mayuzou Beya

mayuzou Beya

memo(青い鳥のゆくえ)


チルチル、ミチルはいろんな冒険と失敗を繰り返し長い旅をします。
しかし、二人は青い鳥をみつけることができず悄然として家に帰りやがて夢から目が覚めます。
朝になって「青い鳥なんて結局いなかったね」とふたりがささやきながら、ふっと部屋の隅をみると、鳥かごがあって、そこに、二人が昔から飼っていた、どうでもいい、キジバトかなにか、くすんだ色の鳥が、いかなるわけか、二人の目の前で、少しずつ色を変えていき、みるみるうちに輝く青い鳥に変身します。ふたりはもうびっくりして、その鳥を眺めます。「あ、青い鳥はここにいたんだ。すごい、みてごらん、青い鳥だ。こいつは僕たちがさがしていた青い鳥だよ。」=略
(青い鳥を失って、この物語は終わります)
「誰かあの青い鳥を見つけた人は、僕たちに返してください。僕たちは幸福に生きていくためには、どうしてもあの青い鳥が必要なんですから…」

こうして最後まで読んでみると「青い鳥」はメルヘンチックな明るい楽しい物語ではなく、じつは非常に暗くて、不幸な絶望的なエンディングをもったお話だという気がしてきます。
僕は非常に誤解をしていました。長い遍歴濃の末、家に帰り落胆していると、実は青い鳥は自分の部屋にいた、ああ、青い鳥は遠くではなくて、山のかなたではなくて、自分たちの生活の、ふっと足もとを振り返ると、そこにこそ本当の希望や幸福があるんだ、わたしたちはそれに気付かなかったんだ、という教訓的なお話だと思っていました。

青い鳥の物語に託してメーテルリンクが語っていることは、ものすごく虚無的なことではないか?人間は<青い鳥>という幻想や希望がなければ生きていくことはできない。だから、それを求めてさまざまな旅を繰り返す。
しかしそれは遠いところに発見することはできない。そして人は本当の幸せとか本当の希望は、実は自分の身近なところにあったんだなということにやがて気づく日がやってくる。しかし、それにきづいたときにはもう遅いという話です。
そうなんだ、本当の幸せはここにあったんだ、自分はこの生活の一隅を照らして、つつましく満ち足りた気持ちで謙虚に生きていこうというふうに気づいたその瞬間には、その自分がとらえたと思った<青い鳥>はバタバタと空高く飛んでいってしまって、失われてしまう。
そして人間は決して永遠に本当の青い鳥をつかまえることはできないのだ、ということがその物語の語っていることなんじゃないか、これは非常に不思議なことなですね。

若い少年少女たちに向かって、「君たちはいずれ青い鳥が欲しくなり、青い鳥を求めてさまざまな遍歴を繰り返すだろう、そして本当の青い鳥は、自分の足もとや地味な生活や日常の暮らしのなかに、家族との団欒のなかに、職場の労働のなかに、そしてつつましい友情のなかにあるんだということに気づくだろう。しかし気づいたときにはそれはもう失われてしまい二度と返ってこないんだよ」というふうなことを、なんで言うんだろう。僕は不思議で仕方なかった。
僕は「安易に手に入る幸福とか希望とかいうものはこの世の中にはないんだよ」と。考えました。あるいは、希望とか幸福とかいうものがどこかすでに存在しているもののように考えるのはまちがいだ、そんなものはこの世の中どこにもないんだ、人生に希望なんてはじめから用意されてはいないんだ、と。宝島で宝を見つけるように幸福や希望がごろごろころがってるわけではありません。隠されてもいません。そういうものは決して用意されてはいない、という考えかたなんじゃないかと僕は思います。

人間にあらかじめ用意されて手渡されるようなレディーメードの青い鳥などというものはいない、そして青い鳥は必ず飛んで逃げていってしまう、それでも人はどうしても青い鳥が必要です。
できあいの既製服のように、ノウハウを教えてはくれません。そうではなくて、じゃ、どうする?ということを語りかけ問い掛けている。

僕の考え 希望の青い鳥が飛んでいってしまった今、人間は自分の手で青い鳥を作らなければならない。ひとりひとりが自分の<青い鳥>を自分で作る。それしか道はないんだということを、メーテルリンクは子供たちに言いたかったんじゃないか?自分でつくるしかないんだ。どこか棚の上に希望とか幸福とかいうシンボルがのっかてて、それを手を伸ばしてとるんじゃなくて・・・・・とにかくそういうものはない。
ないでは生きていけない。しかしなきゃ生きていけない。
ひとりひとりが自分の手で、自分の希望とか、自分の人生観とか、自分にとっての幸福とかいうものを、これまで考えられていた既成の幸福とか希望とかいうのでないものを、私たちは自分の手でつむぎだし、作り上げ、それを自分の青い鳥として生きていかなければならないのだ、ということを暗示しているんじゃないかな、と思います。


子供たちへの無限の信頼
私たちもまた焦土の上に新しい希望とか理想とかモラルとかいうものを見つけるころができずに呆然とたちつくしているチルチルでありミチルでもある気がします。
私たちはいま、じつはなにかを無意識に求めている。求めていて、いままでの世界の価値判断とか基準とかモラルとか目標とかいうものが意味がないということに、やっと気づきはじめた。

慈悲・・・人を励ます、元気づけることを<滋>慰めること、あるいは人とともに悲しみや苦しみを共有すること<悲>
<滋>例えると父親の愛情。腕を組合、たくましく、前向きに生きていこう。大きな打撃を受けてしょげている人のそばにいき、肩をたたき、腕をとり「立ち上がり、一緒にがんばろう」というような。
<悲>例えると母親の愛情。なにも言わない。ただ黙ってその人の側にすわり、その人の手に甲を重ねて、相手が悲しんでいるときに、自分も黙って涙を流す。ただ、それだけ。けれども相手の悲しみを自分の悲しみのように感じる。その感じるときに、相手の悲しみが癒されたりする。
喜ぶと同時に悲しむことも忘れてはならない。悲しむこともまた、大事。<悲>という感情がどれほど大事かということを、これから考えていかなきゃいけないのではないか?

どんな時代にでも、人間というのは生きていくもの。どうせ生きていくのなら、いきいきと生きていきたい。
いきいきと生きていくために、深く悲しむことも決してマイナスではないということを心の隅にとめて生きていけば、きっと他の人たちよりはほんの少しはいい生き方ができるんじゃないか、と思います。

ひとりひとりが、自分の<青い鳥>を自分なりに作り出し、行き難い世の中をなんとか生きていく。そんな時代だと思います。
しかしメーテルの考えにしたがえば、この作品を用意された読み方で読む必要はありません。となりますが・・・。
君たちはいったい、どんな風にこの作品を読むのでしょうか???

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