第4章 プロの支援
■絵コンテ
「サルかあ」
幸島のサルを保護する三戸サツエさんの献身的な取組みは知っていた。だが、私の最大の関心事は今、サルではなかった。「はい」と返事をした以上は、と思ったのだ。あまり期待せずに会場に入った。
映画が始まった。ステージ奥のスクリーンに海の映像が映し出された。それは私が見たこともない海の表情。生命の起源を感じさせるような始まりだった。タイトルは「風といのちの詩」。宮崎県串間市の自然の姿が映像と音楽だけで繰り広げられていった。いのちの大切さを私たちに問いかける映画ということを直感した。一変して、幸島のサルたち。楽しいユーモラスな動きと共に、音楽も変わる。出演する動物の声や風や葉ずれの音は聞こえるが、ナレーションは全く入らない。サルを呼ぶ女性の後ろ姿。三戸さんだ。長年幸島のサルの観察を続け、サルを守ることで自然破壊に立ち向かってこられた。ここで三戸さんの声が入る。かくしゃくとした話し方。お元気だなあ。
その後、第2次世界大戦中の幸島のサルたちの悲劇が写真と文で伝えられた。「あっ、これだ!」私は声をあげそうになった。私が作ろうとしている第2ステージは、まさしくこの映画のような構成なのだ。映像・音楽・写真・音・文。私が作ろうとしているものもこれに近い。私はこれにナレーションと生演奏を入れる。私はいつしかメモをとりながら映画を観ていた。
「風といのちの詩」を観てすぐに構成絵コンテにとりかかった。この映画はDVDだと後で聞いた。誰かに私のイメージを1枚のDVDにしてもらわなくてはならない。編集ができる人。でも、そんな人は今私の周りにはいない。これから人探しだ。カーニバルを全く知らない人である可能性が高い。だから、わかりやすいコンテを作らなければならない。さっきまでの悲壮感はなかった。コンテなら出来ると思ったからだ。これが出来なければ、話にもならない。誰に頼みようもないのだ。口と身振り手振りで伝えることができるような情報量ではないのだ。
画面に見えるもの・聞こえるもの・ステージ上にあるものに分けて、最初から描いていった。スクリーンの大きさも、映画を観たからイメージできる。頭の中にずっとあったものをパソコン画面の表に描き入れていく。
オープニングはみんなの顔写真に手足をつけたキャラクター11人。
これがアニメのように動く。
その時の歌は「夢大きくなあれ」。
♪電車は走る、飛行機は飛んでく、僕たちは歩いてく、夢に向かって♪ここで切る。そのあと、みんなの声。「カーニバル!わたしの歌を聞け!」と共に文字が出る。
このあと、カーニバルの歴史を紹介する。
ナレーションが入る。「カーニバルは一人の少女のつぶやきからはじまりました」
この文も画面に出そう。声だけよりも印象的だ。
緑さんの切り抜き写真と共に「歌をならいたいなあ」とナレーション。
「社会福祉協議会の呼びかけで指導者が決まりました」とナレーション。
私の切り抜き写真と共に「一緒にうたいましょう」とナレーション。
そうだ、漫画の吹き出しみたいにナレーションも画面に出そう。
そして、メンバーがだんだん増えていく過程。
練習風景の映像。
デビューステージ。そして自主コンサートを目指す。
「力いっぱいがんばります」と広大君の書いた字が入る。
ひとりひとりの紹介。緑さんの絵。ここでソロが3人入る。
サポートメンバーもふくめた活動の映像。ここでゆかりさんの「オリオン」。
写真の右にテロップ。協力者の名前がスクロールする。バックの色は黒。
大サビは星の映像。
一変してインタビュー。みんなに夢を発表してもらおう。
「夢大きくなあれ」をみんなで歌う映像。
「みんなの夢が大きくなりますように カーニバル一同」と文字。
「カーニバル一同」は広大君に書いてもらう。
最後にカーニバルのロゴを出す。
始めてしまうと楽しい作業だった。作りながら、ナレーションが決まり、選ぶ写真まで目に浮かんできた。こと細かく決めていくと、本当に第2ステージは始まって、ひとりひとりが輝きだした。ついさっきまでは、この作り方さえ思いつかなかったのだ。映画を観に行って「よかったあ、よかったあ」と何度も独り言を言っている。いつしか外は台風の模様。作業は思い切りはかどった。一晩で、私のわがままをすべて盛り込んだ絵コンテができた。その十数分後、家全体が揺れるほどの強風と共に停電になった。出来上がりがもし30分遅かったら。データ修復に必要以上に時間を取られ、その後の作業が大幅に遅れたはずだ。停電は3日も続いたからだ。危ないところだった。
■映像編集のプロ
私は出来上がったA4の10枚もの絵コンテを持って、教室をさっきからうろうろしている。この絵コンテを25分の作品にして、1枚のDVDにしてくれる人を探している。時間がない。受話器を取ったり下ろしたり。この絵コンテを誰に託すか。決めかねている。それどころか、見当もつかない。
私はこれまで、たくさんの人の助けを借りてここまで来た。真剣に探せば誰か見つかるはずだ。まだまだ真剣さが足りないのだ。コンピューターに詳しい人。コンピューター、コンピューター。あっ、コンピューターの専門学校に行っている学生はどうだろう。都城市の学校をタウンページで調べてみる。あった。二つある。どちらがいいのだろう。待てよ。教室で公文の採点の仕事をしてくれていた原田宙君が行った学校はどちらだろう。学校事情など本人に聞くのが一番だ。さっそく原田君に連絡をとる。
彼は地元で働いていたので、すぐに連絡がついた。そして1時間後には教室に来てくれた。5年ぶりに会う彼は、営業マン。すっかり板に付いたスーツ姿だが、それでもやんちゃだった小学生の頃の面影を少し残していた。
私はカーニバルの活動を「広報みまた」を広げて説明した。
「すごいっすねえ。自分も福祉学科だったから、こういう話を聞くとうれしい」
原田君はとても喜んでくれた。そして、自主コンサートをすることを告げると
「すごいっすねえ。コンサート成功してほしいですねえ」
と賛同してくれた。彼が通っていたのは都城コンピュータ福祉医療専門学校。私が学校で映像編集をしてもらえるかどうかを尋ねると、彼は
「福祉学科の井ノ上先生がとても熱心でボランティアに関心のある方なんです。とても信頼のおける先生なので自分が連絡をとりましょう」
と言ってくれた。何の伝も無く学校を訪問しても、受け入れられる可能性は少ない。だからとてもありがたかった。
翌日、原田君から連絡が入る。井ノ上先生が会ってくださるとのこと。数日後には彼と一緒に学校を訪問した。広報と絵コンテを持って。だれか有能な学生を紹介してくれることを願っていた。
専門学校の玄関ホールで福祉学科の井ノ上先生と久し振りに面会した原田君。社会生活にすっかりなれ、私を紹介してくれる態度なんかも堂々としている。頼もしい。私が井ノ上先生にカーニバルの活動を話し、コンサートの絵コンテを説明しだすと、井ノ上先生は
「ちょっと待ってください。ここからは、コンピューターの先生に来てもらいます」
と席を立って、事務室の奥へと入っていかれた。すべてを聞くまでもなく、私の訪問の理由を1分とかからず察知されたらしい。
コンピューターを学生たちに教えていらっしゃる関至己先生を連れて戻ってこられた。若い男性だ。井ノ上先生は、私の代わりに関先生に趣旨を説明してくださった。私はこの井ノ上先生の能力に大変驚かされた。そして、真剣に話を聞いてくださった関先生はこう言われた。
「わかりました。お引き受けしましょう」
私は学生さんを紹介してくださるとばかり思っていたので、そのことを言うと、
「学生にさせれば、余計に時間が掛かり大変なことになります」
学生さんもたくさんの課題をかかえて、学校の内容でやっとであること、など話してくださった。関先生はなんと東京のCM制作の現場でプロとして8年間も映像の仕事をしていらしたとのこと。絵コンテにさっと目を通され、
「1日もあればできるでしょう。プロですから」
という力強い言葉をいただいた。後は先生にお渡しするデータを揃える。もうそれだけでいいのだ。これまでの不安が一度に晴れた思いだった。
■ロゴから始まったカーニバル・デザイン
話はさかのぼり、自主コンサートに向けて新曲の練習が始まった初夏のこと。サポートメンバーの八木裕子さんのお宅を訪ねた。たくさんの相談事を抱えて。
八木さんは、自宅でピアノ教室をされている。そのかたわら、都城クリスタルコールという合唱団に所属して活躍されている。池田玉先生が築き上げた全国でも有名な混声合唱団。私は亡くなられた玉先生がお元気で指揮を執っていらした頃、この合唱団にちょっとだけ在籍したことがあり、八木さんと知り合いになった。クラシック音楽をはじめ、幅広い音楽を生活の中に取り入れて楽しんでいる方。電話一つでカーニバルを応援してくれるサポートメンバーになった。そういう乗りのいい面も持ち合わせている大変ユニークな方だ。
玉先生を偲ぶ会で、八木さんと一緒にいらしたお嬢さんと初めて会った。土井瑞絵さんだ。私は、立ち上げ当初からずっと、月に2回、サポートメンバーに「カーニバル情報」というメールを送信してきた。練習日の様子や会の動きや私の思ったことを伝えるものだ。土井さんは、この情報を八木さんより早く目を通し、影でいつもエールを送ってくれていた。私が「風になりたい」を練習曲に決めたとき、同時に土井さんも「風になりたいがいいのでは?」と八木さんに話していたという。だから初めて会うのに、前からの知り合いのように話ができる。土井さんは「何かお手伝いできることがあったら」と申し出てくれた。つい最近まで、なんと印刷会社に勤めていたが、結婚を機に退職されたという。
カーニバルのCD作りのこと、コンサートのためのプログラムやチラシ・チケットのデザインなど、少ない予算でどうやってやりくりし、デザインを決めていくのか、一人で心配していた時だったから、土井さんの言葉はとてもとてもうれしかった。
「いい活動をしているグループがあっても、周りの人たちの多くは、手伝いたくても何をしたら助けになるのかわからない。自分ができることで役に立つならとてもうれしい」
としっかりした口調で言ってくださった。相談に乗ってもらえるだけでもうれしいのに、きちんと理解したうえで、手伝ってもらえるというのだからスゴイ。こんな人がいるのかあ、しかもこんな近くに、と驚いた。
そして今日、その土井さんが実家で私を待っていてくれたというわけだ。最初はチラシやプログラムのデザインや内容、これらが出来上がるまで、どんな手順で運んでいったらいいかを相談していた。アドバイスを貰ううちに、カーニバルのロゴマークがあったらそれぞれのデザインに統一感が出ていいね、という話になっていった。ではロゴを作ろう。
「作ってくれる人、誰かいませんかねえ?」
なんて遠慮がちな相談から入る。土井さんは土井さんで、そんな大事な仕事を
「私でいいの?」
と遠慮がち。初めはそんなものかもしれない。
「え~?作ってくれるの~?」
こうして彼女の最初の仕事はカーニバルのロゴ・マーク作りとなった。その後、私は彼女がいなかったらどうなっていただろうというくらい、土井さんをこき使うことになる。もちろんそんなことになるなんて、初めは考えもしなかった。だが、土井さんがアイデア豊富で有能な人であったばかりに、次から次へと相談をもちかけ、カーニバルのデザイン部門はすっかり土井さんの手に委ねられることになった。
土井さんはイラストレーターというソフトを使いこなす。もとよりカーニバルのファンでいてくれたことで、イメージをつかむのも早く、たった一日で3種類ものサンプルができた。保護者の朝倉さん、若い二川さん、そして私とで、その中から一つを選んだ。太陽の顔が歌っている元気なデザインだ。「carnivalわたしの歌を聞け!」というキャッチコピーもデザイン化されている。このロゴマークは、みんなから「キャーきゃー!」と圧倒的支持を受けた。
CDやプログラムやチラシ、ポスター、すべてにこのロゴが楽しく登場するだけでなく、例えば、カーニバルグッズという展開もありうる。そうした私たちの夢が確実になる予感すら与えてくれる。デザインというのはそういう力を持っている。これからカーニバルと、このロゴ・マークは、ずっと一緒に歩き続けていくのだ。チラシやプログラムやチケット・CDのジャケットやレーベルのデザインなど、できるところは早めにデザイン化してもらった。そのすべてにロゴがあることで、コンサートまでの煩雑な仕事の山も、みんなわくわく気分で片付けていくことができた。
■レコーディング
カーニバルは二人の天才作曲家のおかげで、すばらしい曲をたくさん持つことになった。カーニバル色に染まっていった創作の日々が過ぎて、みんなの練習が進み、いよいよレコーディングとなった。
レコーディング・スタジオという録音器材を、赤い羽根共同募金で購入することができたのは5月。しかし、使いこなすのは至難の業だった。浩臣さん、9月は器械との格闘に終始した。第1回目の録音は散々だった。音を録ることはできたが、十分の音量ではない。こんなはずではなかった。ゆかりさんがその時泣いた。自分の声が聞こえなかった、と。心優しい彼は発奮した。2回目の録音でもマイクからの音が入らなかった。練習日を増やして、3回目の今日がリベンジの時。もう後がない9月末だ。当初の計画より大幅に遅れている。今回成功しなければ。そんなプレッシャーも彼にのしかかっていた。
レコーディングは、広大君の涙で始まった。この頃彼は感動で涙することが多い。でも、「がんばれ!ファイト!」の掛け声でカーニバルの仲間らしい滑り出し。もちろんSMILEから。練習しなくてもこの曲はいつでも歌えるようになっている。本当にカーニバルの歌になった。弘樹君のサイクリングも、拓也君のソロやハーモニカも、今までで最高の出来。朗読も涙が出そうなくらい楽しく録音できた。もちろん、「じゅん&めぐ」の「愛」は緑さんも加わって、傑作のレコーディングとなった。
浩臣さんの周到な準備のおかげで、短時間でCDのための曲、第2ステージのための朗読や新曲の録音、それから当日声が出なかった時のいざという場合の録音、そんなことまで出来たうえ、ミニ・コンサートまでできた。予想を上回る順調なレコーディングで、今までの苦労が吹き飛んでしまった。今までの苦しい時間は、今日の成功のために必要な時間だったのだ。実はここまで来るのに、たくさんの方が浩臣さんを支えてくれていた。先ずは三股町役場の永吉さん、西山さんがわかりやすいノートを作ってくれた。それから、西田さんという音楽編集のプロが電話でたくさんのアドバイスをくれた。また、西村楽器の店員で元公文の生徒だった下村さんも録音の手伝いに駆けつけてくれた。たくさんの人たちが、カーニバルのレコーディングの成り行きを見つめてくれていた。
2.3日して携帯が鳴った。浩臣さんだ。もうできたのか。レコーディングが終わったら直ぐCDができるわけではない。音の調整や雑音を取り除くなどの編集の作業が録音時間以上にかかる。録音を無事に済ませた浩臣さんは、疲れも見せずすぐに編集作業に入ってくれていたのだ。跳んで行った。
「聴いてみてください。すごいっすよ」
先ずはSMILE。緑さんの声がはっきり聞こえる。そして純子さんの声がまるで装飾音のように入っている。彼女は男声パートも女声パートも歌っている。男声の時はおそろしく低く、女声の時は天まで行きそうな高い声で。この二人の声のおかげで、もうすでに不思議な世界ができている。マイク1本をぐるりと取り囲んでの原始的な録音。臨場感にあふれている。これにサポートメンバーのボーカルをどのような比率で入れていくかを、浩臣さんの感性に委ねている。
メンバーだけだと歌詞が聞き取れなかったり、音が出すぎたり引っ込みすぎたりする。その調節も手動で調節し、何度もやり直した結果を私に聞かせてくれている。自分の思いや私の思いや客観的に見てどうなのかということ、全部を考えながら何度も編集してくれたのだ。その後、全部を聴き、各曲のバランスを見て、またやり直し。音の追求が果てしなく続くように思えた。しかし、それにようやくピリオドが打たれた。2枚の素材データが私に手渡された。1枚は販売することになるCDの元データ。土井さんに手渡す。もう1枚は第2ステージ用のデータ。これは関先生に手渡す。レコーディングスタジオを駆使して、ようやくここまでやり遂げた。浩臣さん、この人がいなかったらと思うとぞっとする。