椿荘日記

椿荘日記

ショパンのパリ、椿姫のパリ①



ご存知の様に「ピアノの詩人」と呼ばれたショパンは、生まれ育ったポーランドを離れてパリ入りしてから、二度と再び祖国の地を踏むことはありませんでした。
ポーランド革命失敗の知らせに、悲しみと不安の入り混じった気持ちを抱えてのパリ入りでした。
1831年、九月、この時ショパン21歳。

この時代のフランス、パリはルイ・フィリップ治世のもと、ブルジョアを中心とした未曾有の好景気に沸きかえり、人々は過剰な消費に走り、音楽、文学、絵画等のパトロンも、教会、王侯貴族から新興貴族、ブルジョア達の腕に移行しつつありました。
ショパン達外国から青雲の志を抱いてやってきた若き音楽家は、そういったブルジョア達のサロンで演奏し、子女たちにピアノを教えて、作曲や演奏活動に勤しんだのです。
ショパンと同様当時パリで活躍していたリスト、メンデルスゾーン、ヒラーなど、皆ショパンとほぼ同年代の青年たちが、パリの自由で、贅沢な空気を胸一杯吸っているその影ではしかし、労働者や、富の分配にあぶれた都市生活者や農村から流れてきた者の、目を覆うばかりの貧困が広がっていました。
その貧民の群れの中に、後年、その白い手で金貨を撒き散らし、己の美貌と才覚で社交界に君臨する未来の「椿姫」~マリ・デュプレシ(アルフォンシーヌ・プレシ)がいたのです。

1832年の2月にパリ・デビューを果たして以来、ショパンは成功の階段を上り始めます。
住居もブルヴァール・ポワソニエールからショセ・ダンタンに変り、成功を夢見る若者の羨望の的である、流行の服、白手袋(ショパンのトレードマークでした)、従僕に自家用の馬車と、社交界に出入りするのには必携の道具を手に、ロスチャイルド家など有力なブルジョアの後ろ盾を得、楽譜も売れ、一流の音楽家として、名を馳せるようになりました。
その後、パリの社交界の人気をリストと二分するような生活を続ける中、ポーランド時代の友人の妹と婚約するも破談、失意の彼は再会した、女流作家ジョルジュ・サンドと恋愛関係に落ちます。
そして当時の煩く、口やかましい社交界の人々の噂話と中傷から逃れる為、マジョルカ島への逃避行の為旅立って行きます。
この1838年に未来の「椿姫」、マリことアルフォンシ―ヌが、パリの入り口「パッシーの城門」を潜っているのです。
親戚の八百屋に預けられる為、ノルマンデイーの田舎から父親に連れられてやって来た、アルフォンシ―ヌはこの時14歳でした。

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