今朝の黙想32



「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」(ローマ15:14)
隣人の間違いを指摘することはとても難しいです。絶対に自分の方が正しいと思うと、つい言葉がきつくなってしまいます。同じ内容でも、言葉を換えれば随分と伝わり方が違います。思いやりを持って祈りつつ今日隣人に接してみましょう。


ほんとに、この「訓戒しあうこと」は難しい。
だからこそ、自分の悟りに頼ってはいけないのだと思う。
自分の価値観や自分の人生観や自分のものさしで何かを語ってはいけない。
御霊に自分自身が満たされ、御霊によって与えられるところの知恵によって語ったとき、聖霊が働いてくださるのだと思う。
私自身が聖霊で満たされることを祈り求めようと思う。
その時が満ちたとき、神様が語る場面とチャンスを設定するだろう。

主よ、どうか私をあなたのきよい御霊で満たしてください。
主を待ち望みます。
主よ感謝します。
イエス様の御名によって祈ります。あーめん。


6月28日(火)

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」伝道3:11
一生懸命祈り求めてきた結果が、あなたの望み通りでなかったとしても、それが、あなたの祈りへの神様の最善であると受けとめましょう。答えられたものを謙虚に“いただく心”が祈りの心です。そのような心の持ち主を神様は必ず祝福してくださいます。


アーメン。
今朝の御言葉を黙想しながら思った。
夫の職を必死で祈り求めてきたのだが、おそらく神様は、今の会社で働き抜くことを願っておられるのだろうな・・と予感がした。
私たちになら乗り越えられると、神様が私達に期待をかけ、私達を召していてくださるのだとしたら、受け取らなければならない。
泣きたくなる。
現実問題もどうしたらいいのかわからない事だらけだし、目の前が真っ暗状態だ。
しかし、祈りの中で神様はこう言う。
「目に見えるところを見るな。わたしがするのだ。わたしを信頼せよ」と。

今はまだ、まったくわからない。
希望もない。
しかし、神様に対しては希望を持っている。

祈ろう。それしかない。神様にだけ期待しよう!!
主を待ち望みます。
主によりたのみます。
主よ、感謝します。


6月29日(水)

「あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」イザヤ44:21,22
どんなに優しい母親でも保育園にいるわが子のお迎えを忘れることがあります。しかし神様は、たとえ私達が自分勝手に生き、放蕩をしようとも一瞬も私達を忘れることがありません。


アーメン!!
今朝の例想の保育園のお迎えを忘れることがある・・・
笑った。
覚えがあるので、「そーそー」って思いながら笑った。
そして、またまた神様の愛の大きさ深さを味わった。

今朝、祈っている時、イザヤ書53、54、55章が迫ってきた。
53章はイエス様の十字架の預言。
54章は、エルサレムの回復の預言。
55章は、神様の恵みを受けよと、招きのメッセージ。
そっか・・・と思った。
私達の側には神様の愛を受ける根拠などまったくない。
一方的な神様の愛によるのだということが、またわかった。

アメージンググレース。
ビックリ仰天する恵み。
アーメンです。
hallelujah!!


6月30日(木)

「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」マタイ10:29-31
神様はあなたの髪の毛の数まで知っている程あなたに関心を持っています。それはあなたがキリストの命に値する程価値ある人だから。人生には多くの不安な要素がありますが、あなたは神様によって守られているのですよ。

アーメン!!!
主よ、感謝しますー!!
今朝、ちょうどマタイの山上の垂訓のとこから読んでいた。
神様が私に激しく語っているように感じる。
「わたしの愛を信じなさい」って。
はい主よ。主に信頼し主にだけ期待します。
主よ、どうぞよろしくお願い致します。
主よ、私もあなたを愛します。
そして、いつも喜び絶えず祈り全てのことを感謝できる者になりたいです。
聖霊で満たしてください。
イエス様の御名によって祈ります。あーめん。


7月1日(金)

『「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。』1ヨハネ4:20
人生とは、如何に人を愛するかを学ぶことに尽きると言っても過言ではありません。どれだけ成功したか、どれだけ財を貯えたかでなく、如何に愛したかが神様の前で価値あることです。全人類を愛する前に、目の前にいる具体的な人々に愛を表現致しましょう。


アーメン。
人生とは、如何に人を愛するかを学ぶ事に尽きる・・・。
ほんと、そうだなぁ~。
例想にある、「全人類を愛する前に、目の前にいる具体的な人々に愛を表現する」これなんだろうなーと思う。
自分が変われば家庭が変わり、家庭が変われば社会が変わり・・・
そのように、問題の焦点はいつも自分自身なんだと思う。
だからこそ、自分自身を愛せない人は、人を愛せないんだと思う。
自分自身を愛することの根源は、自分自身を創造された方との和解が必要だ。
義人はいない、ひとりもいないと聖書に書いてあるとおり、肉の父と母は自分と同じ罪人である。完全な家庭など存在しない。
それゆえ、肉の父と母をも造られた方、創造主との和解が必要だ。
創造主との和解が成立すると、まず自分が赦されるので、自分との和解が成立する。そうすると、肉の父母との和解も成立する。
このように、ボタンの最初をかけ違ったら全部はずれるように、一つ目のボタンを正しくかける必要がある。

家族的無意識の連鎖を断ち切るイエスキリストの十字架に私は出会えた。
ただただ感謝である。

イエスキリストの十字架は、罪と死と呪いの法則から我らを解き放つためにあった。

主よ、どうか私に触れてください。
そして、益々癒されていくことを感謝します。
主の十字架をほめたたえます。
hallelujah!!

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