で2人に会った時って言うと……あのデパートでのことかな。まだ湊(ミナト)さんが中にいたときのことだ。正直に言えれば説明も楽なんだけどなぁ。どうせいっても信じて貰えないのがオチだろう。さて、どうやって説明しようか。
「ハルちゃん、あのときのことはあまり聞かないであげたほうが良いのですよ。湊さんにも色々事情はあるのです」
 亞姫菜さん、それは俺を憐れんでるのか?それとも事情を知っての台詞なのか?
 訊ねようにも明緋の手前聞くことはできず俺は微妙に心にダメージを負う。入学初日から色々な事がありすぎなんだよ、もう。
 明緋が何か言っていたが、俺はそれを軽く受け流した。散々寝たつもりだが、それでも今日受けた精神的ダメージやその他諸々の負荷などを全て拭い去るにはたりなさ過ぎる。俺は早くも眠気を覚えて、うつらうつらとしていた。
 必至に堪えるものの眠気にはどうしても諍えない。元々寝るのが好きな事もあり俺は眠りに落ちるのがかなり早いんだ。
 だが、一人先に寝てしまうのもどうかと思われ、半分以上眠った頭を必至に覚まそうと会話も他所に俺は脳内南北戦争を繰り広げていた。闘っているのは天使と悪魔。俺に眠気を与え続ける睡魔と言う悪魔が今のところ優勢だ。天使群に頑張って貰いたかったが、圧倒的戦力の差に敢無く敗戦。俺は椅子に座ったまま睡魔に身を委ねた。
 そして、すぐにあの夢が放映される。俺が誰かと話している夢。だけど、今回は俺独りだけだった。あの少女の姿はない。
 前の夢と繋がっている。そう考えるべきなのだろうか。
「もしもし、周防院ですけど」
 夢の中の俺は電話に対応していた。別に気に留める光景でもない、そう思っていたが、どこか様子が可笑しかった。
「え……そんな……」
 その俺はみるみる顔面を蒼白にしていく。それは、まるで俺が両親を失った時と同じようで、生気を感じる事ができなかった。
「お姉ちゃんが……行方、不明……」
 放心して呟いていた。そうか、この世界の俺には姉がいる。たった一人の、最後の家族。その人が行方不明になったとしたら……
 俺は無意識に麻衣ねえと芽衣がいなくなってしまった時の心情を想像していた。妄想に違いないのに、心がズキズキと悼んだ。多分、実際にそれを経験しているアイツはそれとは比べ物になら無い程のショックを受けているんだろう。
 だが、俺の予想は外れていた。我に返ったように受話器を戻し、そして横に置いてあった掃除機を手に取り掃除を始めた。それは、俺が家で良くやっていたのと同じように、同じ順番だった。
 ソイツの表情は、先ほどの翳射す表情が嘘のように平然としていた。まるで、姉の存在を忘れてしまっているかのように……
 俺は、自分で導いたその仮定がただ夢の中の話ではない事を意味する事に直に気が付いた。
 そうだ、この夢が実際に過去にあったことかもしれないんだ。俺が姉の存在を忘れているとすれば、尚更に。
 それに、こんな夢ばかり見るようになったことも可笑しい。きっとこれには何か祕密があるんだ。
 俺の意思が、気持ちが昂ぶる度に徐々にこの世界は歪を帯びていた。そして、俺の意識の殆どは現実世界へと回帰していた。 
 背面部分にふわふわとした感触。そして、何かに上から圧されるような感覚。俺は多少の息苦しさを覚え、目を開けその招待を確認する。
「なッ!!?」
 俺の上に乗っているのは、明緋だった。しかも明緋うつ伏せだか顔が近い……
 俺は顔を叛け、脱出を試みる。しかし、寝ているくせにがっちりと腕でホールドされていた為に脱出は不可だった。
「おい!明緋っ!起きてくれー!」
 耳元で大声を出すものの起きる気配はなし。
「こうなったら最終奥義を出すしかない!」
 勝手に意気込み、顔を明緋の耳元に持っていき、耳に向けてふーッと息を吹きかけた。
「ひゃぅ!」
 こうかはばつぐんだ。はるひに100のダメージ。
「あれ、湊様ー、おはよーございま……すぅ……」
 と思ったら又眠りに付いた。何なんだコイツは。てかお願いだからどいてくれ……
 俺はもう強行手段に出る。手で無理矢理明緋を降ろしに掛かかる
「んっ……ふぁ……」
 俺が明緋を動かそうと手に力を入れる度、未だ闇漆の深淵に眠る明緋は蕩けるように甘い喘ぎ声を発していた。だが今はそれよりも先にここから脱出するのが先だと判断し、見切りを付ける。暫しの奮闘の末に俺は漸く明緋を横に押し入り、ベッドからの脱出を達成できた。
「朝から疲れたなぁ……」
 俺は沐浴でもしてさっぱりとしたい気分に駆られたが、人の家で勝手にそれをするのもどうだろうかと思い顔を洗う程度に留める。俺はそれを行うべく脱衣所へと向かい、ドアを開ける。
「……………」
 そして、一瞬でドアを閉めた。
 ゲームなどで一緒に暮らしている主人公とヒロインのお約束である着替え遭遇シーン乃至脱衣中遭遇。よりによって偶然泊まりにきた家でそんな場面に遭遇しなくても良いじゃないか……前にもこんな事あったような気もするし、どんだけタイミング悪いんだろう……
 生憎亞姫菜さんは俺がその場面に遭遇した事に気付いていないらしい。俺は引け目を感じてリビングへと避戻しようとした。だが――
「あれ、どうかしましたのですか?」
 バスタオルを身に纏った亞姫菜さんがドアを完解。その全貌を露にした。
「いや、どうもしないから!それに態々でてこなくていいから!!」
「だって、湊さんが先に開けたのですよ?」
 確かにそうだけど……それは事故であって雅かいるとは思わなくてだから不可抗力な訳で――
「湊さんなら構わないのですよ、別に見られても」
 亞姫菜さんはもう少し恥じらいと言うものを知るべきです。まあそれは今となっては俺の周りの女性全員に言える事だけども。
「謹んで遠慮しておくよ。後が怖そうだ」
 俺は後ろ指で明緋を指差した。後あの2人からも何言われるか分かったもんじゃないし。
「じゃあ仕方ないのですね」
 亞姫菜さんは微笑みながらドアを閉めた。洗顔は後で良いだろう。別に直に行う必要性も今は無いし。もう目なんて完全に覚めたさ。寧ろ冴えてるさ。朝からあんなショットを見せられて冴えない男子なんていないに決まっている。いるとしたらきっとそいつはホモに違いない。俺はあくまでも普通の男子なんだ。明らかに女性に見られたとしても男子に違いはないのさ。
 後半少々自虐兼自嘲気味だがここは止めなくても良いだろう。
 俺は少々重くなった足を引きずりながらリビングのソファに腰掛けた。
「はぁ……」
 今日も俺の溜息が尽きる事はなさそうだな。あの男子勢からの追撃もあるだろうし、ホントにどうにかしないとなぁ。
「大丈夫ですよ、湊様。湊様を忌嫌う者たちは全員転校させましたわ」
 あまりにも唐突過ぎてボケも出ない。明緋がいつの間にか背後にいたことでは無く、その放たれた台詞の内容に。
「えと、明緋さん?ホントにやっちゃったんですか?」 
 確かに一声でできるとかそんなこと言ってたけど、まさか本当にやるとは……
「湊様にあんなことをしたのですから当然の事ですわ」
 いや、全然当然の事じゃないから、断じて絶対に。
「じゃあ今クラスに男子どれ位残ってるの?」
 俺を嫌う奴なんて大多数だったろうから残っていなくても可笑しくないのだが。
「いませんわ」
 予想通りというか何と言うか……
「てかさ、他の女子はいいの?勝手にこんなことして怒んないの?」
 ふと過ぎる疑問。クラスの男子に好意を寄せている女性がいても可笑しくないだろう。
「勝手に、ではありませんから。全員に諒承を戴きましたので」
 諒承取ったって……あの男子勢人望ないなぁ。別にあんな目に合わされた手前同情はしないが。
「あれ?じゃあ俺これから男子一人なの?」
 それもどうかと思うがなぁ。まだ何人か男子を残していてくれた方が逆に気楽だったかもしれない。女子の中に男子一人と言うのも人によってはハーレム天国桃源郷だが、それも度を越えたら疲れるだけだ。クラスの男女の比率が1対20数になるなんて聞いたことねぇよ……
「そうなりますわね。でも、私がいますわ」
 明緋はソファの裏から圧し掛かるように俺の上に乗ってきた。
「はぁ……」
 俺は数多くの苛まれ事に溜息を隠せなかった。




「湊!会いたかったよ――っ!!」
「うぉ!?」
 教室のドアを開けると同士に芽衣が飛び掛ってきた。その突然の衝撃に俺はよろめく。
「芽衣!急に飛び掛ってくるなッ!」
 転びそうになるのを軸足に力を篭めて耐え芽衣を引き剥がす。
「おかげで朝から注目の的じゃないか」
 教室を見渡せばそこにいるほぼ全員がこちらを見ていた。その全ての視線が異性の物だと言う辺りで明緋の言っていた事が事実で明緋って実は凄いのだと実感させられた。
「だって、ハルちゃんたちと何かしてないか心配だったんだもん」
 何かって何だ。何かって。明緋達より先に来て良かったかもなぁ。一緒だったら何かとてもややこしい事態が展開されてそうだった。
「心配しなくても何もしてないから」
 そもそも寮内で何かする勇気なんてねーよ。
 俺は再度張り付こうとしている芽衣を回避し、席に鞄を置く。そして、暫しの休眠を堪能でもしようかとした時、聞きなれない声が直傍から響いた。
「周防院くん。ちょーっと一緒に来てくれないかぁ?色々と話したい事があるんだけど」
 顔をあげると、やはり見覚えのない顔があった。ミディアムパープルのロングヘアー。そして、その髪と同じ色の眸が一番印象に残る。その目はまるで長い間食事を取っていない生物が偶然にも豪華な食事を発見したときのように豪く耀いていた。
「えと……誰、でしょうか?」
「あたし?あたしは夢姫。白雪 夢姫って言うんだ。よろしく」
 手を差し伸べられたので俺は条件反射でその手を握り返す。だが、白雪さんは握手目的でなく、俺の手を引き上げ俺を立たせてそのまま手を引っ張っていかれた。
 芽衣辺りが追いかけてくると思ったが、何故か廊下に出て俺の方を名残惜しそうに見ながらも来る事はなかった。
 暫く歩みを刻み、階を上がり俺たちは屋上の扉の前にいた。
「それで、こんなところまでつれてきて何の話なの?」
「あたしね、新聞部の部長なんだ。でも、最近特ダネが全然なくって……それで、周防院くんにも手伝って貰いたいってわけ」
 どうしてこうも皆唐突な物言いなんだろう。
「えと、様々な都合によりできれば回避したいんだけど」
 俺が丁重にお断りの姿勢を見せるものの、白雪さんの方が上手だった。
「芽衣の家で家事の手伝い、とか?」
「そうそう……って、どうしてそれを?」
 芽衣から聞いたんだろうか?あんまり気にせずに人に言いふらしそうな性格してるし。
「あたしの情報網を甘く見てもらっちゃあ困るなぁ。この学校の人の情報くらいなら全部頭に入ってるんだから。周防院くんのことも勿論ね。例えば麻衣先輩の部屋で先輩と――」
「ストォップ!!!その先はダメッ!!」
 俺が麻衣ねえの部屋に入ったのは一回だけだ。つまり白雪さんが言おうとしてる事は……
 身の毛も弥立つ思いだ。まさかこんな人がいたなんて……
「それで、手伝ってくれる?」
 俺は首を縦に振るしか選択肢は残されていなかった。



 俺は今、3年の教室の前を歩いていた。別に麻衣ねえに用事があるわけでなく、ただ単に文化部棟に続く道が3階にあるからであって俺は今新聞部の部室に向かっていた。
 だけど、こういう用も無い時に限って邂逅するものだ。何組かの教室の前を通った時、麻衣ねえが現れた。
「どうしたんですか、湊くん。こんな所歩いてるなんて珍しいです」 
 まあ普通は上級生の蔓延する階なんて歩きたがらないものだしな。緊張するだけだし。
「えと、ちょっとした事情で新聞部部室に用事ができて――」
「新聞部?どうしてまた」
 俺は苦笑いを浮かべて誤魔化すように目を反らし、教室の中を覘いた。当然知っている人などいるはずなかった。だが、俺は見てしまった。何度も見た夢の中の、あの存在を。偶然似ているだけかもしれない。だけど、そんな気は微塵もしなかった。繋がった。夢と記憶が。知らずに失われていた記憶が闡明になる。唐突に、けれどそれは確実に行われて、夢が夢で無くなった。
 だけど、何を話せばいいのか、そんなこと分からなかった。姉弟なのだから気にする必要もないのだが、それでも、だ。
 それにいつでも会いにくる事はできるんだ。そう思い俺は麻衣ねえに別れを告げて歩み始めた。後姿で麻衣ねえとは違う別の視線を感じた気がしたが俺はそれを無視した。
 そして、漸くたどり着いた新聞部部室。少し遅くなってしまったが構わないだろう。俺はドアをノックしてからその扉を開いた。
「おっそーーいっ!!!そんなんじゃ一分一秒を争うこの現代社会においていかれるぞっ!」
 いきなり怒声が張り上げられた。
「待て!まだ10分しか過ぎてな――」
「まあまだ一回目だから赦すけど、次遅れたら周防院くんの恥ずかしい写真を新聞の一面にするからね」
 肝に銘じておきますよ。本当にやりそうで怖いからな。
「じゃあ、気を取り直して早速散策と行こうかっ。特ダネは部室にいても見つかりっこないしね」
 そう言ってまた朝と同じように俺の手を引き歩み始めた。態々部室に来る必要が無かったというツッコミは入れるまい。口答えしたらどんな仕打ちがあるか分からないからな。危険な事には首を突っ込まない事が一番なのさ。まあもう若干手遅れ感がしなくもないが……
「まずは5階へレッツゴーっ!!!」
 やけにハイテンションな白雪さんの歩幅に合わせつつ階段を登る。今思えば俺、5階に行ったことないんだよな。昨日来たばかりだから当然なんだけども。別に好き好んで下級生の集う階にも行きたいと思わないしな。まあ行きたがる奴も中にはいるんだろうけど、そういないと信じておこう。
 何段目かの段差を踏締め、5階にたどり着く。案内図が設置されていたため、俺はそれを見ておくことにした。
「へぇ~、5階って音楽室とかあるんだ」
 見れば他にも化学実験室とか物理実験室等もあるようだ。どうやら5階に来る機会もありそうだな。
「それじゃ、構造も確認した事だし、周防院くんはここから東側をお願いね。それで、30分後にまたここに集合。じゃ、これカメラね」
 スカートのポケットからデジカメを取り出して俺に手渡した。
「了解。まああんま期待しないでね。多分それといって何も起こらんと思うし」
 そう言って俺は白雪さんに背を向けて歩く。そして、暫くして俺はその言葉を撤回することとなった。
 特に当ても無く彷徨していると、錚錚とした音がどこからとも無く鳴り響いた。
「琴の音か」
 確か家にもあったな。よく姉さんが弾いていたっけか。そういえば曲もこんな感じだったな。
 俺は無性に懐かしさを憶えて俺はその音が鳴り響いている音楽室へと歩みを刻み、そのドアを開けた。
「ッ!?」
 中にいた人物は驚いたのか肩を跳ね上げ、飛ぶように振り向いた。
「あ……」
 その人は、一瞬驚いたような表情を浮かべた後、その表情を消して話し掛けてきた。
「あの、どちら様ですか?」
 俺は一瞬暗い闇の底に落ちたかのような絶望感を憶えた。その言葉を放った人物。それが姉さんだったからだ。
 いや、もしかしたら――なんて考えが頭を過ぎる。人違い。たった一言でこの状況を説明できる。だが、それは信じたくなかった。
「ああ、俺は湊。周防院 湊っていうんだ」
 感情を押し殺して言葉を返す。せめて、確認だけでもしよう。俺はそう心に決めた。
「湊さんは、どうしてここに?」
 俺がどう切り出そうと悩んでいた矢先に姉さんが言葉を放った。
「懐かしかったから、さ。昔よく姉さんがその曲を弾いてくれてたから、凄く懐かしくて」
 やはり、俺の目の前にいる人は姉さんだった。今度こそ、確証を得た。
「湊……もしかして、思い出して……くれたの……?」
 嗚咽交じりの声。眸に浮かぶ透き通る透明の泪。俺はその言葉に答えず姉さんの許に歩み寄り、ギュッと抱きしめた。一度は失ったこの存在を、もう二度と話さないかのように。
「湊っ!」
 姉さんは俺の腕の中胸に縋り付き泣き続けていた。

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