前門の虎、後門の狼 <年子を抱えて>

前門の虎、後門の狼 <年子を抱えて>

隣の芝生は青く見える




 大きなお腹を眺めながら、ふと思う。私は今後、どのように生きていくのだろうか、社会復帰はできるのだろうか、と。

 3月末に、6年半勤めた会社を辞めた。出産を控えての退職である。昼間に時間ができたらあれをしよう、これをしようと考えては楽しみにしていた。一日中図書館にこもって片っ端から本を読みあさったり、天気のよい日にスポーツ新聞とサンドイッチを持って公園に行ったり、マタニティスイミングの教室に通ったり…。大好きなプロ野球は、試合開始から見ることができる(毎日、6時5分前からテレビの前に正座!)。窓口が開いている時間帯に銀行に行くことができる。店がすいている時間帯にゆったり買い物ができる。拘束されず、好きなように時間を使えるなんて、最高の贅沢だ。ストレスを抱えこまない生活は、こんなにも快適なんだなぁ…。仕事にやりがいを感じない、と不平不満を漏らしながら辛うじてなんとか毎日を過ごしていた頃の精神状態とはまさに雲泥の差である。

 しかし、そんなふうに満足しているのも長くは続かなかった。1ヶ月もたたないうちに音をあげたのである。今までは外に洗濯物なんて干せなかったけど、家にいるようになったから思う存分に干せる、やっぱり日光が一番だわ、などと喜んでいる次元ではなくなった。夫は毎晩遅くまで残業で疲れて帰ってくるというのに、私はこんな呑気に過ごしていてよいのだろうか、申し訳ないんじゃないか、という気持ちが上回るようになったのである。

 さらに、収入がなくなったという現実に対して、妙に卑屈になる自分を感じた。私の給料なんてたいした金額ではなかったとはいえ、無収入となった今、なんとなく肩身が狭いような、立場がなくなったような…。義母と話した折に、そのようなことをチラッと言ったところ、
「そんなことないわよ。堂々としていればいいの。家庭を守る主婦って大変なのよ」
と言われた。専業主婦は夫の庇護下で生きているというわけではなく、単に家庭の中での役割分担にすぎない、体の構造上、女性は子どもを産むから、その流れで男女の役割、向き不向きが決定してしまうだけで、収入がないから肩身が狭いなんてことはない、というのが義母の意図であろう。ありがたいお言葉だとは思うが、やはりどこか感覚が違う。女性が働かないのが当たり前だった時代は、女性の立場もそれなりに弱かったかもしれないし、そうであることに疑問をもつこともなかったと思われる。しかし、これからは女性もどんどん働く時代、私もそのような教育を受けてきた。一度働いて給料を得ることを覚えて、働かなくては食えないことを学んでしまったら、収入がなくなった自分には立場がないと考えても不自然ではないだろう。

 夫は、俺が食わせてやっているんだというような封建的なタイプではない。それどころか、
「たまにはランチでも行ってみたら。子どもが生まれたら、しばらく行けないんじゃないの」
などと言ってくれる。気持ちは嬉しいのだが、夫が一生懸命働いている最中に優雅にランチなんて、しかも夫が稼いだお金を使ってなんて、申し訳ないような気がするのだ。

 ところで、人は何のために仕事をするのだろうか。憲法には、勤労の権利とも義務とも記されている。人間としての尊厳を保つためか、働かざる者食うべからずか。世の中には恵まれた人もいるようで、一生働かなくとも悠々自適に暮らしてしまえるほどの資産家や、たった一年でサラリーマンの生涯賃金くらい軽く稼いでしまう人もいる。それでも、彼らのほとんどは働いている。ただ単に、もっとお金が欲しいからというだけではないように思う。自分に課せられた任務を果たしていく中で、生きていくために必要な、精神面での充足感が得られるのではないだろうか。自分が必要とされる場所がある、このプライドを尊重されるところで人は活躍したいものである。決まった仕事をすることによって生活のリズムが安定し、体調がととのうといった副産物もあるだろう。仕事をすることは、収入を得るためだけではない効果も多分に含まれている。「生を活かす」ために働くのだ。

 子どもが一生私だけを必要とするなら、ずっと専業主婦でいよう。しかし、子どもが私だけを必要とするのは、長い一生のうちの、ごく限られた期間だけである。子どもだけをライフワークにしてしまったら、子どもの手が離れた時、私には何が残るだろうか。何にエネルギーを注げばよいのだろうか。社会復帰したくても、今の日本では途中参加はまず不可能だ。それなら、子育てを挟んでも働き続けるしかない。

 じゃぁ辞めなければよかったじゃないの!クビになったわけじゃない、自ら好んで退職の道を選んだくせに、ブツブツ言うなんてお門違いだ。

 なぜ辞めたのか。育児休業制度も確立されている会社だし、物理的には続けることが可能だったはずだ。しかし私は、あの仕事から離れたかった。入社以来ずっと同じ業務に携わってきたが、納得できる内容ではなく、幾多の改善要求も聞き流され、失望した。どうにかしてその中からやりがいを見出そうともしたが、ついに見つけることはできなかった。ましてや小さな子どもを抱えてまで続けるほどの魅力は感じられなかったのだ。

 自分の意志で決断したことなのに、どうして自信がもてないのだろうか。昔みたいに「専業主婦であるべきだ」、あるいは現代のように「働く女性は美しい」といった、どちらかに偏った極端な状態に、過剰に動揺しているのだろか。

 扶養控除枠の縮小にしても、働くことへの妨げだの、専業主婦は時代にそぐわないだの言われている。私が就職した氷河期の頃から、2~3年単位で状況が変わってきている。勿論、変化がなくては進歩はないし、これが現代という時の流れなのだろうが、私にはちょっと追いつけないというか、閉塞感に苛まれる。

 その時代その時代によって、求められる姿が違うのは仕方ないにせよ、こうあるべきだと押し付けられるような風潮には辟易する。選択肢が増えるべきであって、一つに定まる必要はないと思う。人生を味わい、毎日を充実して送ることができれば、専業だろうが兼業だろうが構わないはずである。男も女も、独身でも既婚でも、子どもがいてもいなくても、働いていてもいなくても、人それぞれ顔や名前が違うように、人生観が違っていい。その時々で変わることだってある。要は、その時自分で決めたことは人のせいにしない、他人が決めたことにとやかく言わない!

 今の時代、女性が自分の進む道を選びやすくなったからこそ、岐路に立ったとき迷いが大きくなる。自分が選んだ道なのに他が羨ましく見えたり、友人に対して劣等感をもったりしてしまう。ただ最近思うのは、「失敗したくない、後悔のない人生を送りたい」と、あまにり意識しすぎると、怖くて身動きがとれなくなり、かえって自分を追い詰めるかもしれない、ということだ。それより、思い切って、「当たって砕けろ、どうにでもなるわ」くらいの気持ちで突き進んでみるほうがよいかもしれない。

 とにかく今は、元気な赤ちゃんを産むことだけを考えよう。



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