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高野山町石 大塔 から二 十番目の町石 御廟まであと16基 高野山への道しるべとして1町(約109m)おきに石柱がたっていす。 慈尊院から壇上伽藍の大塔まで約21kmの道のりに180基。 そして 大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4キロメートルの道中 に36基の、合計216基の町石が置かれている。 そのコースを60代の女性会員Sさんが去年一昨年と登られたそうです。 標高差800m合計25kmの行程を約8時間で登られたそうで信じられません でした。 水平での所要時間に、標高100m上がるごに15分プラスするそうですので 2時間足すと休憩時間がとれない計算になります。 ますます信じられません。 明治五年(1872)までは女人禁制でしたので当時の人にとってはもっと信じ られないことでしょう。 金剛峰寺 高野山は弘法大師(空海上人)が弘仁七年(816)に開創されたました。 金剛峰寺は高野山一山の総称だったが秀吉が亡母の菩提のために建立 文久三年(1863)再建されたのがこの金剛峰寺、明治までは青巌寺と呼ば れていたそうです。 金剛峰寺の石庭 蟠龍庭 雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っているように表現されているようです。 龍を表す石は四国産の花崗岩、雲海は京都の 白い砂が使われています。
2017年03月25日
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高野山奥の院参道の芭蕉句碑 「ちちははのしきりにこいし雉の声」 貞享 4年(1687)芭蕉43歳10月江戸を出立した「笈の小文」の旅で 翌年ふるさと伊賀上野に滞在した後、吉野から高野山を訪ねた時の句 です。芭蕉も丁度3月の同じ時期に訪れています。 文字は江戸時代中期の画家、書家、池大雅(いけのたいが)の書 、大雅が絵を書き蕪村と共作を残している人です。 芭蕉は、寛文6年(1666年)に仕えていた良忠が亡くなったのち遺骸を 高野山の報恩院に納めているといわれています。 奥の院参道・中の橋を過ぎて御廟に向かって左側に句碑はあります。 藤堂家墓所 奥の院、御陵からの帰り道、中の橋を過ぎ右側に上杉謙信、霊屋、左側 に武田信玄、勝頼供養塔の間に藤堂家墓所はありました。 供養塔、四代目藤堂高睦 (とうどう たかちか) を主に供養されていました。 四代目の母親も供養されていました。 初代高虎や他の藩主の塔に気がつきませんでしたが帰ってから調べまし たら立札の下側も藤堂家供養塔でした。 藤堂家墓所の立札を見つけて喜び登ったので気がつきませんでした 。 文禄四年(1591年)に仕えていた豊臣秀保が亡くなると高野山に入り高室院 に住んでいたので高野山に供養塔がないはずはないと思っていたのでが 残念です。
2017年03月24日
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九度山にある真田ミュージアム入り口 NHK大河ドラマ「真田丸」を記念して、九度山に九度山・真田ミュー ジアムが平成28年にオープン、真田昌幸・幸村・大助の真田三代の 軌跡と、14年間という幸村の生涯で一番長い時間を過ごした九度山で の生活を紹介展示しています。 真田庵、ここが実際の真田氏が幽閉された場所でした。 真田昌幸の亡くなった場所だそうです。 昌幸はここで65歳の生涯を閉じましたが大河ドラマでは草刈正雄さん が無念の死の場面で幸村に託します。幸村( 信繁)に徳川と豊臣が激突 した場合の最後の策を授けるというものでした。 司馬遼太郎さんの「城塞」ては「 そのほうではとうてい無理である」 という言葉だったのでちょっと違和感を覚えました。 真田庵の中にある 真田宝物資料館 展示物 種子島、鉄砲のこと 真田庵の敷地内の与謝蕪村の句碑 「炬燵して語れ真田が冬の陣」 と刻まれています。 もう一つ同じ蕪村の 「かくれ住んで花に真田が謡かな」 という句碑も在りました。
2017年03月21日
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かたりべの会の研修旅行に行ってきました。 まずは慈恵院、多宝塔4,5m四方で高さの表記がありませんでした。 この奥の階段を上がった所が丹生官省符神社があり一番目の町石があり これを起点に高野山へ180町石あります。 弘法大師の母親が亡くなり 御廟 として弘仁七年(816年)に慈恵院は 建てられたそうです。 弘法大師の母親が香川県善通寺から我が子の開いている山を一目見たいと参られましたが 高野山は七里四方を女人禁制としていたのでこの院に迎えられました。 大師は、月に九度は必ず訪ねられたのでこの地を九度山と呼ぶようになったということです。 母親がお亡くなりここに御廟を建立、安置されました。 訶梨帝母尊 乳房を形どった絵馬のようなものがたくさんに奉納され ています。 母神女神の梵名ハーリーティーを音写した訶梨帝母(かりていも)から 名付けられたのでしょう。鬼子母神と同意だそうです。 慈恵院の奥にある九度山案内犬 ゴン像 高野山の参詣者を案内した犬。 昭和 60年代(1985年 - 1988年)に、 九度山駅と慈尊院を結ぶ途中にある丹生橋の近くに 住みついていた 紀州犬と柴犬の雑種である白い雄の野良犬が、やがて案内するよう になったそうで不思議とお坊さんは案内しないで参詣者だけを案内し たのをテレビで見た記憶があります。
2017年03月18日
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北泉邸にかたりべの会の研修で行ってきました。 北泉優子(ゆうこ)さんが案内に出迎えて下さって恐縮しました。 ブログ掲載の許可を頂くときに 「顔は掲載しないで」 と言われたので残念ながら顔写真はなしです。 この邸宅は元上野警察署庁舎として明治21年(1881年)に現在の北伊勢 上野信用金庫の地に建築された後、昭和7年に優子さんの父親の北泉清 氏に払い下げられ昭和13年に現在地に移建され三重合同新聞社とされたそうです。 その後、新聞社が戦争中の紙の管制政策で休刊後、住宅に転用されました。 三重合同新聞社の紋章だそうです、一番外の丸が三重で上部が合で下部が同のデザインだと思われます。 釘は使わないでしょうから、 留め継ぎでしょうか 素材は大変珍しい桜だそうです 天井四灯式シャンデリア風の照明、笠部分は真鍮製でしょうか 天井に換気用のデザインされた通風孔が開けられていました。 設計、施工とも上野市(現在の伊賀市)在住の寺社大工の安場直諒(なおあき)さんによるものだそうです。 安場さんは堺や神戸の洋館を何度も見学に行き写生して、これを元に設計したようです。
2017年03月13日
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