不思議 0
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葦屋(あしのや)の 菟原処女(うなひをとめ)の 奥城(おくつき)を 行き来と見れば 哭のみし泣かゆ 作:高橋虫麻呂 万葉集よりさて、以前「危険な愛」で2人の男性から愛された額田王の話を書きましたが、こういう話はけっこうあるもので、万葉集にもよく詠われています。ということで、本日のお題は 「万葉の悩む愛」尚、昨日のお題は 「これを言われたらブチギレ」ご覧になってない方はこちらもどうぞ神戸市東灘(ひがしなだ)区の国道43号から一筋北に入る。 「処女塚(おとめづか)古墳」が、住宅街にひっそりとたたずんでいる。南北70メートルの前方後方墳は公園として整備され、数十本の松が植わっている。 ここが歌に詠まれた菟原処女の奥つ城。 幾世代も、語り継がれた悲恋伝説の舞台。処女塚(おとめづか)古墳 神戸市東灘区御影塚町所在四世紀頃の築造とされており、大正11年に国指定史跡を受けるが、その当時から墳丘はすでに道で破壊されていた。 昭和59年に整備が完成し、今の形に至る。この古墳は同区住吉宮町にある東求女(ひがしもとめ)塚古墳と、灘区都通にある西求女(にしもとめ)塚古墳との強い関係性がある古墳である。その昔、二人の男性に求婚されて、亡くなった女性の墓が処女塚古墳とされている。葦屋(あしのや)と呼ばれたこの地で、菟原処女(うなひおとめ)を手に入れようと二人の男が争った。 同じ葦屋の菟原壮士(うないおとこ)と、現在の大阪府南部の千沼壮士(ちぬおとこ)。思い悩んだこの女性はついに死んでしまい、それを嘆き悲しんだ二人の男性が、間を挟むように葬られたという伝説がある。処女塚古墳近くには、男たちの「墓」もある。 千沼壮士の東求女塚(ひがしもとめづか)古墳(東灘区)と、菟原壮士の西求女塚古墳(灘区)がそれ。いずれも墳丘は削られているが、今も娘を慕い続けるかのように、東西から処女塚を等間隔で挟むようにある。万葉集に残る菟原処女の歌は八首。 詠んだのは、高橋虫麻呂、田辺福麻呂、大伴家持という一流歌人。 その後も多くの創作者たちの想像力を刺激してきた。 いにしえの 小竹田壮士(しのだおとこ)の妻問ひし 菟原処女(うなひおとめ)の奥つ城ぞこれ 作:田辺福麻呂 処女(おとめ)等が 後のしるしと 黄楊(つげ)小櫛 生ひかわり生ひて 靡きけらしも 作:大伴 家持平安時代の大和物語では、娘の両親から「水鳥を射抜いた方に」と言われた壮士たちが、弓を競い合う話が加わった。室町時代、「求塚」と題した能を観阿弥が演じた。 また、森鴎外は身を投げた川の名を取って戯曲「生田川」を書いた。三つの古墳近くを通る旧・山陽道をたどってみると、夕日が六甲山系に沈み、長い影を作る。 万葉の時代から悲恋の伝説を照らし続けたのか、と ふと思いにふける。2人の男性から愛され、悩んだ末に死んでしまう。 なんと純粋なことだろう。 現代では考えられないことだ。 現代は、2人の男性を手玉に取るのはよくいるが・・・ 三古墳についてこれまでに行われた発掘調査では、土器や銅器などが大量に出土している。 最も築造が古いとされる西求女塚古墳は前方後方墳で、三角縁神獣鏡が7枚見つかった。前方後円墳の東求女塚古墳からも三角縁神獣鏡や勾玉(まがたま)などが発見されている。 処女塚古墳は国史跡。 東西の求女塚古墳は公園として整備されている。これらの古墳は、古墳時代、神戸市東部を支配していた豪族の墓とする説が現在では有力になっている。 いずれも当時の海岸線近くに築造され、海からは三古墳が並ぶ様子が見てとれただろう。この近くには、万葉集で、 珠藻(たまも)刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草の野島の崎に舟近づきぬと 柿本人麻呂が詠んだ敏馬神社がある。また、谷崎潤一郎が暮らした倚松庵(いしょうあん)もあることから、文学ファンの散策の人気コースになっている。芸術の秋、もの悲しい秋ももうすぐ。 日ごろ、文学に縁のない人も、万葉の恋の文学的情緒をもって散策してみては?ところで、あみこさんが旅の途中で兵庫県・作用町の水害ボラに参加されました。こちら→「兵庫県佐用町」、「東津山へ」、「佐用にて」、「ふたたび佐用へ」、「佐用にて2」このように、「ついでだから」と気軽(ホントはそうではないが)にボラに参加されることに敬意を表します。 自分のためなら日本全国行っても、人のためには行かない人も多い中、お疲れさまでした。尚、兵庫県佐用町では佐用町ボランティアセンターで、引き続きボランティアを募集しています。 平日は人数が少ないそうです。なぜか大学からアクセスの多い別ブログ ●別ブログ 8/06の新着は 「山小屋メンテナンス」 前回は 「排除措置命令」 こちらも見てね
2009年08月26日
関西は梅雨明け宣言が出てませんが、もう夏です。 セミがガンガンうるさい。 日差しも完全に夏の日差しです。夏の祭り、祇園祭が京都ではじまっています。 ただ、祇園祭は毎年雨に降られるんですよね。 予報も明日は雨だし・・・さて、麻生総理が衆議院解散を決めましたね。 任期満了まで、あと少しというのに・・・ しかし、衆院解散方針に反対する所属国会議員の1/3の署名が集まり、自民党内は混沌としています。国民不在の日本の政治、ころころ変わる総理大臣にG8サミットでも世界各国から総スカンを食い、国民からも見放された与党、自民党。 この先、行き着くところは何なのか?ところで、2年前の今日 7/16、15人が亡くなった中越沖地震が起こりました。 県と柏崎市、刈羽村による合同追悼式が同市の市民プラザで開かれました。こちら→「中越沖地震2年で合同追悼式」 新潟日報尚、時間の経過とともに記事が指し替わることがあります。私も2回、震災ボラに行きましたが、行った当初はまだかなりの惨状が残ってました。 その後も毎年訪れていますが、今年5月に行ったときは、もうほとんど面影はありませんでした。 まあ 裏通りなどにはまだ一部残ってますが・・・日本に住んでいる限り、何時、どこで起こるかわからない地震。 最低限の備えはしておきたいものです。話は変わりまして、文壇の世界では芥川賞・直木賞が決まりました。 賞は逃しましたが、今年はイラン人のシリン・ネザマフィさんも候補に含まれ、日本語を母語としない外国人の芥川賞候補は昨年受賞した中国人の楊逸さん以来だと注目を集めました。さて、最近の小説では、『彼は問い詰められると「わかりました。全部お話しします」と、観念した様子で答えた』・・・というように、句点(。)に関しては、会話を表す「 」の途中には付け、大体において末尾には付けていません。ところが、森鴎外、泉鏡花など、少し前の作家の作品だと、皆「 」の末尾に(。)を付けています。 一体、小説などの出版物から「 」の末尾の(。)が消えたのは、いつごろから、どんな理由で消えたのでしょう?ということで、本日は 「末尾の句点」 ちょっとムズイですが・・・尚、昨日のブログは 「1人 3000万円」ご覧になってない方はこちらもどうぞ文化庁HPに「参考資料」として掲載されている、1946年(昭和21年)3月に文部省教科書局調査課国語調査室で作成された(ふるっ!)「案」における「くぎり符号の使ひ方」という項目では、符号(。)に関して、『「 」(カギ)の中でも文の終止にはうつ。』と定められています。 そして『この案は、発表以来半世紀を経ていますが、現在でも公用文、学校教育その他で参考にされています。』と明記されています。従って、国語の表記としては、原則として文末には必ず句点を打つことになっています。 教科書は句点をきちんと打っているはずです。 原則に従っているわけです。また、小論文を書くときの原稿用紙の使い方で、【句読点(。)、かぎかっこ(「」)について】という注意書きがあり、これらの記号を使うときには、必ず1マスを使って書くようにしてください。 ただし、行の末尾に句読点やカッコが来てしまった場合は、文字と一緒に書いてください。 次の行の最初に「。」や「、」がきては、おかしいですから。というように指導しているそうです。それでは「小説」などの出版物から「 」内の末尾の句点が消えたのは、どんな理由からなのでしょうか?「確かに、現状では句点を付けない文章が多くなってきているが、特に取り決めがあるわけではなく、言ってみれば、著者の好みによるもの。」(「旭屋書店」、「新潮社」、「日本書籍出版協会」)なんだそうです。従って、明確な理由や経緯、傾向が顕著になってきた時期に関しても定かではない とのこと。 また、小学校低学年向けの本において、かぎ「」の内の会話文末尾につける句点は、かつては付けられて印刷されていたように思いますが、最近では省かれていますね。児童文学においても作家次第です。 古いものはそのままにしておけばよいのですが、新しい作品に出版社が句点を打つにしても勝手には出来ません。 これも作家次第です。本屋さんで調べてみたら、古い時代に初刊行された児童文学は、刷を重ねた現在でも句点がついています。 その一方で、同種の子供向けの本で最近書かれたものにはかぎの内の会話文末尾に句点がついていません。つまり、「句点を付けないようにした方が良い」という「取り決め」は存在しないので「学校で習ったことを踏襲して句点を付ける」のも良し、「時流に合わせて句点を付けない」のも良し、結局「個人の好み」ということになりそうですね。ちなみに、新聞記事でも括弧内の末尾には句点を付けていませんが、これは「日本新聞協会」の「用語懇談会」の申し合わせに基づいて、各新聞社が設けた「表記基準」に則ったものです。文字数やスペースの制約が大きいことを考慮して「会話を表す括弧を閉じる場合は、句点の意味を兼ねると考えて省略することも可能」として便宜を図っている次第です。あくまでも「社内ルール」であり、一般の方々に強いたり、勧めたりする意図のものではなく、実際に、外部の人から寄せられた原稿では括弧内に句点があっても、そのままとなっていることも少なくありません。ちなみに、私も「」内の最後の句点はつけていません。 まあ 習慣のようなものですが・・・私のブログ仲間、秘密の洗体レディさんが、この度 本を出すことになりました。 6/12 にamazonから発売されています。「おくりびと」の実態をとくとご覧あれ。 本にはおもしろおかしく書かれてはいますが、実態はかなり悲惨なこともあります。なぜか大学からアクセスの多い別ブログ 更新しました。 ●別ブログ 7/14の新着は 「激安ラーメン」 前回は 「七夕」 こちらも見てね
2009年07月16日
岩手日報によると、岩手・宮城内陸地震で、土砂により川がせき止められる"せき止めダム"の水位が上昇しているそうで、岩手県は16日、磐井川の応急対策を国土交通省に要請したそうです。これから東北地方は入梅する季節。 早期に解決しないと、とんでもないことになります。 しかし ここへ行く道路は寸断され、陸路では行けないので空からの資材投入が必要だとか。中国 四川大地震と同じく、山間部の地震の怖さを露呈しています。 が、日本では陸の孤島となりかねないところが多くあります。 しかも 高齢者の多く住む集落がほとんど。 こういう過疎地にこそ早く援助の手が届くようにしてほしいものです。さて、以前にも言いましたが、日本の経済は減速していますが、内閣府が消費者態度指数を元に、経済基調判断を示しました。 -----------------------------------------------------------------内閣府が13日発表した5月の消費動向調査は、消費者心理を示す消費者態度指数(一般世帯、原数値)が33.9と前月に比べ1.3ポイント低下し、米同時テロの影響があった2001年12月に次ぐ過去2番目の低水準となった。暫定税率の復活でガソリン価格が大幅に上昇したほか、加工食品の値上がりも相次ぐなど消費者の間でインフレ懸念が広がり、「モノを買いたい気持ち」が減退を続けている。同指標の前年同月比の低下幅は13.4ポイントと過去最大になった。 内閣府は7カ月連続で「悪化している」との基調判断を示し、「今後、指数が過去最低を更新したら表現を差し替える」とした。調査の基準日は5月15日で、全国約5000世帯から回答を得た。 指数を構成する4項目すべてが前月に比べ悪化した。 このうち「暮らし向き」は前月比1.5ポイント低下の31.5となり、過去最低を更新した。「(家電など)耐久消費財の買い時判断」については消費税率引き上げ直前の1997年3月に次ぐ過去2番目の低水準になった。(2008年6月13日 日本経済新聞) -----------------------------------------------------------------物価はあがるし、景気は後退する。 いったい庶民はどーすりゃいいの? 某官庁みたいに、隠匿資金を好き勝手に使わせてくれないかなぁ~ よろしおすなぁ 官庁はお気楽で・・・ということで、本日のお題は 「プレカリアート」またまた昨日に引き続き 専門用語 あ~んど 硬い話題でごめんちゃいどなたさまも すんまへんなぁ~ お気楽でないブログで・・・ お気楽は官庁におまかせ!尚、昨日のお題は 「好き勝手」←ご覧になってない方はこちらもどうぞ -----------------------------------------------------------------日本がまだ帝国だったころ、昭和初期の時代の話。 ソヴィエト領内であるカムチャツカの沖で蟹を獲りそれを缶詰にまで加工する蟹工船「博光丸」その「蟹工船」が「会社」に仕立てられ、「国益」を大義名分に、ロシア海軍に対抗するための駆逐艦と共に出航する。そしてそれは、“労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。”ということでもあった。労働者といっても正式な「社員」などではなく、単純な季節雇いの肉体労働者である。 彼らは「会社」にしてみれば使い捨ての可能な「もの」でしかない。彼らは自分達の労働の結果、高価な製品を生み出しているにも関わらず、蟹工船の持ち主である大会社の資本家達に不当に搾取されていた。会社から派遺されてきた監督の浅川は彼らを過酷に使い回す。 彼らは懲罰という名の暴力や虐待、過労と病気(脚気)で倒れてゆく。 そして浅川の苛烈な仕打ちで一人の労働者が死んでしまう。初めのうちは仕方がないとあきらめる者もあったが、それをきっかけに「学生上り」や「吃りの漁夫」を芯として、自然に浅川らの代表する「資本主義」に対抗する組織が出来上がっていく。労働者の団結は船全体に広がり、彼らは人間的な待遇を求めて指導者のもと団結してストライキに踏み切る。しかし、経営者側にある浅川たちがこの事態を容認するはずもなく、同行していた軍艦の手によって鎮圧され、首謀者九人は捕らえられてしまう。だが労働者たちは「組織」の弱点を知った。 間違っていた。 ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。 俺達全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。 まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。 労働者たちは再び団結し、もう一度ストライキを敢行することになる。 -----------------------------------------------------------------これは、みなさんもよくご存知の「蟹工船」のあらすじです。 今 この「蟹工船」がバカ売れしているそうです。プロレタリア文学の代表作として知られる小林多喜二の「蟹工船」 約80年も前に書かれたこの作品がなぜ今、注目を集めているのでしょうか?ブームの主役は「プレカリアート」と呼ばれる若年労働者なのです。 ブームのきっかけは、今年1月に毎日新聞に掲載された作家の高橋源一郎氏と雨宮処凛氏の対談。若者の貧困問題に取り組む雨宮氏が「『蟹工船』は今のフリーターと状況が似ている」と指摘。 高橋氏も「ゼミの教え子に読ませたら共感していた」と意見が一致しました。この対談を読んだ東京・上野の書店員が手書きのポップ(店頭広告)を作ってフリーターにアピールしたら飛ぶように売れ、他の書店にも波及していった ということです。「プレカリアート」: 「precario(不安定な)」と「プロレタリアート」を合わせた造語この前 「格差」、「格差 その2」で書いたように、日本では格差の拡大が大きくなっています。 この格差の拡大が、世間の人々の気持ちにも、大きく影響していることは間違いないと思います。現代の日本という状況では、この「蟹工船」にあるような生命の存続が危ういほどの非道な搾取は滅多にありません。 この物語は、一般民衆が貧困であったという前提なくしては説得力を持ちません。過度の貧困があって、はじめて明確な「敵」を発見し、彼らは団結することができるのです。 しかし、かつて日本人は貧乏だった。半世紀ほど前の日本では、こういった「搾取」が平然と行われていました。 帝国主義の本質とは、結局はそういった「弱者虐待」を必要とするものでしかなかったのです。ゆえに、そのまま現在という時代に照らして読むことは不可能でしょう。 が、今 格差の拡大によって、底辺層が多くなってきています。 それが この本が売れる一因かもしれません。現代は自分を「自称中流」といわれる日本人が総人口の8割以上を占めています。 しかし 自称中流が徐々に危うくなってきています。内閣府の調査では今やフリーターの数は400万人以上。 派遣や請負を含めた非正規雇用者は労働者全体の約3分の1にのぼります。もっとも、正社員といえどウカウカしていられません。経団連はこの期に及んで「ホワイトカラーエグゼンプション」を復活させようと画策しているし、「蟹工船」を読んで身につまされるサラリーマンは少なくないはず。プレカリアートの惨状は決して他人事ではないのです。本業多忙のため、まったく更新してませんが・・・●別ブログ6/1の新着は「足のむくみ」 前回は「長野・聖火リレー裏話」 こちらも見てね尚、迷惑書き込みがやたら多いため、現在 別ブログのコメント欄は承認後でないと投稿表示できません。 ご了承ください。
2008年06月17日
今日はいくぶん暖かかったですが(それでも最高気温8℃)、毎日寒い日が続きます。 でも 昔に比べれば、かなり暖かくなりました。 昔は大阪でもよく雪が降りました。そういえば、小学生のころ、冬には学校に石炭ストーブがありましたね。 給食係、保健係、そして 冬にはストーブ係があって、朝 石炭をくべるんです。(これ けっこう難しい)種火は用務員さん(いわば雑用係、昔は必ず用務員さんがいた) が点けてくれていて、少し石炭が入れてある。 その火を消さないように注意しながら、均等に入れないといけないんですね。うまく均等に入れないと、燃焼ムラをおこして熱すぎたり、消えそうになって暖かくなかったりします。 それに 石炭粉がついたりして、黒くなることもあります。また 各クラスに石炭を入れたバケツがあり、少なくなると取りに行くのもストーブ係の役目。 石炭ストーブ 懐かしいですね。一時期は脚光をあびた石炭産業。 もうかなり前に石油に取って代わられ、斜陽産業となってほとんどが廃鉱となり、日本の炭鉱も今は釧路炭田を残すのみ。ということで、本日は石炭がらみのお題 「筑紫の女王」尚、昨日のお題は 「二夜連続 迷惑書き込み リスト」 ご覧になってない方はこちらもどうぞ あけぼのの茜のなかの白波よ筑紫の海よ若き日のいろ わかき日のわが思い出のふる里よ夢もなみだもいまは恋しき 白波よ筑紫の海よ・・・ と詠った歌人 柳原あき子(白蓮) 筑紫は白蓮の若き日の思い出の詰まった、いつまでも懐かしいところだった。柳原 白蓮(やなぎはら びゃくれん): 明治18年(1885年)10月15日 ~ 昭和42年(1967年)2月22日 歌人。 本名はあき子(火へんに華 ですが、楽天ではシステムの関係上表示できません) 大正三美人の一人父は柳原前光(やなぎはら さきみつ)で伯爵、母は前光の妾のひとりで没落士族の娘で柳橋の芸妓となっていた 奥津りょう(通名おりょう) 東京生れ大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)の姪で、大正天皇の従妹にあたる。明治45年、筑豊の御三家の一人で、炭坑王とうたわれた伊藤伝右衛門と再婚した白蓮。日本のノラ・柳原白蓮・・・ それは大正時代を生きる人々にとっては、情熱とロマンの象徴でした。華族に生まれ、大正天皇の従妹でありながら九州の石炭王に買われた(表現にちょっと難はありますが)薄幸の美しい歌人。 7歳年下の男のもとに走った情熱的な歌人でもあります。その恋は一つの事件として扱われた。 大正10年10月22日、大阪朝日新聞夕刊で報じられたのは、妻から夫への絶縁状であった。●『筑紫の女王』伊藤あき子 伝右衛門氏に絶縁状を送り東京駅から突然姿をくらます 愛人宮崎法学士と新生活?(当時の新聞記事)妻の名は伊藤あき子、“筑紫の女王”と うたわれた歌人 柳原白蓮である。 夫伊藤伝右衛門は、筑豊にその名をとどろかせた炭鉱王であった。私は今あなたの妻として最後の手紙を差上げます・・・ 以下略(伊藤あき子の手紙文) かくて伝右衛門は、報道を通じて妻からの絶縁状を受け取ったのである。その時、36歳のあき子は すでに宮崎龍介の子を宿していた。 龍介はまだ東京大学の学生であった。(宮崎龍介については後述)まず その前に・・・ 大正天皇の従兄妹(いとこ)に当たるあき子が、25歳年上の伝右衛門に嫁ぐには、様々な経緯があった。あき子は16歳で許婚(いいなずけ)と結婚するものの、夫との不仲から1子を残して家を出る。離婚後 あき子は女学校に入学し3年間寮生活を送るが、卒業後まもなく伝右衛門との縁談があり、再婚に踏み切った。当時、伝右衛門も先妻を亡くしていた。巨万の富を得たとはいえ、鉱山労働者から一代でのし上がった伝右衛門と、零落したとはいえ、旧公卿出身のあき子との結婚には最初から埋められない溝があった。東京から筑豊に嫁いだあき子を待っていたのは、それまでとは全く違った暮し、言葉、習慣、そして伊藤家の複雑な人間関係であった。飯塚の伊藤邸には伝右衛門の義妹(父の愛人の子)や伝右衛門自身の愛人やその子、さらに伝右衛門と男女関係のあるお手伝いさんなどが一つ屋根の下に暮していた。(昔はよくこういうことがあった)出入りする炭鉱の男たちは荒々しかった。 あき子はたった1人で異国に放り出されたような心細さを感じただろう。 吐息のような湯煙に包まれるこの街で、白蓮は龍介と出会った。(出会いは後述)伝右衛門と白蓮が過ごした飯塚市幸袋本町に飯塚の本邸は現存し、2007年の春から一般公開されている。 近くを遠賀川が流れ、古色が漂う静かな住宅街の一角に邸宅はある。土塀が巡る邸宅は、敷地面積約5000平方メートル、建物の延べ面積約920平方メートル。 明治期の邸宅の外観は純和風であるが、内部は洋風の華麗な造りという。玄関口に立派な長屋門がある。 昭和2年、白蓮のために福岡市天神に造った別邸が焼亡し、焼け残った長屋門を当地に移築したもの。広大な庭に面した1階の広間は、伝右衛門とあき子が披露宴を挙げた間である。3日3晩続いたという宴の最中、伝右衛門は度々あき子に、「立って皆に着物の裾の模様を見せてやれ」と命じたという。若く美しい妻をいとおしく、また自慢に思う夫のはしゃぎ様が目に浮かぶが、あき子は屈辱としか受け止めることができなかった。 夫婦の溝はすでにその時から始まっていたのだった。2階奥のあき子の部屋は、贅を尽くした本邸の中でも最も美しい部屋であった。 襖には四季の自然が愛らしく描かれ、四つの取っ手にはすべて違う装飾が施されている。部屋を入るとすぐ上に結界壁と称される丈1メートル程の壁が天井から下ろされていて、あき子の了解を得ないものはそこから先へは入れなかったという。 朝化粧五月となれば京紅の青 き光もなつかしきかな女学校時代に佐々木信綱の指導を受け、歌を作り始めたあき子はこの部屋でたくさんの歌を詠み、歌集を編んだ。 歌の多くは、周囲が案じるような激しい恋を綴ったものだった。むろん架空の恋に過ぎなかったが、やがて歌があき子の運命そのものを導いていった。結界壁に象徴されるように、あき子は自ら結界を作り、殻に閉じこもって孤独に陥っていった。 この広い屋敷の中で、歌の世界のみが彼女の安住の場所だったかもしれない。100年前のままであるという窓ガラスの向こうに庭が広がる。 当時はここから遠賀川も見えたという。 あき子が幾たびも飛び込もうとした遠賀川である。あき子が日々眺めた景色は、歪んだガラス越しにゆらゆらとひずんで見えた。 それは涙に潤む景色のようでもある。前代未聞の公開絶縁状を叩きつけられ、恥をかかされた伝右衛門ではあったが、周囲の者に、「今後あき子のことは一切言うな」 と命じたという。 一度は自分が惚れた女なのだからと。一方、龍介と一緒になるため、そして彼の子を産むため、世間を敵に回すことも恐れず出奔したあき子だったが、その後実家に監禁され、龍介と会うことさえ叶わなくなっていた。関東大震災のどさくさの中で、ようやく龍介と再会し、共にくらすことができたのは、長男香織が生まれて1年後のことである。 龍介が結核で臥していた間は、夫に代わってあき子が執筆活動などで家族を養った。また 弁護士の仕事の他に夫が力を注いでいた労働運動も陰で支え続けた。 着飾って御殿の中で座ってくらしたあき子は、自らの意思で行動し、働く女性となっていった。3度目の結婚にしてようやく幸せを手に入れたかに見えたあき子を、さらなる苦難が襲ったのは終戦の4日前のことだった。学徒出陣中の長男香織が戦死したのである。 かつて絶望の淵にあったあき子に生きる希望の種となって宿った香織であった。一報を受けたあき子の髪は一日で白くなったと言われている。 しかし悲しみから立ち上がったあき子は、「悲母の会」を立ち上げ、平和運動に奔走した。 和田津海(わだつみ)の沖に火もゆる 火の国に我あり誰そや思はれ人は別府市青山町に伊藤家の別邸跡がある。 分譲され住宅地となった一角に、白蓮の歌碑が立つ。 龍介と出会いあき子が運命を大きく変えた場所である。敷地5000坪の広大な屋敷は、赤銅の瓦葺きであったことから「赤銅(あかがね)御殿」と呼ばれた。 飯塚の本邸での生活に疲れたあき子はこの別邸を好んだ。吉井勇、高浜虚子、菊池寛、九条武子といった人々がここに集い、語らい、別邸は文化サロンとなった。当時 あき子が書き、評判となっていた戯曲『指鬘外道(しまんげどう)』を単行本化する依頼に、編集者の代理で遣わされたのが龍介だった。歌碑の立つ山茶花(さざんか)の垣根を巡らした小さな公園には、当時をしのぶよすがは何もない。晩年は緑内障で両眼失明したあき子だったが、龍介に支えられながら歌を詠み続けた。 そして自宅で龍介にみとられながら81歳でこの世に別れを告げ、最愛の息子の元に旅立った。尚、炭鉱町・筑豊を扱ったものに、過去ログ「川筋かたぎ」があります。お時間があれば、こちらもどうぞ。また 「働けど働けど」も よろぴく~●別ブログ2/07の新着は「美術鑑賞とグルメ三昧」 こちらも見てね尚、迷惑書き込みがやたら多いため、現在 別ブログのコメント欄は停止しております。 ご了承ください。
2008年02月14日
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