Lemonhart755

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佐竹義重・最上義光




常陸を制し、更に下野の一部、会津にまで勢力を広げた彼は、その勇敢な戦いぶりから「鬼義重」の異名をとった。

世は戦国時代を迎え、関東や東北地方でも諸将が入り乱れ戦乱は絶えなかった。

そんな中で、義重は勇猛に戦い、先見性を発揮して、勢力を広げて行った。

それだけに義重は、常に家臣に対して「平素、絶えず合戦に望む心構えが必要である」と説き続け

実際に朝起きるとすぐ、家臣達の刀を点検したほどであったという。


義重は、天文16年(1547)佐竹義昭の長男として、太田城で生まれた。

永禄5年(1562)、父の義昭はまだ32歳という若さで隠居し、義重は16歳でその跡を継いだ。


義重は、常陸とその周辺の諸将を討ち、あるいは従えて勢力を伸ばしていった。

永禄9年(1566)上杉謙信が関東に出兵すると、それと提携して小田原氏を攻め、これを追放してしまった。

更に、小田原の北条氏が北関東へ進出してくると、義重は反北条氏の中心として

関東北部の領主達と連携し、これに対抗した。


同じ頃、伊達政宗が急成長して、南下しようとした。

義重の妻は伊達晴宗の娘だから伊達氏とは姻戚関係にあったが、義重は政宗と熾烈な戦いを続けた。

敵対勢力を攻め、わが子義宣にそのあとを継がせるということもしている。


天正2年(1574)義重が28歳の時だが、小峰城主白川義親の支城である赤館を攻め落とした。

3月に伊達輝宗の調停で講和したものの、翌年1月、義親が白川家の当主義安顕を追放し家督を相続すると

義重は混乱に乗じて攻め、白川領の全てを奪ってしまった。

天正6年(1578)に講和が成立したが、翌年、義重は次男の義広に白川家を継がせ勢力下に治めたのである。

その後、義重は天正17年(1589)43歳の時、嫡男の義宣に家督を譲った。

義宣もそれなりに力うを発揮したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に味方したため戦後、窮地に立たされた。

領国支配に際して、石田三成を頼り豊臣政権の力を背景にしていたからである。

佐竹家断絶の危機を迎えたが、それを回避したのは義重の働きだった。

義重は、家康やその子の秀忠に嘆願したのである。

この結果、常陸など旧領54万石を取り上げられ出羽の秋田郡、仙北郡など

20万石に減らされての転封となった。

厳しい処分だったが、断絶だけは免れた。


慶長7年(1602)に国替えとなったが、義重は率先して新領地へ入った。

義重の日常生活は質素に徹し、秋田でも掛け布団は1枚だったという。

また、常に用心を怠らず、寝床の位置を毎晩変えていたし、部屋には内部から
厳重に鍵をかけていた。

それほど用心しても、死を免れることはできない。

慶長17年(1612)66歳で生涯の幕を閉じた。







最上義光


一代にして57万石の大大名にのし上がり「最上百万石」とも称された最上義光は、奥羽のきょうゆうとして有名だ。

得意の絶頂にあったのに、慶長19年(1614)69歳の生涯を閉じた。死因はよくわからないが病死という。

当時としては長寿のほうである。しかし、残念ながら義光は、大大名にしては人望が薄かったようだ。

それがもとで義光の死後、最上家には悲劇が襲う。



義光は天文15年(1546)山形城主義守の長男として生まれた。

後のことだが、義光の妹義姫が米沢城主伊達輝宗に嫁いでいるから、政宗は義光の甥ということになる。

義光は少年のころから武勇で知られ、16歳の時には高湯で盗賊を討ち取ったという。(蔵王温泉)

25歳で家督を継いだが、それ以来、戦いにつぐ戦いで近隣を制圧し、大戦国大名に成長してゆく。



義光は謀略を得意としていたが、天正12年(1584)谷地城主白鳥長久を討ち取ったのは、その典型と言ってよい。

当時、白鳥長久は義光の支配圏である村上郡の中で、最上川西岸に勢力を張っていた。

しかも、長久は、すでに天正5年(1577)織田信長に白馬を贈ったりして、自立しつつあった。

だが、義光が村上郡をそっくり手に入れるためには、長久を取り除かなければならない。

そこで義光は、両家提携のためと称し、長久の娘を長男の義康の妻に迎えた。

その後が、いかにも義光らしい。「義光が大病を患った」と噂を流し、これが広まったと見るや

使者を派遣し「病が重く、後事を託したい」と偽って、長久を山形城に呼び寄せたのである。

長久は、何か企みがあるのではないか、といぶかったものの、衰弱しているように見える。

長久は緊張して、枕許ににじり寄った。

義光は手を震わせながら、最上家の系図を長久に渡そうとする。

系図は身代の保証書といってよい。長久はうやうやしくそれを受け取ると、思わず表情を緩めた。

「これで山形城の主になれる」と思ったのかも知れない。

義光は長久の緩んだ表情を見ると、突如、床の下に隠しておいた小太刀を抜き長久を斬殺してしまったのだ。

さらに谷地城を襲い、これを奪い取った。




その後、慶長5年(1600)関が原合戦が起こるが、当時、奥羽の大勢力は

上杉景勝で越後から会津に転封され、120万石の所領をもっていた。

米沢城には、景勝の重臣直江兼継が城主として入っている。所領は30万石だ。

この頃、義光は20万石もなかったから、兼継にも及ばない。


義光はそのため、家康に味方しながらも、景勝に家来のように仕えると誓っていた。

つまり「二股膏薬」だったのである。

生き残るためには、やむを得ない態度でもあった。

しかし、兼継は、これを軒猿の情報から既に把握していた。

やがて、兼継は2万余の大軍を率いて、義光の領地に攻め込んで来た。

義光は必死に防戦した。

そのさなかに、関が原合戦で家康の東軍が勝利し、最上領を侵攻していた上杉軍も退却して行った。

義光はそれを追撃し、57万石の大大名になったのである。



義光は、その生涯を出羽半国征服の戦いに費やしたが、死後、最上家には内紛が生じた。

次男の家親が相続したものの、人望がなかったため、4ヶ月後に家臣達が鶴ヶ岡城で反乱を起こしたのだ。

異母弟の清水義家が家親に反発し、陰で糸を引いていたのである。

ところが、3年後の元和3年(1617)家親が36歳で急死した。

叔父による毒殺との噂が流れたが真相は不明であった。

その後は13歳の義俊が継いだが、重臣達の間に不和が続き、お互いに幕府に讒言するようになった。

少年の義俊には、これを鎮める器量は無い。

最上家は元和8年(1622)遂に改易されてしまったのである。

謀略のかぎりを尽くして出羽半国を手に入れた義光の苦心も、結局水の泡となった。






































































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