Last Esperanzars

Last Esperanzars

後編


この小説には、暴力的かつグロテスクな描写、及びに一部の障害者に対して不当、不適切な表現がありますのでご了承ください



 さて、そのうち、お年よりの奥さまは、たいそう重い病気にかかって、みんなの話によると、もう二どとおき上がれまいということでした。たれかがそのそばについて看病して世話してあげなければなりませんでした。このことは、たれよりもまずカレンがしなければならないつとめでした。けれどもその日は、その町で大舞踏会がひらかれることになっていて、カレンはそれによばれていました。カレンは、もう助からないらしい奥さまを見ました。そして赤いくつをながめました。ながめたところで、べつだんわるいことはあるまいとかんがえました。――すると、こんどは、赤いくつをはきました。それもまあわるいこともないわけでした。――ところが、それをはくと、カレンは舞踏会にいきました。そして踊りだしたのです。
 ところで、カレンが右の方へ行こうとすると、くつは左の方へ踊り出しました。段段をのぼって、げんかんへ上がろうとすると、くつはあべこべに段段をおりて、下のほうへ踊り出し、それから往来に来て、町の門から外へ出てしまいました。そのあいだ、カレンは踊りつづけずにはいられませんでした。そして踊りながら、暗い森のなかへずんずんはいっていきました。
(ハンス・クリスティアン・アンデルセン『赤い靴』)



 病院自体は少し遠いが、面会は電話さえ入れておけば簡単にできる。忙しい忙しいとよく言っているが、本当はわりと暇なのかもしれない。なんせあの男は、日本の医療界じゃ鼻つまみ者だ。
 受付に問い合わせると、いつも通りうさんくさそうな顔で部屋を教わる。さすがに嫌気がさしながら、病院の奥へ歩いていった。

「……うーす」
「おお、やっと来たか雪也。ちょっと遅いんじゃないのか? 俺も忙しい身なんだ、喋る時間が減っちまうぞ」
「うるさいな。あんたの研究の役に立ってるんだから、ちょっとくらい融通効かせろ」

 開口一番この有様。こんな奴が主治医だなんて泣けてくる。
 一応医者らしくピアスも化粧もしてないが、その端正が取れ過ぎた顔は、白衣と手に持ったカルテがないとどこぞのホストにしか見えない。本人もそれを自覚しているからこそ、少し伸ばした髪にそれほど目立たぬ茶髪を入れ、おとなしいデザインの金縁眼鏡をかけている。三十はとっくに過ぎているはずなのにこれか。自信に満ち溢れた姿がかもし出す雰囲気のみならず、そういった手入れも怠っていないのだろう。これじゃこちらの方が年上に思えてくる。やれやれと椅子に腰を下ろした。

「研究? おいおい、だったらもっと成果出してくれよ。ここ二カ月ほど『異常なし』ばかりで退屈でしょうがないんだぞ」
「医者が患者の身の不幸を望んでどうするんだよ。死ぬような目に遭うのはこっちなんだぞ岩並」

 不満そうな顔を露わにする医者――岩並大悟に不機嫌を隠すことはしない。毎時こうだ、と雪也は呆れる。これが四肢移植において神様呼ばわりとは、外人共はどこに目があるんだ。

 臓器移植から遅れること幾年――発達した医療は他人から、死体からの移植手術を可能なものにした。と言っても、例自体は過去に山ほどあるが、実際に法整備され行われるようになったのは世界でもここ最近だ。
 しかし、日本はその波に乗ることがどうしてもできなかった。四肢移植という難手術が可能な医者がいなかったというのもあるが、最大の理由はやはり提供者がなかなか現れないことだ。臓器と違って、四肢移植は外からモロに見える。腕の一本なくなった遺体を焼くなんて、心情的に嫌がったのは当然だ。諸外国からかなり遅れて、日本でも四肢移植が法整備されはしたが、やはり提供者が現れることなく数年が経過した。

 そんなある日、一人の男が日本医療界でタブーとされてきた四肢移植を実行してしまった。それがこの男、アメリカの有名大で移植手術を研究し、四肢移植も既に何度も成功させた経歴から『四肢移植の神』とあちらで呼ばれていた岩並大悟だった。日本に帰って四肢移植を広めようとしたが、日本社会の頭が固い考えに身動き取れず歯ぎしりしていたところに、偶然片腕を失った患者が飛び込んできた。その遺族を言葉巧みに丸めこんで、移植手術を実行してしまったのだ。

 法として定められていたのだから、手術自体に何の問題もない。遺族も納得しての手術だし、移植は成功し患者の腕は機能を回復した。
 が、その独断による手術に、日本中が大騒ぎになった。マスコミは死体を弄ぶ悪魔だと非難した。本来は味方に就かねばならないのに、勝手に手術を行われ面目丸つぶれの医学界もそれに参加、壮大なバッシングが始まった。
 それでも平然とした様子でいる岩並に、世間はますます怒り狂ったが、確かに問題行動だけど何の違反もしていない。この一言が決め手となりバッシングはなりを潜めた。どだい、法律で許可した時点でこの手の非難は無効化されたのだ。自分の生理的嫌悪感だけなのが悟られたくなくて理論武装してるだけ――と、この男は語っている。

 だけど、長い経験からこの男は患者を救いたかったんでも四肢移植を日本に広めようとしたのではなく、単に自分が腕を繋ぎたかっただけだということを、その移植手術を受けた本人、日本最初の四肢移植患者である雪也は知っていた。
 で、刑法上の罰則も医師免許はく奪も行なわれなかったが、医師会から嫌われてこんな田舎の病院に籠っている岩並のその手術が、実はとんでもない失敗であったことを知っているのも、雪也のみ――否。

「とは言ってもね、曲がりなりにも自分が担当した患者だ。“断罪剣”であろうとなかろうと、その経過が気になるのは当然だろう?」
「……勘弁してくれよ」

 その日本最初の四肢移植が、断罪剣という化け物の腕になったことを、岩並は知っていた。雪也自身が教えたのだ。
 二年前、左腕の断罪剣が脈動し出した当時雪也は混乱していた。自分の腕から剣が生えて襲ってくるなんて、正常でいられる人間がいかほどいるか。どうすればいいか見当もつかず、相談する相手に困った雪也が選んだのがこの主治医だった。というより、他に適任がいなかった。
 最初はさすがに目を白黒させたものの、好奇心旺盛な岩並はそれを斬り殺される恐怖に目もくれず調べ上げ、それが裁かれぬ罪人を裁く剣、“断罪剣”だと結論した。今度はこちらが唖然となる番だったが……心当たりはあったので、わりとすぐ信じた。

 それ以来、この男には定期的の腕の様子などを報告していった。しかも秘密裏に。岩並が発表する気があるのかは知らんが、とにかくこちらとしては従うしかない。――単に興味本位だとは思うけど。
 そうして二年、検査以外では立ち寄らなかったこの病院に、この男に会いに来た。無論それには理由がある。

「で、電話で行ってた会って話したいことって何さ。その様子じゃ、アオ君に変化があったのとは違うみたいだけど」
「……あんた、四肢移植やっただろ、二か月前に」
「? したけど、それがどうした」

 丁寧に形を整えられた眉がひそめられる。何の話をしているのかわからないらしい。

「その受給者(レシピエント)、教えてくれないかな。ついでに四肢の提供者(ドナー)も」
「お前何言ってるんだ? 移植手術のレシピエントは秘密にされることは、あのバッシングの中心にいたお前がよく知ってることだろ」

 無論了解していた。当時トップニュースだった四肢移植、それを受けたレシピエント当人にも注目が集まって当然だ。公開手術でもない限りレシピエントのプライバシーを保障する。この法がなければ雪也の名と顔はとっくに全国に知れ渡っていたろう。

「だからあんたに頼んでるんだろうが。日本で四肢移植ができるのはあんただけ、手術を担当した本人なら知ってて当然だ」
「だから、できないって言ってるじゃないか。そんなことされたら今度こそ刑務所行きだよ」
「なんだい、俺ん時はすぐ教えてくれたのに」
「それはドナーがお前の弟だったからだよ。無関係のお前に教える理由なんか何もない。――というか、どうしてそんなこと知りたいんだ?」
「ひょっとして、殺人事件の被害者じゃないか?」

 かっと目を見開いたのを、雪也は見逃さなかった。やはりとした雪也にあったのは、会心を得た喜びではなく、深く沈んだため息だった。

「……なんで知ってる」
「いや、なんとなくだ。殺人事件の被害者がドナーになんてなれるのか?」
「逆だ。殺人事件の被害者をドナーにしちゃいけないなんて法律はない」

 なるほどそれなら納得がいく。まあ自分の腕も『殺人事件』のようなものだし……なんて自嘲気味に笑ってから、左腕をさする。

「そこまでわかったんだから、そのレシピエントとドナー教えてくれてもいいんじゃない?」
「それとこれとは関係ない」
「……わかったよ。もう頼まん」

 あからさまに舌打ちすると、当てつけ気味に乱暴なふるまいで立ち去ろうとする。が、「美脚で有名な人でな」と背中に告げられた言葉で足を止める。

「モデルをしていて、数日後にテレビ出演も決まっていたらしい。そのせいか、遺族もずいぶん悲しんでたよ」
「……そりゃまた、よく許可したもんだね遺族も」
「その御自慢の脚以外、体は傷だらけだったんだよ。轢死体で、脚部に至ってはほとんど分断されていた」
「……ん?」

 轢死体、脚部が分断――その二つのフレーズに、何も引っかかるものがあったが、雪也はそれがわからず、その様子に気付かない岩並は続けた。

「その脚はまるで生きているように綺麗に保たれていたんだ、残したくなる気持ちもわかるさ。手術した俺だって惚れ惚れするような脚だった……それに、どうせ上半身もなくなってたからな」
「――え」
「消えちまったんだよ、死体置き場から。上半身と着ていた白のワンピースだけ何故かな」
「……!」

 絶句した。
 その時、雪也の脳内に浮かんでいたのは、二か月ほど前、最後の獲物――異形の怪物である。



 ――腰まである黒髪、白いワンピース。
 目は光沢を持たず白目で、肌も乾き切っている。耳まで裂かれた口からは牙が剥き出して、赤く塗り込められていた。
 その脚は、その脚は……
 脚なんて、なかった。



「まさか、あいつが……?」
「その様子だと、やっぱ“断罪剣”か」

 気がつけば、射るような視線が雪也に向けられていた。思わずたじろぐと、すぐに視線を解いて岩並は「やれやれ」とため息をついた。

「死体が消えたって話聞いた時から、やな予感はしてたんだけど……まったく。日本でたった二件の四肢移植で、どっちも化け物を生んじまうとはね」

 呆れかえった様子の岩並をよそに、雪也は頭の中を整理するのに精いっぱいだった。

 ――分断された上半身が断罪剣となったなら、残された下半身がそうならないとは限らない。いや、むしろなるのが自然か? なら、一連の犯人はやはり……

「――なあ」
「ん?」

 椅子でくるくる回り出した岩並に、少しためらいつつも質問した。

「その脚……移植されたレシピエントは知ってるのか? その脚が、殺人事件の……」
「知ってるわけないだろ。ドナーの情報は秘密が鉄則。たとえ患者だろうともな」

 つまりそのレシピエントは、自分とはまったく無関係な異形の脚を移植されてしまったということ。顔を知らぬ相手の、名も知らぬ相手への『断罪』の念のみを受け継いでしまった……復讐対象である俺よりも哀れな奴かもしれんな。

「で、そいつに心当たりがあるのか?」
「……確証はないよ」
「だからそれをとりに来たってわけね……わかった。ただし、口外はするなよ?」

 そう言って、岩並は机にしまわれた無数のファイルの中から一つを取り出した。それをそのまま雪也に手渡そうとするが……左手に制されてしまった。

「ん?」
「……いや、いいよやっぱ」
「――そうか。そうしてくれるとこっちも助かるんだが」

 何かを悟ったような奇妙な表情をすると、岩並はファイルを机に戻した。雪也は何の言葉も発さず、部屋から去っていく。
 病院から出る道すがら、さすった左手に囁きかける。

「……何考えてんだ、お前」

 ファイルを受け取ろうとした刹那、『勝手に制した』左手。
 嫌な予感を持ちつつ、雪也はその場を後にした。
 その間、頭の中をたった一つ、帰り際に岩並が放った一言が蠢いていた。

 ――あ、そうだ。一つ間違ってたから訂正しとくぞ。俺が手術したのは……



 カレンはがらんとした墓地のなかへ、踊りながらはいっていきました。そこでは死んだ人は踊りませんでした。なにかもっとおもしろいことを、死んだ人たちは知っていたのです。カレンは、にがよもぎが生えている、貧乏人のお墓に、腰をかけようとしました。けれどカレンは、おちつくこともできなければ、休むこともできませんでした。そしてカレンは、戸のあいているお寺の入口のほうへと踊りながらいったとき、ひとりの天使がそこに立っているのをみました。その天使は白い長い着物を着て、肩から足までもとどくつばさをはやしていて、顔付きはまじめに、いかめしく、手にははばの広いぴかぴか光る剣を持っていました。
「いつまでも、お前は踊らなくてはならぬ。」と、天使はいいました。「赤いくつをはいて、踊っておれ。お前が青じろくなって冷たくなるまで、お前のからだがしなびきって、骸骨になってしまうまで踊っておれ。お前はこうまんな、いばったこどもらが住んでいる家を一軒、一軒と踊りまわらねばならん。それはこどもらがお前の居ることを知って、きみわるがるように、お前はその家の戸を叩かなくてはならないのだ。それ、お前は踊らなくてはならんぞ。踊るのだぞ――。」
(ハンス・クリスティアン・アンデルセン『赤い靴』)



 どういう理由で呼び出すか、これが一番頭を悩ませた。
 無い知恵を絞ってみたが、結局なにも思いつかなかったため、あちらから公表してくれた番号に「話がある」とここの場所と時間を指定した電話をするだけにした。
 時は夕刻。さすがに肌寒くなったこの時期山の上にいるのはきつい。だが、その場所で雪也は半そでの上に紺のジャンパーを羽織る格好で立ちつくしていた。これから起こるであろう『こと』のためには、この服装が一番いい。

「はあ……さすがに、嫌になってくるな」

 憂鬱になっていると、下の方から彼女……紫檀章がやってきた。平日だというのに私服なのは、わざわざ着替えてきたか。
 年頃の女子にはあんまり似合わなそうな、エンジ色のセーターにスカート。でも可愛らしいデザインで、保護欲をそそる頼りない雰囲気と相まって小動物のような愛くるしさを演出していた。

「お待たせ、雪也君。どうしたの、突然こんなところに呼び出して……」
「――こんなところ、ね」

 まあそりゃ『こんなとこ』だろう。最近知り合ったも同然のクラスメイトに、いきなり墓場へ来てくれと頼まれりゃおかしく思って当然。
 雪也が選んだのは、高校からそれほど離れていない山にできた墓地だ。墓地と言ってもかなり昔からあるもので、土地自体は広いのに地形的には急で奥ばっている。そのせいで、命日か盆以外人が来ることなんてほとんどない。しかも周りを木々に囲まれているため、外からこちらを把握するのは無理。
 何か裏取引とか、人に見られたくないことする時はうってつけ……そう“あの人”は語っていたが、まさか実践する日が来るとはな。

「それで、話ってなに? 誰にも言わないように、こんなとこじゃなきゃ話せないようなことって、なんなの?」

 不思議がってはいるが、その気合いの入った服装といい、頬を赤らめていることといい、この女絶対勘違いしてる。それくらい女性経験の少ない雪也でも容易にわかった。
 正直かなり躊躇われる――が、それでも聞くしかない。もはや、無意味かもしれないけど。

「――紫檀。お前が転校してきたの、二か月くらい前だったよな」
「え? そ、そうだけど……」

 質問の意図が把握できず困っているようだが、気にせず続けた。

「それ以前は函館にいたんだって? 鐘崎から聞いたよ。あとついでに、写メで撮ったお前の画像もいくらか貰った」
「やだ、由子ちゃんでは勝手に……」
「どれもこれも、胸から上しか写ってなかったな」
「……っ!」

 目を見開いた。よほどの急所を突いたみたいだな。それ以上その顔を見ていられなくなり、不用心を承知で背を向けて話を続ける。

「それと、あっちにいる頃は学校行ってなかったそうじゃないか。ずっと病院にいたって」
「う、うん。ちょっと病気で体が悪くて……」
「体じゃなくて、『脚』じゃないか? しかも両脚」

 息を呑む音が伝わってきた。顔を見ていなくて本当によかったと思う。どんな表情を浮かべているのか、想像もしたくない。

「ま、待ってよ雪也君、こっち見てよ。ほら、私の脚ちゃんとあるよ。ここまで歩いてきたんだよ? 貴方だって褒めてくれたじゃない、綺麗な脚だって。脚の病気なんか……」
「岩並大悟」

 言われた通り振り返る。紫檀は口元を押さえ、そのご自慢の脚をがくがく震えさせていた。怯えた彼女に「知らないとは言わせない」とたたみかける。

「日本で四肢移植ができるのはあの男一人。だったらお前がこっちに越してきた理由もうなずける。あいつが勤める病院に一番近い市はここら辺だからな。手術と――リハビリためには、こっちに引っ越すのが得策だ」

 岩並が別れ際語ったこと。それが最後の疑問を解くカギだった。

 ――あ、そうだ。一つ間違ってたから訂正しとくぞ。俺が手術したのは二か月前じゃない。四か月前だ。
 ――は? 何言ってる。二例目の手術がトップニュースになったのは二か月前だろ。
 ――四肢移植は他の移植とは違う。ちゃんとリハビリして、きちんと動くか確認しないと成功じゃないのは、同じリハビリを体験したお前がよく知ってるだろ?

 手術が行われたのが公開されたのは二か月前。丁度その頃転校してきた紫檀が二例目――両脚の移植手術のレシピエントならば計算が合わない。だが、世間に公表された時期がずれているならばその差は埋まる。……できればそんな疑問、解決してほしくなかったが。

「引っ越してきたのも、あいつの手術を受けるためばかりじゃあるまい? 自分で立てる脚を手に入れて、人生を再出発したかったんだ。だからこそみんなには両脚移植をしたことは隠した。違う?」

 違う、なんて聞くまでもない。俯いているその姿は、もう自白したも同然だ。どうも泣いているらしい。
 しかし、セーターの袖で涙を拭った紫檀が上げた顔は、さっぱりと笑っていた。

「うん、そうなの。私移植手術したの。両脚の」
「――事故かなんかで、失ったのか?」
「ううん、最初からなかったの。脚を生まれつきなくて生まれたの、私……」

 奇形児、ということか。なるほど、それならあの『脚』に対する異様な執着も理解できる。生まれてからなかった脚が手に入ったんだ、そりゃ嬉しいだろうよ。

「ご、ごめんね雪也君。でもこのことは隠していて欲しいんだ。友達に余計な気遣いされたくないし」

 そう頼み込んでくるのも、予想はついていた。まあ当然だろう。脚が移植手術で得たものなんて、大したことじゃない。これから先、俺が告げることに比べれば。

「それはいいんだけどさ、聞きたいことあるんだよ他にも」
「な、なに?」
「死んだんだって? 紫檀の元彼」

 今度の『目を見開いた』は、さっきの比ではなかった。驚愕と恐怖が混じった色が顔全体に塗られていく。

「大学生で仲良かったけど、一月以上前に亡くなったって」
「そ、そう、そうなの。ちょっとした事故で……」
「ちょっとした? 鋭利な刃物で全身ズタズタにされたってのに、それがちょっとってのはすごいね」

 戦慄。その一言がふさわしい彼女の有様。絶望的な、否定したかった予測が確信に近づくのを知覚しながら、言葉を止めることだけはしない。

「下宿してたアパートで、誰かに斬り殺されたんだってな。部屋のものがすべて血まみれ。まだ犯人は捕まっていない。そして……その頃から、『赤いスカート』の殺人鬼の噂が……」
「何が言いたいの?」

 話の続きを、強い語句で断ち切られた。
 俯いている紫檀の表情はわかりかねるが、先ほどのように泣いている様子はない。――否
 今の紫檀は、何かが違っていた。
 これまでの紫檀が別物なんじゃないかと思うくらい、異質なものが全身から漂っていた。
 あの日ハンバーガーショップで、そして喧噪の中紫檀からにじみ出ていたもの――『殺気』だ。

「……この近くで起こっていたタクシードライバー連続殺人事件。同じ刺殺で、狙われたのは全員タクシードライバーだけど、殺し方が違う。四件は何十本もの剣で刺されたのに、三件は体を真っ二つにされたんだ。……自分の体のようにな」
「――え?」
「お前の体に移植されてるのは、タクシードライバーに轢かれて死んだモデルのものなんだよ。その脚……裁かれぬ罪人を裁く剣、“断罪剣”の脚はな」

 核心を突いた雪也の声にも躊躇はなかった。そんなことをしても仕方ない、そういう“相手”だから。

 やがて、頭を上げた紫檀は、疲れきったような、寂しげな顔でため息一つついた。

「……“断罪剣”? ふうん、こっちじゃそう呼ぶんだ……」
「なに?」
「こっちじゃ“Revenge Doom【復讐病】”なんて名前だったけど」

 聞いたことのない名だった。まあ“断罪剣”だって都市伝説に過ぎず、正式名でないのだから、別の名前で知られていることだってあり得なくないが。

「三か月前くらいかなあ……脚のリハビリも上手くいって、歩けるようになってからだった。この脚から“剣”が生えるようになったのは」

 ぽつりぽつりと、まるで昨日の夢を思い出すような力のない喋り方だった。視線もどこを見ているのか怪しい。――いや、あるいは、何も見たくないのかもしれない。

「最初はわけわかんなかった。戸惑うだけで、誰にも相談できなかった。でも、斬りたい、斬りたいって脚が叫んでる様な気がして、言うこと聞かなくて……でも、殺す気なんかなかった。あの日、たまたまタクシー乗ってたら、いきなり脚から剣が生えて、それで……」
「――斬っちまった、てわけね」

 涙声で頷いた。勝手に自分の脚が人を殺す、その恐怖はいかほどか。自分自身が殺される羽目になった自分とは違いすぎてわからん。

「その時は思わず逃げ出して、でも誰にも何も言えなくて……でも知ったの。その剣が、噂で聞いてた“復讐病”だってわかった」
「それで、脚を『持たせる』ために斬って回ってたってわけね。なんで医者に相談しなかったんだ? そんなやばい脚、切断しちまえば済んだろ」
「そんな……! 雪也君にはわかんないよ、日本で四肢移植がどれだけ大変なのか!」

 法執行から幾年過ぎても、日本人の四肢移植に対するアレルギーは改善しない。今の脚の手術できたこと自体が奇跡、ということか。それはわからなくはないが――

「やっと、やっと手に入れた脚なのに……十六年間、車いす生活だったの、やっと解放されたんだよ!? 本当は学校もちゃんと行きたかった。でもみんな私に脚がないから、ないから……やっと手に入れたの。自分で歩ける脚を、走れる脚を! それを、こんなことで失うなんて……」
「それだけじゃあるまい?」
「え――」
「もったいなかったんだろ、その美脚が。わざわざスカート短くして自慢してた脚、捨てるの嫌だったから殺して回ってたんだ」

 ギッ、みたいな鳥を潰したみたいな声がした。図星指されたか。まあこの点は俺が非難できることではないのだが……

「こ、殺してなんて……タクシーのは私の意思じゃないの! 脚が勝手に……!」
「彼氏は?」
「! あ、あれは……殺す気じゃ、なかったのに……」
「バレたのか」
「……分かってくれると思ってた。私なんかよりずっと大人で、かっこよくて……たとえこんな脚でも、受け入れてくれるって、でも、でも……」

 彼氏の部屋で見せた瞬間、怯えるか騒ぐがしたんだろう。で、キレてバッサリやっちゃた、と……まあ理解してくれと言う方が無理あるがな。

「化け物って、怪物だって言ったのよ!? 愛してたのに、愛してくれてたのに……でも、殺す気じゃなかったの! 体が、この脚が……」
「それじゃ、先生はどうして殺したのさ」
「……!!」

 今度こそ、いや今度が最大級。完全に虚を突かれたらしく顔が真っ青だ。

「な、何の話……」
「俺に気に入られたかったのか? 喜んでもらおうと思って、それであの時悪口言った先生殺したのか? ……別にそこまでしてくれなくてよかったのに」

 いくら考えても、動機はそれくらいしか思いつかなかった。あの日、別れ際見せた『殺気』――その直後に殺された教師。これで理解するなと言うのが無理がある。

「……お願い」
「ん?」
「お願い、黙ってて!」

 突然、右腕を掴まれた。しがみつく紫檀は必死そのものだ。

「お願い、私今幸せなの! 自分で歩けるし、友達だってできたし、それに……だからお願い、誰にも言わないで! もう二度とあんなことしない、この剣で殺すのは復讐……断罪剣だけにするから、だから……!」
「断罪剣だけ?」

 雪也は容赦なく紫檀を弾き飛ばすと、小さく失笑した。

「ゆ、雪也君……?」
「『断罪剣だけ』ねえ……そりゃ残念。だったら俺も殺されちゃうな」
「……雪也君、まさか……」
「それに、こっちにも事情があってね」

 そう言うと、雪也はゆっくりとジャンパーを脱ぎ、血のように赤いシャツを見せつける。

「“断罪剣”と聞いて、あんたを逃がすわけにはいかない。第一あんたに殺しがやめられるはずもない。断罪剣で、恨みも何もない人間殺した以上な」
「……それは」
「“脚”に取り憑かれた……とも違う。あんたが取り憑いたんだ、その悪魔の脚に。だから――」

 脱いだジャンパーを右手で突きだし、ニヤリと顔をゆがませる。

「いるだけで迷惑だ。その汚れた脚と縁切りしてもらうぞ、脚しか価値ない女」

 ビキリ、なんて音を聞いた気がした。
 はっきりしているのは、上げられた紫檀の顔が恥辱と憤怒で強張らせ、歯を食いしばり、眼を血走らせたくらいである。

「ガ、ガ、ガ……ガアアアアアアアアアアァァァァァァ!!!」

 絶叫。その声に年頃の少女が持つものはない。ただ恨みと憎しみだけが噴き出して留まるところを知らない。
 次の瞬間、紫檀は信じられないスピードで、スケート選手のように地面を滑りながら雪也に突っ込んできた。

「うわっと!」

 あわてて避けたもののジャンパーは巻き添えを食らい千切れ飛ぶ。直進した紫檀は先にある墓石をなんの抵抗もなく刻んで蹴散らしていく。
 やがて止まった紫檀の体は……異形によって彩られていた。

「――なるほど、『赤いスカート』とはよく言ったもんだ」

 紺のミニスカートは斬り裂かれ、代わりに別のものが下半身を覆っていた。
 それは、剣。
 黒塗りの“断罪剣”が、紫檀の下半身を覆うように何本も何本も生えている。推測するに、生えているのは腰――手術して繋いだ付け根部分であろう。さっきの高速は、脚の裏部分にローラー状に剣を生やしたか、はたまた腰の剣を高速回転させプロペラの要領で加速したか。
 この刃を回転させ相手の返り血を浴びれば、剣は血で染まり腰の剣はまるで『赤いスカート』となる……誰が考えたか知らんが、なかなか悪くないネーミングセンスだ。彩色される身としてはたまったものじゃないが。

 紫檀の瞳は……ダメだ、完全に『イっちゃって』いる。まあ自分がそうさせたんだが。

「こりゃ早いとこ仕留めた方がいいな。いくか――ん?」

 いつものように左腕に力を込める。だが、何も起こらない。

「あれ?」

 通常なら頼まれなくても剣となる左腕が、うんともすんとも言わない。断罪剣を見れば、斬りたくて斬りたくてしょうがなくなるというのに。

「お前、なんで――とおっと!」

 なんてことをしている間に、紫檀の剣が迫ってきた。ギリギリで回避したが、少し肌を斬られてしまう。

「っ! お前なんで出てこないんだよ! 断罪剣がそこにいるんだぞアオ! どうして……っだぁ!」

 またもや突進。まるでバイクのようなスピードに生身の雪也がどうにかできるはずもない。左腕を少し斬られてしまう。

「……!?」

 その瞬間、雪也は激痛と共にあるものを知覚した。
 痛みとも苦しみとも怒りでも悲しみでもない。これは――歓喜?

「あ、あ、あ、……あほかぁ!!!」

 その時、雪也は激情に任せるまま左腕に向かって叫んだ。

「馬鹿かお前は! 腕が女に惚れてどーすんだよ! 断罪剣が色気づくなボケェ!!」

 雪也が感じとったのは、喜び。
 斬られたことに対する、触れられたことに対する左腕――アオの歓喜。
 考えてみれば、ここ最近起こったこいつの異様、奇妙な疼きは、全部紫檀といた時か紫檀の話をしていた時ではないか。あのカルテを受け取る拒否をしたのだって、相手が紫檀だと予測していたからではないか?
 アオは、自分の弟は、この左腕は――紫檀に恋をしたのだ。
 ならば、今ここでアオが出てこないのも納得がいく……恋する者を、自分の手にかけようなど誰が望むか。

「ドアホドアホドアホォ!! 断罪剣の身で恋したって、触れられんのその左手だけだろが! できることも相当限られてくるわい! 第一俺はどうすんだ!」

 怒りの説得もアオには届かない。せまる凶刃をなんとか免れつつ、雪也は叫び続ける!

「お前なんで生きてるんだ! なんで“断罪剣”になったんだ! 俺を殺すためだろう!? 自分が生きたいばかりに、実の弟を殺したクソ兄貴を八つ裂きにしてやりたいんだろう!? だったらいいのか、こんな脚フェチの馬鹿女に殺されて、譲って!!」

 紫檀の怒りに油を注ぐようなものと分かっていても、言葉を止めはしない。左腕がドクンと脈動したように思えた。

「ああ俺は最低の兄貴だ、最低の男だ、殺されても仕方ない! でもまだ死ねない、死ぬわけにはいかないんだ! そう決めたから、約束だから――だってのに、お前がそれを忘れて、色恋沙汰にうつつ抜かしちゃいかんだろう!」

 攻撃をかわしているうちに、逃げ場がなくなっていく。とうとう追いつめられ、墓石に背を打った。

「俺はお前に殺されるためだけに生きる、お前を生かすためだけに殺す、殺し続ける! だから――!」

 一歩一歩、ゆっくりと迫ってくる紫檀の顔は、笑っていた。獲物にとどめを刺そうとする捕食者の如く。
 対して、今まさに捕食されようとしている獲物である弱者は、力なく崩れ落ちる。その顔は、

「――お前は、俺を殺すためだけに生きろ、アオ」

 ただ、笑っていた。

「……!」

 狂気に支配されていた紫檀の瞳に理性が戻り、とっさに後ずさる。
 しかし、雪也の左腕から突き出した巨大な剣がスカート型の断罪剣と激突し、何本か叩き割った。

「すまん、待たせた」

 立ち上がった雪也は右手でズボンの汚れを払うと、にこやかに謝罪した。

「な、なに、その腕……」

 自身も異形の剣を持つ紫檀章。
 しかし、今雪也が宿している剣は、その彼女ですら怯えさせるほど“異質”であった。

 刃と刃が左腕全体から噴出している。
 その刃は一定の法則性を持たず、四方八方に向けられ、己の刃自体で他の刃を喰らっていたりする。
 無秩序、無作為、無謀――あらゆる理性を捨て、“断罪”の衝動だけで生み出された剣がそこにあった。
 小動物のような姿に、普段に戻ったかのような錯覚を覚えた雪也は「ああこれ?」と明るく応じた。

「紹介するよ。俺の弟」

 言い終わるな否や、その凶刃を紫檀に向け突進した。

「くっ!」

 紫檀も己の高速移動を駆使して回避。だが断罪の刃は停止せず、墓地へその身を突きたてた。

「うおりゃあ!!」

 深く突き刺した左腕を、雪也は大きく振り上げた。抉り取られた地面は墓石ごと宙を舞い、高速移動をしていた紫檀に降りかかる。

「!? きゃあ!」

 一旦加速がついた身で急制動など為せるわけもない。スカートの刃で墓石を斬り刻んだが、土まではどうにもならず、大量の土砂を被ってしまう。
 泥まみれになり、動きが止まった紫檀に一気に突撃する。咄嗟に剣で防御するが、そんなもので“アオ”の刃を止められはしない。簡単に切り払われてしまう。

「なっ……!」

 あっさりと切断された自らの刃にさすがに動揺したのか、飛び上がって距離を取ろうとする。

「バーカ」

 待ってましたとばかりに剣を勢いよく突き立て、衝撃を利用して跳ねる。不意をつかれた紫檀は身をよじって回避しようとするが、何枚もの歯が犠牲となり己は地面にしたたか身を打ち付ける。

「悪いけど、年季が違うよ。こちとら二年も前から百人近く殺してるからな。……お前らのような、“断罪”に取り憑かれた化け物を。……ん? これ前にも言ったような……」
「く、く、くあああああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」

 涙混じりの絶叫と共に、刃を最大限までスピンさせた紫檀が特攻してくる。それに対し雪也は左腕を地面に刺し盾として、巨大なチェーンソーと化した剣を受け止める。

「私は、私は……ただ、生きたいだけなの!!」
「……そうか」

 悲痛な叫びが雪也の心に届いたのか、数刻寂しそうな表情で顔をそむけた。
 しかし、すぐさま顔を上げると、残酷な笑みをしてたった一言。

「奇遇だな、俺もだ」

 突き立てた左腕を支柱に地面を蹴り上げると、棒高跳びの要領で紫檀の顔面を思い切りキックした。
 弾き飛ばされた紫檀は頬の痛みに耐え体勢を立て直そうとするが、そんな隙を雪也は与えず、自慢の脚へ刃を振り下ろした。

「……っ!」

 凶刃は異形の脚を切断すること叶わず、ちょっと肉を切る程度であった。――しかし、それで十分だ。

「あ、あ、あ……」

 蹴りによって歯の二、三本折れた顔をひきつらせ、自分の命を狙う死神がそこにいることも忘れて、ドバドバ血が流れる脚に手を触れる。気がつけば、戦闘の影響であの美脚が泥まみれ、傷だらけではないか。

「脚が、私の、私の脚が……!」

 ボロボロ泣きながら血を払おうと必死になっているが、そんなもので止まるわけはない。ゆっくりと雪也が近づいてきたのも気付かず、己自身とも言える『脚』の無残な姿にただ戸惑うばかり。哀れな姿に別に何の感慨も抱かず、最後の一刀を構えた。が、

「え?」
「あん?」

 今まさに突き刺そうとしたその瞬間、
 先ほど切った傷口から、刃が飛び出してきた。

「どぅわ!」

 手裏剣のようにこちらへ投げられた剣を身をそって回避する。なにが起こったのかわからず目を白黒させたが……それは、紫檀のほうが顕著であったらしい。

「い、や……いやいやいやぁ!!」

 泣き叫ぶ紫檀を無視して、傷だらけの脚から隙間なく“断罪剣”が生えていく。血で染まった刃が何本も何本も、両脚から無尽蔵に生えていく。

「こいつは……いや、当たり前のことか」

“断罪剣”が傷つけられた憎悪によって生まれるものならば、こうして傷だらけになった脚からその憎しみによって剣となることはあり得る。否、必然のことであろう。そもそも脚まるごと切断されておいて、腰の部分しか生えなかったのが変なのだ。両脚に元々あった“断罪”の衝動と、紫檀が自らに持った憎しみが合わさり脚そのものを刃とした――まあ、そんなとこか。
 二つの憎しみが一つになり、やがて両脚そのものが刃の塊となった。その異様、あの美しい脚の影も形もない惨めな様を、何かに例えるとすれば、

「タワシみてぇ」
「――!!!」

 とうの昔に血が上り切った頭が羞恥で染まり、次いで怒りに燃える。あまりに他人事のような軽さに、耐えられる者などいるはずもない。

「あ、あ、あんたの、あんたのせいでええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 喪失感、羞恥、憤怒、殺意。あらゆる感情を乗せて絶叫した紫檀は、タワシ型の刃を高速回転させて一気に突撃してきた。

「……ああ、そうだよ。全部俺のせいだ。だから」

 雪也は身を低くし、左腕を刀のように構える。

 両者が互いに激突したその刹那、

「あ……」
「永遠に、恨みな」

 一閃。
 紫檀の腰、移植された醜い脚の部分だけを断ち切った。
 鮮血が宙を舞い、その血をアオの断罪剣が旨そうに啜っていく。
 分断された脚は、しだいに脚としての形を成さずボロボロに砕けていった。

「あ、し……私の、脚……」

 そして、再び自ら立ち上がる脚を失った紫檀が、それでも這いずって崩れた脚にすがりつこうとする。

「…………」

 雪也は助けることも止めを刺すこともせず、その場を去る。どうせ、あの怪我では出血多量ですぐ死ぬだろう
 ……そうなってくれれば、いいのだが。



 カレンはそれでもやはり踊りました。いやおうなしに踊りました。まっくらな闇の夜も踊っていなければなりませんでした。くつはカレンを、いばらも切株の上も、かまわず引っぱりまわしましたので、カレンはからだや手足をひっかかれて、血を出してしまいました。カレンはとうとうあれ野を横ぎって、そこにぽつんとひとつ立っている、小さな家のほうへ踊っていきました。その家には首切役人(くびきりやくにん)が住んでいることを、カレンは知っていました。そこで、カレンはまどのガラス板を指でたたいて、
「出て来て下さい。――出て来て下さい。――踊っていなければならないので、わたしは中へはいることはできないのです。」と、いいました。
 すると、首切役人はいいました。
「お前は、たぶんわたしがなんであるか、知らないのだろう。わたしは、おのでわるい人間の首を切りおとす役人だ。そら、わたしのおのは、あんなに鳴っているではないか。」
「わたし、首を切ってしまってはいやですよ。」と、カレンはいいました。「そうすると、わたしは罪を悔い改めることができなくなりますからね。けれども、この赤いくつといっしょに、わたしの足を切ってしまってくださいな。」
 そこでカレンは、すっかり罪をざんげしました。すると首斬役人は、赤いくつをはいたカレンの足を切ってしまいました。でもくつはちいさな足といっしょに、畑を越えて奥ぶかい森のなかへ踊っていってしまいました。
(ハンス・クリスティアン・アンデルセン『赤い靴』)



「……まるで、『赤い靴』だな」
「あん? 童謡だっけ」
「違う、童話だ。信仰を忘れて赤い靴に魅せられた女が呪いをかけられて、永遠に踊らされる運命になる話だ」
「ああ、そういえばそんなものもあったな……」

 後日、岩並が勤める病院へ結果報告という形で雪也は訪れていた。まああまり話して気分のいいものではないのだが、岩並も関係している手前話さないわけにもいかない。わかってはいるが……気が滅入って仕方ない。

「やれやれ、日本で二例しかない四肢移植がこんな有様じゃ、反対派が活気づくな。発表などできるわけがない」
「だったらこの診断とかやめてくれるか? こっちもわざわざここまで通うの迷惑なんだけど」
「そんなわけにいくか、こんな面白いもの。……その両脚も、是非調べてみたかったな」
「……そうだな」

 顔を俯けて、ため息をつく。
 仮に紫檀が、岩並に相談していたらどうなっていたか? ――興味津々で調べるだろう。そして、俺と紹介したかもしれない。そうしていれば、変な話だが先輩としてこの異形との付き合い方も教えられたかもしれない――“あの人”のように。それだったら、こんな――
 途中まで考えて、何を馬鹿なことをと失笑する。今更なんだ。あいつをああしておいて、どの口で抜かすのだ。
 もう遅い。俺はあいつを斬った。紫檀の希望であり幸福であった異形の脚を断ち切った。それだというのにこんな妄想をして――馬鹿としか言いようがない。

「んじゃ、俺はもう帰るよ。報告すべきことは全部話した」
「なんだ、もう帰るのか?」
「本当は外出が制限されていてね……多発している殺人事件、墓地の損壊、おまけに自分の高校の生徒が『行方不明』になったもんで」

 そそくさと立ち去ろうとした雪也が、「あ、そうだ」と思い返したように振り返った。

「その『赤い靴』、足を切って呪いを解いたとこまでは知ってるんだが、その後どうなった?」
「ん? ……たしか、改心して布教に励み、最後は神に赦されて天に召されるんじゃなかったか?」
「ふうん……まあお話ならそんなもんか」

 さしたる興味もなく呟くと、早々と出ていった。
 左腕の疼きが強くなるのを感じながら。

「結構話しこんでたか……暗いな」

 いつの間にか消灯時間は過ぎていた。放課後にわざわざ呼び出すからだ。まあ雪也はこの病院で妙な地位を確立している岩並の患者なので問題はない。――避けられているというのが正確ではあるか。

 ――ジャキ、ジャキ……

 あの戦いから一夜明けた高校は、紫檀章の『行方不明』で持ち切りだった。どうも可愛いとか美脚とかで注目されていたらしく、いなくなったという噂はたちどころに高校全体に伝播したが、誰も紫檀がどこにいるかわからなかった。――俺も含めて。

 ――ジャキ、ジャキ……

 紫檀と友人で俺のことも聞いていた由子に詰め寄られもしたが、知らないの一点張りだとすぐに諦めた。まあ元々そんな関係があったわけではないから当然だろう。目に涙をためてえりを掴んだ顔が未だ忘れられないが。

 ――ジャキジャキ、ジャキジャキ、ジャキ……

 同じく近くの墓地が荒らされたなんてニュースが地元テレビで流れたが、誰一人紫檀の行方不明と絡めたものはいなかった。携帯への連絡も足がつかないよう公衆電話からかけたのでこちらが疑われることはなかろう――もっとも、それもきちんと捜査していればの話だ。行方不明者なんてごまんといるこの日本で、事件性がなければ警察もロクに動くまい。
 事件からまだ日が浅いためまだまだトップニュースだが、しばらくすれば収まるに違いない。所詮ニュースなどというものは、常に新鮮でなければ忘れ去られるものなのだ。

 ――ジャキジャキジャキ、ジャキジャキジャキジャキ、ジャ……

「さて――」

 消灯された病院の長廊下。そこに響く、歯がこすれ合うような音。
 闇の中に目をこらすと、“それ”はたしかにいた。

「お久しぶりですね。まーいい脚を手に入れたもんだな紫檀」

 闇の中、紫檀――否、紫檀『だった』ものは這いずっていた。
 顔は真っ青で、腐敗が進んでいるのかところどころボロボロだ。目は光をもたず、ただ濁った白を晒している。蹴り上げた左頬からは、内側から“刃”が突き出して肉を抉っている。
 あの日のセーターは既に千切れて無くなり、本来晒されるはずの肌は固まった大量の血液が覆い隠している。
 そして、雪也自身が断ち切った腰から先からは脚が――黒塗りの刃で構成された脚が生えていた。
 刃と刃がくっつき合い、重なり合うことで関節を生み出し、昆虫のような細く鋭い剣の脚が何本も何本も生えている。それは今もなお新しく作り出されている。
『脚』を手に入れ、その脚に取り憑かれた女――紫檀章にふさわしい“断罪剣”であった。

「やっぱりな……行方不明と聞いた時から、いや、あの時止めを刺さなかった時からこうなるとは思ってたよ」

 苦笑混じりの声に、紫檀――もはや断罪剣と言ってもいいだろう――は呻きとも喘ぎともつかない叫びを上げるだけ。もう意思すらない、か。
 わかっていたことだ、と自分自身に囁くと、左腕を構える。

「後始末だ、一緒にこいつを天に召してやろうぜ、アオ」

 そう言うと、弟は少し時間をおいて断罪剣へと変化した。
 ――これが、俺たちが、いや、俺自身が抱えた“業”、だよな、先生――

 自嘲気味に笑うと、醜悪な姿を晒す紫檀へそれよりはるかに醜悪な刃を突き立てた。

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