Last Esperanzars

Last Esperanzars

新訳サジタリウス6


 五百年前確かにシルヴィア・マリュース一世が大陸を統一したが、これに無理があった。戦に長けるシルヴィア一世の統一の方法は当然戦争。圧倒的な軍事力を盾に他国を次々と侵攻、侵略。しかも大抵の国は根絶やしにするのだから徹底している。まさに大英帝国そのものだ。
 無論そんなやり方をしていれば侵略された他国民の恨みを買うのは必然。シルヴィア大陸統一とはいっても、実の所内乱がなかった年など一度もない。ヨーロッパ百年戦争ならぬシルヴィア五百年戦争だ。
 統一当初は集権的な絶対王政を敷いていたシルヴィアも、その広大なメガラの土地と軍事費に悩まされシルヴィア一世死後簡単に地方分権的な封建制へと変わった。
 国力では勝るギヴィンやグリードを野放しにしているのもここに理由がある。疲弊しきったシルヴィア王国は全体に支配体制が行き渡らなくなっており、いつ他領地が攻めてくるかわからない。内部に火種がある限り、うかつに攻め込むのは無謀。
 さらに、グリード侵攻によってもたらされたMNが荒廃に拍車をかけた。グリードに対抗するために急務となったMN建造、しかし技術も設備も無かったシルヴィアは、アマデミアン投入はいいとしても各領地に多大な負担を強いてしまった。財政負担と横暴的態度に業を煮やした領地が暴動へと発展するのは日常茶飯事となり、結果その対処にますますシルヴィアは国費を消耗した。
 そして今、シルヴィアには領地を経済や軍事力で抑えるだけの力は存在しなくなってしまった。
 唯一の頼みは最新鋭のMNと精鋭を揃えた親衛隊だけだったが、唯一だったが故に酷使される羽目になった。親衛隊は各地方に休む暇もなく繰り出され、反乱や暴動を鎮圧していった。だが、その行為が多くの恨みを買い、四年前にアマデミアンを含む少数民族や地方領地人民の総攻撃を喰らい、壊滅的打撃を被った。

「……で、壊滅した親衛隊を建て直す事になったが、現役はヘレナ・マリュース以外ほとんどダメ。しかしだからといってこの国力減退の時期に、ただでさえ少ない女騎士を他所の隊から引っ張りゃ編成が乱れちまう。でもシルヴィア王国の象徴である親衛隊を無くす訳にはいかねえ。だから……」
「……だから、素人に毛が生えたような奴をにわか仕込みで親衛隊に入れた、というわけか」
「おう。なんだ話わかるじゃねえか」
 そりゃそこまで言われて気付かないのはよほどの鈍感か馬鹿だろ、と一機は内心鼻白んだ。それでいて、何かスッキリするものも感じてはいた。
 ――なるほど、それでか。
 いつの間にか、周りの喧騒も収まっている。どうも皆エミーナの解説に耳を傾けていたらしい。全部白人に見えるが、商業都市の性質上様々な出身を持つ人間が多いはず。自分達を圧迫し続けたシルヴィアの悪口は音楽より心地良いものみたいだ。
ため息を吐き出すと、エミーナとやらはまた下卑た笑いを復活させる。
「へっへっへ、呆れたか、失望したか? これが神聖不可侵と呼ばれたシルヴィア王国の実態だよ。これからは俺達の時代だ。カズキとか言ったな。旅人なんて抜かしてたが、どうせ一旗上げようと都会に上ったんだろ? シルヴィアなんかに行っても共倒れするだけだぜ。どうだ、ライノスじゃ急な発展に人材がついていってないんだ、どっかで雇ってもらえば……」
「別にいい」
「は?」
 口を大きく開けたまま、エミーナが硬直する。周囲の聞き入っていた人々も同様。マリーすら唖然としている。
「い、今なんつった?」
「結構ですと、言いました。ワタクシ、シルヴィアで仕事のクチもうありますので」
「な……お前、話聞いてたのか? シルヴィアはもうダメなんだよ、騎士団も親衛隊も……」
「だからなんだ」
 あっさり言ってやった。ハンマーで頭を殴られたような衝撃を喰らっているだろうエミーナや店の人々の顔が滑稽でしてやったりと内心ほくそ笑む。
「さして珍しい話じゃない。それくらいで国一つ終わりだなんてちょっと早計だな。行商で儲けた土地の人間が、その程度の先見しか持たないんじゃ、ここの方がよっぽど先が知れてるってもんだ」
「あ、馬鹿」とマリーが呟く声が聞こえたが、構やしない。
 長期にわたる戦争での国力低下、軍人の低年齢化。どれもこれもよくある話だ。大抵の国は経験しているもので、その程度でシルヴィアや親衛隊の恥とは思わない。
 無論、褒められた状況ではない。ヘレナも、あのグレタも決して今の状態を受け入れているわけではあるまい。
 しかし、だからこそあいつらはこうしてここにいる。
 たとえ気に食わない任務でも、名ばかりだのすねかじりだの抜かされてもそれに従い、守ろうとしている。
 それを時代遅れだの馬鹿だの笑うこいつらが、無性にムカつく。今一機の口を動かしているものを説明付けるなら、そういったところだろうか。
「……ずいぶん面白いこという奴だな、お前」
 顔を引きつらせて、睨みつけながらエミーナはそう紡ぎだした。他の客も定員も殺気立っている。シルヴィアから脱却し繁栄したライノスの人間にとっては、シルヴィアを擁護する発言だけでも腹立たしいことだろう。今ここでリンチが起こってもおかしくない。
 こりゃ逃げた方がいいな。マリーに視線を向けると、同意見だったらしく互いに頷く。
 カウンターにシルヴィア通貨を置き、二人で店から出ようとする。去り際、シャクに障ったので背中越しに中指を突きたてたサインをした。
「っ! てんめぇ!」
 甲高い怒声がしたと思った瞬間、一機の肉体は店から蹴りだされた。
「がっ……!?」
 石造りの地面に倒れると、誰かに蹴られたとは判断できたが、誰かわからなかった。ヒリヒリする腕で起き上がると、そこには怒りに顔を歪めたエミーナが。
「な、何すんだ!?」
「うるせえ! 自警団団長のエミーナ様にケンカ売るたぁいい度胸だ、ぶっ殺してやる!」
 指をベキボキ鳴らして威嚇している。明らかに激昂した様子だが、どうしてそうなった? さっきの発言に怒ったのなら、とうの昔にこうなってもおかしくない。店の迷惑になるから出て行くまで待った? 違うな、そんなタイプには見えないし。
 なんにせよ、相手は宣言どおり今にもこちらを殺さんばかりに息巻いている。どうする? 土下座でもして命乞いでもするか。
「……冗談じゃねえや」
 地面に削られて少し切った手の平を嘗めながら、そう吐き捨てた。
 どうしてかわからないが、一機の脳内に『謝る』の選択肢は最初から無かった。というより、選択したくなかったから外したと言うべきか。
 どうしたんだか、と頭の中の冷静な部分が呆れる。こんなのは『的場一機』のやることじゃない。何もしない、何もやらないのが自分だった。こんなことで暴力沙汰なんて、とても考えられない。
 だというのに、どうしたんだこれは?
 はっきりしていることは、たった一つ。

――そうだ、あとであのヘレナ・マリュースの面でも拝みに行くか? 王家の血だからって親衛隊隊長になったすねかじり女をさ、あはは!

こいつの面を見るたびに、さっきの言葉がリピート再生されてはらわたが煮えてくることくらいか。何故かヘレナがビジョンとして同封されている。
 なんだ、と内心笑った。簡単なことだ。
「俺……」
「あん?」
 体躯からこっちの戦闘能力を判断したのか、料理する対象としか見ていなかった相手が唐突に呟いたのに、エミーナは眉根を寄せた。
 その面に一言、せいいっぱい睨み付けながら言い放つ。
「あんた、嫌いらしい」
 口にした途端、生まれてからこのかた体験したことのない昂揚感と満足感に満たされた。
 似ているものを強いて上げるとすれば、小学生の頃いじめっ子を階段から突き落とした時の感覚か。あれは爽快だった。すぐに反撃され袋叩きにされたが。
「……ほう」
 不意を突かれしばらく呆気に取られていたが、エミーナはそれだけ言うと、親指を首に対して垂直に滑らせた。俗に言う、首かっきりポーズ。
「ちょっ、一機、よしなって!」
 マリーが駆け寄ってきた。心配してくれているのはよくわかる。が、手遅れだ。
 無論勝ち目はあるまい。あっちはここの自警団団長、こっちは四日前に親衛隊入りしたばかりの新米に片足突っ込んだド素人。勝てる方が異常事態だ。
 しかし、逃げようとか退こうという選択肢が消えてしまっている以上、やるしか選択肢はない。
 だから、マリーの耳元でこう囁いた。
「おい、ヘレナの居場所わかるか?」
「え、なに、わかるけど……」
「じゃ、ヘレナに伝言頼むわ」
 へ? と目が点になった。無理もない、がこの場の空気と合わな過ぎてちょっと吹いた。
「え……た、助けてくれってこと?」
「なわけないだろ。一言だけでいいんだ」
 そこで、一旦言葉を切ると、少しの躊躇いの後に、
「いままでお世話になりました、ってな」
 息を呑んだ音が伝わったが、あえて顔を見ないで「ほら、さっさと行け」と突き飛ばした。少し逡巡したようだったが、一目散に走り出した。
 まあ、これくらいしかできることはあるまい。ほとんど何もしなかったが、隊員のままでは迷惑がかかる。ならば、最初からいなかったことにするのが最善だ。
 さて、俺はこっちをなんとかするのが先決だな……と、舌なめずりしてじりじり接近してくる女にジト目を向ける。
 やはり早まったか?

「……遅い」
 ポツリと漏れた一言は、漏れたにしてはやたら大きかった。最初からこっちに聞かせるためのもの、一応つい口に出してしまっただけの形にしたものなのは明白だった。
「そう言うなグレタ、ここの領主として、忙しい身なのだろう。こちらも色々あって遅れたからな」
「それはそうですが……」
 何か言いたい様子だったが、それ以上何も喋らなかった。遅れた理由が聖女の予言では、信心深いグレタは文句をつけるわけにいかない。たとえ結果がただの少年であったとしても、だ。
「しかし、だからと言って仮にも親衛隊を、シルヴィア王家直系の者を待たせるなんて許されざる行為です。こちらを甘く見ているとしか思えません。それも、こんなケバケバしい部屋に」
「……まあ、な」
 それには同意せざるを得なかった。確かに通された部屋は悪趣味だ。こういうのを成金趣味と呼ぶのだったか? 少なくとも、ヘレナが幼少期を過ごした王宮はこんな金ぴかではなかった。
 異様に豪華。詳しく言うと、ありとあらゆる場所に金が使われている。ところどころで光が反射して少し眩しい。どこの誰が書いたものかわからないが、やたら大きい洋画や壷やガラス細工などの骨董品が整然と飾られている。無秩序極まりなく、ここまで来るともう嫌味だ。
 なにせジャクソンが統治する前のゴルノ・ライノス城など知らないからわからないが、少なくともこんなではなかったろう。趣味はどうあれ、一領主がこれほどまでの美術品や宝石類を仕入れられるわけがない。
 シルヴィアを転覆させよう、なんて戯言が伝えられるのもわかる経済力だ。汚れた土地とも言われたライノスを、わずか十年でここまで発展させたジャクソンの実力は疑いがないが、やはりもう一つの噂も信じたくなってくる。
「ジャクソン殿が、ライノス家とは無関係な人物……信じるか、グレタ?」
 不意に発された、質問に、少し考える素振りをすると「わかりかねます」と応じた。
「ライノス家のことは詳しくないので何とも。ただ、仮にも貴族の家柄であるライノス家が、どこからか仕入れてきた馬の骨を領主とすることはあり得ないと考えます」
 ……まあ、そう解答するしかないな。ため息をつくと、出された紅茶、親衛隊のものより数倍いいものらしいそれを口に含む。
 仮にも貴族であるはずの領主が偽物など、その場に通されていて吐けるわけもない。しかも相手はこの大陸最大の貿易を牛耳る男、その手腕を持ってすれば何をされるかわかったものではない。ただの噂と一笑に伏さねばならないのが、今の自分達の立場であった。
「しかし、そんな噂を立てられるのもわかる。よくもまあここまで……汚れた土地として敬遠すらされていたと聞いたが。ええと、なんだったか」
「『黒い水』ですか? それくらい覚えていてくださいよ」
 心底呆れた声をされた。普段隊員達にもっと配慮をとか隊長と部下という分別をとうるさく怒鳴り散らしているが、実際に一番分別をわきまえていないのはグレタのほうではないか? と内心愚痴る。
『黒い水』とはこのライノス領で土を掘るとたまに出てくるという水だ。飲用に適さず作物を枯らすとして忌み嫌われている。ライノスが貧乏な土地だった最大の理由だ。
「それが私兵まで、MNまで持つまでになるとはな。さすがに《ジャック》ではなく《ゴーレム》だったが」
「当然です。一領主が独自にMNを開発していたらそれこそ一大事です」
 苦笑混じりのグレタの発言に、その通りだなと同意した。
確かに一大事だ。MNはその巨体により、構造は単純といえども建造と維持に莫大な費用がかかる。シルヴィア自体の財政を押し潰さんばかりのそれに、一領地が耐えられるはずもない。大貴族の私兵と言えど、MNを所有している者はだいぶ限られる。
実を言えば、親衛隊がこうしてMNを伴って怪しい兆候がある領地に向かうのはこういった事情もある。地方領主が持ち得ない巨大にして圧倒的なシルヴィアの象徴(メタルナイト)を見せつけることによって反抗心を潰すわけだ。不服でないといえば嘘になるが、実際に戦をしないで済むのならそれで構わない。
だが、カールにはMNが存在した。しかも複数。カールの城門前で、立ち塞がるように整列していたMN、《エンジェル》の前に建造された純正シルヴィア製MN《ジャック》ではなく、五十年前にグリードが使用したMNの国内量産型である旧式の《ゴーレム》だったが、それでも十体は下らなかった。あれで全部というのはあり得ず、強固な戦闘要塞として建造し直した城郭と合わせれば、例の戯言を一笑に伏すのは難しくなってくる。
いずれ、本当に一戦構えるかもしれない相手。ならばなおのこと、この目で確かめておきたい。
そんな思いでここまで来たというのに、これほどまで待たせるとはどうしたことか。そう怒鳴りたい気持ちは、ヘレナも同様だった。
「……まったく、いっそ帰ってしまいましょうか」
「……馬鹿」
 ドサドサ砂糖を溶かした紅茶を啜りながらポツリと呟やかれた言葉を、口では反論しつつ同意したかった。
『……い長、隊長、大変です!』
 すると、どこからか小さい叫び声が聞こえた。またグレタが愚痴を零したか?
「ん? 何か言ったかグレタ?」
「いえ、別に……あ、『ジスタ』ではありませんか?」
「なに?」
 礼服の胸ポケットに仕舞い込んでいた『ジスタ』、別名言霊石を取り出した。
『ジスタ』は『アマダス』同様にシルヴィア各地から発掘される霊石の一つで、その石に向かって叫ぶと反響したり大きくなったりと様々な特徴を持つが、最大の特徴は顔も合わせていない遠くの者との会話にあった。
『ジスタ』の不思議なところは、石と石の間に不思議な力で繋がりがあり、それに声を乗せられるということ。正確には、『ジスタ』を介して遠くの人間と会話が可能なのだ。どうしたらそうなるかなどは皆目不明。シルヴィア一世は魔術を封じたが、これだけは禁じられなかったと言われるほど重宝されている道具だ。
 ただ、大きさに比例して会話できる距離が変化し、それほど長距離は不可能であるとか、時にどこの誰だかわからない会話が入るなど様々な欠点もある。が、この利点は貴重であり、MNにもこれを組み込むことによって騎士間での連携が成立できる。他には、緊急事態が発生した際に誰かを呼び出すときなど。
 だから、この時の悲鳴が緊急事態を示すもの、という可能性もあったが、ヘレナはさして危機感を持たなかった。先ほども述べたように、『ジスタ』はたまにどこかの誰かとも知れない会話を拾ってしまうことが度々ある。そんなトラブルは慣れっこだったためまたかと呆れたこと、面談前に水を差された苛立ちの方が強くそっちの方へ頭がいかなかったというのもある。
 いずれにせよ、またかと呆れ顔を見せると、口元へ『ジスタ』を近づけた。
「あー、こちらシルヴィア王国親衛隊、そちらは」
『何言ってるんですか! あたしですマリーですよ!』
「……は? マリー?」
 面食らい、グレタと顔を見合わせる。グレタと同様に驚きを顔に出している。城郭外部に待機させておいた隊員ならともかく、息抜きも兼ねて一機と一緒に街へ向かわせ、万が一のためと『ジスタ』を持たせたマリーから連絡が来るなど、両者微塵も想像していなかったのだ。
「ど、どうした。何かあったのか?」
『何かなんてもんじゃありません! 大変なんですよ、一機の奴が』
「――一機?」
 一番予想外の名前が出てきた。いや、一機と同行させたマリーからの連絡だから一機関連の確率は高いが、なんとなくその考えを頭から削除していたところがあった。
 この数日で、一機という人物についてヘレナなりに分析していた。グチグチ文句は言うものの、与えられたことはきちんとやる、いややろうとする。しかしそれは決して忠実でも従順でもなく、どちらかというと反論する、抵抗することを意図的に避けているようであった。
 本当は人並み、それ以上に自我も持論も持っているはずなのに、厄介事や揉め事を避けようと従順なフリをしている。ヘレナの無茶――本人はわりとそう思っていない――特訓にも耐えられないはずなのにとりあえずついていく。兵士向きかも知れんが、それは戦地で使われる一兵に過ぎず、親衛隊が求める騎士としては不適合だ。
 要するに、ヘレナは一機という男を完全に見下していたのだ。あの予言が間違い、あるいは一機ではないとあっさり断言できたのも、「こんな奴に何か大きなことができるとは思えん」という思いがあったのは否めない。無論、自らの手でキッチリ更生する気ではあったが。
 だから、マリーから『ジスタ』越しに語られる事の顛末に、ヘレナは言葉を失った。特に、自分から親衛隊を抜けるとの発言で。
「……まさか」
 しまいに、そんな愚かな台詞を吐き出した。どんどん悲鳴に近くなっていくマリーの声や喧騒を『ジスタ』越しに聞きながら、ヘレナは自分の愚劣さを呪った。
 見誤っていた。違う。的場一機という男をまともに見ていなかった。一部分だけで判断し、嘲笑していた。これでは、男というだけで嫌っていたグレタたちと何も変わらない。
自分だって、マリュースの名だけで親衛隊隊長に選ばれただの言われてきたはずなのに。
「……馬鹿が」
 それが誰に対してのものか、ヘレナ自身も判然としなかった。
『ジスタ』での連絡を終えると、ヘレナは間髪置かずその場を飛び出した。グレタもあわてて後を追う。

「っ!……がはっ」
 また吹っ飛ばされた。これで何度目だ? 十回くらいまで数えていた気もするし、そこまでいっていない気もする。いずれにせよはっきりしているのは、地面に叩きつけられた衝撃で一機の体にまた擦り傷が増えたことくらいか。
「はあ、はあ……」
 周りがどんどんうるさくなってきた。円形状に取り囲んだギャラリーたちは、それぞれ好き勝手なことを叫んでいるが、その中に一機を応援するものは一つもない。
 ――やっぱ、こんなもんか。いつだって、どこだって……
 そんな哄笑が腹から湧き出そうになるが、口も切っているのでうかつに笑うことも出来ない。あいつがうらやましくなってくる。
「ひゃーはっはっはっは! なんだよ弱っちいなあまったく! あんだけ大口叩いた威勢はどこ行ったのさ! あーはっはっはっは!」
 ……訂正。やはりあんな笑いはしたくない。
 こちらを一方的にしたエミーナは、ただでさえ酔っているのにさせにヒートアップ、テンションがうなぎ上りになっている。
 しかし本当に小さい身体だ、と改めて思う。座っていたときより、こうして向かい合っていた方がよりはっきりする。自分より頭一つ分、百五十センチあるかないかだ。
 だが重い。
 こいつの拳を腹に喰らうたび、胃の中のものを全部吐き出してしまいそうになる。この小柄な体躯のどこからこんなパンチが繰り出せるのか、人類学者は研究するべきだ。
 なんて下らん現実逃避は、そろそろ終わりにしなければならんか。
「おうおう、やっちまえ!」
「ぶっ殺しちまえ、バーカ!」
 段々周りの野次も拍車がかかってきた。さっきも感じたことだが、やはりここの人間にとってシルヴィアという存在は足かせにして邪魔者、排除すべき存在に他ならないらしい。それを擁護する存在は殺してしまえという総意――マリーから聞いたあの話、本当なのかと疑いたくなる。
 動機はともかく、今ここにいる人間全員が俺を殺したがっている。それに後押しされ、エミーナはもっと強烈に殴ってくる。こりゃ本当に殺されかねないな。
 さてどうする。今更謝っても許しちゃくれないろうに、こうして敵同然の連中に取り囲まれた以上逃げる選択肢もない。運動なんか滅多にしないこの鈍重な身体であいつに勝てるわけもなし。どっかへ行ったマリーが助けを呼んでくれる、なんてのを期待していたら除隊など最初から口にしない。
 比喩的にも実質的にも八方ふさがり、か。と笑った。危機的状況にもかかわらず、ずいぶん穏やか、いや普通だなと自分で感じ、すぐ納得した。
 いつものことじゃないか。自分の意見が通らないのだって、誰も彼もが敵だなんて。何をしてもどうにもならない。何も変わらない。それを知っていたからこそ、何もしなかった。何もしなければ、とにかく今の状態から変わることはない。そう知っていたから。
 変わらない? 本当にそうか? ふと自分の中で囁く『声』がした。
 現状維持を続けていたフリをして、お前はどんどん後ろに後退していったんじゃないのか? どん底、どんづまりのようであって、実はお前の人生結構余裕があったんじゃないか? だからこそ、何もせずみんなから罵倒され嘲笑されてもジリジリ退くことが出来た。お前は、的場一機と言う男は今まで、不幸な弱者を気取ったナルシストに過ぎなかったんじゃないか?
「……うるせえ」
 どこからともなく聞こえてくる『声』に対し、ドスを利かせた声で制止させたつもりだったが、その『声』は止まることなく続く。
 何もしなければ、何も変わらず今のまま穏やかでいられる。嘘だ。あれだけ嫌っていたくせに。あれだけ変わりたいと思っていたくせに。本当は、変わろうと動くことによって起こる弊害を恐れていただけだ。他人から傷つけられることを恐れて、徹底的に他人から距離を取っていただけだ。いいやそれすら嘘だ。
「……嘘じゃない」
「ああん? 何言ってんだてめえ?」
 異変に気付いたエミーナが、怪我で頭がおかしくなったと重い嘲笑混じりに声を掛けたが、一機の耳には入っていなかった。
 嘘じゃない? だったらなんで鉄伝なんか遊んでいたんだ。電話線を介してでもいいから、他人と同じ場所にいる幻想に浸りたかったんだろう? 永遠の迷子(ヴァン・デル・ヴェッケン)? 笑わせる。最初から、どこにも行く気ないくせに。
あの図書室に入り浸っていたのはどうしてだ? 自分に向かって来ず何もしない麻紀が、お前にとっては丁度良かったからだろう? あれで麻紀が積極的に話しかけたりしていたら、お前は二度とあそこへ行かなかったろう。自分に絶対近付かない彼女が、誰かと一緒にいるという幻覚を楽しみたいお前にとって安牌だった。彼女の気持ちも考えずに。
「……違う」
 違わないね。そう『声』は断言した。
 ここに来てからもそうだ。お前はヘレナの無茶な訓練にもただ耐えた。でもそれは耐えたんじゃない、何もしなければ、何もされない。そんな自分で作った身勝手な決まりに従っていただけだ。あれだけ望んだ新天地でも、お前は結局変わらない。惨めで、臆病で、それでいて他人のことを考えない身勝手な男――
「違う!」
 自覚するでなく、大声で叫んでいた。突然発された絶叫に近いそれに、エミーナのみならず群集も凍りつく。
「そうじゃない、そうじゃない、俺は、俺は――!」
 血まみれになった頭を振り回し叫んでも、自分を苛む『声』は響き続けた。この場の誰よりも自分を誹謗し、侮蔑し、嘲笑する。
「な、なんだなんだ? 殴られすぎて、頭おかしくなっちまったか?」
 一機の内奥を読めないエミーナは、突如始まった異変の原因がわからず動揺する。それを隠したくて、やたら強気な言葉を口に出してしまう。
「ふん、まあおかしくなっちまったんならおかしくなっちまったでいいんだがな。おい、俺のクレイモアよこせ!」
 それまで歓声を上げていた同じ自警団らしき取り巻きの女が、明らかに目を見開いた。その場を取り巻く集団心理から唯一切り離された形だが、他がそれを許さない。
「おい、いいぞいいぞ!」
「ぶっ殺しちまえそんな奴!」
 ――あれ? この光景、どこかで見たような……
 エスカレートした群集が、一機の抹殺を了承し行わせる。死に直結した危険な状況にもかかわらず、一機は出血でフラフラの頭でどこかデジャブらしきものを感じていた。
 自分を殺そうとする敵、それを喜ぶ全ての人間、そして鈍重な、鈍重、な……
「はあっはっはあ! さて、そろそろやっちゃいますか!」
 うおおおおおおおお、と歓声はピークに達した。クレイモア月の形で構えたエミーナは、それに押される形で一機に向ける。
「うっ、らあああああああああ!」
 雄たけびと共に突進し、一機の無防備に晒された腹部に巨剣クレイモアを突き刺し、

「……おっと」
 かけたところで、ギリギリ回避されてそのまま後ろに突っ込んだ。

「……な、なに?」
 勢いあまって群集の輪に飛び込みかけたところで転んでエミーナは制止した。起き上がることもせず、ただ困惑する。
 どうして自分は転んだ? あいつが避けたから、それはない。あいつが避けられるわけがない。この自警団団長、エミーナ様渾身の突きを、あんな軟弱者が、ボコスカにされていたあいつが……
「……はは、ははは」
 ふと、どこからか笑い声がした。瞬時に起き上がって周りを確認するが、エミーナ同様わけがわからないといったものばかりで笑っている奴など一人もいない。となると、残るのはあと一人。
「ははは、ははは、そうだった、忘れてたよ……」
 カズキと名乗った男が、天を見上げて笑っていた。何がおかしい? 自分のこの無様な様か? エミーナからそれまでの昂揚感が一気に消えうせ、はらわたの煮える感覚が逆に来た。
「何笑ってんだ……よっ!」
 再び構えなおしたエミーナは、今度こそと同じように腹部へ突撃し、
「……なっ!?」
 また回避された。しかも今度は足を引っ掛けられ、その場で無様に倒される。
「て、てんめえ!」
 憤慨するエミーナだったが、それと同時に戸惑っていた。さっきまでいい様にやられていたこの男が、どうしてここまで回避できる? まったく理解できないでいると、カズキはまた笑い出した。
「そうだった、俺ってば……」
 とそこで区切り、明後日の方へ目を向けて、思い出すように一言、
「俺って、鈍重な体、機体には慣れてるんだった」
 そう口にした。エミーナには、まるで意味が理解できなかった。

 そう。
 一機が突然エミーナの攻撃を回避できるようになった理由、それはあまりにも単純なことであった。
 鉄伝、『アイアンレジェンド』である。
 TPSオンラインゲームである鉄伝はリアルタイムで行われる。当然敵の攻撃も何の予兆もなく来ることがある。通常の機体なら容易に回避できる攻撃であったとしても、一機がそれを行うのは困難であった。
 一機の愛機である《サジタリウス》は大型の上重装甲に重武装、回避行動などまともに行える代物ではなかったのだ。
 勿論、重装甲なのだから無視して喰らえばいい、という考え方もある。だが重装甲とはいえ多少のダメージは免れない。集中的に狙われることの多かった一機には少しのダメージも大きな不安要素になった。
 そこで、鈍重な《サジタリウス》を回避させるやり方を自然と身につけていった。簡単に言えば、敵の攻撃を誘導するやり方だ。
 わざと隙を作る。停止するかトロトロ運転するか明後日のほうを向くか、いずれにしろチャンスと判断させて相手が攻撃する場所を予測しそこを見せ付けて、敵の行動を誘導する。そこで向かってきた場合、命中するかしないかまでギリギリ引き寄せ、勝ったと思わせた瞬間回避する。
 無論言うほど簡単なことではない。相手の攻撃のタイミングと回避できるギリギリのタイミングを瞬時に判断しなければすぐ撃破される。だが、一機はそれを五年間鍛え上げた反射神経で成しえていた。実を言うとこのテクニックこそが、五年間無敗伝説を培った切り札であるのだが、一機自身それに気付いていない。
 そのテクニックが、この土壇場ですぐ生身に応用できるものではない。しかし、鉄伝で散々追い回された時とまるでそっくりな状況、そして的場一機という鈍重な肉体が、その感覚を呼び起こしてしまったとしても不思議ではない。要は強化された反射であって、別に何の肉体的能力も必須ではないのだから。
 とはいえ、そんなことをエミーナがわかるわけもない。
「うっら! だらぁ!」
 闇雲にクレイモアを振るうエミーナ。しかしそれ全て、一機は回避してしまう。焦りはますます太刀筋を大雑把にし、一機のテクニックに嵌ってしまう。――もっとも、当たらない理由は、一機の技のせいじゃないのだが。
「はあ、はあ、はあ……てんめえ……」
 いつの間にかエミーナは汗だくだく、息切れもしていた。このままだと倒れるのは自分だ、と自覚していた。
 一方一機のほうは余裕、でもない。なにせクレイモア以外でつけられたダメージが大きい。意識が遠くなってきている。
 お互い、これ以上グダグダやっていても埒があかないことはわかっていた。ならば、やることは一つ。
「…………」
 ジリジリと、互いに距離を詰めあう。
 さっきまでまるでお祭騒ぎだったギャラリーは静まり返り、静観するしか出来なくなっていた。
 そう、歓声など邪魔にしかならない。
 これは、最初から二人だけの戦いなのだ。
 チリンと、何か鈴のようなものが鳴る音がした。それが合図になった。
「うおらあああああああああああああっ!」
 またしてもエミーナはクレイモアによる突撃。懲りないなと周囲が呆れたが、そんな反応おくびに返すこともなくただ突っ込んだ。
 当然回避される。何度も経験したものだから当たり前と皆が思ったが、今回は違った。
「くおっ!」
クレイモアの半分が一機の脇をすり抜けたところで右足を踏み込み、急ブレーキをかけた。全力で突っ込んだスピードがそんなもので殺されるわけもないが、エミーナにとってそれで充分であった。
クレイモアを横にし、右足を軸にして真横へ斬る。無防備に晒された一機の胴は真っ二つにされるろう。
これで勝った。確信したエミーナは顔を歪ませ――ようとして、眼前にところどころ赤い肘が迫っているのに気付く。
「ぐがっ!?」
 みしっ、と嫌な音が聞こえたような気がしたのはエミーナだけだったか。肘打ちを鼻に喰らったエミーナは、クレイモアを地面に落として昏倒し、その場で鼻血を噴出しながら悶絶する。
 実のところ、ケンカなんか経験がなく軟弱な引きこもりの一機にそんな強い力もなく、肘打ちも大したダメージではなかったのだが、現実に鼻血を噴出しているエミーナにとってはそれどころではなかった。
「はが、はがが、はががが……」
 鼻を押さえつつ転がり回る。それで、あらかじめあの動きを読み、向かってくるであろう地点に肘を突き出した一機はというと、
「~~~~~~~っ!」
 エミーナと同様に地面に転がり悶絶していた。
 何故かというと、肘打ちを喰らったことによりエミーナの両手から解放されたクレイモアが、そのまま一機の足に直撃したからだった。これが腹の部分だったのが幸い、刃だったら足は分断されたに違いないが、今激痛に苦しんでいる一機にとっては意味のないことだった。
 そして、このアホらしい終わり方をした決闘に、観客達が色んな意味で言葉を失っていることは、両者とも本当にどうでもいいことだった。
 ガックリしたものの、これからどうしたものか考えあぐねている周囲を無視して、鼻血まみれになったエミーナがやっと起き上がった。
「て、てめ、この……じ、自警団団長たるこの俺が、この俺が、こんな、こんな田舎者に……!」
 エミーナの発言によって、ああこいつが負けたんだとほとんどのギャラリーは気付いたが、その決着のつけ方があまりに滑稽だったためもうどうでもよくなっている。が、当人はそうもいかず、憤慨する。
「ちっきしょお……おい、お前ら!」
 呼ばれたのは、自警団の取り巻き。群衆と共に呆れムードだった彼女たちも正気に返り、加勢しようと一歩踏み出そうとして、
「そこまでだ」
 と肩を掴まれる。
「あん!? なんだテ、メ……」
 怒りを顔に出して振り返った取り巻きの一人は、そこで絶句した。
 目の前にいたのが、
「う……え、ヘ、ヘレナ?」
 シルヴィア王国第十七代女王シルヴィア・マリュースの次女にして、親衛隊隊長のヘレナ・マリュースだったからだ。
 一機が発したヘレナ、の一言に、ギャラリーもさっと離れていく。名ばかりだのすねかじりだの馬鹿にしていても、いやだからこそ、目の前に立つ本人が持つ強烈な威圧感に全員飲まれたのだ。
「自警団団長というと――そうか、お前がエミーナか。仮にも貴族の身であるはずなのに、こんな私闘をしていいと思っているのか?」
 睨み据えられたエミーナ、恐怖に怯えるがそれを振り払おうと声を張り上げる。
「う、うるせえ! 親衛隊がこんなとこまで来やがって何の用だ! こんな奴にやられたままで終わるわけにゃ……」
「やられた?」
 そこでヘレナは、フッと哄笑した。
「何を言っているのかわからんな。今お前が負けたのは、お前自身のせいだぞ?」
「……なに?」
 わけがわからずエミーナが唖然とすると、アゴで転がっているクレイモアを示した。
「そんな大剣を、お前のような小柄な人間が扱えるわけがなかろう? 自然、大きさと重さに苦しんで太刀筋が大雑把になっていた。そんなもの、素人でも充分見切れる」
「ぐ……!」
 二の句が告げなくなったエミーナに対し、一機はああそうかと納得した。自分でもなんでこんな避けれるのか不思議に思ってはいた。なるほど、元から単調だったのか。
 しかし、それにしても簡単に見切れたような。何か、何度もやった感覚が……
「……それに、立ち入る理由ならある」
「え?」
 気がついたら、倒れている一機の前にヘレナが立ちすくんでいた。目を三角に、恐ろしい形相で。
「……えっと」
「立て」と命令され、節々の痛みに耐えながら立ち上がる。立つとそこにあるのは、怒りの炎を背負ったヘレナ。綺麗な顔ほど、怒ると怖くなるという話が真実だと、一機は確信した。
 どうしてここにいるのか。既に手は打ったはずなのにと思いつつ、とりあえずそれに沿った対応をしようとする。
「えっと、どちら様で」
 バキィと、言い終わる前に右頬から左頬へ貫いた衝撃が断ち切る。
 地面に叩きつけられた一機は、これまでのどの痛みよりも激しい痛みで、右頬を殴られたことにやっと気付いた。
「この馬鹿者が! 親衛隊隊員たる者が、私闘を行うなど言語道断!」
「……え」
 耳を疑った。ヘレナの顔を凝視する。
「いや、俺は……」
「黙れ! 口答えも勝手も許さん! お前には、この私自らが制裁を下してくれるわ!」
「……!」
 一機は、今更ながら気付いた。
 ヘレナが一番怒っていることは、ケンカ騒ぎを起こしたことではない。
 迷惑が及ばないようにと、変に気を利かせて辞めるなどとほざいたことが許せなかったのだ。
「……あの」
「もういい、さっさと帰るぞ! 宿舎でミッチリ指導してくれるわ!」
 そう言って、ヘレナが一樹の首根っこを掴み引っ張り上げようとした矢先、
「いやあ、こんなところにいましたか」
 と場違いなまでに間の抜けた声が制止させた。
「驚きましたよ、急いで来てみれば誰もいないのですから。それで困っているところに、街でケンカ騒ぎがあったときた。そこにヘレナ様が向かったと聞いて、飛び出してきたわけです」
 誰も聞いていないのに説明し出した中年の男は、四〇代くらいの大柄な男だった。ブラウンの瞳を持つその男は、金髪をオールバックで整えるという姿はどこかのエリートサラリーマンにも見えた。
 が、その格好はサラリーマンがするものではなかった。どこかの礼服かは知らないが、ところどころに金の装飾が施されている。布地も白を主体に赤、青、黄……虹を着込んでいるのかと疑うその姿はけばけばしいというレベルを越えていた。
「……あなたは?」
 そんな怪しいオッサンに対し、ヘレナは警戒心を持って質問した。どうもこの男が誰だかわかったらしい。
「おっと、これは失礼いたしました」
 余計なほど恭しく例をする。頭を上げた男はニコリと笑い、
「わたくし、このライノス現領主のジャクソン・ライノスと申します。この度は第二王女様にお越し頂きまして感激にございます」
 その笑顔が面の皮一枚の物に見えたのは、一機の思い過ごしだろうか? ヘレナの方はどうしてだか憮然とした表情をしている。
「貴方がジャクソン・ライノス殿か。ずいぶん遅いご登場でしたな」
「いやいや、領主というのも多忙でしてな、何もかも時間通りとは参りませんものですが、本日は遅れてしまい申し訳ありません」
 といって礼をした様に、苦虫を噛み潰したような顔をしたヘレナは、小さく嘆息して話を戻した。
「まあいい。こちらもうちの馬鹿が迷惑をかけた」
「そんな、迷惑など。事情はわかりませんが、どうせうちの馬鹿娘が起こしたのでしょう。気性が激しいものですからな」
 馬鹿娘? 誰のことかすぐにはわからなかった。一機がキョロキョロ辺りを見回すと、「……待て」という地から響いたようなうなり声がした。
 ギョッとして顔を向けてみると、さっきまで倒れていたエミーナが立ち上がっていた。いや、その表現は間違いだ。
 上半身をグッタリと垂らして、元々小柄な体躯をさらに小さくして立っている。地面に足がついたそのポーズから出るオーラはさっきの比ではなく、黒髪と相まってまるで獲物を見つけた女豹のように――女豹?
 ――あれ、なんだろ。こいつの姿、どっかで……
「よしなさい、エミーナ」
 ピシャリと発された言葉に思考を停止させられた。同時に、今にも飛びかからんばかりのエミーナも動きを止める。
 ジャクソンが、さっきまでの愛想笑いを消した厳しい表情をしていた。その瞳の先にはエミーナが。
「なんで止めんだよ! こいつ俺らのこと馬鹿にしたんだぞ!」
「何のことかわからんが、まがりなりにも領主の娘、しかも自警団団長のお前が自分の町でケンカなどしていいと思っているのか。いいから、今日はさっさと帰れ。処分は後で言い渡す」
 呆れた様子で言い終わると、周囲にいた自警団員にまだ暴れているエミーナを捕まえさせる。「てめえ、このクソ親父ぃ!」と叫びながら、エミーナはどこかへ連れ去られた。ってか、クソ親父?
「あのー……今、クソ親父って」
 馬鹿娘、クソ親父の単語に、恐る恐る一機が尋ねると、ジャクソンは目頭を押さえながら答えた。
「ええ、あれは私の一人娘、エミーナ・ライノスですよ。お転婆というかじゃじゃ馬というか、あんな気性で困っていまして、はは、申し訳ない」
「ええー……」
 あんなのが領主の娘かよ。全然似てないし、あんな荒くれ者でいいのかとはさすがに言わなかった。言ったら多分殺される。誰とは言わないけど。
「とにかく、本日はご迷惑をかけて申し訳ない。私はこいつを持って帰らねばならないので、会談はまだ後日にお願いできますか」
「ええ、勿論構いませんよ。こちらとしても、この不手際を謝罪する機会が欲しいですからね。では、また後日」
 ジャクソンは、近くの秘書か何かに二言三言、多分ここの後始末を言い渡して帰っていった。なんとまあ忙しい方だ。
「……さて、我々も行くかグレタ」
「はい、ヘレナ様」
 二人のやけに重い口調に、今自分が首根っこを掴まれていることを思い出した。振り返る勇気がない。二人の顔を見るのがすごく怖い。
「さて、例のものは持ってきていたか?」
「当然、最大級のものを用意しておきましたよ。すぐにでも使えます」
「よし、それでいこう」
 何やらものすごく不穏な会話をしているようだ。ゾクゾクと寒気が走る。なんだよ例のものって。最大級って、何が最大なんだ。
「……おい」
「ひっ!」
 怯えていたところに耳元でヘレナの声が。つい悲鳴を上げてしまう。
 が、そんなもの気にもせず、ヘレナはこう囁いた。
「……一応、親衛隊の名誉のため怒ったのは認めてやる」
「え……?」
言葉の意味がわからず、驚いてヘレナの方を向くと、同時にそっぽを向かれた。
 ただ、一瞬。
 見間違いかと思うほど一瞬だったが、確かに見た。
 ヘレナが、微笑んでいるのを。
 ――ああ、そうか。
 その時、一機はやっと悟った。
 どうして会って数日にもならない親衛隊が侮辱されたことに対して、ああも過剰反応したのか。
 そして今、どうして痛みが消えるほど晴れやかな気持ちでいるのか。
 ――きっと、俺はこの笑顔が見たかったんだな。
 二人に首根っこを引っ張り上げられてはいたものの、一機の気分は最高だった。

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