Lemonhart755

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武田信玄・上杉謙信




甲斐の武田信玄は、越後の上杉謙信と川中島で5度に渡って戦い、そのご駿河を攻め京に上ろうとした武将である。

信玄は、反の信長派から何度となく上洛の催促を受け、元亀三年(1572)10月3日、27000の大軍を率いて甲府を出陣した。

まず、遠江に攻め入り12日には只来城、19日には二俣城を攻略し、更に三方ヶ原へと侵攻した。


当時 信玄は天下統一を目指していた織田信長にとって最大の敵であつた。

信長は信玄の動きを黙って見過ごすわけにゆかず、そこで同盟関係にあった徳川家康が信玄の上洛を阻止しようとする。

12月22日、信玄と家康は三方ヶ原で激突した。信玄52歳、家康31歳の若さであった。

家康は信長からの援軍を含め1万の軍勢で善戦したが、千人を超す戦死者を出し、からくも浜松城に逃げ込んだ。


午後4時頃から始まった合戦は、2時間ほどで終わり信玄軍が完勝した。

だが戦勝の喜びは長くはなかった。信玄は三河に侵攻し野田城を攻略したが、そのさなかに病気が悪化したのである。

その後、長篠城に1ヶ月ほど滞在したが、体調は回復せず、上洛を断念し帰国の途に着く。

しかし、元亀4年(1573)4月12日、駒場で病が悪化し53歳で急死した。

念願の上洛を開始して半年、順調に勝ち進んでいただけに、信玄には無念このうえなかったに違いない。

信玄は天文10年(1541)6月、21歳の時、父の信虎を追放して17代当主となった。

非情の男の印象もあるが、その後、「甲州法度」を定めたり、「信玄堤」などの治水対策や新田開発を進め領土の発展にも尽くした。


だが、信玄は激しく揺れ動く時代の流れに対して敏感だったとはいえない。

すでに信長は西洋文明に触れ、ある程度海外の状況を理解し、中国や四国、九州を視野に入れて天下統一を考えていた。

それに比べると信玄は遅れていた。同じ戦国武将でも古いタイプだったのである。

甲斐の国主としては優秀だったし、それなりの業績もあげた。

むろん、優れた武将だったが、時代の流れを知らぬままに上洛し天下人を目指したのは、いささか無謀だった。


信玄の死因だが、「甲陽軍艦」では「膈という煩いなり」と述べている。

「膈」とは胸と脾の間のことで、現代の食道ガンや胃ガンに当たるという。


また、野田城を攻略している時、信玄は城中から流れてくる笛の音の美しさに誘われ堀端で聞き入っていた。

そこを鉄砲で狙撃されて重症を負い、この傷が悪化して命をおとしたという説もある。

なにか劇的な逸話であるが、野田城を包囲しているときに持病が悪化したというのが通説になっている。

最も、この持病については、肺結核、肺がん・胃ガン、肝臓ガンなどの説がある。

今となっては死因を解明することは不可能だが、何らかの持病が悪化し回復することがなかったことは、間違いないようだ。

信玄は勝ち戦の中にあり、将来を案じたのだろう。

死の直前に勝頼に「わしの死を三年間秘密にし、その間に準備を整えよ」と遺言し

勝頼はその通り「信玄は病気のため隠居」ということにして家督を継いだ。

最後をむかえても天下のことより自国甲斐のこと考えていた。


ここに天下を考えていた信長と甲斐のみを考えていた信玄とに差が出たのだろうか・・・・?





上杉謙信


信玄のライバルとされる上杉謙信は天正6年(1578)3月9日昼頃、春日山城の厠で昏倒した。

上洛を決意し、出陣の準備に取り掛かっていた時のことである。

謙信は意識を回復することなく、4日後の13日息を引き取った。

死因は現代でいうところで脳卒中と言うのが通説である。49歳であった。


謙信といえば、敵に塩を送った逸話が有名である。

永禄10年(1567)駿河の今川氏真が敵対していた武田信玄の甲斐に塩を送るのを禁じてしまった。

現代でいう経済封鎖である。甲斐は山国のため塩は駿河や相模から買わざるを得ない。

塩留めによって難儀したのは甲斐の領民であった。

これを聞いた謙信は、信玄に次のような手紙を書き送った。

「塩を絶つとは卑怯な振る舞いであり武士の恥である。

わしは兵をもって戦いを決するつもりだから、塩をもって敵を屈服させるようなことはしない。

越後の塩を送ることにしよう。」


謙信は早速、三千俵の塩を積んだ牛馬を出発させ、甲府に着いたのは、永禄12年(1569)1月14日であった。

いかにも正義感の強い謙信らしい逸話である。

いまでも、甲府の市民はこの恩義を忘れることなく、毎年1月には塩市が開催されている。


謙信はまた、さまざまな言葉を残しているが、次の言葉は今でも処世訓として通用するのではないだろうか。

「戦場における働きは、武士として当然の努めであり、それは百姓が田畑を耕作するのと同じことである。

格別に自慢するような事ではない。武士たる者は、普段は作法をよく守り、義理正しきことを上とする。

戦場での働きのみで知行を多く与えたり、人の長としてはならない。」


武田信玄とは川中島で5回戦っているが、天正元年(1573)その信玄が死んだとの知らせを受けた時

食事中であった謙信は、口にしていた湯漬けを吐き出し、涙を流して悲しんだという。

そればかりか、信玄の喪に服するため3日間の歌舞音局を禁じたほどであった。


老臣達は信玄の死をしり、「この機を逃さず出陣すれば、信濃は難なく手に入りましょう」と進言したが

謙信は首を横に振ってこう言った。

「若い勝頼が跡を継いだばかりではないか。そんな時を狙って攻めるのは、大人気なき致し方だ」

更に天正3年(1575)長篠合戦で武田軍が大きな痛手をこうむった後、出陣を進められて

謙信は「人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり」と言って出陣しなかった。


そのように正義感の強い謙信だったが、健康に恵まれていたとは言いがたい。

30歳で2度目の上洛をした時、坂本で「ようそ」を患っている。

これは化膿球菌が侵入し、首や背中、唇、尻などに腫れ物ができる。

浅くて大きいものを「よう」 深くて悪性のものを「そ」と言った。

それを聞いた将軍義輝は、謙信に漢方薬を与えたといわれている。

また、32歳の小田原攻めでは腹痛に襲われ、36歳の正月には左脚の急性関節炎で苦しんだ と伝えられている。

しかも謙信はもともと気性が激しく、大酒飲みであった。酒の肴はいつも梅干であった。

梅干はアルカリ性食品で、酒によって酸化する血液を中和してくれるから、理にはかなっている。

だが、それ以上に飲んでいたらしく高血圧だったようだ。

その上、謙信は常に戦いに明け暮れていたから、肉体をいじめつけているようなところがあった。

「人生50年」と考え、壮烈に突っ走るような生き方をしたのだろう。



惜しい、 謙信と信玄が手を結んでいたら戦国の終わりはもっと早かったと推測できたのに・・・・・  残念だ。










































































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