今朝の黙想16



「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」マタイ11:28
神様の愛は無条件の愛です。どんな過去があろうとも、現在どんな状態だろうとも、条件を付けることなく、誰に対しても開かれた愛です。そして神様の愛はあなたの心に本当の平安を与えて下さいます。こんな私が教会に行っていいのだろうか…と悩まないで!そんなあなたにこそこの愛が必要です。


あーめんっ!
昨日、徹夜あけだった私は、またもやソファーで寝てしまった(笑)
朝、5時に目が覚めた。
リビングの電気が煌々とついていた(爆)
あ~ぁ、電気代もったいない(笑)
っと、こんな調子で、私は重荷を負って疲れている(笑)
しかし、倒れず、こうして文句を言いながらも文集の作業もなんとか目処がつき、「神様がともにいて支えてくださってるなぁ~」とまたまた実感する。夫も疲れて倒れたが、また力を頂いて立ち上がった。
私たちは、バトルにおいて、日々こうして倒れたり転んだり、悪魔に負ける時が多いが、WARにおいては既に勝利を得ている者である。
命の源であるお方と繋がった者の特権である。

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)

この御言葉を思いながら、私の頭のなかではあの曲が流れている(笑)
「主の~御座からながれるぅー命の水の川~~♪あふれて~流れて~いのちをあたえるぅぅ~♪すべ~てのものが生きる生ける水の川ぁ~♪」
この曲の歌詞は、エゼキエル47:9かな。
なんか、エゼキエルのどこだったっけか・・・と探していたら、エゼキエル書の御言葉があちこち迫ってくる(笑)
洗濯ものを干して、掃除機かけたら、エゼキエル書をじっくり読むとしよう。(笑)
主よ、生けるあなたの御言葉によって、どうか語ってください。
私に今必要な御言葉を与えてあなたの命を与えてくださいっ!!
主よ感謝します~~!!


3月8日(火)

「私は、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」エレミヤ31:3
神様の愛は永遠の愛です。人間の愛は移ろいやすく、自分の状況、相手の状況などによっても変質してしまいます。しかし神様の愛は違います。対象を変えることなく、内容が変質することもなく、賞味期限は無限です。この永遠の愛はあなたに向かっています。あなたは愛されているのです。


あーめんっ♪
私は神様に愛されているなぁ~と、大実感している。
私は何も持っていない。お金も学歴も、なーんもない。母親としても、子供たちに寂しい思いばかりさせ、ミクと大樹は不登校体験者だ(笑)
私が持っているものがあるとしたなら、それは、神様に愛されてきた証だけだ。私も、お腹の中にいた真も、神様を信じていなかったら、きっと、死んでいた。
こんなに神様に愛されているのだから、主のためならえんやこらと、悪役でも何でもしようと思っているのだが、女41歳にして、なんで、こう、いつもあたしが盾かね~って、まぁ、しゃあないなw
どっちをどう選択しても、どっちみちいばらの道だ。
教会がひとつ立てあがっていくというのは、犠牲なくして出来っこない。
7月に赴任される牧師先生は、もうすぐ65歳の方。
先生が老後の安定を求めることもよく理解できる。
そして、牧師を大切にするのは信徒の役目であることもよくわかる。
よーく祈って、主の語りかけを聞こう。
主よ、あなたを求めます。
あなたの御心を悟らせてください。
主を待ち望みます。


3月9日(水)

「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」1ヨハネ4:19
神様の愛は自己犠牲の愛です。私達は自分にとって本当に大切なものを手放せないものです。しかし神様は私達を愛するが故に御子をお捨てになりました。御子はご自分の命をお捨てになりました。この愛によって私達は生かされています。


(¨)(..)(¨)(..)ウンウン
アーメン。
私は今、神様の導きを求めている。
しかし、まったく見えてこない(涙)
「牧師を招聘(しょうへい)するということは、牧師の生活を保障するということなのですから・・・」という先生の言葉は、本当にそうだと思う。
専任の牧師を、一番心から求めたのは、たぶん、私だった。
夫の会社の社長とぶつかってしまったわけだが、彼を受け入れる方向で考えた時、彼が私に言いたかったことは、「牧師を求めたなら、具体的な金銭的なことも、目をそむけないでちゃんと見れよ」ということだったのだと思う。そして、私としては、「目をそむけてなんていない」という。冷静に吟味したら、そういうやり取りだったように思う。
社長は、会社教会なり、自分の願う教会形成をしたかった人だと思っている。いわば、彼は専任の牧師を求めていなかった。それがわかったからこそ、教会には会社関係者以外の人間も半数いるわけで、社長の願うことを阻止しなければならないと思ったのが、私の本心かもしれない。また、それだからこそ、専任の牧師がいなければどうにもならないと思ったのだ。
そして、牧師招聘云々で教会がもみくちゃになっている時、私は社長にわかって欲しくて、こう言ったのだ。
「いざとなったら、我が家を牧師館に捧げますから」
そして、社長はそこまで覚悟しているんだったらということで、牧師招聘を承知した。
しかし、我が家の現実論として、今でさえ、ギリギリの生活をしているのに、この家のローンを払いながら、別に家賃がかかってくるのは不可能であり、教会員のみんなも、「みんなの捧げた献金のなかから、借家を探そうよっ。よーこさんっちがそこまでしなくていいよー」という意見だった。
覚悟と腹をくくったところに、神様が働いてくださって、専任牧師を与えてくださったのだと私は思っていた。社長もそう解釈してくれていると思っていた。そして、みんなの捧げた献金で借家を探すということで、教会は動いているのだと思っていた。
その中で、社長が自宅を新築するので、今の家を牧師館の候補に考えてくれと、執事会に申し出た。私としては、候補の一つにという申し出であったし、牧師先生が決めればよいことだと思ったので、先生の選択肢が限定されることの無いようにと、教会としての方針は、「借家を探す」ということであったわけだし、他の候補も挙げておくことが望ましいと判断し、夫と共に、不動産屋を回った。
そして、牧師先生は、個人的に、社長に「ありがたいお話しですが、一人の信徒の好意に甘えると、教会を牧する時に難しい面があるのです、今までの自分の牧会生活のなかでも失敗したことがあるので、牧師館に自宅をという申し出は、お断りします」と手紙を出していたことを後で知った。
そのタイミング的なことや、不動産屋を回って、挙がった他の候補を皆で見にいったことや、そこらへんで、社長としては、面白くなかったので、私に八つ当たりをしてきたのだと思う。
このようななか、牧師先生は、5月に就任式を先に行い、実際に赴任するのは7月にと結論を出された。
その結論を出す前日、私は先生に訴えた。
「先生、来てくださると決めてくださったのなら、予定どおり、4月中に引越ししてください」
その訴えは届かなかった。
私は、どうしたらよいのか、全く判断できないでいる。
羊は、もう、弱ってきている。
皆、迷って怯えている。
そして、今、心の中に思うことは、社長を受け入れ、共に歩んでいくなら、社長が心を揺さぶられたとおりのこと「我が家を捧げる」ことを実行にうつしたら、この混乱が治まるのだろうか・・・という思いだ。
そして、社長に頭を下げて、社長宅(牧師館の候補にと申し出たところ)を、我が家に低家賃で貸してくださいと願い出たらよいのだろうか・・・という思いだ。それか、牧師先生に、「社長宅を借りましょう」と説得するか、どちらかだな・・・と、ここ2、3日考えていた。
しかし、思い浮かんだだけであり、神様がどうおっしゃっているのか、全くわからない。
牧師先生は、電話で私に「社長と張り合うのではなく、受け入れる方向へ」と指導する。私は別に張り合ってるつもりは全くない。先生には、私の方が社長に張り合ってる様に映るのか・・・と愕然とした。受け入れる方向へということの意味がわからない。
だったら、先生、社長んっちに住んでくださいってはなしだよw

っと、まあこんな調子で、私はのた打ち回って悩んでいる。

私の思いでなく、社長の思いでなく、また、牧師先生の思いでなく、主がこの教会に願っていることを教えてください。
ヤコブが神様と格闘したように、主よ、私も、主が教えてくださるまで、求めます。主よ、お願いです。教えてください。主の御心を教えてください。
あなたの子供たちが、羊たちが、もう弱り果ててます。
主よ、どうか沈黙しないでください。
教えてください。示してください。
私が手放すものは、なんですか?
家ですか?私自身ですか?
主の御心ならば、社長に頭を下げます。
主を待ち望みます。


3月10日(木)

「私達が未だ罪人であった時、キリストが私達のために死んで下さったことにより、神は私達に対する愛を示されました。」ローマ5:8
神様の愛は先行する愛です。私達の存在、意志、信仰よりもずっと以前から、神様は私達を愛していてくださっています。実はもうあなたは二千年前の十字架で赦されていたんです。信仰とは、神様のそんな愛と赦しを認め、感謝して受け取ることなのです。

あーめんっ。
主よ、私は今朝の真の涙が、これからどうしたらいいですか・・・と祈っていたことへの一つの示しだと受け取りました。
今日受け取ったことから、また考えてみようと思います。
いい子ぶらないで、主の前には、何を祈ってもいいわけですから、そして、それが間違っているときには、主が方向修正してくださいますから・・・。
大胆に、本心のまま祈ります。
愛する天の父なる神様。
御子イエス様。
聖霊様。
御名を崇めます。主を賛美します!
主よ、この家を手放さなくていいようにしてください。
主よ、我が家の経済を祝福してください。
主よ、夫の会社に頼らなくていいように、私の仕事を祝福してください。
ピアノの生徒を増やしてください。エターナルの注文がドンドン入るようにしてください。経済的な心配があるので、教会と会社の間に挟まって、いろんなことがあるわけですから、ここを何とかしてください。
我ら夫婦の、仕事の面での、経済面での、地境を拡げてください。
ヤベツが「主よ、わたしを祝福してください」と祈ったごとくに祈ります。
「主よ、私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。
御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように」
尊き主イエスキリストの御名によって、感謝してお祈りいたします。
アーメン!

主を待ち望みます。
主よ感謝します!!


3月11日(金)

「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」ヤコブ1:5
世の中には変えられないものがあり、変えられるものもあります。変えられないものは受け入れる心の静けさが、変えられるものは変える勇気が要ります。その両者を見分ける知恵が必要です。神様の前で静まる時、心の静けさ、勇気、知恵を必ず与えられます。


アーメン!!(TT▽TT)ダァー
主よ、私に天来の知恵を与えてください。
主よ、今朝、この御言葉と例想をとおして、感じたことは、「私が今戦っていることは、変えられると思ったからこそなのだ」ということです。
もしかして、その根本が違っていたのですか・・・。
求めます!教えてください。見分ける知恵を与えてください!
今、起こっていることが、もし変えられないことなのに、私が受け入れられないでいるのだとしたら・・・。
ブン( ̄ω ̄= ̄ω ̄)ブン
主よ、私は厳しく自己吟味して考えてみても、いっつもいっつも教会の全体を視点に色んなことを考えてきました。
だからこそ、「変えられる」という期待のうちに、今回のことが起こってると思ってます。今までが、あきらめて、勇気がなくて、長い物に巻かれて行くことを選んできてしまったんです。それだからこそ、折々に、根っこが同じ問題が起きてきたんです。
私が一番恐れることは、主よ。
主の御心でないことを自分が推し進めてしまう、的がはずれてしまうということです。ですから、教えてください。知恵を与えてください。
主を待ち望みます。

3月12日(土)

「患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(ロマ5:3-4)
信仰は私達にいろいろな力を与えてくれますが、その中で最も素晴らしい力は、物事に意味を与えることのできる力ではないでしょうか。苦しみにさえ価値を見出し、ありがとうと思うことができ、逆境においてさえほほえむことができる力をキリストは与えてくれます。

あーめんっ!!
hallelujah!!
主よ、感謝します!!
ここっすよね、ここっ!逆境において微笑む。主よ、そーでしたー!!
あたしは、笑います。そして大声で歌います。(笑)
そうすることにします(笑)
雨の日も風の日も、そして、晴れの日も、毎日色んな事がありますが、主の愛は永久に変わることがありませんねっ。
主が私を炉の中に通す時、また剪定のはさみを入れるとき、痛くて辛くて泣き喚きますが(笑) それは祝福への通り道だってことがわかっているとは、なんと幸いなことでしょうっ。
そういえば、私の若い日に、死ぬか生きるかの試練の中にいた時、私の霊の母がこう言った。
「ようこさんっ。若い日に、このような試練を通されることを光栄に思いなさい。ここを通っていることは、後に必ず宝になります。金の純度が上がるためには、炉の温度が高くなければなりません。神様が純金にしてくださろうとしているのですから、光栄に思いなさい」
そして、レテー・B・カウマンの「荒野の泉」という本を毎日読めと、私に手渡した。
すげー、かーちゃんだった(笑)
そして、未熟だった私は、自分と他者を比較して、「なんで、奥様は、あたしにばかりこう厳しいんだろう」と母の愛を疑ったりもした。
しかし、今はこの意味がよくわかる。
そして、これからは、益々、わかっていくのだと思う。
主よ、主が全てのことを感謝しなさいとおっしゃるのは、こういうことですねっ。
主よ、感謝しますっ!!
いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しなさい。(第一テサロニケ5:16~18)
あ、そっかー。今、思った。「いつも喜び」がいっちゃん最初なんだ。
そっかー!!やっぱ、そうなのよっ、笑うのよっ。喜ぶのよっ!!
主よ喜ぶことはあなたがたの力です!!あーめんっ!!hallelujah!!

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