Lemonhart755

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竹中重治・黒田孝高




「一歩外へ出れば、すでに敵が狙っていると心得よ」

これは、竹中重治が残した教訓的な名言である。

油断を戒めた言葉だが、用心深い彼の生き様が表れていると言ってよい。



彼は永禄7年(1564)19歳の時、わずか16人の手勢で美濃の稲葉山城を
乗っ取り、周囲をあっと言わせた。

当時の主君は斉藤竜興だが、彼は重治の真価を見抜けず、あなどり無礼な振舞が多かった。

家臣も同じような態度を取っていたが、あるとき、城の櫓の上から重治に小便をひっかけたのである。

さすがの重治も、これには激怒して、妻の父安藤守就に恨みを晴らす相談をしたほどだった。

だが、守就は「ばかなことを申すな」と、重治に思い留まるよう諭した。


その後、城中にいた弟の重矩が重病との知らせが届いた。

重治は好機到来と、その日の夕方、武具を隠した長持ちを見舞いの品と偽って人夫にかつがせ

自ら10人ほどの家来を連れて登城した。

夜になって、重治らは武装し、稲場山城を占領してしまった。


信長は「城を譲り、部下になるなら、美濃半国を与える」といって誘った。

しかし、重治はそれを断り、後に非をわびた竜興に城を返した。

並みの武将に出来ることではない。


重治は天才的な軍略家として知られるが、すでに若い頃からその片鱗を見せていたわけである。

元亀元年(1570)浅井長政と戦った姉川の戦いでは、秀吉軍の先鋒を勤めたし

天正三年(1575)武田勝頼と戦った長篠の戦いなどと数多くの戦いで

秀吉に勝利をもたらしてきた。


天正六年(1578)から天正八年(1580)にかけて別所長治を討つため

秀吉が三木城を攻めた時も、重治は「干殺し」を献策し落城に成功している。

ところが、その三木城で「干殺し」のさなかの天正七年(1579)4月

重治は陣中で発病したため、秀吉の忠告に従って京都に戻り療養生活を送った。

もともと丈夫ではなかったともいわれるが、病名はわからない。

京都で療養していたものの回復の兆しは無かった。

そこで重治は「どうせ死ぬのなら、陣屋を枕にするのが本望」といって

再び三木城攻めの陣に戻った。

それからまもなく、六月十三日に息を引き取ったが、重治は臨終まぎわに

秀吉にこう言った。

「信長公は英知大才の方ですが、気質は温順ではなく偏ったところがあります。ご用心なされませ」

秀吉はその手をとり「半兵衛が死んだら誰に先手を預けたらいいのか」と

嘆いたと伝えられる。

三木城が落城したのは、それから半年後のことだった。




     重治が生きていたら、豊臣政権は違った政権になって

     いたに違い無い。













黒田如水


秀吉が最も恐れた心を許しがたき武将


・思いがけぬ獄中生活



天正5年(1577)の信長の中国侵攻に際して秀吉に属した如水は、長男松寿丸を人質として差出した。

いよいよ毛利との決戦となる翌年4月。

備前・岡山城主・宇喜田直家が三木城へ援軍として駆けつけ

秀吉は直家がはじめに攻めた阿閉城に如水を送った。

如水は兵を少なく偽装するため幟や旗を隠させた。

あなどった直家の兵が城壁に登るのを確認してから弓と鉄砲で敵を総崩れにさせた。

さらに如水はみずから直家に会って秀吉への協力を約束させた。


如水は参謀として順調に成長するかに見えた。しかし、思いもかけぬ事態が如水を待ち受けていた。

摂津・有岡城主・荒木村重の信長に対する裏切りであった。

毛利方についた村重を親交があった如水が説得に当たったが、逆に如水を城中の獄に幽閉してしまった。


如水が村重方についたと判断した信長は、人質の松寿丸を殺せと命じた。

けれども秀吉の参謀をつとめていた竹中半兵衛は松寿丸を処刑したと報告して実は密かにかくまっていた。

天正7年(1579)有岡城は落城し、如水は救出された。

獄中生活によって如水は片足の自由を失っていた。



・天下取りの野心



天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起こった。

備中・高松城を水攻めしていた秀吉はこの衝撃的な凶報の前に言葉がなかった。

そこへすかさず如水がささやいた。

「今こそ殿が天下を取られる好機、ご運が開ける時です。」

秀吉の天下統一に果たした如水の役割は大きい。が、秀吉のすぐ後ろから

一段づつ戒壇を登りはじめた如水の胸にはいつか自分が天下を取ろうと言う野心が膨らんでいった。


関が原の合戦が始まると如水。長政親子はともに徳川家康に味方した。

如水はこの戦いが長引くと判断して、その間に九州の北半分を席巻することを考えた。

しかし、如水の誤算は関が原の戦いが一日で終わったことだった。


関が原の合戦後、長政が九州に凱旋した時誉め言葉を期待した長政に

如水は「天下のうつけ者め」といい放った。

なぜ家康を討たなかったのかという意味だ。


4年後、如水は自分の死期を悟ると急に粗暴な君主に変貌した。

「私が死んだ後、多くの者がほっとするように」という

長政への心憎い配慮であった。





      秀吉は、如水と利家・景勝・兼続に後を託すべきであった。

      利家は早くに亡くなったが、他の武将は生きていたので

      違った豊臣家が誕生していたかもしれない。

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