ふるさと紀行~小田山。
{2006.8.14}帰省中、2006年8月14日 実家の裏山を散策。
子どもの頃、虫捕り、秘密基地つくりをした遊び場、中高生時代には、ロードワークをした思い出の場所です。
観光客の皆さんは、あまり訪れませんが、会津の歴史を知る上では穴場かも知れません。
小田山と言います。ここには、中世(鎌倉、室町、戦国時代)、近世(江戸、幕末)の遺跡、遺構が数多くあります。
会津の人達の中には、戦後とは戊辰戦争の後ことを言い、未だに薩、長、特に長州に対して特別な感情を持っている人々がいるようです。
実際、大きな城下町で、国立大学(現在は独立行政法人)がないのは会津だけ?と言う話も良く聞かされました。
市長が替わるたびに、長州(山口県)に招待され、過去のいきさつを水に流して、友好都市にと持ちかけられても、未だに「時期尚早!」と言って帰ってくるほどです。
戊辰戦争の折、西軍が鶴ヶ城に向けて大砲(アームストロング砲?)を打ちかけて場所が、この小田山の西側斜面です
この場所より、鶴ヶ城を望む。直線距離で1.5k~2k弱くらいでしょうか。
この場所から、約1ヶ月昼夜大砲を射掛けたわけです。当時の砲弾は、鉄の魂が飛んで行くだけでしたが。。。
また、小田山には、中世の会津の領主葦名氏(あしなし)の小田山城址、葦名氏の廟所が点在しています。
上の写真は、小田山城址、冠木門、最近再建したものらしく、私も今回初めてみました。
葦名氏は、鎌倉御家人の三浦氏の支族 1598年に伊達政宗が会津に入城するまで約400年間の領主です。伊達政宗は僅か1年で、豊臣秀吉に会津を追われることになりますが。。。
葦名氏時代は黒川館と呼ばれていた、鶴ヶ城の出城(砦)がこの小田山城になるそうです。
このほか、藩政時代の名家老 田中玄宰(たなかはるなか)の墓、
小田山の麓には、会津藩最後の筆頭家老で、松平容保公の京都守護職就任に最後まで反対した西郷頼母(さいごうたのも)墓、(ちなみに西郷頼母の養子の西郷四郎が、姿三四郎のモデルと言われています。)
白虎隊とならび称される娘子隊(じょうしたい)の顕彰碑、なよ竹碑、長岡藩家老河井継之助の墓跡、などなど数多く点在しています。
最後に小田山で出会った、虫や花たち。
不勉強な私には、あぶら蝉のぬけ殻しか名前がわかりません。。。。。
このへなちょこ紀行文も今回で終了です。m(_ _)m