Lemonhart755

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朝倉孝景・北条氏康




越前を平定した朝倉孝景は新時代を切り開いた合理主義者と呼ばれてもよい武将である。

彼は下克上によって守護職を手に入れ、実利的、合理的な考えで領国経営にあたった。

朝倉家は守護職を得てからその後、織田信長に滅ぼされるまで約100年続いた。

孝景は正長元年(1428)越前守護斯波氏の家臣朝倉家景の子として生まれた。

応仁の乱(応仁元年・1467)が勃発すると、彼は西軍、斯波義廉の有力武将として戦かった。

だが文明3年(1471)東軍の細川勝元から「越前守護職を与える」と誘われ東軍に寝返った。

孝景が寝返ったことにより、西軍の補給路が断たれ東軍には有利になった事から越前守護職を手にいれた。


朝倉家はもともと斯波氏の一家臣に過ぎなかった。守護職という餌を与えられて寝返りをしたのも無理はない。

一介の家人が守護になるのは例が無く、この為、彼は下克上の先駆けをした武将と言われている。

更に彼は、盟友だった義廉派の守護代甲斐氏と戦い、文明4年(1472)8月一族の甲斐八郎を破り、越前を手中に収めた。

やがて彼は本拠地を一乗谷に移すが、甲斐氏との抗争はその後も続いた。

文明13年(1481)孝景は甲斐氏と対人中、腫れものを患い回復することなく

7月26日居城の一乗谷城で苦しみながら54歳の生涯を閉じた。


孝景は一乗谷に本拠を構えてからは、最大の敵である甲斐一族と抗争を続け越前一国の支配権を掌握した。

更に公家の荘園を侵略したため、公家からは怨みをかっていた。

孝景の死を知った甘露寺親長(かんろじちかなが)は 

「孝景こそ天下の悪事をはじめた張本人だ。その孝景の死は結構なことである」と言ったという。

しかし、孝景は一乗山とその谷間をそっくり城塞化して山城を築いた一方、本格的な城下町作りを目指し

領国経営にはなみなみならぬ努力を払っている。当時としては、合理的な武将でもあった。



孝景は領国統治の規範として「17ヶ条」の家訓を残したが、それは乱世を生きる指導者心得といった性格を持っている。

たとえば、人材登用については次のように述べている。

「代々受け継いできたかといって、その器でない人物に所領や奉行職をあずけてはならぬ」

「管内の行政に当たる役人は、謹厳実直で理非曲直に公平な人物でなければならぬ」

「忠実に奉公する者とそうでない者とを同じように待遇しては、忠節を尽くそうと思っている者が張り合いを失う」

「名刀を好むのはよくない。高価な刀1本を求めるよりも、その金で安い槍を100本買って一部隊を作るがよい」

「都から芸能の一座を呼んで見物するよりも、地元の素質ある者を上京させて学ばせるほうが国の文化向上に約立つ」

こうした指針があり、実行したからこそ、後に一乗谷に独自の武家文化が開花したのであろう。



孝景は、守護職を手に入れるために寝返った裏切り者というイメージが強い。

だが、彼は時代の変化に鋭敏で、古い枠組みを次々に壊し、自ら独自の行動規範を作りあげることで

新しい時代を切り開こうとしたのではないだろうか・・・・・。


☆☆☆ 信長が生まれる約100年前に彼のような発想を持った武将がいたんですね。 惜しかった。 ☆☆☆



北条氏康(ほうじょう うじやす)


北条早雲の孫にあたる北条氏康は、元亀元年(1570)8月頃から病気を患い床についた。

病名はよくわからないが、発病した当初から子供の顔もわからないほど重態に陥ったといわれている。

一時は回復の兆しが見えたものの、再びぶり返し病が長引いた。

一年以上も闘病生活を続けたが病に勝つことが出来ず、元亀2年(1571)10月3日、小田原城で亡くなった。57歳であった。


氏康が生きたのは、関東に風雲立ち込める時代で、それゆえ合戦に明け暮れる生涯だったと言ってよい。

享禄3年(1530)氏康は16歳の時、勢力挽回を狙って出陣した扇谷上杉朝の軍勢と多摩川の河原の小沢原で戦い勝利した。

この初陣以来、数多くの合戦を経験している。天文十年(1541)父の氏綱が病死し、氏康が家督を継いだ。

その後、天文15年(1546)氏康は川越城の合戦で奇襲をかけ敵を打ち破った。


もともと川越城は、扇谷上杉氏の本拠の一つだったが、氏綱に攻め落とされ北条綱成(氏綱の娘婿)が守っていた。

扇谷上杉氏朝定はこの川越城を奪還しようと山内上杉憲政、古河公方足利春氏らと連合し約8万の大軍で川越城を囲んだ。

氏康は籠城が6ヶ月におよぶ綱成を救援するため、8千の兵を率いて出陣する。

多勢に無勢だから謀略戦に持ち込むしかない。氏康は憲政や朝定の所に使者を派遣し憲政には城を渡すといい、

朝定には城を渡すといい、囲みを解き城兵を助けて欲しいと申し出たのである。

彼らはその申し出に北条の運も尽きたと思い油断してしまった。

氏康はその隙をついて、4月20日の深夜、憲政の陣に夜襲をかけたのである。

さらに氏康の軍勢は駆け回って朝定や春氏の陣も襲った。

深夜の奇襲のため、大軍に襲われたとおもったのか、収拾が付かないほどの混乱となった。

憲政は上野の平井城へ敗走し、晴氏も古河へ逃げ帰った。朝定は戦死し扇谷上杉氏は滅びた。

氏康はこうした機略で大勝し、続いて憲政を破り、上杉謙信や武田信玄とも戦った。

しかも一度も戦いに負けたことはなかったと伝えられている。


氏康が嫡男氏政に家督を譲り隠退したのは永禄二年(1559)45歳の時である。

ある日氏康が氏政に「国主となってどのような事が楽しいか」と尋ねた。

氏政は「能力のある士を見つけることが楽しい」と答えた。氏康は「そうか」とうなずきながら、こう諭した。

「それは国主として当然のことだ。しかし部下が主将を選ぶ事もある。

日頃部下を愛さず、領民に恵みを与えずにいると、よい主を求めて他国へ行ってしまう。

だから人任せにせず、自ら部下を愛し、民に恵みを与えなければならぬ。

部下が功をあげても引き上げてやらなかったり、懸命に励んでも誉めてやらなければ

何か事が起きた時、部下はついてこない。だから平生から部下のささいな功労でも忘れずに労ってやるべきだ」 と。



氏康が氏政に落胆したこともある。

一緒に食事をしていた時、氏康は不意に顔を曇らせ,北条家もわしの代で終わりだな」と言った。

氏政は父の言葉にギクッとし周囲にいた家臣達も顔をこわばらせた。

「不審に思うかも知れないが、氏政の食事ぶりを見ていたが、一椀の飯二度も汁をかけて食べていた。

誠に不器用というしかない。最初に汁をかける時、どのくらいの量でいいのか、推量できなかった。

朝夕食べる飯のことでさえ、この調子では、とてもではないが、人の心のうちを目利きする事等できるものではない。

それでは、良き家臣も持つこともできぬ。 もしわしが明日にでも死ぬことがあれば

即刻、隣国から攻められ滅びるのは間違いない。 北条家はわしの代で終わる、 と思ったのだ。」


氏康は氏政を悟らせようとしたのだが、氏康の心配は現実となった。

氏康が死んだ19年後の天正18年(1590)秀吉と敵対したため、氏政と弟の八王子城主氏照が自刃に追い込まれ

150万石を越す領国を持つ関東の雄北条氏は滅亡してしまった。



☆☆☆ 北条家に時代の流れを鋭敏に感じる人材がいなかったことは残念だ  ☆☆☆




松平清康(まつだいら きよやす)(徳川家康の祖父)


清康は永正8年(1511)三河の安祥城で生まれ、大永3年(1523)13歳で家督を継いでいる。

父信忠までは安祥城のみを持つ土豪に過ぎなかったが、清康の代になって山中城、岡崎城を奪い

三河一国を支配下にしたのだから、並みの武将ではない。


彼は三河を制圧した後、享禄2年(1529)織田方の品野城、岩崎城を奪った。

狙いは美濃への進出である。そのため織田信秀を攻めようとしていた。


天文4年(1535)12月4日、清康は七千の軍勢を率いて国境の守山まで侵攻し布陣した。

その頃、清康の陣中では、安部定吉という老臣が織田方に内通している、という噂が流れていた。

戦いのさなかには、内通や裏切りはよくあることだから、清康は問題にしなかった。

しかし、定吉は身に覚えが無いし、そのままにしておくことも出来ない。

定吉は悔しさを滲ませながら、息子の弥七郎に起請文を託し

「もし万一、わしが殺された時は、これを提出して疑いを晴らしてくれ」と、言い渡した。

翌12月5日朝、本陣の近くで一頭の馬が暴走する騒ぎが起こった。

遠くからそれを見た弥七郎は、自分の父が殺されたと思い、頭に血が上り、父の言葉を忘れてしまった。

本陣近くへ駆け寄ると、思わず刀を抜き近くにいた清康を切り殺したという。

清康はまだ25歳の若さであった。弥七郎もすぐ近習によって切り殺されたが、彼の天下取りの夢はあえなく費えた。


弥七郎が使った刀は、切れ味抜群の刀で知られる桑名の名工村正であった。

これが清康を斬殺したことから、後の徳川家康は、家臣に対して村正の刀を帯びることを禁じたほどであった。

江戸時代には「徳川家にたたる刀」「妖刀」として世間に知れ渡った。


清康は勇猛であるばかりか、思いやりもあり、家臣たちの信望が厚かった。

だが、彼の不慮の死によって三河には暗雲が広がって行った。

12月5日、松平勢は突然、主君を失った為、一斉に退却した。

織田勢はその隙をついて、岡崎まで追撃してきた。なんとか織田勢を撃退したものの嫡男広忠は伊勢に亡命せざるを得なかった。

天文6年(1573)6月、広忠は駿河の今川義元の支援を受け岡崎城に戻る事ができた。

この為、以後、松平氏は今川氏に従属する立場に追い込まれたのである。


その後、広忠も不可解な死を遂げている。

天文18年(1549)3月6日側近の岩松八弥が突如として発狂して、村正の脇差で広忠を斬りつけた。

八弥はすぐ逃げ出したが、梅村新六郎が外堀の端まで追い詰め、組み付いて争っているうちに堀に落ちた。

新六郎は堀の中で八弥の首を討ち取ったと伝えられている。


家康は、父、祖父と村正の刀によって殺されているため、村正の刀を「不吉な刀」として

家臣達も含め村正の刀を持つことを禁じたと言われている。




☆☆☆ 家康さんが極端に「村正」を嫌っていた背景にはこのような理由があったんですね 理解できるね ☆☆☆  

































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