伊賀へいらっしゃい

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2020年04月24日
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芭蕉が江戸に出て3年間には記録がありません。しかし2年後に北村季吟から宗匠(俳句の師匠)の
認可書とも言うべき「埋木」を授与されています。

此書雖ニ家伝之深秘一、宗房生、
依ニ俳諧執心不レ浅一、免ニ書写一而、
且加ニ奥書一者也。必不レ可有ニ外見一
而己
延宝二年弥生中七  季吟(花押)

読み下し文

免じて、且つ奥書を加うるものなり。必ず、外見有るべからざるもののみ 延宝二年弥生中七 
季吟花押

現代語訳
この書は、家伝の秘密文書であるが、宗房(後の芭蕉)生は俳諧に実に熱心であるから、書写を許
し、かつ私の名を奥書に署名した。門外不出と心得ること。 延 宝2年(1674)2月17日 季吟花押


この宗匠立机の授与「埋木」は江戸に出て二年後のことで、この「埋木」の授与の場所やひいてはその信憑性を疑う人もいます。
藤堂藩の法でいったん伊賀を出国したものは四年帰国が許されず、そして四年毎に故郷へ帰り郡奉行所へ出頭することを命じる。と上野市史芭蕉編にあります

「宗国史」に貞享四年(1687)
古法の如くの後、五年目毎帰国法が
記されているが、古法の如くとあるので従来からの原則をあらためて記したものと思われる。
上野市史芭蕉編の年表に正保五年(1648)12月

とありこれが古法だと思われます。

芭蕉は寛文12年(1672)出国して五年目(江戸時代は0年という概念がないので四年毎)の延宝四年
(1676)に一時帰国している。
そうすると二年後に帰国していたのは考えられず「埋木」を受け取った場所は伊賀ではなく京都か
江戸ということになるが伊賀市の芭蕉翁記念館の学芸員の方は郵送した例もあるとの返答でした。


新七郎家が北村季吟(季吟の書であることは証明されています)に頼み書いてもらったのではないかという説を唱えています。







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Last updated  2020年04月24日 14時28分55秒
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