伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2020年03月22日
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「子や春(す)みち」の道標の横に開運薬力眼力稲荷神社の石碑

この分かれ道の坂を上ると突き当たりに伊賀國久米 米井山 得楽寺(子安堂)がありその横に開運神社があるようです。そこはまたの機会にしました。




伊賀市守田町 八幡神社〔長岡八幡宮〕拝殿
由来記によると
五世紀末「人皇二十五代武烈帝の御宇、伊賀国造中田麻呂勅を奉じて九州宇佐より阿蘇山の地に勧請す、
山城国石清水より遥か以前の造立なり」とあり現在の大分県宇佐市から約千五百年前に造立されたことになります。

以来畿内に通ずる大和街道の要所に鎮座し、木津久米両河川合流の豊饒肥沃の地に農耕生活を営んだ
古代人の信仰の対象であった。

奈良聖武帝の御代僧行基、諸国に精舎(この久米山の東側にその伝説の旧四十九院があります)を建立
の際(740年代)、弥勒院を日吉社(ひよししゃ)境内地に造立とあります。
以後、弥勒院鎮守社として近世江戸末期まで世に謂う神佛習合時代として続いています。




拝殿の後の本殿
五世紀に元になる神社がありそこへ周りに在った神社を合祀、八世紀に四十九院建立の際に行基に
依って再興整備されたことになります。



八幡神社に隣接している伊賀市九品寺(くほんじ)

寺伝では、奈良天平年間、聖武天皇の詔命により、行基菩薩がこの地に49院を建立したのが当寺の
由歴で、その後、大同2年(807年)に、巖如(げんにょ)上人が、その本坊跡地に弘法大師の霊場
のひとつを建立して中央山蓮台寺と名付けたとされている。更に時代の変遷のうちに荒廃を極めた
当寺だが、明応年間(1491年頃)になって、天台宗の高僧の慈接(じしょう)大師真盛(しんせい)上人が

至っている。この伝によって、行基菩薩を開基、真盛上人を中興の祖としています。

仏教で極楽往生の際の九つの階位を表しており、人の往生には上品・中品・下品(じょうぼん、ちゅうぼん、げぼん)があり、
さらにそれぞれの下位に上生・中生・下生(じょうしょう、ちゅうしょう、げしょう)とがあり、合計9ランクの往生があるという考え方。
九品仏はそれを表した9体の阿弥陀仏のことで九品寺の名前の由来だと思われるます。
九品の場合は「くほん」と濁らずに読みますが、「上品・下品」などは「じょうぼん・げぼん」と連濁するようで上品、下品の語源のようです。




(1625-1703 江戸時代前期の国学者。
寛永2年生まれ。生家は伊賀(いが)(三重県)上野の豪商久米屋。北村季吟(きぎん)について国学,和歌をまなぶ。百科事典「世諺一統(せげんいっとう)
,郷土史「伊水温故」(これが伊賀史研究の教科書になっている),教訓書「柴栗草紙」などを




十三石仏
伊賀市有形文化財(北側一基)
九品寺から旧道を四十九方面へ行くとあります。



十三石仏南側
旧道をもう少し行くと南側に一辺2mちかい自然石に地蔵菩薩立像と十三仏坐像を刻んだもの。
室町時代の作。これは文化財登録されていないようです。



国道を越えた岡の上に鶴塚というものがありました。

鶴は吉祥と長寿の象徴で、「神秘の鳥」「幸運のシンボル」とされている貴鳥とされ、そのため死亡した鶴の遺骸を近くに葬って塚としたもののようです。徐福伝説の鶴塚(徐福が亡くなる時鶴になりたいと言った)が各地にあり伊賀にも徐福が忍者の技術を伝えた説がありますがこの塚には徐福伝説は伝わっていないようです。

このあたりに八幡神社に合祀された高松社があり、日吉社は旧四十九院に在ったようです。










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Last updated  2020年07月08日 11時12分42秒
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