食材と相談
「今日の買い物、何を買ってくればいい?」
「卵と納豆、胡麻油が無いね。明日はカレーにするから、あったらココナッツ・ミルクの缶を買ってきて。あとは普通に野菜とかをお願い」
「了解」
買い物に出かける前の、私と妻の会話である。真ん中が私。念のため。
病気療養中の身としては、週一回のまとめ買いに同行できないのは誠に残念で、しかも申し訳なく感じている。だから、夕食の献立を考え、近くの肉屋まで散歩がてら出掛ける位のことはしようと思っている。
それでも、昔の癖で、買い物の前に細かく献立を考えようと思ったことは殆ど無い。有る物で作る。これが私の料理の基本なのである。つまり、食材と相談して決めるのだ。
私、いや我が家には、深い食材への拘りはない。野菜や肉、魚ならただ新鮮であれば良いし、何処産の何と狙って買う事は全く無い。強いて云えば、出来るだけ地元の食材を使うのが宜しかろうと思ってはいる。それでも、買い物に出て、食べた事の無い不思議な野菜に出会う事もあれば、見慣れない加工食品や、以前テレビで見た調味料などを見つけてしまう事もある。そんな時は、財布が許せば一つや二つ買ってみるのが常である。これは食への拘りと云うよりは、純粋な好奇心の賜である。
そんな買い物をするのだから、あれを食おうと考えていたとしても、急に献立が変更される事は珍しくない。だから、卵や納豆など定番の食材を除いては、その時々に美味そうな物を買う。こうした方が自然のように思っている。
貧乏な時代は、「美味そうな物」が「安い物」に置き換わっていた。見切り品コーナーや特売のワゴンから買えるだけ買い、冷蔵庫に突っ込んで、さてどうしよう、と思案するのである。大根なら塩でもんでサラダや浅漬けに、皮はきんぴらにしよう。鶏の胸肉はそぎ切りにして炒め物やスープに、豆腐は半分を冷奴に、残りは味噌汁にしよう、云々。それらを組み合わせて、日々の献立を調整するというわけである。
そうした工夫が、今は役に立っている。特に冷蔵庫の中身が寂しくなってきた時、その真価は発揮されるようだ。在り合わせの食材で雑炊や煮込みを作る腕前は、我ながら大したものだと自負している。週の終わりに「冷蔵庫一掃献立」で一杯飲るのも乙なものだ。第一、仕事で疲れた妻に帰りがけの買い物を頼むのは申し訳無い。
さて、今日も冷蔵庫の中身と相談してみる。そろそろ旬を終える新鮮な初春の葉物、作り置きの肉団子、以前妻の実家から貰った冷凍の明太子、弁当のおかずにと買ったはずの白滝等々…。どうやら、少し食材を整理する必要がありそうだ。
葉物のうち、かき菜を油揚で煮浸しを作ろう。明太子と白滝は炒め物に、肉団子は玉葱と合わせて、卵を落として小鍋仕立にしよう。糠床に突っ込んだ大根の切れっ端も、そろそろ食べ頃だ。これに味噌汁でも作れば…。
と、こんなふうに考えるのが、今の私の役目であり、また愉しみでもある。あまり働かない頭を必死に使うのは、或種の脳内体操とも云えそうで、惚け防止には良いかも知れない。ただ今週末から始まる入院生活で、食材との相談は暫しお休みである。上げ膳据え膳で頭が惚けてしまわなければ良いのだが。それが今一番の心配ではある。