「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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Lemonhart755
信長暗殺P05
本能寺の変の時、織田家の軍団はどうなっていたのだろうか・・・・
まず、家老の柴田勝家は、佐々成政・前田利家らと共に、越後春日山城の上杉家を攻めていた。
関東では、関東管領に任じられた滝川一益が、勝家を支援するために関東に赴任し、活動していた。
四国方面は、丹羽長秀が総大将に三男の信孝を据え、大阪の住吉に集結していた。
信長が四国計略を考えたきっかけは、光秀と姻戚関係にある
土佐の長宗我部元親が、三好康長の阿波に侵攻した事である。
長宗我部氏のルーツは秦氏である。
平安時代末期、信濃の秦能俊が土佐の長岡郡宗部郷に入った。
同時期に中原秋家が香美郷に入り地名を取り長宗我部氏・香宗我部氏と名乗った。
鎌倉時代、長宗我部氏は地頭として発展し、戦国時代には豪族に成長し
元親が天正三年(1575)に土佐を征服した。
元親は光秀の縁者の娘を嫡男の妻に迎え友好関係を保とうとするが、
信長傘下の三好氏と争った結果、敵対行為と見なされ四国征伐の口実を与えてしまった。
元親と光秀は、どこで知り合い親しく成ったのか・・・?
元親は、光秀が同じ秦一族である事を知っていて、同族のよしみを通じて
信長と友好関係を保とうとしたのかも知れない。
秀吉は、本能寺の変の時、備中高松にいて高松城を水攻めにしていた。
高松城救援の為、毛利本軍が来ると判断して信長には救援要請をしていた。
しかし、その実、本格的な戦闘は一度もしていなくて、且つ毛利氏と単独で講和を進めていた。
毛利氏は信長の大規模な応援部隊が来れば、勝ち目は無いと判断して講和に応じる方向に傾いていた。
問題は毛利氏に忠誠を尽くしてくれた高松城主、清水宗治の扱いであった。
6月2日、外交僧の安国寺恵珪珪の斡旋の結果、宗治が切腹することで城兵を助け、開城することで合意した。
切腹の日は6月4日と決定した。
秀吉が本能寺の変の情報を入手したのは6月3日の晩だったとされている。
それは、光秀が毛利氏に送った密使を捕まえたとか、
長谷川宗仁の使者からだとも言われているが、明確ではない。
知らせを聞いた秀吉は、毛利氏との講和を急ぐべく恵珪に事実を話し
「一か八かやってみる。 お前も俺の運に賭けてみろ」と言って、斡旋を依頼した。
「それほどに、敵方の私を信じてくれるのか・・・? それなら、それに答えることにして見ましょう」
と、彼は、講和を取りまとめた。
その結果、6月4日の午前、清水宗治は、主従7人、小船の上で切腹した。
毛利氏が本能寺の変を知ったのは、紀州雑賀衆の密使からで、すでに講和成立の後であった。
追撃の声が高まる中で、吉川元春や小早川隆景は
「誓詞の血痕がまだ乾かないうちに、これを破るのは武士の恥である。それに喪に乗じるのは不祥である」
として、軍団に追撃を許さなかった。秀吉はこのことに深く感謝している。
それは、秀吉が天下を治めた時、毛利氏を優遇する形で表している。
6月5日の午後2時、秀吉軍は毛利軍が岩崎山から引上げるのを確認後、移動を開始した。
一刻も早くここから撤退して京都に帰り、光秀を討ちたい。
勝家や長秀・信長の息子達を追い抜いて、ポスト信長の一番手になるにはこの方法しかないのである。
毛利軍は追撃してくることはなかった。
このように迅速にことが運んだ運んだのは、恵珪の働きが大きかった。
恵珪は毛利氏の外交僧で前半生は不明で安芸国安佐郡銀山城主武田氏の一族だといわれている。
博学能弁を毛利輝元に信任されて毛利氏の外交僧になったと言われている。
天正元年(1573)輝元が義昭の命を受けて、信長と義昭の間を調停した時、恵珪は上洛して
信長の使者の秀吉・朝日山日乗と会見し講和の為に奔走している。
その時から恵珪は秀吉と面識があったのだが、本能寺の変後、
彼が秀吉と連携したかのような行動を示したのは、秀吉の軍師
黒田孝高の存在が大きかったといわれる。
黒田孝高は播磨姫路城の城主だが、黒田家は元々備前の福岡出身である。
福岡は砂鉄が豊富に採れることから刀鍛治が多く住み、長船鍛治として知られ
福岡一文字派として呼ばれる備前刀工が活躍した。
徳川初期政権の黒幕、天台宗の僧、南海坊天海の諮号(おくり名)は慈眼と言うが
偶然かどうか長船鍛治の菩提寺の慈眼寺が長船にある。
光秀が刀鍛治の次男という伝承があるのと重なり興味深い。
こうした点から、黒田家のルーツもまた産鉄につながる山の民ではなかったのではないのだろうか・・・・?
恵珪のルーツは安芸の臨済宗妙心派の安国寺釈尊堂を大修理したことで知られるいるが
奇妙なことに、妙心寺は美濃とのつながりが深い上に、本徳寺には光秀の木像や画像があり
同じ妙心寺派の大龍院には、「明智風呂」がある。
そのほか、光秀の妹の子供で三代将軍家光の乳母の春日局の菩提寺麟祥院も妙心寺派である。
麟祥院の北側には、彼女の父で本能寺の変で光秀と行動を共にした斉藤利三の墓がある。
妙心寺派は、光秀と奇妙に結びついている。
妙心寺派の僧、恵珪がかって信長について「やがて高ころびに転ぶだろう」
と、その死を予言したのは単なる予言だったのだろうか・・・?
そして、恵珪と孝高が秀吉の撤退に合力したのは偶然だったのだろうか ・・・・・?
秀吉が信長の死を知った時、孝高は冷静に
「天下を取る好機がめぐってきました。天の加護です」 とささやいたという。
この一言が、孝高の首を絞めることになるが、この時、秀吉は心を見透かされたことを忘れず、
いくら、孝高に功があっても警戒して大所領を与える事は無かった。
備中高松城攻めに参加していた秀吉軍は約25000人であった。
秀吉は、この大部隊を1日で姫路城に移動させたいと思った。
本陣は密かに5日の午前2時頃から撤退を始め、全軍が引上げを
開始したのは、5日の午後2時で、天候は暴風雨に近い悪天候である。
まず、絶対に不可能といえる無謀な計画であったが、秀吉はあえてこの計画に挑んだ。
この計画を立案したのは、おそらく軍師の黒田孝高であろう。
孝高は福岡出身で姫路城城主でこの辺の地理に精通していた。
秀吉は山陽道を東へその日のうちに備前の沼城に入った。
7日、沼城を出発して福岡の渡しで吉井川を渡った。
折からの大雨で川は増水し、渡河は危険だったが無事乗り切った。
吉井川を渡った秀吉軍は、伊部、片山、三石、船坂峠をへて播磨に入った。
秀吉自身が播磨に戻ったルートには諸説あり、はっきりはしていない。
秀吉や孝高が一番心配していたのは、大阪に集結していた信孝・丹羽長秀の軍団の動向であった。
大阪にいる彼らが最も光秀に近い距離にいたからである。
秀吉・孝高は、おそらく船で沼ー牛恋ー赤穂佐古志というコースをとったものと推測される。
彼らが陸上コースを軍団とともにたどる必要はない。
むしろ、船の中で光秀軍との決戦に備え、作戦を練ってきたはずである。
陸上コースをたどった軍団は、夜どおし歩き続け、遅くとも8日の早朝に姫路城に入ったはずである。
一昼夜で55kmの強行軍、不可能とも言えるこの大移動に成功したのは
秀吉配下の多数の山の民のおかげであろう。
墨俣の城、高松城のダムを5日で作りあげたのは、木曽・長良・揖斐の
三河川の合流地域に洪水から集落や耕地を守るため周囲に堤防を
張り巡らす輪中の応用と言える。
輪中作りの中心になったのは、山の民、川の民といった、いわゆる遍歴職能民であったといえる。
姫路城に戻った秀吉は、城に蓄えてあった兵糧と軍資金を全部分け与えた。
秀吉は、軍団を一日休ませて、翌9日を出陣の日と決めた。
11日軍団は摂津の尼ヶ埼に到着した。
その1日前に尼ヶ埼に到着した秀吉は、大阪にいた信孝・丹羽長秀に巧妙に働きかけた。
本来なら総大将は信孝が成るべきだが、一足先に尼ヶ埼に入った秀吉は
彼らに呼びかけることで,いつの間にか、総大将の地位を得たのである。
信長の弔い合戦は、秀吉の主導で行われることになった。
秀吉にも、信長謀殺の動機はある。
信長は元亀二年(1571)、比叡山日吉大社に乱入し、百八社と言われる天台護法の社を全て焼きはらった。
比叡山の日吉山王社は、全国の日吉神社の総本社で、際神は大山昨神である。
秀吉は天正14年(1586)に日吉大社の再建に着手している。
秀吉が関白となって五奉行をおいた次の年のことで、家康とも和議を結び
天下を制覇した年に日吉大社の再建に着手している。
信長が日吉大社を焼き払い「仏敵」の烙印を押された時、山岳信仰の山の民は
秀吉に接近し信長謀殺の陰謀を打診した可能性もある。
信長配下で昇進を続ける秀吉に、山の民は大きな期待をしていたのかもしれない。
家康と並んで秀吉も共犯者リストからははずせない。
総大将の地位を得た秀吉は更に進軍し、山崎の地で光秀軍と遭遇した。
本能寺の変の11日後の6月13日であった。
光秀は苦悩していた。配下の大和郡山城の筒井順慶、丹波田辺城の細川藤孝
摂津有岡城池田恒興、摂津茨木城中川清秀、摂津高槻城高山右近等の賛同を
得ることができず、傘下に組込むことができなかったからである。
何故、彼らは光秀の要請を無視したのだろうか・・・・?
光秀軍は近江や山城の小勢力の寄せ集めで16000人程度の兵力であった。
そこで、彼は勝龍寺城に集結し山崎の狭い道を進出してくる秀吉軍を叩こうという作戦をとった。
一方、秀吉は初めから他人の力など当てにしていなかった。
尼ヶ崎に到着すると、髪を下ろして信長に弔意を表し、近隣の大名に参陣要請をしていた。
有岡城の池田恒興、茨城城の中川清秀、高槻の高山右近などに。
彼らは、光秀の配下の大名達であったが、秀吉の要請に応じて参陣した。
秀吉は、彼らと軍事会議を行い各部隊の部署と役割を決定して
いつの間にか主導権をとり、この寄せ集め軍のリーダーになった。
12日の昼前頃から、前哨戦である小さな戦が始まった。
そこへ、大阪から信孝・丹羽長秀が8000の兵を引き連れ駆けつけて来た。
すでに戦闘は開始されていたため、秀吉の指揮下に入らざるを得なかった。
この時、信孝と長秀は、主筋であることを利用して総大将の地位を奪うべきであった。
このことが後々まで尾をひき、命を落とすことに繋がった。
それを尻目に秀吉は、的確に行動しこの連合軍のリーダーとしての地位を得たことで
織田家内での優位が確立され、天下取りに大きく踏み出したと言える。
その意味で、高松からの大部隊の中国大返しは、秀吉にとって生涯最大の出来事だったと言えるだろう。
当初、互角であった戦闘は、時間の経過とともに秀吉軍が優勢になってきた。
形勢不利と見た光秀は、彼自身の直接部隊5000を率いて出撃し態勢を立ち直そうとしたが
部下達が、大勢はすでに決したから勝龍寺に立てこもるか、坂本城に帰る、どちらかしかない」という
意見を聞いて、勝龍寺城に後退した。
城内に立てこもったのは千人前後で、戦闘開始から3時間ほどで
光秀軍は崩壊寸前の状態となり、多くの兵は離散していった。
秀吉軍は、勝龍寺城を完全に包囲した。
しかし、光秀は、深夜、数人の部下と共に城を脱出し桃山北方の小栗栖に出た。
小栗栖で光秀は、農民の襲撃を受け、逃げ切れないと判断し自決した。
首は部下の溝尾勝兵衛が道端に隠し、自身は坂本城に向かったと言われている。
光秀の首は農民に発見され、秀吉の元に届けられている。
秀吉は更に軍を進め、堀秀政に坂本城を包囲させた。
安土城は、光秀の娘婿の明智秀満が占拠していたが、13日、山崎の合戦で光秀が苦戦していることを知り
救援のため西進し、途中で安土城奪還をめざす堀軍と遭遇して戦ったが敗れ坂本城へ逃げた。
坂本城で溝尾勝兵衛から話を聞き、全てが終わったと判断し
光秀が保有していた貴重な名品を目録をつけて堀秀政に送った。
秀満は、光秀の妻子及び一族の者を自ら刺殺し、城に火を放ち自決している。
本能寺の変後、細川藤孝と忠興親子の行動は極めて不可解である。
藤孝は光秀の盟友で姻戚関係にあったにも関わらず、元結を落とし信長の喪に服している。
配下の高山右近、中川清秀は秀吉側に付き、山崎の合戦では先陣争いをしている。
筒井順慶も日和見的な態度に終結し、最後には秀吉側に付いている。
光秀の盟友、配下の大名達はことごとく、彼の期待に応えていない。
疑問点
1.何故、秀吉は毛利氏と本格的な戦もしていないのに、信長に援軍要請をしたのか・・・?
2.何故、秀吉は信長の許可も得ず勝手に講和を進めていたのか・・・?
3.何故、秀吉は大急ぎで京都に戻る必要があったのか・・・・?
4.何故、大部隊を無事に移動させることができたのか・・・・?
(少なくとも事前準備が必要なはずである)
5.何故、光秀の配下の大名達は大将の光秀ではなく、秀吉側に付いたのか・・・?
6.山崎の合戦で、何故、中川清秀と高山右近は先陣を勤めたのか・・・・?
(光秀配下の大名同士の戦いになってしまった)
7.何故、信孝・長秀軍はすぐに行動が起こせなかったのか・・・・?
8.光秀は何故すぐに近隣の制圧に乗り出さなかったのか・・・?
(約10日間、何をしていたのか・・・・?)
9.何故、光秀は勝龍寺城から脱出できたのか・・・・?
(城攻めの達人 秀吉の包囲網から脱出できたとは・・・・?)
10.何故、自決した光秀の首を持ち帰えらなかったのか・・・?
11.光秀は、勝龍寺城を脱出して坂本城に戻りどうしようとしていたのか・・・?
12.何故、毛利軍は、撤退する秀吉軍を襲撃しなかったのか、絶好のチャンスだったのに・・・・?
13. 何故、盟友である細川藤孝は光秀を見放したのか・・・?
14.何故、信孝・長秀は主筋をたてに、総大将の地位を要求しなかったのか・・・・?
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