この空のかなたに

 この空のかなたに

♪ビル・エヴァンスの魔法♪



そして、1961年6月25日、NYのヴィレッジ・ヴァンガードに向かう。
席の最前列に腰をかけ、ビル・エヴァンスのピアノに耳を傾ける。
ほかの客のざわめきとグラスの音に、どきどきする気持をまぎらわせて。


どれだけ言葉を尽くしても、表現できないものがある。
むせかえるような怒りも、道端にうずくまってそのまま土になりたいような悲しみも、
それ自体を取り出して誰かに見せることはできない。

ビル・エヴァンスは世の中のあらわしきれないあらゆる感情を、
その背中にしょい込み、指先から音に換えてみせた。
「ほら、君の気持はこんなじゃない」って。



W.F.D.

このアルバムにはヴィレッジ・ヴァンガードで演奏された、ワルツ・フォー・デビイが収録されている。
この世に名曲はあまたあるけれど、もう十年以上別格の座に留まりつづけている。
ちなみにテイク1、2とあるうちの、テイク1の方。

それはビル・エヴァンスが兄の娘、デビイに捧げたものという。
実際どんなひとなのか知る由もないけれど、彼女が三歳の頃に書かれたものなのだとか。


ビル・エヴァンスのピアノ。スコット・ラファロのベース。ポール・モチアンのドラム。
どの人も欠くべからずの存在として、そこにいる。

楽譜の中から、AとCの音を合図にデビイは立ち上がる。

天使のような足取りでピアノの鍵盤を歩き、ベースの上で弾む。
そして、ドラムのブラシにあわせて楽しそうに体を揺らす。そんな姿が見えるよう。
ビルがこの曲にこめた彼女のまばゆい生命力に励まされ、なぐさめられているのかもしれない。

この先、ワルツ・フォー・デビイを超えるような曲に出会えるかはわからないけど、
会えたら会えたでうれしいし、会えなくても満足だわ、と思う。


ワルツ・フォー・デビイ 「Waltz For Debby」のほかで、
ビル・エヴァンス演奏の曲のお気に入りは、迷いつつも下記の二つ。

「I Do It For Your Love」 ~『Affinity』
「Spartacus Love Theme」 ~『Conversations With Myself』

「Waltz For Debby」を何かに例えると、栄養剤みたいな感じ。
品名をあげるなら、ポポンS(シオノギ製薬)、もしくは、アリナミンA(武田薬品工業)でもいいかな。

そして、「I Do It For Your Love」はメンソレータム(ロート製薬)、またはメンターム(近江兄弟社)。
二つは黄色いか白いか程度の違いらしいけど、どっちも傷には優秀。

「Spartacus Love Theme」は、何だろな、降圧剤ってイメージかしら。
血圧を下げる必要にかられたことがないから、品名は書けないけど。


薬は使ってしまえばおわりだけど、いい曲は何度でも口にすることができる。

ビルは稼いだギャラを右から左に’クスリ’代に変え、寿命を縮めてしまったのだとか。
もしかしたら、彼の音楽が自身を慰撫するだけのためだったなら、
世界中の人々のこころを動かすものにはならなかったのかもしれない。

でも。彼の功名が彼の生を短くすることにつながっていたのなら、人の幸せって一体何なんだろう。


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以前、勤めていた会社の別の部署の方に、朝の出勤時に会った。

仕事で直接関わることはなく、挨拶する程度の方だった。
耳にかけていた私のヘッドフォンに目をとめて、「何を聞いてるんですか」、と。
「あぁ、えっと…。ビル・エヴァンスのワルツ…(以下略)。」

まぁ、あーでこーで、とお話したら、妙に喜んでくださり。

私が会社をやめるとき、「 コーネルの箱 」という本をひょっこりくださった。

詩文集なので入りにくかったけど、こんな記述に目を惹かれた。

>我々の存在における「それ」はそれ以上特定しえないものだから、
>言語の本質は「それ」を前にしたときのその貧しさだから、
>「それ」に向けて人は鏡をかざすことなどできはしないから、
>「それ」は迷路に棲む怪物であり永遠の遊び友だちだから、
>人は「それ」の存在感を浮かび上がらせることを目的とする芸術をめざす。

その方は文章を書くお仕事をされていた。
ことばの貧しさにみもだえしながら、ピアノに向かう人もいれば、ペンを持つ人もいる。
餞別にいただいた、なぞかけの「そのこころ」。こんなんでいいんだろか…。


音楽のことについて、普段誰かに伝える機会はほとんどないのだけれど、
それは時に、思いがけない贈物を運んでくることもあるようです。

ビル・エヴァンスの音は彼がこの世を去ってもなお、不思議な魔法をかけてくれています。
ミュージシャンとマジシャンは、思いのほか近い存在なのかも。


以上、拙い言葉遊びにお付き合いくださり、ありがとうございます。

もっとまともな、彼に向けた綺麗な文章があるんで、
次のページに載せておきます。あ、私が書いたやつじゃないですよ。


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