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12月28日(水)6日目朝7時に宿を出る。大邱のコインロッカーは昔から指紋認識方式。てっきり韓国全土に広まるのだろうなと思っていたら一部にとどまっているようだ。大邱市長の独断だったのだろうか。とかなんやかんや言っても認証が上手くできずに駅員さんを呼んでしまった。今朝の朝食は「私の愛」という大げさな名前のりんごジュース。聖堂池駅から一号線、二号線と乗り継いで二号線の終点沙月駅に降りる。今日は国立博物館が開館するまでにここの近くにあるという支石墓群を探ろうという試みである。朝だ。身を切るように寒い。韓国の地図(特に観光地図)は信用できないといえ、比較的道路が書かれている。ともかく川を渡って鉄道を渡ると言う事は間違いが無いと思える。とおりががりのおばさんに聞く。「知らない」と逃げていく。いつもの反応である。この時点では畑の向こう側に支石墓があるに違いないと思っていた。団地から出てきた少し若いおばさんに聞く。「ああ、それならあっち。……ああ、あなた!この人にコインドルを教えてあげて」と、ラッキーにも団地の門番の人に引き継いでくれた。地図はやはりいいかげんだった。道の右側の畑の中ではなかった。左側、つまり思いもかげず、高層団地の中にあったのである。この団地を作るときに発掘されたに違いない。門番の人が連れて行ってくれた。青銅器時代の遺跡である。南国風の支石墓らしく、ほとんど足が無い。しかし、これぐらいの石を運ぶには100人程度の人手は要ったのではないか。ちゃんとした村がこのあたり一帯にあったということだ。このとおりの右側に支石墓はあった。高層住宅に隠れて今は当時を想像することは難しいかもしれないが、川を手がかりに当時を想像してみる。現地の遺跡めぐりの楽しみはこの瞬間である。次ぎに地下鉄で晩村(マンチョン)駅まで戻り、バスで国立大邱博物館に行く。完全に住宅地の真ん中にある珍しい国立博物館である。着くと野外展示場があったので小山を登ってみる。三国時代の窯(玉山洞窯)が発掘された当時のままに再現されていた。当時としては最新の窯。この仕組みで高温を出すことができたから、陶質の硬い土器ができたのだろう。遺跡公園をめざしてさらに行くと大邱梨泉洞支石墓(内部構造)が移されていた。全ての支石墓がこうなっているのかどうかは知らないが、これならばまるで石槨墓じゃないか。弥生時代の石槨墓、木槨墓のルーツはやはり朝鮮の墓にあるのだろう。だとすると、日本の渡来人の、特に前期弥生人のほとんどは中国から来たのだという説はどうかと思う。上洞青銅器時代の住居跡も復原展示されていた。寒いのでわりと深く掘っている。丸い住居、木ではなく石で囲っている。初めて見た。国立博物館は日本語の展示解説本(2004年刊行)が販売されていた。あんまり室内展示品の写真を載せるのは怒られるかもしれないので控えめに(^^;)。これは大邱新川洞竿頭鈴(加耶時代)。こういう形の祭祀土器は遂に日本には伝わらなかった。稲作やその他色色な技術は日本に伝わったが、所謂支配階級の精神のよりどころとなるような文化は日本に伝わってこなかった。それは何を意味するのか。星州礼山里黒色磨研土器(原三国時代)。地域のアイデンテティである特別な土器も伝わってこなかった。つまり、日本にやってきた渡来人は朝鮮の支配階級ではなく、一段下の技術屋集団だったのではないか。博物館を出ると母子が韓国の伝統遊びである矢投げに興じていた。
2012年08月01日
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歩いて近代歴史館に行く。1930年代建築の元殖産銀行だったところだ。展示物の中で、映像で戦前の大邱の町中を再現していた。少し満足する。大邱はサムソン(三星)の社長の故郷らしい。また、朴大統領の出身校があるらしく、それのせいかどうか、それなりの発展を遂げているようだ。後で町中を歩いて気がついたが、電気製品が豊富で、大学が豪華なのである。日本建築らしい名残もすこしあった。隣の公園では木を菰でまいていた。韓国でもそういうことをするんだ。啓明大学行素博物館に行く。あまりにも広くてやはり迷ってしまう。着いたのが閉館の40分前。想像以上のりっぱな博物館だった。今まで行ったどの大学博物館よりもりっぱだった。展示も年代別に遺物を豊富に並べていて、非常に充実していた、。日本語の説明は無いが、例えばこの節文土器文様をすべて写真で比較している展示は色々と感じることがあった。これと同じ様な展示は他の文様でも行っており、日本の江戸時代に尾形光琳が完成させるいわゆる「意匠」のデザインの基礎がここにあるのかもしれない、という気がしてきた。その他、古墳発掘の様子の珍しい写真やここは慶州隍城洞(ファンソンドン)遺跡の発掘をした大学らしく、鉄の溶解操作、鑿の鋳造操作の解説も分かりやすくしていた。慶尚北道金泉の青銅器時代の松竹里遺跡の発掘はここがしたらしく、その遺物の解説が非常に充実していた。住居が完全に建物になっている。日本の弥生時代の住居と違うのは何故か。蔚山の有名な壁画を時代ごとに色分けして復元していた。面白い試みだと思う。ロッテでコーヒーを飲みながら少し休む。こういうときに日記をつけるのであるが、全てを書ける訳じゃない。時間を見つけてまた書き足していくのである。そのロッテの前にタイソ「大韓民国代表生活センスストア」と大げさな名前を謳った韓国ダイソーの三階建てのビルがあった。このダイソーの店は時々見かけて気になっていたのであるが、こんな大きな店は初めてみた。日本でもダイソーに入れば必ず想定以上のものを買ってしまう私です。入って気がついたのは、ここは1,000w均一になってはいない。1,500w、2,000w、3,000w、5,000wと色色あって全部値札がついている。もうひとつ気がついたのは、実用重視より遊び心重視だということだ。素行博物館でも見た文様の「諧謔」精神がここにもある。このメモイットなんてかわいい。左下の丸い顔シリーズを買った。本へのメモに重宝した。これは携帯ストラップを自前で作るためのキッドである。イヌと熊を買った。姪に対するお土産である。(←安すぎるで)その他色色買ってしまい、やはり想定以上になった。夕食は大学前で食べた。安い店が多いだろう、と思ったからである。しかし、あにはからんや、少ない。ともかく肉料理が食べたかったのでソコギ汁飯4000wというのに連れられてこの店に入る。ソコギクッパと焼酎を頼む。出てきたおかずがこれ。いかにも学生街といったオカズだ。案外美味しかった。なくなるとお代わりしてくれた。驚いたのは、この店にいかにもみすぼらしいおばあちゃんの行商がやってきたのである。地下鉄での行商はよく見るが、食堂では初めて。お店も黙認。買う人もいた。国の習慣といえばそうなのだが、「階層社会」というようなものを前提にした習慣のような気がする。私は一度も買ったことは無い。ソコギクッパはどうやら素コギ(肉)汁飯だったようだ。ホルモンの破片らしきものがあるだけの簡単な汁飯だった。もうひとつ気がついたのは、上の写真はいかにも学生男3人女1人のグループであるが、彼等はみんなスマホのしかも薄い奴(高い)を持っていた。この大学は見た目もそうなのだが、きっといいところの坊ちゃんお嬢さんが来るところなのだ(キッパリ)。女性はあの小さいサツマイモの皮をむいて食べていた。これはいいところのお嬢さんがする行為である(キッパリ)。当然彼等は一人前8000wする焼き飯のほうを食べていた。地下鉄を乗り継いで帰った。今日は段取り不足から、朝ボーとした時間や、迷いに迷って時間合計4時間ほど浪費してしまった。反省。コーヒー1,500 バス9,200 地下鉄5回6,000 昼食8,000 コーヒー1,200 ダイソー8,500 夕食7,000 宿代25,000合計 66400w歩数 19849歩
2012年07月31日
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韓国旅行に行く前に、去年の年末の旅行レポートの片をつけておかないといけないですね。あと4日分残っていました。出来るかどうか分りませんがやって見ます。12月27日(火)晴れ 旅の5日目。朝7時、オンチョンジャン(温泉場)旅館をあとにする。知らなかったが、西部バスターミナルは大幅改装していた。ピカピカになったターミナルに行くと、大邱行きの一番バスは7:00だった。次は8:40。しまった、こんなに間が開いているとは思わなかった。段取りで大失敗。仕方ないのでマックでコーヒーを飲みながら時間を潰した。きっちり8:40のバスに乗る。バスは思ったより時間がかかった。ナムチとチャンニョンに寄ったからである。チャンニョンでは立ち席が出るほどに人が入ってきた。隣におばあさんが座る。ちょうどチャンニョンの古墳群について聞きたかったので「一つ質問いいですか」「うん」「チャンニョン古墳群知っていますか」「知ってるよ」「バスセンターからどれくらいかかりますか」歩いて、というのが伝わらなくてタクシーでと言い換えた時に30分といわれた。タクシーで30分ならば相当遠い。諦めなくてはならないか。大邱に着いたらもう一度聞いてみよう。おばさんと上手く会話できなかった。「アボジはいるか」と聞いてくるので、韓国に親戚はいるかと聞いているのだと思い「観光です」と答えた。私の持っている韓国語の料理の本に興味を持っていそうだったので「どんな料理が好きですか」と簡単なことを聞いたのに答えてもらえなかった。発音が悪いのか。すっかりしょげる。大邱西部バスターミナルに着いた。ターミナル横のテアジャンモーテルに入る。25000wというので即決。部屋はシャワーだけだけど、まあ満足。先ず観光案内所に行って地図をゲットしないとどこにもいけない。去年池山古墳群に行った時に聞いた大邱駅前の案内所へ地下鉄で直行。女学生がなぜかドーモくんの手提げを持っていた。大邱の地下鉄もやはり値上げしていた。駅に着くと、前あったところに案内所がない。駅の構内の移ったのかと思い、聞いてみると観光案内所と言いながら観光地図がひとつもない。地下のインフォメーションでも聞いたが、地図は無いという。30分ほどウロウロして、仕方ないので1330の日本語通訳電話にかけてみる。4-5回かけてずーと不通だった。昼休みで席を外しているとか。業を煮やして繁華街であるはずの半月堂駅にいってみる。しかし、駅構内に詳しい地図は無い。外に出たところでこんな簡略地図があった。遠くに百貨店は見えるが繁華街じゃない。最終手段は本屋を探して地図を買うことだと思いながら、とりあえずは歩いていると、カン・トクソン殉教記念館というのがあった。たぶんキリスト教徒の有名な人を記念した資料館だろうけど、ひらめいたのは、ここのパンフに観光地図が載っているのではないかということ。展示物は全く興味なかったけど、パンフは当たりだ。すぐ近くにヤクチョンコルモク(薬局横丁)がある。初めて大邱にきたとき其処に観光案内所があったことを思い出した。おお、やっぱりここだ。暫く歩くとだんだく思い出した。これは薬令市展示館。この博物館の横に確かあった。やっぱりあった。大邱に来て既に2時間が過ぎていた。ここで大邱の博物館情報とチャンニョン情報を聞く。30分はやはり「歩いて」30分だった。これなら、明日は12時大邱出発でOKだ。30分くらい色々聞いた。朝から何も食べていない。近くの食堂でカルビ定食を頼む。てっきり牛肉定食だと思って頼んだのだが、煮魚(カルビ)だった。コストパフォーマンス的にはそれなりのオカズだった。可も無く不可もなく。生牡蠣が出たのが嬉しかった。
2012年07月29日
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映画を見ることにした。この写真は、映画館の階段の踊り場にたまたま迷い出たので、そこから向かいのビルを写したもの。映画館のあるところはいわば釜山一二を争う繁華街ではあるが、見えないところのビル管理はここまで荒れている。映画は、「オサカン ヨネ(霊感恋人?)」ソン・イェジンのロマンチック・コメディである。彼女はもう30台のはずだが、10年前のデビュー当時と全く顔が変わらない。美人としての顔だけでなく、羽目を外した顔、喜怒哀楽、百面相ぐらいの表情を見せる。そういう意味では素晴らしい女優だと思う。内容は、まあありがち。日本に来ないだろう。マクドナルドで少し日記を書いて、食事に出た。釜山一日目に行った真珠食堂へ。今度はお酒にもパンチャン(おかず)が出ることが分かっているので、先ずマッコリ、そしてパジョン(葱チジミ)を頼んだ。これだけで5つのパンチャンが出た。(この前より何気なく増えている。顔を覚えてくれたのか)総べて美味しかった。そして葱チジミ、葱だけかと思っていたらタコもたくさん入っていた。葱とタコがよく合う。付け合せのタレも絶品。ちえぞーさんたちが何回も足を運ぶのが良く分かる。本当はまた来るつもりで、「また来るよ」と言ったのだけど、この旅ではこれで終ってしまった。でもまた来るよ。上沙駅前の温泉場旅館にもどる。カギは預けておいたが、予想とおり部屋の掃除はしていない。下着を乾かしていたので、それでよかった。しかし、ソックスは半渇きだった。朝までは乾くかな。パン600 タクシー27,700 昼食6,000 本6,400 時計11,900 映画7,500 マック2,000 夕食7,500計 69,600 歩数 16,116歩韓国旅行記はこれで半分まで来た。後四日間残っているが、結局また準備出来ていない。準備が出来次第また再開します。とりあえずこれでしばらくお休みします。
2012年03月03日
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新しくできた金海市庁でタクシーを下ろしてもらう。約一時間半乗り回して27,700w(約2,000円)。貧乏旅の私としては痛い出費ではあるが、普通の旅人にとっては今ならばコストパフォーマンスはいいかもしれない。この市庁、本当は遺跡地図の上では貝塚の上だったのであるが、さすがに跡形も無いようだ。役場の中を色々と散策していると、「金海物語バンク」という名前の資料館があった。博物館フェチの私としては、当然中に入る。職員が一人ぽつねんと座っていた。金海の歴史をさらりとなぞっているだけ。所謂、ハコモノ行政の一つだろうと思える。ちょうど市庁のお昼休みと重なった。職員がてんでばらばらにお昼を取りに出かけている。私は後からついていった。彼らの選ぶ食堂ならば外れは無いだろうと踏んだからである。そうすると、男女五人組がこの食堂の中に入った。南海食堂。中がよく見えなくて、普段は敷居が高い食堂なのだけど、今回はふらふらと入ってみた。「定食はありますか?百飯は?」と聞いたけど「ない」という。メニューもないという。それでよく見ると、壁にメニュょーが貼ってある。「これこれ、これ定食じゃないですか」「ああ、センソンチョンシク(魚定食)ね」私の発音がそんなに悪いのだろうか。地元のおばちゃんに意思疎通ができなかったことがショックだった。出てきた料理はさすが地元御用達だけあった。6,000wでこれだけオカズがついて、しかも焼き魚(たぶんサバ)もとっても美味しかった。骨から実をこげ落としながら綺麗に食べました。今日は月曜なので博物館はことごとく休みだ。行くところが無いので高いところに登ってみた。一番高い盆山城はちょっと遠いので市庁裏の南山亭に上ってみることにした。適当に登り始めると行き止まり。そう簡単には頂上にはいけない。
2012年03月01日
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首露王陵となりの金海の観光案内所には、日本語の出来るお姉さんがいる。そこで二つ聞くことがあった。ひとつめ、良洞里遺跡、柳下貝塚はタクシーで果たして行くことができるか。バスは無いと言う事は知っていた。地元のタクシー事情を知りたかったのである。ふたつめ、金海の大学に考古学博物館はあるか。ひとつ目については、遺跡の正確な住所をその場でネットで出してもらったのでOK。ここのタクシーは総べてナビがついているので、住所さえあればたどり着くことができる。二つ目については、金海の大学では考古学の発掘はしていないらしい。よって、博物館は無い。どちらも聞いて良かった。彼女によると、国立博物館に行けばもっと詳しいことはわかるそうだが、そもそも今日は月曜日で博物館が休みだから遺跡めぐりを計画したのである。日清カップラーメンをプレゼントして、観光地金海ですぐにタクシーを拾う。幸い人のよさそうな運転手でずるをする気配なし。30分ほど車を走らし、ナビに従って良洞里(ヤントンリ)遺跡のある場所に行くと、工場団地に入り、工場の敷地にたどり着いた。行き止まりだ。タクシーの運ちゃんがたまたま休憩していた工員に聞いてくれた。そしたら、(これはものすごくラッキーなことなんだけど)彼は遺跡の場所を知っていて、どうやら車は入らないので歩いていく処だと教えてくれたらしい。私は運ちゃんに「ちょっと待ってね」と言って写真にあるような小路を400mほど歩いた。ちょっと開けた広場がそれだった。当時この一帯は海だったはずだ。小さな小山の海辺に墓を設けたのだろうか。ここは三韓から三国時代にかけて、木棺墓、甕棺墓、石棺墓などが出ている。そこから10分ほど走らすと、柳下貝塚がある。有名ではないが、行ってよかった。白い看板があるのですぐに分かった。辺りは発掘していないのか、貝の堆積層がそのまま残っている。看板には特徴的な土器が出たというような記述は無かったが、金海の文化を育むもとになったに違いない。花木洞遺跡はついでに行った。良洞里と同じ時代の墓がある。やはり当時は海の中の小山だったと思う。看板は見つけられずに終った。本当は昨日の福泉博物館でこの山の北側にある貝塚の詳しい地図もゲットしていたのである。タクシーを降りて歩き回ろうと思っていたのであるが、一旦タクシーを降りるとどこで拾うことができるのか、急に不安になったのでやめることにした。だいたいの感覚は分かったので、まあ、満足した。これは花木洞の民家。屋根が独特だ。これも民家。やっぱり所謂玄関は無い。金海市庁に向かって帰り中。あの山のふもとが市庁です。その前に軽鉄道が走っています。山の頂上にある盆山城にはちょっと行けそうに無い。しかしタクシーを使うと楽でいいけど、想う所は少ないということが分かった。ふだん一日で探しきれないところを約1時間半で回ったのである。タクシーを待たせていると思うと、ゆっくりする気持ちも起きず、なんか「そうなのね」で終ってしまった。やはり今後はタクシーを使うのはできるだけ避けようと思う。
2012年02月29日
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12月26日(月)晴れ朝、二日分の宿賃を払ったので遠慮なく3日分の洗濯をして一日掛けて乾かすことにした。この温泉場(オンチョンジャン)旅館、当然のことながら部屋のメンテナンスに来ることはないとは思うが、一応入ってきたかどうかは分かるように部屋の状態は記憶しておくことにした(結果入ってきていない。旅館、モーテルで連泊して部屋のメンテナンスをしたということは聞いたことは無い。メンテナンスしないほうが気楽でいいのである)。さて、今日は開通したばかりの金海軽鉄道を使い、金海(キメ)の遺跡を観に行く。写真は地下鉄の駅で買った朝食のパン。地下鉄の沙上駅から隣の軽鉄道沙上駅に登っていき、この明るい駅舎が出発です。なかなかきれいな電車だ。地下鉄ではなく、モノレールみたいに終始上を走るので、見晴らしがいいように全面ガラス張りです(韓国の電車では画期的ではないでしょうか)。向こうから電車が来るのが見えてかっこいい。金海と金海空港と地下鉄二号線とをつなぐことが目的なので、キョトンカード(釜山の地下鉄カード)も使えて便利です。しかし、空港と金海以外の駅は近くに工場があったりするのだろうが、果たしてお客はどのくらいあるのだろうかと心配するような駅もあった。時間的にはバスで行くのとほぼ同じ。もしかしたら、バスは廃止になっているかもしれない。ここは、金海市庁を通り過ぎて鳳凰貝塚のある小山である。ここが首露王陵駅になる。ここで降りて、首露王陵に行き、そのとなりにある観光案内所で色々聞かなければならない。
2012年02月28日
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ロッテデパートに行って、映画のチケットを買う。なんと三作品しか上映していなかった。ひとつは、一月に日本でも上映されたオダギリ・ジョー、チャン・ドンゴン主演の「マイウェイ」、洋画大作「シャーロック・ホームズ」(日本では三月公開予定)。そしてこの「パーフェクト・ゲーム」である。ほかは日本でも見ることができる。仕方なく、「パーフェクトゲーム」を買うと18:50のチケットしかなかった。時間的に映画の前に食事しないと夕食にありつけないと思ったので、ホントは外で食べたかったけど、デパート内のレストランに行く。ビビンパブ屋さんで辛海老とマグロのビビンバを注文。海鮮ビビンバとは豪勢だな、と思ったのだが、なんとマグロは缶詰だった。味はただ辛いだけ。こんなのでよく商売ができる、……まあ、私の舌が肥えてきたのかもしれない。映画の中身。こてこての野球映画でした。この前見たブラット・ピットの「マネー・ボール」が「乾いた映画」だったのに対して、こちらは「人情と根性」の「燃えて泣かせましょう」映画だった。1987年5月16日のロッテ球団とヘデ球団の両エースが二人とも15回を投げきり、2-2で引き分け試合をしたという伝説の試合を描いている。観客はおそろしいことに300席ぐらいの部屋に8割の入り、ものすごい盛況だった。所謂正月映画なのだろう。適当な笑いも取っている。クリスマスケーキが30%引きになっていた。1号になると、約1000円で買える。(1号22000w→15400w、2号30000w→21000w)この値段は安いよね。宿は沙上駅で取った。去年コストパフォーマンスがよくて、この駅の定宿にしようと決めていたビーチモーテル前の旅館が行ってみるとなんと廃業していてカラオケ屋になっていた。ショック。それで、駅前で宿を探した。ここも25000wである。しかも部屋は綺麗だ。昨日と違ってお湯も出る。急遽二泊することにした。宿のお兄ちゃんにもう25000w払いに行く。夜食用に買っていたお菓子とお水で日記を書き始める。ジョリポンという麦のパンパン菓子なのである。これ、中に簡単なお菓子の簡易スプーンが入っている。指にこんなふうに嵌めることができる。これは特許もののアイディアだと思う。いつも真似される日本の業界だけど、韓国のこういう「遊び心」のあるアイディアはどんどん盗んでいけばいいと思う。コインロッカー1,000 iPhoneカバー8,000 朝食3,700 バス2,200 カードチャージ10,000 昼食6,000 コインロッカー1,000 映画8,000 夕食7,500 お水とお菓子2,100 宿2泊50,000計 99,500歩数 21,536歩
2012年02月26日
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此処も水圧の関係で屋上にことごとく水槽があるのだが、この家では凍結防止のためにここまで厚着をしている。実際、道路はこの真昼でもかちんこちんに凍っているところがあるので必要だとは思う。登るときは大変だけど、降りる時は楽らくだ。途中子どもが家族か仲間とけんかをしたのか、へんなところに立っていた。この地域はこの模様の玄関が大流行。変な趣味だと思う。此処のバス停まで降りてきた。凡一駅の近くだと思う。古道具屋「むかしの話」がある。ガラクタとしか思えない。まあ、それは日本でも同じではあるが。バスで釜山最大の繁華街である西面(ソミョン)で降りると、いきなり若者の波。どうやら、何処かの若者の団体が、「フリーハグ(自由に抱き合おう)」の看板を掲げて交差点を「無法に」占拠しているみたいだ。車がぜんぜん通らないので往生していた。「ハナジュセヨ(一回どうぞ)」と口々にさけんでいる。全世界で流行しているこの取り組み、私は理解できない。確かに何らかの「メッセージ」があるのかもしれない。しかし、私には今ある現実から目をそらす取り組みのような気がしてならない。ただ、何も行動を起こさない若者にとっては「何かをした」という満足感が得られるのかもしれない。若者はまるで宗教のように、熱に浮かされたように叫んでいる。
2012年02月25日
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このあと腹ごなしにともかく西面方面に歩いてみた。住宅街を歩いてみる。住宅地の入り口にあった番地まで落とした大きな地図。これを見ると釜山の家の建て方が良く分かる。この無計画性。韓国の家々がなぜこんなにも密に、しかも無計画に建てられているのか、ずっと疑問であったが今読んでいる蓮池薫の「半島へ、ふたたび」(新潮文庫)のなかにタルトンネという低所得者の小さくて古い住宅地に関する説明が書かれていたので少し長いが紹介したいと思う。彼はソウルの南山と漢江の間にある漢南洞のタルトンネの説明のために書いているのだが、どこのタルトンネも似たり寄ったりだと思うからである。「朝鮮戦争後、廃墟と化したソウルには、たくさんの人が掘っ立て小屋を建てて住み始めた。最初は平地に立てていたが、だんだん土地がなくなり、地価が上るにしたがって山や丘の傾斜地、それも標高の高いところ、高いところへと宅地は拡大していった。 1960年代から工業が盛んになると、貧しい労働者がますますたくさん集まり住むようになる。そのころから住宅はみすぼらしい掘っ立て小屋から、レンガやコンクリートなどを使った、ちょっとした平屋建てに変わっていくが、そのサイズ自体は小さくて狭かった。 経済成長著しい80年代ぐらいからは、幾つかの世帯が一緒になって、結構りっぱな二、三階建てのレンガつくりの建物に住むようになる。これを韓国では「多世帯住宅」と呼ぶが、各世帯がそれぞれの玄関と階段を備えているのが特徴だ。建物は一つでも同居ではない。 そして韓国が世界的な経済大国として大いに名を馳せるようになる90年代以降からは、これら平屋建てや多世帯住宅の建っているところを「再開発」の名の下に更地にし、ソウルの名物にもなっている超高層マンションを林立させてきたのである。 そんななか、ソウルの古きよき時代の姿をとどめているタルトンネが急激に減り始め、現在、地域として残っているのは十本の指に収まるほどだという。近代化という意味では、すばらしいことだろうが、都市の歴史や庶民の文化、恨(ハン)の魂が込められているタルトンネの消滅に心を痛めている人も少なくない。」蓮池さんはわずか60cm幅の小路を求めて漢南洞を彷徨ったが、この道を歩いていくと、至るところにある気がする。ともかく結局一番上の中山公園まで登った。そこに東区図書館の建物がそびえていたので、楽しみにしていたのだが、なんと今日は休み。日曜に休みにするとは何事か。ここからの眺めは素晴らしかった。三枚連続してお見せします。さあ、降りよう。
2012年02月24日
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帰りも少し村の中を散策。コンクリートを利用している最近の家も多い。屋根を有効に使っている。こんな大きな魚を日干しにする習慣は、おそらく日本には無い。乾いた寒い気候だからか。入母屋屋根の変形。屋根の形は日本のと似ているようで大きく違う。この写真は意味はない。樹の形が綺麗だったので。これはひとり暮らしのおばあちゃんの家か……。これは何処かの写真で見たことのある日干しの味噌である(正式名称は知らない)。古そうな家ではなくて、近代的な家の軒先に吊るしてあったのが印象的。姑が作ったのか。伝統を引き継いだ嫁がいるのか。さて、釜山に帰ろう。下垈村を離れて釜山行きのバスに乗る。途中、町の入り口にこんなものすごく大きいオブジェがあった。韓国には良く分からない無駄に大きい「美術品」があまりに多い。これは日本にもある巨大な仏像。ただし、キンキラキンなところが韓国の国民性か。地下鉄で釜山鎮までいって遅い昼食。これもちえぞーさんお勧めの「ミンチョン家のサンパブ」の店である。メニューはこの2品のみ。左側のサンパブセットを頼む。ちえぞーさんは、非常に豪華なセットが出てくるので「2人前なのに特別独りでも許してくれたのかな」と心配していたが、今回も一人で頼んでもいやな顔せず注文に応じてくれました。しかし、この種類の豊富さと量はハンパない。サバの煮込みが出るのは釜山の特徴なのだろうか。このサンチェに包んで食べるのであるが、昆布が出てきたのは初めて。ポテトサラダも美味しかった。私の苦手なワタリガニの味噌漬けも出てきたのであるが、味噌が美味しいのでわりと食べれた。ご飯だけ少し残して完食しました。
2012年02月23日
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ここにあるのは、3-7世紀の遺跡らしいが、昨日見た地図でさらに拡大地図を見ると、山の稜線部分に古墳群があった。ちょっと登ってみようと道を外れて田んぼ道を歩き出す。この家は、家の裏側に手作りの水汲み井戸を作っていた。その西側の小高い山をめざして歩く。いい天気だ。裸の木々が眩しい。この樹は枝の周りにびっしり棘みたいなものが生えている。日本には無い種類の樹だ。犬君がしきりに吼えるのでカメラを向けたらそっぽを向いた。ざんねんだ。南天みたいな果実がいっぱい生っていた。山を少し登ると、古墳か、現代の墓か不明の盛り上がりがあった。形も円墳ではなく後方が尖っている。現代の墓っぽいが、墓誌は無い。そもそも、韓国では墓はずっと土饅頭を採用しているので、古代の墓かどうかを識別するには発掘しか手が無いようだ。もうひとつこんな墓もあった。現代の墓っぽい。しかし、地図上ではまさに此処の部分に「古墳群」があるのである。頂上近くにも墓があったが、ここは明確に一族の墓らしき墓誌があった。その近くに大岩あり。その大岩のところにこんな「お知らせ」があった。「蝋燭祈祷あるいは食べ物をお供えする厄払いなど一切禁ずる。不法にしようとすれば告発します」と、書いているようだ。てっきり危険登るな、とでも書いているのかなと思った。いや、確かにここでムーダン(韓国のお祓い師)が怪しいことをするのは絵になりそうだ。ともかく登ってみた。(反対側から楽に登れるんです)村の一部が見渡せる。この山の反対側は、前世紀から栄えていた検丹里村である。そういう気持ちで景色を眺めると、下垈村前の道は川がとおっていたはずだ、と思えてくる。そして、もしかしたら此処から川を下って私達の遠い祖先がやってきたかもしれない、などとも思ってみる。
2012年02月22日
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福泉博物館の図書室にあった発掘報告書にあった地図はこれだ。左上から右下に大きな道路が通っていて、真ん中に→があるところが発掘されたところで、その周りの40軒ほどが私の歩いた下垈村である。下垈村の上に200m位の小山があり、その山を越えたあたりが検丹里村である。右下の道をまっすぐ行くと蔚山の街に至る。これに書いていた遺跡はどうやらセマウル(新しい村)会館(公民館みたいなもの?)があるところだった。建て替えの時の発掘なのかもしれない。当然今は何も跡は残っていない。此処には祝島にもあった練塀が残っている。倉庫の塀と家の周りの塀が連続していることでも共通点がある。但し祝島は石と石とのつなぎはコンクリートだが、こちらは昔ながらの土壁である。補強の関係か、石は基礎部分に多く積み、上の辺りは土壁を多くしているのも祝島と若干違う。補修も最近はなかなかできる人が無くなったのか、朽ちているところや、ブロック塀も多い。さて、この家がどなたの家かは分からないが、このあたりの家の典型みたいなので写してみた。見て分かるように、縁側が玄関の役割を果たしている。屋根の形は妻切りや入母屋つくりはほとんど無い。変形寄棟がほとんどで、棟木の部分、真ん中が少し反っている。日本の瓦屋根とよく似ているようで、微妙に、そしてたぶん根本的に違うのだろう。防犯上、縁側をサッシで補強している家も多い。村の入り口に合ったハデマウル(下垈村)の石碑。そして、その向こうに、この村唯一だったかもしれない「店」があり、今は営業していないかもしれないが、どうやらタンベチブ(タバコ屋)だったようだ。そして、その入り口のところにある赤電話がとっても興味深かった。今も使っているのかどうかは分からないが、あまりもの年代物である。青色のところで、使い方を絵で説明している。そしてボタンのところが、サッカーボールになっている。韓国的な、あまりにも韓国的な。
2012年02月17日
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12月25日(日)晴れ 韓国の旅三日目朝になってつらつら考える。想定外だったこと二つ。古地図を見つけることが出来なかったこと。「慶州は母の呼び声」に書かれている慶州、大邱の情景の文章がスマホで閲覧できないことが判明したこと。よって、慶州には行かないことにした。大邱に関してはこれから考える。朝食はノポドン駅で買った「マンジューハナ」とホッケのお茶。10個入りのマンジューを買うと三つもおまけしてくれた。朝食にしては高カロリーになってしまった。地下鉄一号線の最北の駅、ノポドンでスマホ(本当はiPhone)のカバーを買う。8000w(560円)、日本の約半額で済んだ。まるきり仕様が同じなのでこういうのは助かる。10分くらい時間をかけて丁寧に張ってくれた。日本の電気量販店では決して無いサービス。予想はしていたけど、携帯先進国韓国のスマホの普及率はたぶん日本より速いと思う。地下鉄では、なんと一つの椅子で四人が四人ともスマホだった。なぜ、韓国では地下鉄で堂々と携帯を使っているのか。日本のような「呼びかけ」は無いどころか、釜山では地下鉄構内にWifi(スマホ用の高速通信網)が入っていることが大きい。ノポドンのバスセンターから1137番バスに乗って下垈(ハデ)村に行く。ここは去年行った検丹里遺跡の隣の村である。確か幾つかの遺物が出ていたはず、と思っていたが、福泉博物館の図書室で調べると、発掘報告書は一つしか見つからなかった。けれどもブログ仲間のちえぞーさんが教えてくれた古墳が下垈バス停のところにあるという。大垈里(テデリ)古墳という。直ぐに見つかった。三韓時代の古墳だ。直径5m、高さ2.5mくらいか。自然のままに残っている古墳は初めて見た。やはり千数百年経っても円墳として残っているのだ。私は韓国の古墳の形を実は疑っていた。整備されている古墳は綺麗な丸い小山を作っているのだけど、本当に作られた当時はあんなに丸かったのか、そして高かったのか。これを見る限りでは、丸くて高かったということが良く分かる。表面の石は丸石が多かった。河原の石を敷石に使っていたのかもしれない。さて、立て看にも書いていたが、下垈村の山々に点在する下垈古墳群は三韓(3c-7c)の辰国のなかでは有力な国の墓だったようだ。三足青銅器釜も見つかっているとのこと。下垈村の散策に出かけることにする。
2012年02月16日
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南川聖堂は、釜山一大きな教会らしい。電車を乗り継いで行ってみた。クリスマスなので、善男善女が列をなしているのを想像していたのだが、ミサの時間が違うためか、閑散としていた。しかし、さすがに厳粛な雰囲気がある。二人だけ一心不乱に祈っていた。 この像は、謂われのある人なのだろうが、イマイチ分からない。日本のキリスト教の貢献者は背広を来ているが、韓国では両班の出で立ちです。 教会敷地内にある喫茶店で、コーヒーとワッフルを頼んだ。3000wのワッフルなので、単なるお茶受けのつもりだったなのですが、2人でガッツリ食べる量でした。(^_^;) 意外にも日本女性らしきおばさんがアルバイトしていた。チャガルチ駅前の宿に戻る。少し小汚い。我慢しよう。(ところが、寝る前に風呂に入ろうとすると、お湯が出ない。部屋の清掃もかつてしたことが無い雰囲気なので。文句を言う気もうせた。プレゼントのカップヌードルは絶対にやらない!!)夕食はちえぞーさん推薦の真珠食堂に入ってみる。ブログ上では、いつも日本女子が飲んでいるところなので、日本人がちらほら来ている穴場食堂と言ったイメージだったのであるが、さにあらず、地元の人で賑わっていた(日本人は一人もいない)。特にこの日はクリスマスイブだからなのか、椅子が一つだけしか空いていなかった。チヂミとビビンククスがお勧めだと聞いていた。とりあえず、ビビンククスを注文。それと焼酎のなかにお気に入りのチョウンデイがあったのでそれも注文。アジェンマは突然来て机を一人で占領して3000wの料理と酒しか注文しないので少々無愛想だったけど、仕方ないのです。教会のワッフルのせいでもうおなかはいっぱいだったのです。ところが、一品に付2品のパンチャン(おかず)が出てきたのですが、これがとても美味い。出てきて気がついたのですが、ビビンククスは昼に食べたビビンネンミョンと基本的に同じ料理でした。昼のネンミョンも美味しかったけど、こちらはそれ以上の味でした。見た目は悪いけど、味にコクがあるのです(しかも2000w安い)。何度も日本女子が来るはずだ。もっと食べたかったけど、腹がはちきれそう。今日はこれで撤退。また来るね。ここから総べて数字はWです。10,000(地下鉄チャージ) 3,300(コーヒー) 30,000(宿代) 5,000(昼食) 4,000(本) 3,000(タクシー) 5,000(ワッフルセット) 300(コーヒー) 6,000(夕食)計 56,600万歩計 29,499歩
2012年02月15日
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バスや電車を乗り継いで楽民(ナンミン)駅に降りる。この近く東莱貝塚があると聞いたからである。探し始めたのが4時30分。陽が落ちるまでには十分に時間があると思っていた。楽民駅から東莱貝塚を探し始める。ちょうど福泉博物館のパンフに簡単な地図があったのでそれを見せながら果物屋のおっちゃんに聞いたりした。四人ほど聞いて二人が「それならばあっちだ」と示してくれる。あちこち歩いた。この建物は集合アパートなのであるが、日本と屋根の重ね方が違っていて面白い。必ず煙突もある。未だに炊き込み型のオンドルなんだろうか。楽民駅入り口から大きな交差点の間の約1キロを四回ぐらい往復しただろうか。その間に道を聞いた果物屋のおっちゃんに「貝塚にいけなかった」と言ってみた。「地図を書いてくれませんか」とお願いしてみる。すると、おっちゃん、困った様子で隣の店に行って聞き出した。その時初めて分かったのである。「あっちだ」と言ったけど、この人は貝塚のことなど知らなかったのだと。一番の失敗は、いいかげんな簡略地図をみせたことだったのだろう。地図もいいかげんならば、それを見て場所を教える人もいいかげん。それを聞く私は、地図と教えられた処を厳密に推測し、「あの人があの場所からあっちと言った以上は、少なくともあの交差点からこの間に貝塚はあるはずだ」などと確信して少しの立て看も見逃さないように何度も往復してしまったというわけだ。立て看はそもそも無いのだと思い、少し込み入った路地に入っても見た。アパート群の隣にある昔ながらの住宅地の壁にこの地域の人々は「汽車通りとなりの愉快な園のムラ」と名づけていた。昔、駅の隣にあってわりと栄えた地域なのかもしれない。この家などは、土地いっぱいに建てているから二階は道路に出っ張っているし、三角の部屋割りはどのように使っているのだろうか。その一方で、まるで夢の村みたいな穏かな壁画を描いている。昔を懐かしむ地域住民の「心像風景」とはこのようなものなのかもしれない。大変もの悲しい。壁画の幻想のムラと実際のムラとの落差そのとき、観光案内所の人の一言が蘇った。「東莱貝塚は地下鉄の東莱駅ではなくて、貨物専用の東莱駅の裏にあるみたいよ」もしかしたら、この住宅地の東側にかすかに見える光が駅かもしれない。もときた道を戻って大きく回れば行ける。そうしたら、やっぱり駅の前の看板に東莱貝塚の案内があった。このとき、探し始めて既に1時間半が過ぎていた。あたりは、もう暗い。駅から350m歩き、東側から裏に大きく回るとあった。なんと、塀で囲んだりっぱな観光地じゃないか。でも近所でないと誰も知らないのだろうな。そんなものだ。周りには貝殻がいっぱい落ちているりっぱな貝塚だった。製鉄遺構が発見された重要な遺跡らしい。えっ、貝塚で製鉄遺跡!?それは日本で言えば縄文時代や弥生時代、紀元前のことか?それならば重要だ(と、あせったのだがのちにとこの遺跡は三国時代のものと分かる)。もう真っ暗だ。次行こう。
2012年02月14日
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古本屋街に行く。戦前の古地図をゲットしてそれを見ながら散策するのが今回のテーマである。ところが、いろんな本屋に聞いたが、そんなのは置いていない、と言う。そもそも80年代以前の本がほとんどない。戦争で無くなったか、そもそも古い本を有難がる、或いは読書人口そのものが少ないのか。これで、今回の旅の方向転換を決断しなければならなくなった。もっと、重大なことは森崎和江の「慶州は母の呼び声」を読み、感動して昔の慶州、大邸をなぞりながら散策してみようというのが今回の旅の「思いつき」であって、その本の感想はスマホの中にいつでも見れると思っていた。ところが、なんとインターネット環境の無いところでは見れないことに釜山に来て気がついたのである。大体の場所を現在の地図を見ながら散策するという案も使えなくなってしまった。聖書をこのように大事にする文化はあるようだ。皮の箱にカギつき。仕方ないので山野草の写真集を買った。8000wが4000wに。基本的に本そのものが安い。そして古本は基本は半額になるみたいだ。に戻って東莱(トンネ)駅から福泉博物館に向かう。ところが案内所で聞いた6番バスがどうしても見つからない。以前行ったときに覚えていた場所に何度となく行ってみたが見つからない。20分以上探して無いので主義に反してタクシーを使う(結局停留所が移動していたのである)。今回ここへは3回目なので展示品を見るのが目的ではないのだが、一応見て回った。ここの古墳群は木棺墓から石棺墓へと変遷していくのだが、木棺墓の作り方をおさらい。さて、ここへ来た目的は、ここの図書館に各地の発掘報告書があるのをこの前発見したためだ。行ける遺跡の正確な場所を探すためであった。明日行くハデ遺跡や金海の貝塚の場所を見た。
2012年02月13日
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とりあえず、旅では先ず高いところに登る。龍頭山公園に久し振りに登った。以前は確か工事中だったはず。でも変わり映えはしない。タワーは入場料をとるので、入るのは止めた。こういうところには、日本人には恥ずかしいようなカップル用写真お立ち台がある。イ・スンシン像の向こう側に最近できたロッテデパートが聳えている。しかもこのあと、高いタワーを作って完成させるという。なんだかなあ。龍頭山北側の中央教会ではなにやらクリスマスのイベントをやっているように思えたが、観光客は寄せ付けない雰囲気があったので諦める。釜山近代歴史館に再訪。今回の旅の一つの目的は戦前の地図歩きであったからだ。釜山の日本人租界地図があった。ただ、思ったよりは地図が少なかった。やはり古書店街に行こう。この博物館の説明文は相変わらず日本は「日帝」と書いて、それはいいのだがアメリカは全然悪くは書いていない。初めて来た時はそれは韓国人民の国民感情なのかな、と思っていた。しかし、だんだんとアメリカに対する友好的な態度はこの博物館の特徴なのだと気がついてきた。なにしろこの博物館自体が1947年から米国文化院として運営されていたのである。返還されたのは90年代。写真は博物館入り口。日本式の建物であることがよくわかる。韓国の「反米意識」は先年の蝋燭デモを出すまでもなく、映画「ウエグム漢江の怪物」の大ヒットを一つとっても、非常に根深いものがあるということが最近分かってきた。写真は1966年影島大橋開通の時の様子。橋の上にゴマ粒みたいにびっしりと人がいる。隣りの粉食屋で遅い朝食を食べた。以前「地球の歩き方」に載っていて食べに行ったら時間外で食べれなかったところ。ずっと食べたいと思っていたビビンネンミョン。「辛いですよ」と給仕のお嬢さんには言われたが、旨みのある辛さが後から来る。これこれ、これこそ久し振りの本場の味だ。
2012年02月11日
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12月24日(土)晴れ釜山港到着。気温は最高-1.6゜Cというテレビのお知らせ。急遽厚着をする。写真は朝の影島(ヨンド)である。この釜山港の窓口で下関駅前の商店街がウォンを使えることを知ったのではあるが、実際行ってみるとそんな店はなかったというのが去年の旅でした。このポスターをよくよく見ると、「使えるというマークがある店」に限ってということだった。でも、韓国商品を扱っている店を何件か尋ねたけど、そんなこと聞いた事もないよ、と言っていた。こんな店あるんだろうか。今のご時勢で日本でウォンが使えたら、売り上げがそれだけで20%は下がってしまうね。地下鉄中央駅からチャガルチ駅に行き、スターバックスで今回の予定を立てる。チャガルチの三原荘に泊まろうと行って見ると、フロントは朝早いのでぐっすり寝ている。悪いけど起して泊まれないかと聞いてみた。なんと予約でいっぱいだという。クリスマスのモーテル状況を甘く見ていました。するとそこのオバサンが隣のモーテルを紹介してくれた。荷物を置きたかったので、少し汚い感じだったけどそこにする。「サンマノン」というので3万wを渡すと、オバサンは少し驚いた。しかし、少し考えて受け取ってくれた。4万w(サーマノン)だったのかもしれない。吹っ掛けたのかも知れないが、考え直してくれたのかもしれない。私がいかにも当然という感じで渡したのがよかったのだろう。本当は今日は2万5千wで泊まるつもりだったのだ(その後、ここの宿がこの旅で最悪最高値の宿であったことが判明する)。観光案内所で突っ込んだ行き先をいろいろと聞く。当てにしていた映画ロケ地図が無くなっていたのが痛かった。光復洞はすっかりクリスマスバージョンになっていた(釜山名物のクリスマス電飾は後でいくらでも見ることができるわ、と思っていたらついに最後まで見ることができなかった)。この交差点に昔倭館があった跡の説明版を置いているのに今回初めて気がつく。あとで戦前の地図を見てわかるのであるが、ここの一大観光街がそっくり昔の日本人街であったのである。ちょっと横道にそれてみた。家の建て替えをしていたので、そこの「土」を少し見てみる。倭館があったころの古い層が覗いていないか期待したわけだ。しかし出てきたのはハングル文字の紙。諦めた。
2012年02月10日
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岩国駅ではこんなポスターが。確かに長門は金子みすずの故郷だけど、こんなポスター作らなくてもいいのに……。岩国駅で青年と別れる。電車待ち40分。電気屋に行ってトイレでスマホの充電をしようと思っていたら、ちょいと品物を見ている間に時間がなくなる。地元作家ということで、島耕作バスが動いていた。まあ、それはよいとしよう。けれども「岩国出身の社会派漫画家」とかいているのはどうだろうか。私に言わせれば「財界派漫画家」である。弘兼憲史は岩国の共産党の活動家を父にして生まれた。彼はそれに反発して東京に出たところがある。しかし、彼の初期の作品は岩国基地の悲劇をテーマにしたり、東映争議を背景にした映画作家の卵を描いた「夢工場」を描いたり、割と「社会派漫画家」になろうとした時期があった。しかし、島耕作や加治隆介などを描き出したころから、取材先が財界や政界になったせいか、急激に彼らの宣伝係みたいな作品しか書かなくなった。こういうのを「太鼓餅」というのではないか。デビュー当時期待していただけに、私は彼には厳しい。まあ、財界にコネを持たないと、こんなバスは動かないのかもしれない。 このときから、二ヵ月後に岩国市長選があった。市民はやはり財界派を選んだ。夕暮れ時に下関駅に着く。駅前のシーモール。ここの国際ターミナルを使うのもこれが三回目。フェリーは日本船「はまゆう」だった。前回は行きが韓国船だったからこの前と違う。ここから前回買っておいたw札を気楽に使おうと思っていた当てが外れた。ビールはロングが220円。これだけが免税エリアの特権。夕食はレストランでトッポキとチヂミを頼んでマッコリを飲んだ。全品300円だったが、全品それなりの味だった。この日までは円。340(バス) 2,500(青春切符) 220(ビール) 10,600(フェリー代と油加算、港使用料) 900(夕食)計 14,560円万歩計 6,624歩
2012年02月09日
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去年12月の8日間の韓国の旅の記録、はよぉ、あっぷせいや!という一部の声があったので、途中で息切れするかもしれませんが、始めます。と、言っても今日明日はまだ日本です(^_^;)。ぼちぼちやります(←だんだん「カーネーション」弁になってきとるで)12月23日(金)晴れのち曇り今年は冬休みが掛かっているので青春切符が使える。金券ショップで二枚のみゲットした。フェリー代が往復約2万円だとすると、下関釜山コースは往復約2万五千円。実際はバス代や途中の食事代もあるからもう少しかかるがこれが現在考えられる一番安い岡山から韓国への行き方である。岡山には飛行機の超極安チケットがない。これが都内大阪福岡近郊だったならばまた条件も変わるだろう。ただ、私のルートは日本国内の移動のみで丸二日を使うのが難点である。倉敷駅からは新しくできたばかりの都市型アウトレットモール「アリオ」が見える。税金ドロボーのリボリ公園の生れの果てである(この写真は2007年の在りし日のチボリ公園)。思えば二回も選挙の争点になたけど、二回ともチボリ反対派が敗北。チボリを導入して失敗してそして誰も謝っていない。ある市民が「(導入当時の)渡辺市長は死んじゃったよね」としらりと言った時に「あの時お前はどんな態度をとったんだ」と言いたかったけど、大人なので止めました。でも、これは原発導入と同じ構造なのではないかな。誰も謝らない。8時40分倉敷駅出発、9時49分糸崎で一回目の乗り換え、広島駅を過ぎた時に私と同じように大荷物を抱えた青年が向かい合わせの席に座った。袖触れ合うも多少の縁、青年と少し話をする。彼は福岡から広島にやってきてこれから帰るのだという。彼はオレンジカードで汽車賃を節約していた。まだこのカードが出回っていること自体に私は驚いた。節約といってもたぶん一割ぐらいしか安くならないはずだ。広島電鉄とバス路線を見に来たのだという。「写真とか撮るんですか」「ええ、バスに関してはあまり得るものがありませんでした」「韓国のバスはまた変わっていて面白いですよ。ダイヤグラムがないも同然だったり……」「……。外国は興味がないんです」「……。」お互い趣味の世界は理解できない。そして奥深い。今回もリュックサックに四日分の下着、薄い上着をつめてプレゼント用のカップヌードル四個を入れて、韓国の地図、弁当を入れるとリュックはパンパンになった。これは動き回ることを重視した荷造りである。だが、ふと気がつくと電子辞書を持ってくるのを忘れたことに気がついた。韓国で買おうか、それとも古本屋で辞書を買おうか迷ったが、スマホの辞書アプリをインターネット圏外で試すと、例文が出ない85円簡単辞書のほうは圏外でもOKだった。これでやれるかどうかやってみよう。(←結局、とっても簡単な単語さえも出てこない使えない辞書だと分かった。ということに気がついたときは古本屋は遠く、この旅は辞書なしで過ごすことになってしまった)
2012年02月08日
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