2003・11・13
ザ・ビートルズの『新譜』である『LET IT BE...NAKED』
ザ・ビートルズの『新譜』である『LET IT BE...NAKED』が日本で世界に先駆けて明日(一部では既に今日...)発売となる。別段このアルバムに<新曲>が収録されている訳ではないが、ボーナス・ディスクには未発表のセッションの曲が収録されている。曲名が出ていたけどどういう形での収録かの情報が一切発表されていないから、買った時のお楽しみだ。アンソロジー3のバージョンとどれだけ違うのかな?。 このアルバムは明日買う予定だけど買ったら早速聴いて、ここに印象を書いてみたい。 でもこれってやっぱりCDショップで売れまくるんだろうね。
2003・11・14
...NAKEDを聴いての感想
今日は ザ・ビートルズの『LET IT BE...NAKED』
を早速買ってきた。印象としてはそれらの曲で若干違うけどフィル・スペクターのミックスを一端全部カットしている。既に海賊盤とかで聴いていた印象とは若干違っていたのも事実。...NAKEDとは<裸、素のまま>とかの意味が含まれるけど、今回のリリースは<裸>というニュアンスとは若干違う。オリジナルのアルバムでは曲間のおしゃべりがあったけど、今回はこれらは全てカットされた。その代わりにボーナス・ディスクに一連のセッションでの会話が納められている。中身は、ライヴ再開への話し合いが中心で合間に未発表の曲やセッションの断片が収録されている。 それでは各曲の印象を自分なりに記してみたい。
これはオリジナルと比べて目立った変化はなくて、若干ジョージのベースの音が上がっている?位かな。映画でもジョンとポールのアコギによる演奏とボーカルが聴ける。アコギの音もオリジナルよりはこちらの方が若干強調されている様にも感じるのと、こちらの方がF.O.の口笛が少し早いのが違い。ポールは今年になってからライヴで披露しているが、相手は当然ジョンではなくてバンドのギタリストと。青春の一ページかの様な歌詞も見事にはまっている。映画『I AM SAM』でもカバーが披露されている。
オリジナルとの違いをメインに書いて見たが、オリジナルを聴いた事がある人は当然多いけど曲順も違うのにはきずいたかな?。後は、DON’T LET ME DOWNがシングルB面だったのがここではアルバム入りしている。逆に、『DIG IT』『MAGGIE MAE』や曲間のおしゃべりがカットされた。『DIG IT』には本来のダラダラとした長いバージョンがあるのに何故かカットされている。それに、このアルバムは当初は『GET BACK』で発売される予定になっていて何度もデモ・バージョンが制作されたがその都度却下された。その中には 『TEDDY BOY』
も含まれていた。オリジナルにも結局最終編集時点でカットされてジョージの『I ME MINE』と差し替えられた。この曲はその直後のポールの最初のソロ・アルバム『McCARTNEY』にバージョンを替えて収録された。ザ・ビートルズのこの曲は結局はアンソロジー3で一部をカットして収録して陽の目を見た。今回の構想でもカットされていたのは不思議だ。アンソロジー3でも今回の...NAKEDと同様にゲット・バック・セッションのリハを収めてあるが、ある意味ではこちらの方が...NAKEDかも知れない。
エリック・クラプトンとビートルズのメンバーとは個々のレベルにおいても結び付きが強い。元は、ジョージ・ハリスンを通しての付き合いで『WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS』でのゲスト参加が最初の競演だった。ビートルズは原則としてその演奏は外部の音楽家達を招かずに制作してきた。外部の音楽家はごく限られた範囲で、メンバーの担当楽器外のクラシック系のアレンジを施す際に起用された程度だ。『FOR NO ONE』やジョージがインド音楽に傾倒していた時代にインド音楽の専門家が招かれた事はあった。そういった一部のゲスト以外はプロデューサーのジョージ・マーティンやマネージャーのマル・エバンスを駆り出したりして凌いでいた。特に、ジョンはキーボード関係をこなすしポールに至ってはドラムスもこなせるからこれで充分だったと思う。 そんな中でジョージによってスタジオに招かれたクラプトンの緊張感は想像が付く。最も彼位の実力の持ち主ならビートルズのメンバーの演奏力には負けない筈だけどね。彼の起用はビートルズ内部にもいい意味での緊張感を持ち込んだことは認めているし、クラプトンにも有意義なセッションだったそうだ。
ビートルズが解散してからは主にジョンやジョージとの交流が盛んになった。特に、ジョージとは後に妻のパティとの交流も積極的に?行った結果ジョージから奪う形になってしまう。その過程でできたのが彼の代表作『LAYLA』であるのは有名な話だ。しかし残念な事にパティはこの二人のロック・スターに愛され名曲も数多く贈られながらも、子供を宿す事は無かった。それが原因かは知らないがやはりクラプトンもジョージも子供は欲しかったそうだ。皮肉な事にそれぞれパティとは離婚して、その後に結婚した女性との間には子供が出来たのだった。妻を奪われても二人の交流は絶える事無く続き(結婚式にもジョージは出席した)、お互いのアルバムでの競演も常に続いた。曲での競演は『BADGE』が二人の共作名義で発表されているし、ジョージも『RUN SO FAR』を提供している。
クラプトンは現在来日中で精力的に1ヶ月をかけてコンサートをこなす予定だ。前回の来日中にはその盟友ジョージの死の報をコンサート前の楽屋で知ったそうだ。暫く黙ってしまったクラプトンは、悲しみをこらえてステージをこなす。観衆はそんなクラプトンの気持ちは知る由も無かったはずである。そして、ステージ上ではいまでも彼のコンサートでは度々披露される『BADGE』を歌った。その際には『THIS ONE IS FOR GEORGE!』と短く言ってから曲に入っていった。この科白を聞き逃したファンも多かったと思うがTVではしっかりと聞き取れた。 クラプトンにとってはジョージは年の近い兄のような存在だったとも伝わっている。ジョージがライヴから遠ざかっていた時に、クラプトンが多くの人達からジョージはどうしていると尋ねられていたそうだ。そんな優しいクラプトンの気持ちがジョージにやっとの思いで伝わった。ジョージはソロになってから1974年に北米をツアーで回ったが、レコーディングで喉を傷めて必ずしも好評ではなかった。この評判がジョージをライヴに対して臆病にさせていたのだ。そこで、クラプトンは比較的プレッシャーの少ない本国や米国ではない日本を選んだ。日本のファンの気質を熟知しているクラプトンはジョージに自分のバンドをバックに従えることを提案した。バンドを持たないジョージに対して見せた気遣いだった。何度か心の葛藤があって弱気になりかけていたジョージの背中を押して、遂に二人での来日コンサートが実現してライヴ盤まで制作した。
リンゴはクラプトンから曲の提供を受けたりアルバムに参加したりして、ジョージ同様に長い付き合いを今でもしている。ジョージとの共作『BADGE』ではクレディットこそ無いがリンゴも歌詞の一部を提供している。『RINGO’S ROTOGRAVURE』というアルバムにはクラプトン作の『THIS BE CALLED A SONG』が収録されているが、ハードなブルースではなくてどこかカントリー・タッチの香りがする曲だ。1982年には『OLD WAVE』のなかの1曲で共作もしている。最新のアルバム『RINGO RAMA』にも参加している。
ポールとは唯一アルバムの中での競演は無いが、ポールとクラプトンはチャリティー・コンサートなどで度々一緒に参加している。その際のバックにクラプトンが付いてギターを披露する事は珍しい事ではない。先述したジョージの追悼コンサートでもこの二人は『SOMETHING』『WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS』で一緒に演奏している。前者では途中からはクラプトンがボーカルを取っているそうだし、後者ではクラプトン自らボーカルを取っている。このパターンは女王陛下の即位50周年記念コンサートでも見られたのでその再現だ。これはNHKの衛星(総合は?)でも放送していた。
フォスターはこの時のセッションにも参加している、JAY GRAYDONとコンビを組んで多くのアルバムの制作を引き受けた。二人でユニットを組んでミュージシャンとしても『AIRPLAY』を発表し高い評価を受けている。この二人が組んで制作して数々のAORの名作を世の中に送り込んだ。ジェイ・グレイドンの最近の活動は一切伝わってこない。フォスターは 最近の仕事では同郷のセリーヌ・ディオンのアルバムで曲の提供や制作にも手を出している。セリーヌの大ヒット『THE POWER OF LOVE』の制作もフォスターが担当して、セリーヌに初の全米1位をもたらした。
この曲はオーストラリア出身のエア・サプライも発表していたが、当時はアルバムの中の1曲として埋もれていた。そのアレンジとセリーヌのバージョンを比べると明らかに違う。ボーカルもエア・サプライは男性のラッセル・ヒッチコックが高音で歌うのに対して、セリーヌはドラマチックに歌い上げる。そんなセリーヌのボーカルをより一層引き立てたフォスターのプロデュースは見事の一言にに尽きる。 セリーヌが是ほどまでの地位を築いたのには、フォスターの力も大きく作用している。
他には、 シカゴの『素直になれなくて』、EW&F『アフター・ザ・ラブ・イズ・ゴーン』、ホイットニー・ヒューストン『オールウェイズ・ラヴ・ユー』、ボズ・スキャッグス、ナタリー・コール、ホール&オーツなど数え切れないほどの名曲やヒット曲に関わって来た。
ザ・ビートルズのメンバーとの関わりではポールとも関係がある。1984年の12月に4曲のセッションをポールと一緒にこなして、キーボードの演奏と共同制作者として名を連ねた。その中の1曲が1987年に発売された『FLOWERS IN THE DIRT』の中の収録曲『WE GOT MARRIED』だ。この曲はポールのライヴでも取り上げられた多少古い感じのロック調の曲で、この曲のギターはピンク・フロイドのデイヴ・ギルモアが弾いている。 リンゴや生前のジョンとの関係は今のところ確認されていない。
ジェフ・リンとザ・ビートルズのメンバーとの最初の音楽的な関わりは、ジョージ・ハリスンの1987年のアルバム『CLOUD NINE』の制作をジョージと共同で行ってからだ。
1980年代に入ってアルバム『SOMEWHERE IN ENGLAND』の中の曲『ALL THOSE YEARS AGO』がヒットを記録して以来発表したアルバムは商業的には成功しなかった。そこでジョージは親交のあったDAVE EDMUNDSの紹介でJEFF LYNNEを呼んだ。ジョージは若いプロデューサーが自分の過去の栄光に敬意を払わないで、最新のテクノロジーを用いる事に抵抗感を感じていた。その点ジェフ・リンは自分の憧れの元ザ・ビートルズのメンバーとの競演を強く望んでいた。そんな彼ならきっと上手く行くと踏んで組んだのだった。 狙いは見事に当たりこのアルバムからは『GOT MY MIND SET ON YOU』というナンバー・ワン・ヒットをもたらした。これはルディー・クラークなる人物のカバーだが、彼はこのナンバーを独自のアレンジも取り入れてみせて見事に大ヒットに結び付けた。このアルバムからは『WHEN WE WAS FAB』もシングル・カットされてここでもストリングスを巧みに導入した。ジョージの得意とするインド音楽の演奏を最後に持ってきて、そのキャリアに敬意をさり気無く評しているしこの曲は『I’M THE WALRUS』風に料理されているのも彼の功績だ。このアルバムのシングルの発売にあたって、B面として新たに曲をレコーディングすることになりゲストには大物スター達が呼ばれた。ここから発展して生まれたのが 『TRAVELING WILBURYS(トラベリング・ウイルベリーズ)』
である。このグループはジョージ、ジェフ、トム・ペティ、ロイ・オービソン、ボブ・ディラン達が変名で組んだスーパー・プロジェクトだ。この中でロイ・オービソンは結成直後に亡くなってしまったのが悔やまれる。このメンバーで結局アルバム2枚と1曲が制作されて、そのPRODUCEにはジェフ・リンが大きな力を発揮した。このグループとしてツアーを行う企画もあったそうだが、前述したようにロイ・オービソンが亡くなったりレコード会社の利害関係などが絡んだのか結局幻となった。もし実現していたら大変な反響を呼んだことだろう。 このアルバムは翌年のグラミー賞で『最優秀ロック・グループ(グループ・デュオ部門)』賞を見事受賞した。
昨年のジョージの命日に行われた追悼コンサートにも参加。この企画は盟友エリック・クラプトンが、ジョージに縁のある人達に声を掛けて実現した。クラプトンは音楽監督として、ジョージの一粒種ダーニを含めてポール、リンゴ、ビリー・プレストン、ゲーリー・ブルッカー等が参加した。ジェフ・リンは『GIVE ME LOVE(GIVE ME PEACE ON EARTH)』でリード・ボーカルを披露している。ハウス・バンドとしてはギターでも参加して、CDのPRODUCERとしても名を連ねている。
このアルバムでの仕事振りがジョージと同じくアルバムに参加していたリンゴの信頼を得て、1995年からのザ・ビートルズのアンソロジー・プロジェクトの際に再び呼ばれた。ここではジョンが残した未発表のテープ『FREE AS A BIRD』に、残った3人が演奏や詞を加えて完成させるPRODUCEを一緒に任された。 ポールとはこの時が初対面だったが、その仕事振りを気に入ったポールがアンソロジーの仕事が終わった後の自分のアルバムのプロデュースを依頼してきたほどだ。その結果は1997年の『FLAMING PIE』で聴く事が出来る。彼の得意とする分厚い音を重ねる手法は控えめだが、随所に彼らしさも散りばめられているし丁寧な仕事は評価されるだろう。
JEFF LYNNEはこう振り返ると生前のジョンとの直接の交流こそ無いが(テープではある)、3人とは交流がある数少ない音楽家である。アーチストとしてよりはプロデューサーとして3人の信頼を得た。彼の力なくして晩年のジョージは無かったと思うし、ビートルズのプロジェクトでも大きな力となった。是非、彼の足跡を辿る場合はE.L.O.の全盛期のアルバムを聴いて思いを巡らして欲しい。
2003・11・28
ザ・ビートルズ交遊録VOL.4~ERIC STEWART
ERIC STEWART(10CC)
エリック・スチュワートはウェイン・フォンタナ&マインドベンダーズのギタリストとしてレコード・デビューを果たした。このグループはその名が示すとおりにWAYNE FONTANAがリーダーとなったバンドではあるが、1965年に『THE GAME OF LOVE』が全米1位を獲得した。その後はヒットは出せずフォンタナはバンドを辞めてしまった。残されたメンバーで活動を続行して『A GROOVY KIND OF LOVE』が翌年に全米で2位を記録。バンドは解散後この時のメンバーだったERIC STEWART,GRAHAM GOULDMAN(グレアム・グールドマン)がコンビを組んで後に知り合ったKEVIN GODLEY(ケヴィン・ゴドレー)とLOL CREME(ロル・クレーム)と一緒に結成したバンドが 10CC
だ。 1973年にレコード・デビューを果たしたバンドは順調に活動をスタートさせて、1975年には最大のヒットでロック史にも残る名作『I’M NOT IN LOVE』を発表した。この曲は全米で2位を獲得するヒットを記録して、度々カバーもされている。中でも1991年にウイル・トゥ・パワーによる現代的なアレンジによるカバーはトップ10に食い込んだ。 しかし、グループは徐々にその方向性を巡って意見の対立が表面化した。結局スチュワート&グールドマンのコンビは10CCに残留し、ゴドレー&クレームは離脱した。後者は80年代に入って映像分野で偉大な足跡を残し、数多くのアーチストのおPVを手がけた。どれも当時は斬新なイメージで作られていて、MTVなどを通して視聴者の度肝を抜いていった。
さて本題のエリック・スチュワートは1979年に交通事故で重傷を負い長期入院を余儀なくされた。ザ・ビートルズの中ではポールが10CCのメンバーとは密接に関係があったようだ。10CCが考案した実験的楽器<ギズモ>にポールも関心を持ち、<LONDON TOWN>のセッションでも用いて実際に演奏までもした。そして、ポールはウイングスが解散後にソロ・アルバムの制作に着手した。固定メンバーを失ったポールは親交のあったエリック・スチュワートを呼んだ。彼も10CCの活動は開店休業状態だったので、ポールのレコーディングに参加した。 参加したのは 『TUG OF WAR』~『PIPES OF PEACE』~『GIVE MY REGARD TO BROAD STREET』~『PRESS TO PALY』+アルバム未収録のインスト・ナンバー1曲の期間だ。一方ポールはエリックの10CC名義のアルバムには『...MEANWHILE』、『MIRROR MIRROR』に参加。
前者は1曲提供しただけで、その曲は『PRESS TO PLAY』での共作曲で未発表になった曲にグレアムが歌詞を追加したものだ。後者では2曲で参加してうち1曲は共作している。
ポールにとって70年代はウイングスのデニー・レインが常に脇役で支えてきた。80年代は中盤まではエリック・スチュワートが右腕となって支えてきた。最初に三作では演奏とコーラスでの参加だったが、『PRESS TO PLAY』では半分以上の8曲を共作して支えた。しかしこのアルバムはポールの80年代の中でも、結果的には商業的にも音楽的にも振るわなかった。エリックにとってポールは、自分が音楽的に憧れていた人物であり曲調も似ていた。ポールはエリックにジョンのようなパートを求めていたのだろうが、エリックには出来なかった。しかし別にこれをもってエリックの才能が否定されたわけでは決して無いと思う。 当初の二作では曲作り以外のほぼ全ての曲でギターやコーラスに参加。そして何とPVの『SO BAD』ではポール夫妻とリンゴ・スター、エリック・スチュワートのスタジオでの演奏シーンが観れる。このPVは似た内容の二つのバージョンが有るが、演奏するバックにはリンゴとポールの写真とともにエリックのもある。PVでは他に『PRESS TO PLAY』の中の『ONLY LOVE REMAINS』でのスタジオでの演奏でアコギを弾いている姿が映る。