「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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小説 こにゃん日記
悲流子
はだけた胸元の汗を拭いながら、脱衣所の脇に設けられたデッキに出て、冷たい空気に火照った体を晒した。
体中から白い湯気が上がる。
湯気が上っていく先には、降るような星をちりばめた暗黒。
『あっ。』
奈美子の喉から声が漏れた。
白い星がひとつ。瞬きひとつする間もなく、滑らかに落ちていったのだ。
『願い事なんて、とてもする間もないわ。』
奈美子は小さくつぶやいた。
微笑みながら、無意識に自分の下腹部に手をやった。
『星が流れるのは、人が死ぬときだっていうけどね。』
すぐ傍らから聞こえた言葉に、奈美子は思わずその美しい眉をしかめた。
そこにいたのは、大判のバスタオルを巻きつけた、太った中年の女だった。
女は奈美子を見ると、決まり悪げに笑って見せた。
『聞こえちゃった?』
それからあわてたように言葉を継いだ。
『ごめんなさい。もしかしておめでたかしら?』
奈美子は表情を緩めた。
『いいえ。子供はまだ。』
そう。まだこの胎は空っぽだ。
でもきっとすぐ。奈美子の頬に笑みが浮かんだ。
昨夜は、そろそろ子供を作ろうかと、夫と甘いひと時を過ごした。
『じゃあ。ここの温泉に祈願しに来たのかしら?』
女の言葉に奈美子は赤くなる。
ここの温泉は『子宝の湯』で有名なのだ。
『ここも昔は寂れた温泉で、私らのような地元の人間しか来なかったけどね。
今じゃあ。ジャグジーだの温泉プールだの、高級エステまである立派なもんになったからねえ。』
この辺りが数年前まで寂しい農村だったこと、この温泉に大きな観光事業社が目をつけたこと、温泉中心の大規模なレジャー施設開発。
村の賛成派と年寄り中心の反対派の争いが耐えなかったこと。
女はぺらぺらとしゃべり続けた。
しゃべりを止めたのは、女の口が、くぴゅんとたぷついたくしゃみを漏らしたからだ。
『あら冷えちゃったわ。もう一度温まってこよう。』
そうそう・・・脱衣所に戻りながら女は言った。
『本当に子宝を授かりたいのなら、源泉の湯を浴びたらいいわ。
消毒の為か知らないけど、塩素なんざ混ぜてある湯じゃ駄目よ。』
え?と聞き返そうと思ったときは、女の姿は白い湯気の立つ脱衣所の人ごみに消えていた。
奈美子は自分の肩に手をやった。
すっかり冷たくなっている。
自分ももう一度温まろうと、奈美子は温泉場のほうへ足を踏み出した。
脱衣所をはさみ、南国リゾート風の温泉プールとは逆方向に、和風の温泉施設がある。
ジャグジー、寝湯、電気風呂、酒風呂、日替わり薬湯、サウナ、ミストサウナ、水風呂に加え、外には、大露天風呂が広がり、打たせ湯、足湯、岩風呂、ヒノキ風呂までも備えてある。
そのまた向こうに洞窟風の温泉があり、それがここの名物である『子宝の湯』だ。
けれども『子宝の湯』は、湯が高めの温度で洞窟内が蒸している為か、ここで長湯をするものはいないので、さほど人で混みあうことはなかった。
奈美子が入っていったときも、二人若い女が浸かりながらおしゃべりをしていたが、入れ違うように湯を出ていったので、洞窟内にいるのは奈美子一人だけになった。
洞窟内は、薄暗い黄色い電灯が、ぽつんと岩肌に吊るしてあるだけだ。
ここだけ喧騒も静まって、湯煙に隠れて入っている人の姿も、外からは定かではないだろう。
奈美子は、なんとなく楽しくなった。
明るく現代的な施設の片隅に残された本当の秘湯。
入り口にある小さな石の碑は苔むし、彫りも擦れて何が記されているのかも解らない。
だがその傍には、ヒノキの板に黒々と『神代子宝の湯』と書かれてあった。
『神代・・・だったら、神様も浸かったってことかしら?』
奈美子はくふんと含み笑いを漏らした。
半腰で湯の中をそろりと後ずさり、岩肌に背を預けゆったりと手足を伸ばす。
黒い岩肌は、湯気でぬらぬらと濡れている。
ひんやりとした感触で、痺れるような熱い湯に浸かる体には心地よい。
気持ちいい・・・奈美子は目を細めた。
久しぶりの休暇、久しぶりのレジャー。久しぶりの温泉。
また明日からは、夫婦共働きの忙しい日々が始まる。
けれども、春になったら・・・奈美子は思った。
このあたりは桃農家が多いそうだ。
春には一面ピンク色の桃源郷になる。
また、ここに来てもいいな。
その頃には・・・。もう一度、平らな腹部をそっとさする。
まさか、そんなにすぐに効いたらそれこそ神様の湯よね。
奈美子はざぶりと湯から立ち上がった。
あまりここにいると、のぼせてしまいそうだ。
立ち上がった、奈美子の首筋にすうっと空気が触れた。
おや?と奈美子は洞窟内を透かし見た。
風は洞窟の外からではない。洞窟の中から確かに流れてきたのだった。
洞窟は薄暗いが、さほど深いものではない。
空気がさあっと吹き抜けて、そのとき湯煙が一瞬晴れた。
洞窟の奥の岩肌が、大きな三日月のように割れている。
そこから風が吹いてくるのだ。
なんだろう?美奈子は近づいてみた。
岩肌に、岩そのものを切り出して作ったような戸があった。
少し開いていて、風はそこから吹いてくるのだ。
よく見ると、戸に『源泉』と小さなプレートがはめ込んである。
『本当に子宝を授かりたいのなら・・・。』
脱衣所であった中年女の言葉が蘇る。
この奥に、本当の源泉があるのだろうか?
戸の隙間から、中を覗いてみた。
中は洞窟と同じ。薄暗い黄色の電灯が湯煙を照らしている。
戸のすぐ内には、石造りの階段が下の方まで続いているようだ。
奈美子はちらりと回りに目を走らせた。
『別に、立ち入り禁止とも書いてないし、いいわよね。』
引き戸になっている戸は、かなり重かった。
『作りが悪いのかしら?』
奈美子は、ちょうど自分の体が通るくらいのあたりで、ふうと息を吐きそれ以上開けるのをあきらめた。
体を戸の内側にすべり込ませ、奈美子は恐る恐る階段を下っていった。
『もし、関係者の人に見咎められたら・・・。
立ち入り禁止ってしとかないのが悪いのよ。入り口は開いてたんだし。
こっちは客よ。ビクビクすることはないわ。』
時折下から風が吹きぬけるが、周りは湯煙で満ちていて心地よく暖かい。
階段は思ったよりも、ずっと急でずっと長かった。
このわずかな照明では、湯煙と闇に消されて、先の方はほとんど見えない。
風が一時的に湯煙を払っても、まだまだ続く階段が見えるだけだった。
奈美子はだんだんと、関係者に怒られるのとは、別の意味で怖くなってきた。
この薄暗い場所で、自分はたった一人で、裸というまったくの無防備な状態なのだ。
戻ろうかしら?奈美子は後ろを振り返った。
もう夫は湯から上がり、休憩室でビールでも飲んでいるかもしれない。
そのとき、下のほうから、ばしゃんと水音が聞こえた。
とたんに、小さく低いが、今まで聞こえなかったのが不思議なほど、がやがやと人のしゃべる声が聞こえてきた。
『まるで生き返るような心地だねえ。』
くすくすと笑い声。
『それにしても、もっと入り口をわかりやすくすりゃいいのに。』
『そりゃ。秘湯だから。』
奈美子はビクビクしてた自分が可笑しくなった。
それから、この施設のオーナーに腹がたった。
そうよ。入ってもいいなら、もっと解りやすくしてよ。
あんな入り口じゃ誰も気がつかないわ。
奈美子はようやく階段の下にたった。
そこはぽっかりと開いた、湯だけで満たされた空間だった。
黒々とした湯は、腰までの深さで少しぬるりとしている。
これが源泉なのだろうか?
『おや、若くてずいぶん綺麗な人が来たよ。』
『本当だ。』
固まるようにして入っていた数人が振り返った。
3人の年寄りと、一人年若い女が入っている。
『お邪魔します。』
なんとなく遠慮がちに肩まで湯に浸かると、3人の老婆は奈美子の傍まで、しぼんだ腕で湯を掻き分けるようにしてやってきた。
『ご旅行かい?』
老婆の一人が、黒ずんだ歯茎を見せてたずねた。
『ええ。皆さんはこの土地の方ですか?』
奈美子が問うと、老婆たちは顔を見合わせてくすくすと笑った。
『いんや。私らは下の方からだよ。』
この温泉のある山村より下の村という意味だろうか?
『この肌。若くて生気に満ちてていいねえ。』
突然、老婆の一人に腕を取られて、奈美子は思わず悲鳴を上げそうになった。
ぶよぶよとした、なんともいえない感触が肌を波立たせる。
奈美子はどうにか悲鳴を飲み込んだ。
老婆たちは、まるでミイラのように見えた。
ぽっかりとくぼんだ眼。
内側に引っ張られているような頬。
灰ピンク色の頭皮には、ちょぼちょぼと白髪が生え、筋のようになった首から骨ばかりになった肩に続く。
唯一脂肪が残っているのは、垂れ下がりしぼみきったふたつの乳房だけだ。
曖昧な作り笑いを口に上らせて、皆さんもお若いですよといえず、声を詰まらせた奈美子を見て、老婆たちは揃ってけたけたと笑いだした。
やっと離された腕を、気がつかれないように、奈美子は反対の手でそっとさすった。
湯の中でも鳥肌が立っているのが解る。
一人の老婆の声が掛かる。
『若いもんは、若いもん同士。あたしらは、そろそろ出るかえ?』
老婆たちが揃って、湯をはねながら立ち上がった。
ちりちりと音を立てて電灯の光が弱くなり、明かりがついたり消えたりを繰り返した。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す間に、また電灯は元の明るさを取り戻し、ぼんやりと湯船を照らしだす。
そのわずかな間に、いつの間にか老婆たちの姿は消えていた。
奈美子は階段を見上げた。
ただ見えるのは湯煙ばかり、後は闇に溶け込んで何も見えない。
耳を済ませてみたが、老婆たちの話し声も、足音のひとつも聞こえてこない。
どこかほっとした気分で、奈美子は肩の力を抜いた。
ぬるぬると温かい湯が体を包み込む。
最初は違和感があったが、だんだんとそれが心地よいものに感じてくる。
『まるで母親の胎内のようだと思いませんか?』
かけられた言葉より、その声に、今度こそ奈美子は悲鳴を上げた。
残された若い女と思ったのは、細く白い肩に髪を散らした若い男だったのだ。
奈美子はパクパクと声もなく口を開け、湯の中で身を守るように自分の体に腕を回した。
『驚かせてしまいましたか?』
男は申し訳なさそうに、首をすくめ、それからほんの少し笑って見せた。
『そんなにあわてなくても、こんな濃い色の湯の中、まして明かりもこうですからね。
大丈夫。見えませんよ。』
そうは言われても、奈美子はあまりのショックに言葉も出ない。
『困ったな・・・ああ。じゃあ僕は先に出ますので、あなたはゆっくりしていらっしゃい。』
男は背を向けて立ち上がろうとした。
それに奈美子ははっと我にかえった。
『ここって女湯・・・。』
男は、背を向けたまま答える。
『いえ。ここは混浴ですよ。』
『え?でも、この階段の上は確かに。』
奈美子は男から視線をはずしながら、あたりを見渡した。
階段はひとつしかみえない。
どこかに男湯からの入り口があったのだろうか?
黒々とした岩壁に、上にあったような戸があるのかもしれない。
『ああ・・・あなたは上から来たんですね。』
男は納得したような声を出した。
『まったく。
きちんと入り口に混浴だって注意書きぐらいすべきだ。』
じゃあといって、湯から上がる気配を奈美子は思わず引き止めた。
『いえ。私が・・・上がりますから。』
『いや。僕が出ますよ。あなたはせっかく来たんだし、もう少し浸かってらっしゃい。』
優しく子供に言うような声音で言われて、奈美子は取り乱した自分が恥ずかしくなった。
落ち着いてみれば、黒々とした湯に沈んだ体は、自分自身ですらほとんど見えはしない。
見知らぬ他人に、まるで痴漢扱いするような失礼な態度をとってしまった。
『その・・・すみません。つい驚いてしまって、もう落ち着きましたので。』
男は小さく声を立てて笑った。
『やあよかった。僕も驚きましたよ。』
ざぶんと湯をはねる音をさせてから、男のふうというため息が聞こえた。
『あなたさえよければ、もう少し僕も浸からせてください。
なんせ、すっかり冷たくなってしまってね。』
ええどうぞと、奈美子は答えるしかない。
ちゃぷんちゃぷんと揺れる湯の音。
それに、じりじりという電灯の音しか聞こえなくなった。
沈黙に耐えかねて、奈美子は男に声をかけた。
『あなたも、先ほどの方たちと同じところからいらしたんですか?』
『ああ・・・あの婆さんたち。
よく下のほうから来るんですよ。僕は今回初めて連れてこられましてね。』
『その・・・ここって子宝の湯で有名なんですよね?』
くすくすと笑う声。
『なんで、婆さんたちや男の俺が来るって?』
奈美子はあわてた。また失礼なことを言ってしまったのだろうか?
『母体回帰願望かな?』
婆さんたちは知らないけどね。俺は・・・と男は答えた。
『ここは、まるで母親の胎内のようだと思いませんか?』
最初と同じ問いが奈美子にかけられた。
薄暗い岩壁に包まれた空間。
ぬるりと体を包み込む温かなお湯。
どこか甘い香りのするような湯煙。
緊張が湯に溶け出していき、代わりになにか柔らかい快感が体を押し包む。
奈美子はわずかに体をくねらせ、ええと声に出して頷いた。
『ずっとここにいたくなる。』
男は言った。
『のぼせちゃいますわ。それに赤ん坊なら生まれてこなくては。』
奈美子は、湯煙を思いきり吸い込んだ。
頭の芯まで温まっていくようで、ぼんやりと夢見心地になっていく。
『あなたなら、いい母親になれそうだな。』
男の声もぼんやりと聞こえた。
ええ・・・そう。きっといい母親になってみせる。
奈美子は黒い湯を抱きしめた。
温かな感触がぬらぬらと、毛穴の一つ一つを侵食する。
ぞくぞくと粟立つ快感に、奈美子の息が詰まる。
『僕はね。ずっといたかった。母親に望まれてないのが解っていたから。
だったらずっと、母の温かい胎内の中でそのままでいたかった。
だけどね。無理なんだよね。
僕は壊され、無理やり引きずり出された。』
姉さん・・・と男がささやいた。
いつの間にか、目の前にあった顔は、驚くほど奈美子によく似ていた。
けれども奈美子は、陶然とした視線を男に当てるばかりだ。
細い鼻梁も、ぷっくりとした唇も、大きなアーモンド形の目も同じ。
ただひとつ違ったのは。男の瞳は不思議な色をしていた。
黒々とした虹彩を、灰色の輪が囲んでいる。
『母さんが、胎内にいる姉さんと僕のうち、姉さんだけを選んだとき、僕は恨まなかったよ。そのまま母さんの中で母さんと一緒になりたかった。』
生まれてこなくては・・・甘い快感に痺れる意識の中で、もう一度奈美子はつぶやいた。
黒々とした湯が、いつの間にか這い上がるように、奈美子の肌を滑って、そのむき出しになった肩を、首を、顔を、つややかな髪の一本一本まで覆っていった。
ごぽりと奈美子の喉を湯が下った。
黄色い電灯がふっと消えた。
奈美子が、休息所になっている畳敷きの大広間に行くと、夫がすでに赤くなった顔をしてビールで粟立つコップをあげて見せた。
『ずいぶんゆっくりだったな。いいお湯だったか?』
こくりと頷いた奈美子の肩に濡れた髪が散っていた。
『まだ、髪が濡れてるじゃないか?風邪引くぞ。』
大丈夫だというように、もう一度おとなしく頷いてから、奈美子は夫に言った。
『はやく生まれるといいな。』
夫はにやりと笑って、それから、奈美子の耳元でささやいた。
『それでは奥さん。今夜から子作りに励むとしますか?』
奈美子はゆっくりと、自分の腹部を優しくなぜた。
『子宝の湯なんだから。』
『おいおい。ずいぶん気が早いなあ。』
まんざらでもない顔で夫がつぶやく。
『可愛い赤ちゃん。のぼせちゃう前に、ちゃんと出て来るのよ。』
小さく歌うように声をかけながら、奈美子はゆっくりと自分の腹を撫ぜ続ける。
その瞳の虹彩には、黒に灰色の輪がぐるりと囲むようについていた。
終わり
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