伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2015年10月02日
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「藤堂高清の墓はどこにありますか」

と案内している時に聞かれたが寡聞にして知らなかった。

「藤堂藩は六代以降は高清の血筋になっていますよね」

ますます分からない、そこで後で調べてみました。

藤堂高清、1585~1640年 藤堂虎高の三男。藤堂高虎の異母弟にあたる。

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1614年の大坂冬の陣では真田丸の攻防で銃弾を股に受けるほど奮戦した。
翌年の夏の陣では伊賀名張の守備を命じられたが、密かに6人の家臣を引き連れて藤堂軍を追い、
河内千塚で高虎に参陣を願ったが許されなかった。同じく無断出陣してきた弟・藤堂正高と共に
八尾の戦いに許可なしで参加し、50の首級を得る大活躍をしたが、認められず罰せられ

1619年に罪を許され伊賀上野城代となった。その後、よく宗家を補佐し
1640年8月15日死亡した。遺体は伊賀上野の長者屋敷に葬られた。

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とあります、長者屋敷とは伊賀国分寺跡のことでしょうが墓はどこを探しても見当たりません。
そもそもなぜ国分寺跡に葬られたのでしょうか、
高虎は1630年に亡くなって津市の寒松院と伊賀市の上行寺に御墓が有ります。
母も同じ実弟で大坂夏の陣の時 伊賀上野城の留守居役を命じられていながら高清と
行動を共にした正高は1629年6月27日死亡し、伊賀市上野恵美須町の
山渓寺に御墓が有ります。

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藤堂正高の墓


実弟でも分家してからは寺を別にしたのでしょうが、兄と同じ寺ではいけなかったのでしょうか
二人より後に亡くなった高清が伊賀国分寺跡とはその場所が由緒正しい場所だということでしょうか。



高清の死去時、その子、高英は年若かったため、重職である伊賀上野城代は、百戦錬磨の藤堂采女元則が
指名されました。高英は伊賀附より津附に転じて後に侍大将となります。

孫の高明は津藩の侍大将、初代を高清とする藤堂出雲家を継ぎます。

その高明の四男、藤堂高治は享保8年(1723年)9月、藤堂高陳の養子となり久居藩主となる。さらに享保13年
(1728年)、藤堂高敏の養子として津藩主となった。以降、高虎の血統は断絶し高清、高明の子孫が


とあり本当に高虎の血筋は断絶し高清の血筋、曾孫が藤堂藩を継いでいきました。

藤堂高清―高英(子)―高明(孫)―高治(曾孫)

伊賀市史には藤堂高清の記載がありません、1640年に藤堂采女が城代に就任の記載のみです。

藤堂出雲家を探していると
「地域社会における「藩」の刻印 津・伊賀上野と藤堂家」 藤田達生監修・三重大学歴史都市研究センター編

の目次の中に藤堂藩領における藩主・重臣家墓地、四 藤堂出雲家を見つけました、さっそく伊賀市上野図書館
に行ってきました。

その中に藤堂出雲家、高清7000石で伊賀上野城代に、供養塔は津市青谷、青谷墓地と
伊賀市 上行寺にとありました。

上行寺のどこにあったのでしょう、五輪塔の供養塔の写真が載っていましたので探しに行きました。

ありました、高虎の墓の後ろ、東側に高清の五輪塔が右には夫人の五輪塔ありました。


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十二代続いた藤堂藩の六代以降の祖先、藤堂高清の墓が寺の墓碑案内図にも載っていないとは。





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Last updated  2015年11月03日 21時20分47秒
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