Lemonhart755

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今川義元・毛利隆元




義元は、永正16年(1519)駿河守護、今川氏親の三男として生まれた。

8歳の時、善徳寺に入り僧となったが、兄氏輝が24歳で病死したため、義元は還俗し18歳で家を継いだ。

その後義元は遠江、三河へと勢力を広げ、やがて尾張にも進出した。



ある合戦の時、義元は若い家臣に先陣の様子を見てくるよう命じた。

家臣が駆けつけて見ると、すでに戦いの最中で味方が苦戦していた。

そこでその家臣は槍を奮って戦いの中に飛び込み、首を一つ取った。

本陣へ意気揚久と戻ると、義元に首を見せ戦況を報告した。

ところが、義元はそれを聞くなり激しく叱った。

「わしは敵情を探ってこい、と命じたはずだ。それなのに、お前は己の功を急ぐあまり槍を交えて敵の首を取った。

これは忠にて不忠だ。戦場での使命をはき違えている。即刻軍法にかける」

若い家臣は敵の首をあげたので、誉めてもらえると思い得意になっていた。

それなのに義元の逆鱗にふれ、意気消沈してしまった。

家臣は思わず「刈萱や身にしむ色はなけれども見て捨て難き露の下折れ」と、つぶやいた。

すると、義元は不平を言ったと思い「何と申したのだ。今一度申してみよ」と、声を荒げた。

若い家臣が応えずにいると、近くで聞いた者が耳にした通りの事を告げた。

側近の家臣が小声で告げたのは、藤原家隆の歌であった。家隆は定家と並び称される歌人である。

素直で清潔な歌風で知られ「新古今集」の選者の一人でもあった。

義元はしばらく無言でいたが、やがて機嫌を直し、

「本来なら許されないことだが、一命にかかわる急場に臨み家隆の歌を思い出すとは立派な心がけである」

と、いいその家臣を許した。



義元は公家を見習ってお歯黒をつけ、眉を引き、たえず薄化粧をしていた。

ともすれば、こうした面が強調され「愚将」の評もあるが

武将としてもなかなかのものだし、茶の湯、和歌などの教養も身につけていた。

だからこそ、家隆の歌をつぶやいた家臣の歌を理解でき、罪を許したのだろう。


永禄三年(1560)5月19日、二万五千人の大軍を率いて、織田信長との一戦に臨んだ。

有名な桶狭間の戦いだが、義元は信長の奇襲を受け泥まみれの戦死を遂げた。42歳であった。

この日の早朝、今川方は一斉攻撃を開始する。

先陣を努めた松平元康(後の家康)は、激戦の末、丸根砦、鷲津砦を陥落した。

義元の本隊は沓掛城を出て大高城へ向かっていたが、その途中で戦勝の報告を受けた。

義元はそれを聞いて、気持ちがゆるんだのか、桶狭間近くの田楽狭間で昼食の休憩をとった。

田楽狭間は桶狭間の北東にあり、周囲百メートルほどの低地である。

周りは丘にかこまれているし、約五千の兵が休息できるほどの所であった。

今川方が織田方の砦を陥落させたと聞き、近くの寺社から酒や握り飯が届く。

酒宴となったが、すでに信長は三千ほどの兵力で近くまで忍び寄っていたのである。

信長は今川方が田楽狭間で休息中との知らせを受けて、これこそ勝機と進軍を命じた。

途中で大雨となったが、大軍の姿を隠すのに幸いした。雨は30分ほどで止んだ。

信長は全軍に突撃命令を出すと、織田方はなだれのように今川方へ攻め込んだ。

不意を突かれた今川方は大混乱に陥った。


義元は当初、三百ほどの旗本に守られていたが、それも次第に数が減って

五十ほどになった。

その義元に一番槍をつけたのは、織田方の服部小平太である。

義元はとっさに太刀で払い、小平太の膝を切りつけたものの

そこへ飛び出した毛利新助に組しかれた。この時、義元は新助の

人指し指を食いちぎったが、ついに首を落とされてしまった。


一説によると、今川方の兵は沼地に逃げ込んだが、織田方の兵に追われ

泥まみれになりながら、一人、また一人と討たれたという。

いずれにせよ、義元の軍勢は有利に戦いを進めつつあり、戦いの半ばというのに

戦勝に酔い、気を抜いてしまった。

結局はそれが義元の死を招いたのである。




     義元が気を抜くことなく、着実に進んでいたなら彼が天下を掌握していただろう。

     そして、元康(家康)が副将軍になっていただろう。義元は子供の氏直には期待していなかった。

     それより、元康(家康)に期待をかけていた。バカ息子だが、元康が仕切ってくれたなら

     今川家も持つだろうと・・・・? だから、血縁の娘を与えた。

     だが、元康は独立した。義元が亡くなったから。

     義元さん 油断大敵でしたね、残念。







毛利隆元



毛利勢が宿敵とも言うべき尼子氏打倒を目指して、富田城の攻略に取り組んでいるさなかの事であった。

当主の隆元が永禄六年(1563)41歳で急死してしまった。死因は難だったのだろうか・・・・?


隆元の父元就は健在で、実質的には元就が毛利家を束ねていた。

この時も、元就が毛利家の全軍を結集し、まずシロ鹿城を攻略しようとして岩国にいた隆元に来援を求めていた。


隆元は7月10日、郡山城にの西方、田治比まで帰着したものの、城中へ入って休養を取ることもしなかった。

父、元就に気兼ねしたのかも知れない。

しかし、11歳の嫡男幸松丸(輝元)には一目逢いたい、という思いが強かったのだろう。

多治比に幸松丸を呼び寄せ面したのである。これが父と子の永遠の別離となった。

その後、7月12日、隆元は北上して左久部へ進むと、ここで滞陣し軍備を整えた。

8月5日には出雲へ出陣する予定であったが、8月3日、和知誠春に招かれ、彼の宿所で饗応を受けた。

誠春は備後国三峪郡吉舎を本領とする領主だが、元就とは同盟を結んでいたので、隆元をまねいたのであろう。

ところが、隆元は陣所へ帰るなり、体の不調を訴え一晩中苦しみ4日の夜明け前に息を引き取った。

突然の死だけに、死因についてはいろいろ取り沙汰された。鮎の食中毒とされるが、毒殺との噂も広まった。

今となっては、真相を確かめるすべもないが、心身の疲れが重なり

食中毒への抵抗力が低下していたのではないだろうか・・・・?

戦国武将としては、無念の死としかいいようがない。



隆元は元就27歳の時の子だが、天文6年(1537)から天文10年(1541)まで4年間

人質として山口の大内館で過している。最も客人待遇で、天文6年、隆元は

大内義隆を烏帽子親として元服式をしてもらった。


当時の山口は京都の貴族文化を取りいれ、独自の文化が栄えていたが

隆元はその中で十代の後半を過したことになる。

しかし、隆元には合戦の経験はないし、それに性格的に弱く、親がかり根性があったとも言われる。

また、元就があまりにも強く偉大であったので、劣等感を抱いていたのかも知れない。

そのせいか、隆元は父の元就が動かなければ動けない、というところがあった。

元就が隆元に家督をゆづった天文15年(1546)元就が51歳、隆元24歳の時であった。

元就は隠居したが、隠居とは名ばかりで、隆元を後見し、毛利家の舵を取り続けた。


だが、弘治3年(1557)元就は今度こそ全てから手を引き蟄居すると言い出したのである。

この時、隆元は弟の元春や隆景に

「もし、父が本当に引退するというのであれば、わしも幸松丸に家督を譲り引退する。

それよりも私が死んでしまえば、父は蟄居できなくなるだろう」と、言ったという。

この年、元就は61歳だが、隆元は35歳になっており、数多くの合戦に出陣しており、

後見が無くても毛利家を背負っていけるだけの経験を積んでいた。

それに幸松丸は、まだ5歳であった。。


しかし、父元就の意を受けて行動してきた隆元にとって、元就の蟄居発言に

まるで自分が糸の切れた凧にでもなったかのような不安を覚えたのかも知れない。

結局、元就に説得されて、隆元は毛利家当主として覚悟したのである。


隆元は彼なりに、懸命に生きたに違いない。だが、残念ながら不慮の死を迎えた。

元就にしても突然、己の後継者に先立たれて、やり場のない悲痛に暮れた。

「この上はわしも合い果て、隆元と同じ死の途に同道するのが本望だ」といいふてくされていた。

のちに冷静になったが、それでも釈然としなかったのだろう。

5年後の永禄11年(1568)元就は隆元球史の責任を追及し、和智誠春を殺している。




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