小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

人魚姫(act.3)



美祐の歌声を聴いていただけに、にわかには信じられない話だったけど、美祐はどうやら本当にしゃべれないようだった。
あの事故の後遺症だろうか?
兄に尋ねてみたけれど、口を濁すばかりだ。
事故の事は、思い出したくもないのだろう。
私は兄に案内された、部屋のソファーに寝転んだ。
毛布を肩口まで引き上げる。
霧のせいだろうか、夏だというのに、部屋はひんやりとしている。

食事のとき、兄は、意外にも饒舌だった。
私が翻訳の仕事をしながら、売れない小説を書いている話をすると、
生計は立てていけるのか?
結婚の予定はないのか?
まるで母親のように、私のことを細々と心配した。
『僕のことより、兄さんはどうなんです?』
この閉ざされた、朽ちかけた屋敷で、兄はどんな毎日を過ごしているのか?
兄は苦笑した。
『俺もお前に心配されるようになったんだなぁ。
まあ、株の配当でどうにか暮らしてるよ。』
信じられない。
医学部に在籍中から成績優秀、若くして助教授になり、とんとん拍子にエリートの階段を登っていた兄が、これではまるで老人のような暮らしではないか。

美祐は終始、静かだった。
まぁ。口がきけないというし、どちらにしても、大人のこんな話は、15の少女にとって、たいして興味のないことなのだろう。
くりぃむすうぷを、銀の匙にすくい、ひらりひらりと唇に運ぶ。
その様は私に、白い蝶が舞いながら、赤い花に戯れているように思わせた。

窮屈なソファーの上で、ゴロリと寝返りを打つ。
美祐は学校には行っていない。
それは、私の予想したとおりだった。
兄が教えているというが、確かに兄は教養深いが、それでいいのだろうか?
口がきけなくても、そういう子供たちの通う学校があるだろうに。
義務教育も受けさせなかったのか。
会うまでは、ほとんど忘れたような存在だった美祐のことが、なぜかとても気にかかった。
美祐の浮世離れした雰囲気。
知能は兄に言わせると問題ないそうだが、うまく言えないながらも、美祐は私の知っている、同年代の少女達とは、ずいぶん違っているように見えた。
それは不快ではなかったが、それでも、どこか尋常ではない。

トントントン・・・。
窓を叩く音が聞こえる。
風かな?
私は思わずびくりとした。
古い館、霧の夜、窓を外から叩く音。
ホラー小説にしたらできすぎている。
私は身を起こし、スリッパに足を突っ込むと、大きな窓にかかっている、厚いえんじのカーテンをさっと引いた。
『美祐!』
窓の外、霧に白いパジャマをしっとりと濡らし、美祐が佇んでいた。
正確には、車椅子の上に座っていたのだが。

私はあわてて美祐を部屋にいれ、今まで私が包まっていた毛布で包んでやる。
『どうしたの?風邪を引くよ。』
美祐は、ずいと、私に握り締めた手を差し出した。
『何?』
ふわりと開いた手の中に、うす青い胡蝶貝が現れた。
『僕にくれるの?』
そう聞くと、美祐はこくりと頷いた。
胡蝶貝は、薄暗い部屋の中で、なんだかほんのり光を放っているように見えた。
『ありがとう。綺麗だね。
でも、どうして外から来たの?
まさか、これを拾いに行ったわけじゃないだろう?』
私が笑いながらいうと、美祐は私の腕をぐいぐいと引っ張り、窓の外を指差した。
どうやら私に外へ出ようと言いたいらしい。
美祐の示した私への好意は、くすぐったく、ほんのりと心温まるものだった。
だからなのだろう。
私は美祐に促されるまま、靴を履き窓から外に出た。
霧は濃かったが、見上げた空は綺麗な月夜だった。
月に照らされて、霧が光るものだと、私はこのときはじめて知った。

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