「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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楽園のサジタリウス3 五
「はあ、はあ、はあ……あの、昨日、俺は死にかけたはずなんですが……」
「看護兵がもう大丈夫と言っていたから問題ない。ほら、休憩は終わりだ」
「あのー、休憩って二十秒ほど膝ついていただけですが……」
「もう一分経った。充分すぎるな」
「ヘレナさーん! スポーツ医学ってご存知ー!?」
知るわけが無い。キョトンとした顔をしたヘレナは、いいからと無理矢理一機をまた走らせた。日はやっと昇ったというところだった。
一機がやっとうとうとした矢先にヘレナが「いつまで寝てるんだ!」と叩き起こしいきなりの走りこみ。もう何キロ走ったのか一機は思い出せない。
「まったく、これぐらいでへばっていては親衛隊など勤まらんぞ。これから毎日鍛え上げねばならんな」
鼻を膨らませて笑いながらヘレナが宣告した。一機にとっては上に『死刑』の二文字がつく。この人スポ根タイプだったのか。
当たり前と言えば当たり前だが、親衛隊とは騎士の集団で、騎士とは戦いをする人で、つまりは筋力と体力が必要な仕事。だからと言って突然のスパルタ特訓にネトゲ中毒の半ひきこもりがついていけるわけがない。開始して早々にゾンビ化していた。うーうー言っている。
「麻紀の奴、昨日の思わせぶりな態度はこれか――だったら素直に説明せいってんだ。するわけねーかあのプチデビルが」
気がつけば、もう太陽が昇っていた。いや別物だろうが。一機が初日の出を見るのは何年ぶりになるか。こんな美しいものだったなんて、と感動したためかちょっとしょっぱい液体が目だけでなく全身から流れ出す。
「ってそれは単なる汗だ!」
「何をブツブツ呟いてるんだ。特訓は終わってないぞ」
「ヘレナさん、悪いんですけど水持ってきてくれません?」
「ダメだ。水を飲むとかえって疲れる」
「それ迷信だから水! なんで知ってるんだよ!」
十数年前の野球部じゃあるまいし、そんなエセ医学語られるとは本当にやばい。そうグッタリした様子の一機にヘレナは呆れるだけで、
「まったく、素人だからある程度しょうがないとは思っていたが、これでは話にならん。ハンスはもっと……あ」
「ん?」
顔を上げると、しまったと口をふさぐヘレナがいた。何かバツの悪い顔をして、こちらに目を合わせようとしたない。
「……仕方がないな、ちょっと待ってろ」
何処か誤魔化すように水辺へ汲みに向かう。あれだけ走ったのに、ヘレナは疲れどころか息の乱れすらない。漫画みたいな体力である。
なんて馬鹿なことを考えながら一機は地面に仰向けに寝っ転がる。汗でぬれたシャツとズボンは、血まみれになった制服の代わりに借りた親衛隊員のものである。隊長の命令だから隊員も貸さないわけにはいかないだろうが、男の俺に予備の服を着られる女性隊員の心中察する。着込んだ俺の全身見て涙ぐんでたようだったけどなんだろと一機は引っかかっている。
そんなことはどうでもいいと思い直した。死ぬ、確実に死ぬ。一機は生まれてから十数年学校の体育以外運動などロクにしたことがない。じいさんが生きていた頃は山登りとか寒中水泳とかやらされたものだがそんなの今は昔の物語。このままだとやばいと一機は生命の危険を覚えた。
なんとかさぼるかやらずに済む方法を考案せねば、とない知恵振り絞ろうとして、頭を抱えて地面に寝っ転がると、ヘレナの後ろ姿が視界に入った。桶で湖の水を汲もうとしている。
「…………」
さすがのヘレナもそれなりに水分を消費したらしく、シャツは汗で濡れていた。
体にピッタリ張り付き、ボディラインを強調する。
さらには水汲みで動くたびにヒップが揺れて……
――ああ、やっぱヘレナって、良い体してるよね……古い言葉でボン、キュッ、ボンだ。着ているのは皆と同じシャツとズボンなのに、こうところどころはち切れんばかりに押し上げて、ああ……
的場一機。体力は突き果てたはずが、性力は全然だったようだ。
と、その時。
「!”#$%&’@+*<>¥|○×△□!?」
何語かわからない絶叫がその場に轟いた。
ぐわし、と一機の下半身(生命維持には必要ないが子孫繁栄には不可欠な部分)を踏まれたのだ。
「~~~~~~~~~~~~!!」
「なにヘレナ様をいやらしい目で見ているのですかあなたは!?」
高飛車な声が非難する。確認するまでもなくグレタだ。
「な、なにをしているグレタ! 一機、いったいなにが……!」
「やっぱり成敗しましょうこんな不埒者! ヘレナ様に対しいやらしい目を向けて欲情するなど言語道断! 即刻断罪されるべきです!!」
「なっ……」
赤くなったヘレナに対し全速力で首を横に振る。実際は見ていたのだがそれを言ったら一機の首は確実に胴体から解放されるであろう。
「往生際が悪い! ええいこうなれば、今私自身の手で断罪してくれる! 首を上げろ!」
「……それより、おたくのこの行為こそ断罪されるべきかと思うが……」
「男は黙りなさいっ!!」
苦悶の中からやっとひねり出したことばをいとも簡単にはじかれてしまった。もう本当に涙が出てきた。ていうかあまりの激痛にとっくに泣いてはいたが。
「だから剣を振り下ろそうとするな! 落ちつけこの馬鹿!」
今にも斬り殺そうとするグレタをヘレナが必死で羽交い締めにする。デジャヴを感じ、股間を抑えたままほふく前進で逃げようとする。が、その場にガッシリ押さえつけられる。四方から伸びてきた無数の手に。
「……え?」
ものすごく嫌な予感がして振り返ると、そこにいたのは(一応)一機と同じく親衛隊の方々。一人残らず目が鋭く怒りに燃えている。
「グレタ副長、どうぞ!」
「ええーーっ!?」
「こんな大馬鹿者、処刑されて当然! カルディナ神の名の元に裁かれなければなりません!!」
「ちょっ、ちょっと待てぇーー!!」
今まで感じたことのない殺意の集中砲火を浴びた一機だが、この隊員たちの怒りが単に隊長の尻を見ていたからだけではない気がいた。
「お前らもよせ! 新入りとはいえ、同じ仲間になんてことを――!」
「誰が仲間ですか! 私たちは認めた覚えはありません!」
「そうだ! 男が親衛隊員など我は絶対認めん」
一機を親衛隊に入れるという話は既に昨日したはずだが、やはりヘレナの独断によるもので受け入れてはいなかった。その理不尽が爆発したのだろう。それには一機も同意するが……
「よりにもよってヘレナ隊長の裸を見るなんて……ゆ、許せない!」
「そうだ! あたしだってのぞくスキをうかがってたのにいつも周りに抜け駆けするなって邪魔されて……あ」
――前言撤回。同情する必要などない。真性だこいつら。
「あーもう、お前ら全員走ってこい!」
「「「「「「「は、はいいぃ!!」」」」」」」
総勢百人近くという親衛隊員、そのほとんどが脱兎のごとく一喝され走りだしていった。まああいつらの気持ちはとてもとても理解できる、あれはのぞく価値のある体だぐへへ――などと一機が昨日の眼福を再生して嫌らしい笑みをしていると、
「『巨乳生徒会長伊座南海、堕落議事録』」
「……!?」
全身の血液が一瞬にして凍結されたような錯覚を覚えた。耳元で一機にとってつうこんのいちげきを囁いた死神に、ぎぎぎ……と凍りついた首で振り向いた。
「――何故それを」
「相変わらずのおっぱいフェチですね。あ、いやそうでもないか。巨乳派というより一機さんは美乳派でしたよね。ああ、それも違いますね。私には純愛派気取ってますが、本当はソフトS」
「俺の性癖の話なんかしてねーよ! なんでそのソフト知ってるんだ!」
一機の心臓を一旦止めた死の一言、直訳するとデスワードは、最近一機が購入したもので、まあ、ある特定の年齢に達した人間でなければ買えないパソコンのゲームである。本来一機は対象外だが、年齢を訴訟してネットで手に入れていた。
「いくらパソコンの履歴を消したとしても、実物を目にしてしまえば意味なんてありませんということで」
「特注の二十個の番号入れなきゃ開かない戦車に踏まれても平気な耐火金庫に入れといたんだぞ!?」
「付き合い長いですから、貴方が入れるであろう番号くらい余裕でわかります」
「五本の複製不可新開発の電子キーは!?」
「それはまあ、乙女のヒ・ミ・ツってやつで」
「そんなんで開いたらルパンも五右衛門も涙目だよ!」
「おい狙撃手気取り、ガンマン忘れてる」
「三世じゃないよ! 誰が狙撃手気取りだ!」
そんな二人にとってはいつも通りの漫才をしていると、股間の激痛がいつの間にか収まっていた。麻紀は一機を慮ってわざと怒らせるようなことを言った――わけがない。決してない。
「お前ら、何をガヤガヤ騒いでるんだ?」
そこに、ヘレナが呆れたようで口を挟んできた。
「見てわかりませんか? 愛しい一機さんとのスキンシップできゃあ、私ったら口が滑っちゃった恥ずかしい♪」
「おちょくってるだけだろうが」
「おかしな奴らだ――とりあえず、無事か一機?」
「……一応、生命維持には問題ありません」
「そうなのか? 私にはよくわからんが……おい、誰か看護兵を呼んでこい」
ヘレナの命令に対し、今起き出して先ほどの強制ジョギングを免れた隊員が渋々とした様子でやけにゆっくりどこかへ行った。汚いものを見る目を向けつつ、ツバを吐きながら。
「あらー、本当に嫌われてますね。女だけの部隊に男一人なんて、ラブコメハーレムのテンプレ的展開のはずなのに」
「漫画じゃあるまいしあり得るかそんなこと。野兎の群れの中に一匹白兎いたらいじめられるだけだろ」
「その例えには同意しますが貴方が白兎発言は却下したいのですが」
「例えなんだからんなことどーだっていいだろうが!」
「お前らいい加減うるさいっ!」
ゴッと二人仲良くゲンコツで殴られた。言うまでもなく水を持ってきたヘレナである。
「その様子なら問題ないようだな一機。今飯を作ってるから、お前も何か手伝え」
「一機さんが作ったらどうです? 見直すかも知れませんよ」
「包丁握らせてくれるわけないだろ……で、何作るの」
「昨日のウサギの残った肉でシチューだそうだ」
「うええぇ……」
思わずカエルが潰れたような声を出してしまう。別にまずいわけではないが、あの凶暴な姿を思い出すと食欲が減退するのだ。
「しっかりしなさいよ、ここで食べとかないとその後の特訓身が持ちませんよ?」
「なおのこと食欲がなくなるわ……うう」
「ああ、悪いが特訓は中断だ。食事を終えたら出発せねばならんからな」
「「出発?」」
二人が声を合わせると、ヘレナは「ああ」と応じた。
「我々の本来の任務でな、行かねばならないところがあるのだ」
たとえMNがあってもなくても、百人近い親衛隊が行軍するにはそれなりの荷物が必要になる。
故に食料、武器、医薬品その他必要物資を含めて相当量になる運搬と、隊員たち自身を運ぶのに《マンタ》は貴重なもので、その力とおとなしい性格で牽引車にはもっぱら使用されているとのこと。だが……
「――荷馬車ならぬ荷トカゲ車って俺はどうも納得いかん」
「郷に入てはなんとやらでしょう。つべこべ言わずそっち手伝ったらいかがですか」
「……俺昨日死にかけて、今乳酸溜まってバテバテなんすけど」
口が利けるだけ元気ですね、とにべもなくはねつけられ、泣きたくなりながらも一機は作業に参加した。参加と言っても、運搬車に座った形で並べられたMNたち――シルヴィア王国の量産機《エンジェル》というそうだ――の整備に担ぎ出されているだけであるが。
なにせMNというものは当然ながら巨大なので、寝かせて運ぶとなると運搬車が長大なものになる。といって立たせるとバランスが悪い。だからこうして半分寝かせたような形で運搬するのが普通だという。
それで、一機が手伝うと先ほど記述したが、当たり前の話だが昨日今日入った素人に整備なんて仕事ができるはずもなく、必然やることは各種部品を運ぶ雑事程度であった。
「おら変態、何してんださっさとそっちのバール持ってこい!」
「は、はいはい!」
「ちょっとのぞき魔、こっちのペンチじゃなくてあっちのペンチですわよ!」
「え、どっちですか!?」
「おい露出狂、ぼさっとしてないで装甲板さっさと我に寄こさぬか!」
「いやこれ相当重いんですけど! あとさっきから呼び方がひど過ぎる! 露出狂は違うからな!」
移動する運搬車の間を、部品や道具を持って走り回る完全なパシリだったが、他に使いどころがないのだから仕方ない。
ちなみに一機は隊長であるヘレナ以外誰も隊員と認めていないので、通常使われるはずの『新入り』とか『新米』という単語で呼ばれることはない。名前で呼ぶなんて反吐が出る所業。というわけで隊員たちはそれぞれ好きな名称で罵倒して(よんで)いた。
「いくらなんでもあんまりだ……うぅ」
「仕方ありませんよ、なにしろ一機さんは親衛隊雑用見習い補佐もどきなんですから」
「それ一番やめてくれないかなあ!!」
もうほとんど泣いてる一機が叫ぶ。
『親衛隊雑用見習い補佐』というありがたい名称はグレタ発案である。要するにお前が仲間なんて死んでも認めねーぞということだ。一機は嫌われるのはしょうがないとわかってはいるものの、この理不尽な扱いに自殺すら考えたく――なんて余裕すら許されないほど、一機はパシられていた。
「おい人間擬態!」
「もはや人間ですらないとされた!? でもそのネーミング分かりづら過ぎる!」
「やかましい! MNの動作実験するから手伝え!」
「はいっ! で、何すれば?」
「右腕の確認するから、そこに立ってこぶし振り下ろすから死ね!」
「死ねって言った! 途中でめんどくさくなって死ねって言った!」
こんな殺されかけることもしばしば。自殺する必要はゼロである。
いじめられまくりの一機に対し、パートナーであるはずの麻紀はニヤニヤ笑いで見ているだけ。まあけが人の麻紀ができることなどあるはずないが――あの、俺昨日死にかけたんだよね? と誰に言うでもないクエスチョンを繰り返す。
「しっかし……」
ふと、目の前にある鋼鉄の巨人を見上げる。昨日自分たちが乗り込み、命を救ってくれたロボット――ではない。この巨人には電子機器やバッテリーなどロボットとカテゴライスするのに必要なものが全然使われていない。
中にあるのは、先刻と同じく呪文が書かれた人骨と、例の霊石とやら。
「これがMN……いや、魔人だったか?」
そう呟くと、一機はついさっき説明されたMNについてのことを思い返すことにした。
***
「――え、MNって最近作られたものじゃないの?」
「いいや、それ自体は古代からある物だ。もっとも当時はMNという名ではなく、『魔人』と呼ばれていたがな」
朝方、早朝トレーニングを終えた朝食時(一機はまだ痛い股間に耐えつつ)ヘレナとグレタ、麻紀と共に輪を作っていた。
食事は黒パンと肉入りスープ、あと昨夜飲んでいたものと同じものらしい紅茶。黒パンは素朴な味は悪くないが硬くてボソボソして精白パンのみ食べてきた一機には少々辛いものがあった。紅茶は種類なんか知らないし多分あっちの世界の物と一緒とは限らんからなーとくだらないことを思いつつ、二人の話に聞き入っていた。
「お前だって、『ディダル』の骨やウサギ、《マンタ》を見たろう? あれはこのメガラ大陸に古代から存在する獣たちだ」
例えるなら、この世界は一機たちの世界でいう恐竜時代レベルの生物が平均クラスの大きさで、人間なんかそれに比べるとあまりにも卑小な存在だという。それを考えると、一機は昨日のウサギ(一機は認めたくないが)に見下ろされた時の圧倒的な恐怖感と威圧感を思い出し身震いした。
「なるほど、普通に考えて人間には太刀打ちできませんね」
「石器時代とか無理だろうな。石槍とか矢で倒せるわけない。いや無理すれば出来るかもしれんが」
「そこで生み出されたのが『魔人』です。『ディダル』の全身骨に古来の術式と『アマダス』を組み込み、鎧を被せ中に入り操る――かつては木製だったなんて話も聞きますが、文献が残ってないのでよくわかりませんね」
とにかく、人々は人工的に作られた巨人の力を持って、同じ巨躯を有する生物たちとの生存競争を勝利してきた。
が、ある程度人間が増え、生活圏が拡大していくと、一機たちの世界と同じく巨人の力は人間同士の争いに使用されるようになっていった。
「……ふう、人間て生き物はどんな世界でもやること一緒なんですね」
「……同感」
麻紀の呟きに一機もうなずいた。
「で、『魔人』の力が濫用されて荒れ果ててたメガラ大陸を統一したのが、シルヴィア一世てわけか」
「そのとおり!」
いきなりグレタががばっと立ち上がったので、危うく一機はパンをむせそうになった。
「争いと破壊しか知らない馬鹿な男ではなく、女性こそが世界を統治すべきという唯一神カルディナの神託を受けたシルヴィア・マリュース一世女王陛下は、その圧倒的な武の才と御加護により、ついに世界統一を実現したのです!」
すごい気迫で熱く語るグレタ。その異様さに二人は「はあ……」生返事を返すしかなかった。
「とにかく、メガラ大陸を統一したシルヴィア一世は、当時地方単位、集落単位で存在した『魔人』をシルヴィア王国軍のみの直属とし、他のいかなる者の所有を禁じた。それと同時に『魔人』の建造技術も固く封印したことで、かつてのような巨人を駆使した血みどろの争いを避けようとした」
「――要するに、魔獣に対抗できるたった一つの力を独占することで、軍事的な隷属を強いたってわけか」
んなっ……とあまりに歯に衣着せない発言にグレタは言葉を失う。言ってから少々まずかったかと二人を見回す。
「……?」
グレタは見るまでもないというか予想通りに顔を真っ赤にしていたが、ヘレナは拍子抜けなくらい無表情だった。仮にも自分の祖国、しかも王家の直系で女王直属の親衛隊の人間が国をけなす発言をされて眉ひとつ動かさないというのはおかしい。
――いや、無表情というか……むしろ、笑ってる?
「で、その『魔人』とやらを、今はどうしてMNと呼んでいるのですか?」
三人の間に出来た妙な雰囲気を払うように、麻紀の質問が割って入ってきた。
「あ、ああ。シルヴィア王国が建国され今年で五百年、禁じられた『魔人』の建造技術は、長い年月の中で失われて今はもう新しく『魔人』を作ることが出来なくなってしまっていた。多少の修理くらいは可能だったが――そのこともあり、小規模な動乱が起こる程度でシルヴィアの国威はほぼ盤石だった。が……それも、五十年前までの話だ」
そこで少し話を止め、紅茶に口を付けた。名の通り紅い紅茶の水面に波紋が広がる。
「五十年前、メガラの最南端、海峡を一つ挟んだ一地方が突然独立を宣言、大規模な反乱を起こしたのです。それが俗に言う『グリード侵攻』です」
***
「グリード皇国……シルヴィア王国もそうだけど、なんか関係あるのかねえ」
「まだそう断言はできませんが、これだけ類似点が多いと偶然と片付けるのは無理があるかと」
インターバル(要するにサボリ)でMNの影に隠れて一機と麻紀は話しこんでいた。ていうかもうダメじゃと普段全然体を動かしてない一機はグッタリした情けない様を見せている。
「とにかく、その反乱は当初、単なる地方蛮族の反乱程度にしか思われていなかった。だけど、その目論見はいとも簡単に崩れ去った――グリード側が、自分で量産した『魔人』を使用していたから」
「MNってグリード皇国が名付けた名前なんですね。だから副長とか国のお偉いさんは認めたがらず『魔人』と呼び続けていると」
それは後の話になるが、とかく戦争において最大のイニシアティブたる巨人を奪われてしまったシルヴィア王国は、グリード皇国(シルヴィア側は国と認めておらず、ただの蛮族とされている)と五年近くにわたる泥沼の戦争を続けた。一時期は大陸の三分の一まで迫られる激闘の果てに当時の女王シルヴィア十六世(つまりヘレナの祖母)も戦死する死闘は、結局グリード皇国軍のメガラ本土撤退によって幕を閉じた。しかしながら、両国間に和平が結ばれたわけでもなく、四十五年間シルヴィア王国とグリード皇国は互いに睨みあう休戦状態となっている。
それで今は一応の平穏は維持されてはいるものの――グリード皇国は侵攻の際、良くも悪くも様々な置き土産を残していった。その一つがMN(メタルナイト)である。
失われた鋼鉄の巨人を作り上げる技術。基本的には『魔人』とさして変わりはないが、より高性能に、より量産に適した構造のそのMNを、一時期劣勢に追い込まれたシルヴィア王国が取り入れようとしないわけがない。元々シルヴィア王国が所有する兵器、生産はさして難しくなく、戦争中ほとんどなし崩し的に増産されていった。
それで撃退できたのだからいいのだが、問題はあまりに量産し過ぎだことにある。膨大な量存在するMNを休戦後の混乱したシルヴィア王国が全て管理できるはずもなく、各地の反シルヴィア勢力や盗賊の類に持ち逃げされてしまう。
だがもっと問題なのは、建造を急いだために地方領主などにもMN建造の権限を与えてしまったことにある。シルヴィア王国によって独占されていた最強の武力は今やその手を離れ、各地方の緊張はより高まってしまった。
あれから五十年、グリードは異様な沈黙を保っているものの、各地の地方反乱は増える一方で、いつまた破られるかもしれない危うい平穏があるのみだという。
「――危うい平穏、ねえ」
そこでふっと視線をそらすと、一機は懸命に作業をする先輩方を見回した。みんな一機と同年代かプラスマイナス三歳程度だろうか。声を張り上げて作業するグレタも三十はいってないと思う。
「まあ、そこら辺は来たばっかの私たちには当面関係ないですし、今気にすべきはもう一つの“置き土産”じゃないですかね」
「……FMNとかか」
二人顔を見合わせる。今回彼らがたまたま救出された理由、親衛隊がこんなへんぴ(メガラにおいてはだが)なところに来ていたその目的もだいたい聞かされていた。
「ごおおおおおおらああああああっ! 貴様、こんなところでなにをさぼっているかぁ!」
「げっ!」
地の底から響くような雄叫びと共に、グレタが目を吊りあがらせて向かってきた。反射的に一機は脱兎のごとく逃げ出したが、男女の差はあれど鍛え上げられた親衛隊員と半ニートで勝てるわけなく、あっさり捕らえられ逆さ吊りにされてしまう。
もういや、という本日二十六回目の心の悲鳴を上げたことを知る者はいない。
新入り(もどき)がそんな不遇の日々を味わおうが味わなかろうが、親衛隊の本来の目的地たるドルトネル峡谷への行進は続く。峡谷までの道は近くまで敷石の街道があって三日ほどでたどり着けるらしいが、一機たちのことがあってあまり時間をかけていられない。
そして行進を止められないとしても、出来る特訓なんかいくらでもあるわけで。
「も、もう限界……勘弁して下さい」
「何を言うか、まだ一回もできていないではないか。ほら、さっさとやれ」
「だから、こんなクソ重い甲冑つけて腕立て伏せなんかできるか!」
息絶え絶え、汗だくだくで張り上げたつもりの声は、一機が思ったより小さく化け物トカゲの背中で揺れる部屋にちょっと響いた程度だった。
運搬車の中にある兵員用の寝台車。なにしろ五メートル近くあるトカゲと十メートルある巨人の荷車との移動で人間だけ歩くというのは危なっかしい。勿論正規軍はほとんど歩きだが、親衛隊は特別待遇ということで全員用の寝台(ただし狭い)がもうけられていた。
そして、当然のことながら隊長と副隊長ともなれば個人用の部屋がある。一機の不摂生により汚れた胃&肺から生まれる悪臭漂う息を大量生産しているのはヘレナの個室だった。宿主らしい質素で装飾品もない部屋だが、そんなものに目を止める余裕は一機にはない。
「腕立てくらいがなんだ、戦になればそれを着て戦うのだぞ? それくらいでへばっていては話にならん。ほら、もう一度だ」
「あのすいません、昨日今日なったペーペーにそこまで求めるのは酷と思いますが」
「戦いはいつ始まるかわからないんだ、甘ったれたこと言ってると戦場で死ぬだけだぞ」
「だから戦場に出る前に死んでまうって言ってんだよおおおおおおおおおおおおぉっ!!」
枯れかけた声で絶叫した。もう朝からこんなんばっかである。
今一機が着けている鎧は一機の世界でのフルプレートアーマー、つまり全身鎧。当然一機専用鎧なんかこんな状況で作れるわけないから予備の体型が似ているものを借りたのだが、当然金属製(どんな金属かはわからないが)なので相当重い。こんなものを着て「室内で出来るのは――まあ最初は腕立て伏せくらいか」なんて言って千回やれと言い出すこのお方は鬼畜でしょうか。
「まったく、だいたいわかっていたつもりだが貴様の体力の無さは予想以上だな。これでは先が思いやられる」
「先があるのか否かが俺は気になるんですが」
「これくらいの特訓で死ぬわけなかろう。それだけ喋れれば十分体力は有り余っているな。ほら、一回くらいやってみせんか」
「すいませんせめてこの鎧脱がせてぇ! おもいー! あついー!」
最後はもう駄々っ子になっていた。人間生命の危機に突入するとプライドすら失ってしまうものなのだ。
「あー、わかったわかった。とりあえずその鎧だけは脱いでいいぞ。仕方ないな……」
子供をあやすように応じられた。ホッと一安心して鎧に手をかけた一機だったが、
「お前、鎧の脱ぎ方なんぞ知ってるのか?」
「――いや、さすがにそれはちょっと」
なにせ着方もわからず手伝ってもらった身である。しかし脱ぐというのは着るとは違いなんか気恥ずかしい……否、やっぱどっちも恥ずかしいか。
「まったく世話のかかる奴だ。ほら、おとなしくしろ」
「あの、ちょっとやっぱり脱ぐのは自分でできますのでご勘弁を」
「できるわけないだろ。何を恥ずかしがることがある、いいからこっち来い」
「いえ、待ってください、お願いやめて」
人の話を聞きゃしない。あぐらかいていた一機にぐいと寄り、息を感じる距離まで迫られる。
「…………」
何か甘いような匂いを感じる。香水なんぞつけているわけないから、ヘレナ自身の匂いと気付くとただでさえ熱い頭が茹だりそうになる。
自分の体臭はどうかな、と思い至り、いい匂いなわけないと離れようとする。
「だから、逃げるなと言ってるだろう。じっとせんか」
「あのですね、別に逃げるわけではないのですがこれは青少年のナイーブハートに悪過ぎるのですやめていただけないとブレイクしちゃいそうでナウ」
「わけのわからんことを言ってるな。ほら、これでどうだ」
「だあああ、ひっつかないでくださいよぉ!」
さらに密着されてしまい逆効果。かぐわしい香りにくらくらしそうに加え、むにっとした感触まで追加され本当に頭がおかしくなりそうになる。畜生鎧越しじゃなかったらもっと堪能できたのにとかあさっての感想まで抱く始末。
対してヘレナはまるで普通。一機が一応男であるということをまるで意識していない。胸にちょっと触れようが髪が顔にかかろうが恥じらう様子ゼロ。女性だけの場所に長く居過ぎたせいかもしれんが、ここまで意に介されないと一機の男としてのプライドを傷つけられる。
「……むう」
「なんだ、むくれて。どうかしたか?」
「いえ、別に……」
なんか意趣返ししないと気が済まないような気分になった。さてどうしようかなんて考えているうちに一機の鎧はどんどん脱がされていく。残るのはシャツと短パンだけだ。
――そういや、これってなんなんだろう?
このシャツ及びズボンは、フルプレートアーマーと同じく親衛隊からの借り物である。しかし見た感じ男物。服飾に疎い一機にはよくわからないが、男子禁制の親衛隊に男物の服があるというのは変。一機は首をひねった。
「おい、何をボケッとしておる。鎧を脱いだことだし、せめて千回くらいやってもらわんとな」
「あのですね、このバテバテの状態でなお千回やれてどんだけ鬼畜……ん?」
ふと、一機は脱いだ鎧に視線を止めた。胸鎧の首元、着ける時は気付かなかった後部に何か刻まれている。
「はて、なんだこりゃ?」
気になって手に取ってみる。はたして刻まれていたのは文字だった。これまで一機が見たことのない不可思議な記号――強いて言えば英語の筆記体に似ている――で書かれた文字だが、その意味だけは理解できた。
「――ハンス・ゴールド?」
「……っ!」
文字のまま読んだが、特に意味のある単語に思えなかった。何か、誰かの名前だろうかと思っているところ、ヘレナが息を呑む音が聞こえた。
「な、何故それを!?」
「え? なんでって、だって、ここにそう書いてあるし」
「あ、そ、そうか……」
あからさますぎるくらい動揺する様子、そして書いてあるどう見ても男にしか思えない名前に一機は苦虫を噛み潰したような顔をした。
――まあ、なんとなく見当ついてたけどね。
追求するのも面倒だったので、話をそらすことにした。
「ところでさ、前々から聞きたかったんだけど」
「な、なんだ!?」
「俺たちこの世界に来て普通に喋れてるんだけど、別にこの世界の言語日本語ってわけじゃないよな? それに、ここの文字も見たことないのに意味はわかるし」
「え? ああ、それか……」
ヘレナは「なんだそんなことか」安堵した。鼻白んだ一機の様子には気付かす質問に答える。
「私にも理由はわからんがな、たしかにこのメガラに漂流してきたアマデミアンはみなこちらの言葉を話せたそうだぞ」
「みんな? 理由はわかんないけどみんな喋れたっての?」
「そうだ。これはグレタや母上の方が詳しいな。二人ともこの手の話が好きだからな……まあそれはいい。さ、訓練を再開するぞ」
「なぬ? まだやるの?」
なんとなくこれでお開きのような雰囲気だった一機はあわてた。だからこちらはもう限界と言っているのに聞きゃしない。生命の危機を感じた一機は、どうにか逃げる方法を考えた。
――よし、いっそ仮病を使おう。なんかぶっ倒れれば根が正直なヘレナのこと、すぐ騙されてくれる。実際倒れそうなのは事実だし……うむ、いける。
なんとも恩知らずかつ根性無しな思考だが、背に腹は代えられぬと一機はさっそく実行した。
もふっ。
「…………」
「…………」
二人の間を静寂が支配した。
もっとも、今の二人に“間”など存在しないのだが。
「…………」
「…………」
この状況を作り出した張本人たる一機は、しかし一番今の状況に戸惑っていた。
ええと、何をしてるんだろう自分は?
たしか、もう訓練に限界を感じ過労を装い倒れるつもりだった、うん。
では、このさらに強く感じられる甘ったるい香りと真っ暗な視界、そして呼吸を困難にさせるこのふっくらとした感触はなんだろう?
「…………」
「……っ」
一機はさらに考える。さっきからトクントクンという心臓の鼓動に似た響きが頭蓋から伝わってくる。一機自身の心音はバクンバクンバクンと激しく脈打っているのでこれは別物だろう。ではなんなのか考える。
いや、本当は一機もとっくに現状を理解していたが、それを肯定するとえらいことになるので現実逃避を行っているだけだ。
つまるところ、一機はヘレナのあまりに自己主張が強すぎる胸の谷間に顔面から突っ込んでいたのだ。
「…………」
とりあえず一機は落ち着くことにした。
あせるな、これは単なる事故だ。別にあの胸を触りたいとかもみもみしたいとかがぶっとなんて……考えていなかったといえば嘘になっちまったりするかもしれないといえばやぶさかではないかなあだが、とにかく意図しての行為ではない。今の状態でもし頭から倒れたらばふっていくかもなんて考えが頭をよぎったなんてことも断じてない気がする。だからこれは事故なんです不幸な出来事なんですそういうことにしてください。
いや、ちょっと待て。さっきからヘレナは胸を押し付けようが顔がすごい近くまで接近しようがまるで無反応だった。もしかしてこういうことに慣れてるのかこちらを男と認識していないのかもしれない――それはそれで腹立つが。ならばすぐ顔を上げれば「まったくお前というやつは」と笑って許してくれる可能性が高い。ほら、さっきから何も言ってこないのがその証拠――なんて現実逃避的思考で恐る恐る(顔を埋めたまま)一機が顔を上げると、
「……~~~っ」
別に慣れても男扱いされてなかったわけでもなかった。
ヘレナはあまり急なことに時間が停止していただけであり、いたって普通の女性だった。
だって、顔を真っ赤にし髪を逆立てているのだから。
「……え~と」
一機は気付いた。いや、感じ取った。
殺される。絶対に。
ヘレナが慣れてるわけでも男と認識してないわけでもなかったのは嬉しいが、だがこのままでは確実に殺される。死の危機を乗り切る方法は、と一機は鉄伝で鍛え上げられた回避スキルを駆使して方法を三つ上げた。
A.謝る
B.逃げる
C.ボケる
どこが鉄伝で鍛えたスキルじゃいと言いたくなるラインナップだが、とにかくこれしか思い浮かばなかったんだからしょうがない。これから一番助かりそうなものを選択する。
Bは無理。男女の肉体差なんてものは一機とヘレナにはない。五秒かからず捕まって八つ裂きがオチだろう。Cはもう冗談にもならない。ヘレナの性格からすればどんなコメディアンでもこの危機(クライシス)を乗り切るのは不可能。くびり殺されて終わりだ。
ならば、Aしかない。とにかく土下座。とにかく謝罪。いっそ切腹の真似までしてあちらをかえって悪い気分にさせるというのはどうだろう。うん、それがいい。
「すみません、これ枕にしたら寝心地いいなと思いまして」
二人の間を静寂が支配した。
もっとも、二人には相変わらず“間”など存在しないのだが。
というかちょっと待て、何故Cを選んだ俺の口!? 脳と口が完全に別物として動作しているとはどういうわけだ!? いかん、さらに柳眉を逆立てて怒ってらっしゃる。何かフォローする言葉をかけねば。
「できれば、これから寝るときはずっとこの枕使いたいなとげはあっ!!」
フォローは最後まで形にならなかった。アゴに入った美しいくらい完璧なアッパーによって邪魔されたからである。ていうかフォローでも何でもない。もはや告白だ。
この後、個室の壁を突き破って飛んだ一機の肉体は、「何をするかあああああぁぁぁっ!!!」と叫び声を上げたヘレナの追撃、及び駆けつけた親衛隊員総員の足蹴にされたが、最初のアッパーで気絶していた一機には関係ないことであった。
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