「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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Lemonhart755
足利義輝・松永久秀
応仁の乱以後、足利将軍は飾り物になっており、真の実力者が将軍を利用して威儀を整え政局を動かすことが多かった。
だが、13代将軍の足利義輝は、飾り物の将軍に甘んじることなく、自ら考え行動しようとした。
この為、将軍は飾り物でよいとする三好義継・松永久秀らに襲われ悲惨な最期を遂げた。
義輝は「剣豪将軍」といわれており、新陰流を興した上泉秀綱に剣と兵法を学んだほか
塚原ト伝から奥義一の太刀の伝授を受けたほどの剣客だった。
義輝はなぜ武芸に励んだのか・・・?
義輝は天文15年(1546)12月、11歳の時、父義春のあとを継いで将軍となった。
しかし、争乱があいつぎ安穏な日などない。こうした争いの中を生き抜く為に武芸を身に付けたと思われる。
天文22年(1553)には、次第に勢力を広げてきた三次長慶と戦わなければならなかった。
当時、義輝は18歳である。25000もの大軍を率いて上洛した長慶に対して
義輝は船岡山に出陣したが、あえなく敗れてしまった。
義輝はやむなく近江の朽木へ逃れ、ここでの亡命生活は5年間に及んだ。
永禄元年(1558)長慶との和議が整い、京都に戻ることができて、しばらくの間、平和な時代が過ぎた。
永禄7年(1564)に長慶が死ぬと、家臣だった松永久秀は、払いにくい義輝を暗殺し
阿波の足利義栄を将軍に就けようと陰謀をめぐらした。
義輝はそうした気配を察して、久秀を排除しようと考えていたが
久秀はやられる前にやれとばかりに動き出したのである。
永禄8年(1565)5月19日の早朝、三好義継と松永久秀は、清水寺参詣と称して大勢の兵を京に入れ
二条御所を取り囲んだ。更に火を放ち鉄砲の一斉射撃を始めたのである。
しかし、義輝は久秀の謀反と知っても、動じることがなかった。
近習達は避難を勧め、母の慶寿院も勝ち目の無いことを悟り戦うのを止めさせようとした。
だが、義輝にしてみれば、敵に後ろをみせるわけにはいかない。
義輝は覚悟し「公方らしく一同の面前で戦って死ぬ」と、言い切ったのである。
近習達が応戦してあいだに、主だった側近と最後の杯を交わし、細川隆是に舞をひとさし舞わせた。
それから義輝は数振りの太刀を鞘から抜きながら、畳に突き立てていった。
側近の者達が斬り込み、次々に敵を倒したものの、敵は新手を繰り出してくる。
義輝は縦横無人に切りまくり、刃こぼれすると、すぐ刀を取り替えて戦った。
だが、戸の脇に隠れていた敵兵に槍で足をなぎ払われ、不覚にも義輝はうつぶせに倒れてしまった。
その隙に障子を投げかけられ、その上から刺し殺された。
「剣豪将軍」らしく、自ら剣を握っての討死とはいえ、まだ30歳の若さだった。
将軍ではなく、一人の剣客だったら、宮本武蔵のように
名を残したかも知れないと思う。
松永久秀
下克上を地でいった松永久秀は自殺をしている。
自殺といえば、当時は切腹が普通だが、彼の場合は壮烈な自爆だった。
久秀は永正7年(1510)に生まれたが、生国については阿波、摂津、近江などの諸説があるし前半生も不明である。
謎の多い人物であるが、40歳を過ぎたころ、室町幕府を牛耳っていた三好長慶の武将として名をあげはじめ
天文12年(1553)44歳の時、摂津滝山城の城主になった。
信長は、久秀を「天下の悪人」と評したし、実際に彼の悪名は高い。
それは、主君の三好長慶を殺したこと、将軍義輝を殺したこと、大仏殿を焼いたこと、つまり
「世のなしがたきことを三つした」とされているからである。
しかし、それが全て事実かと言うと、疑わしい点も多い。
長慶が死去したのは永禄7年(1564)だが、その前年、嫡男の義興が急死したことから、
病気がちだった彼は気落ちして急にうつ状態になった。
このため、長慶は政務から遠ざかり、変わって久秀が政務をとるが
やがて長慶はうつ病が高じ、恍惚状態で死んだという。43歳であった。
将軍義輝は長慶が死去した後の混乱を狙って、権力の回復を図ろうとした。
そこで久秀は三好長逸、政康、岩成友通の三好三人衆と結び兵を率いて室町御所を包囲した。
永禄8年(1565)5月19日のことであった。
義輝は刀を取り替えながら、側近とともに奮戦したが衆寡敵せず自刃して果てたといわれる。
この時、久秀は現場にいなかった、という説もある。
これが事実とすれば久秀が三好三人衆を操っていたため、久秀犯人説が広まったという可能性もある。
その後、久秀と三好三人衆が対立し、永禄10年(1567)10月10日奈良で戦いとなった。
三好三人衆は大仏殿に本営をおいていたが、久秀軍が夜襲をかけたことから大仏殿が焼けたという。
だが、これには三好三人衆の失火説も強い。
このように、久秀の悪名が知れ渡った三つの根拠は確実とは言い切れない。
もっとも久秀には何をしでかすかわからないところが不気味さがあり
野心のためには世間体など気にしないというところがあった。
さらに言えば、久秀が信長に敗れて自爆したがゆえに、悪人とされたのではないだろうか。
久秀は悪人という評判とは裏腹に優れた面をもっていた。
たとえば、近世城郭建築の先駆者と言われているほど築城技術にたけていたし、実際さまざまな工夫をこらした。
永楽三年(1580)大和の眉間寺山に多門城を築いたが、久秀は櫓を建て連ねて城にめぐらせ、その間を長屋でつなぐ
という独自の構成を考案した。
壁には矢や鉄砲を放つための窓「狭間」を設けたが、このような櫓は「多門櫓」と呼ばれ
後には諸国の城で模造されるようになった。
さらに、城郭の内部に壮麗な障壁画を描くことが多いが、これも多門城に描いたのが最初とされている。
こうしてみると、久秀の豊かな財力がわかるし、優れた築城技術っをもち、先見性もあったことがうかがえる。
ところが、天正五年(1577)十月、信貴山城に立てこもっていた久秀は、信長に攻められる。
久秀は信長の酷薄ぶりに耐えかねえ、反逆を企てたからだった。
久秀は高血圧気味だったらしく、よく百会に灸をすえていた。
もはや落城寸前という時も、彼は百会に灸をすえていたのである。
近臣が不審に思い、「今死のうとなさるのに、ご養生でもあるまいと存じますが」と尋ねた。
すると、久秀は「死ぬ時、中風の気が起きて五体が動かなくなったら、奴も臆したかと笑われよう。
それでは、是までの武功に傷がつく。灸をすれば暫くは大丈夫だ」と答えた、といわれる。
やがて久秀は信長から所望されていた秘蔵の茶釜「平蜘蛛」を打ち砕き、自分の首に火薬をしかけ
天守に火を放って自爆した。天正五年十月十日、久秀は六十八歳だった。
壮絶な人生だったようである。
主殺しでは、武家社会を統制できないし
他の武将からの賛同は得られなかっただろう。
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