カガワちゃんの毎日。

カガワちゃんの毎日。

恋について



チエ-ホフの、短編「恋について」を、読み返している。
チエ-ホフといえば、「櫻の園」が、あまりにも有名であるが、
私は、こちらの方が好きなのだ。


ひとりの男が、夫も子供もある、女性を恋し、
そして彼女もまた、ひそかに、彼を思い続けるのであるが、
この恋は決して成就することなく、
最後の別れの日に、ほんのつかの間、はじめて抱擁し接吻しただけであった、という物語である。

最後のくだりは、男の独白で終わっている。

    私は最後の接吻をし、手を握って別れました―これが最後の別れでした。汽車はもう動き出していました。私はとなりの車室へ行って腰をおろし―なかにはだれもいませんでした―汽車が次の駅につくまでそこにすわったまま泣いていました。それから歩いてソ-フィイノの家へ帰ったのです・・・・

             (チエ-ホフ短編集より原文のまま引用)


独白の中に
<恋をする以上は、その恋について考える場合に、ありきたりの意味での幸福とか不幸とか、罪とか美徳とか、そういったものよりはもっと高い、もっと重要なことから出発すべきだ>
という言葉があり、
私はこの一節に、激しく心ひかれた。


私は、そのときたしか二十歳で、
勤め先で、恋をしていた。
私たちは、なにか特別な約束をしていたわけではないけれど、
会社が退けると、駅前の大きな書店で、待ち合わせをし、
そして、ふたりで一緒に帰る。。。という
平凡で、ささやかな恋だった。

私は、大きな本屋さんの中で、気にいった本を
探しながら、好きなひとを待つ、というその時間が大好きだった。
幼い恋だったけれど、
今でも、
そのときの本屋の匂いや、風の匂い、夕暮れ時の心細いような不思議な光景までも、よく覚えている。


それから、
何年か経って、
何かの折に目にしたのであるが、
チエ-ホフが、死ぬ少し前に、かつての恋人であり、「恋について」のモデルとも、言われているリ-ジャ・アヴィロ-ヴァに送った手紙の数行に、


    ごきげんよう。なによりも快活でいらっしゃるように。
    人生をあまりむずかしく考えてはいけません、おそらく
    ほんとうはもっとずっと簡単なものでありましょうから。


という一節を見つけた。

すべてが、一瞬にして氷解したような気がした。

チエ-ホフは、私に、大きな何かを与えた。
その何かが、いったい何なのか、説明する言葉を私はもたない。

幼かった恋を思い出すと、胸が詰まってしまうせいでもあるが、
言葉にしてしまうと
一番大切なものが、薄まって
どこかに散らばっていってしまうような気がするからである。


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: