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藤原(飛鳥井)雅経(ふじわらのまさつね、あすかい・まさつね)み吉野の山の秋風小夜さよ更けて ふるさと寒く衣ころも擣うつなり新古今和歌集 483 / 小倉百人一首 94み吉野の山颪やまおろしの秋風に小夜は更けて古い都に寒々と衣を打つ音が聞こえている。註ふるさと:現代語「ふるさと」とは異なり、古い京(みやこ)、廃都の意味。衣ころも(を)擣うつ:昔の布地は目が粗かったので、木や石の台に布を載せ、砧(きぬた)という柄のついた太い槌(つち)で叩き、繊維を柔らかくするとともに艶を出した。主として女性の夜なべ仕事で、寒さに備える秋の夜の風物詩だった。古来布づくりが盛んだった、現在の東京近郊・多摩川周辺に点在する「調布」や「砧」などの地名は、その名残である。
November 22, 2011
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藤原清輔(ふじわらのきよすけ)ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂うしと見し世ぞ今は恋しき新古今和歌集 1843 / 小倉百人一首 84生き長らえればつらいこの時もまた懐かしく思い出されるのだろうか。憂鬱だと思っていた時代さえ今は恋しいのだ。註「世を憂しと見」た理由は具体的には明確ではないが、作者が生きた時代は来年のNHK大河ドラマ「平清盛」で描かれるような平安末期の動乱の時代(末法の世)であった。名門の公家(六条藤原家)に生まれた作者にとって、厭(いと)わしい世だったろう。作者自身も、父・顕輔(あきすけ)との不和や、勅撰和歌集となる予定の「続詞花集」の編纂に当たりながら、天皇の崩御で頓挫したりと、苦悩が深かった。家集(自家歌集)の詞書きによると、昇進が遅れて嘆いていた友人の藤原実房(さねふさ)を慰めた歌だというが、この知識はむしろ鑑賞の妨げになるほど、普遍的なモチーフの秀歌と思う。
November 21, 2011
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寂蓮(じゃくれん)村雨むらさめの露もまだ干ひぬ真木まきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕ぐれ新古今和歌集 491 / 小倉百人一首 87通り雨の露もまだ乾かない真木の葉に霧が立ちのぼっている寂寞とした秋の夕暮。註百人一首の中でも特に評価の高い叙景の名歌。真木:松、檜(ひのき)、杉など、堂々と風格のある木を総称して言った。現代語のマキ(槇、イヌマキ)とは異なる。
November 21, 2011
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藤原良経(ふじわらのよしつね)きりぎりす鳴くや霜夜のさ莚むしろに 衣ころも片敷かたしきひとりかも寝む新古今和歌集 518 / 小倉百人一首 91こおろぎが鳴く霜降る夜の寒いむしろに衣の片袖を敷いて独り寝るのだろうか。註きりぎりす:現代語の「蟋蟀(こおろぎ)」。今でいうきりぎりすの古語は「機織はたおり(虫)」。さ莚むしろ:「寒し」が掛けてある。
October 25, 2011
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紫式部(むらさきしきぶ)めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半よはの月影新古今和歌集 1499 / 小倉百人一首 57めぐり逢って見たのかどうかも分からない間に叢雲(むらぐも)に隠れてしまった夜半の月光。(久しぶりに邂逅してお逢いしたのかどうかも分からないうちに消えてしまったあなた。)註小倉百人一首の結句は「夜半の月かな」。
October 16, 2011
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西行(さいぎょう)きりぎりす夜寒よざむに秋のなるままに 弱るかこゑの遠ざかりゆく新古今和歌集 472 蟋蟀(こおろぎ)は夜寒に秋がなるにつれて弱っていくのか声が遠ざかってゆくのは。註きりぎりす:今でいうコオロギ。今のキリギリスは、古語では「機織(はたをり)」。弱るか・・・ゆく:疑問形の係り結びの、珍しい用例という。従って、この「ゆく」は連体形。
October 7, 2011
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大江千里(おおえのちさと)照りもせず曇りもはてぬ春の夜の 朧月夜おぼろづくよに如しくものぞなき新古今和歌集 55さやかに照り映えもせずそうかといって曇りきってもしまわない春の夜の朧月夜に及ぶものはないなあ。註和歌史上の傑作。曖昧模糊としたイメージに余情(余韻)を感じとる日本人の伝統的な美意識の典型。はてぬ:「果てぬ」だが、現代語と異なり「・・・しきらない」の意味。
April 21, 2011
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藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野のわたりの雪のゆふぐれ新古今和歌集 671馬を止めて袖の雪をうち払う木蔭もない佐野のあたりの雪の夕暮れ。(・・・そして私は途方に暮れる。)註藤原定家:有職(ゆうそく)読み(貴人・才人への敬意を込めた音読み)で、「ていか」とすることが多い。長忌寸意吉麻呂(ながのいきおきまろ)「苦しくも降り来る雨か三輪が崎狭野(さの)のわたりに家もあらなくに」(万葉集 265)の本歌取り。佐野:現・奈良県桜井市狭野、あるいは和歌山県新宮市・三輪崎および佐野など、諸説ある。わたり:「辺り」説が有力だが、「渡り(渡し場)」説もある。
January 18, 2011
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源高明(みなもとのたかあきら)・ 西宮前左大臣(にしのみやのさきのさだいじん)初雁はつかりのはつかに聞きしことづても 雲路くもぢに絶えて侘わぶるころかな新古今和歌集 1417愛しい人の便りを伝えるという雁の今年初めてちらりと聞いた言伝ても今は雲路に絶え果てて侘しさがつのるばかりの時間だなあ。註前々記事の古今集・凡河内躬恒の歌などの本歌取り(引用)。
December 7, 2010
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藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)見わたせば花も紅葉もみぢもなかりけり 浦の苫屋とまやの秋のゆふぐれ新古今和歌集 363遥かに見わたせばもう花も紅葉もないのだなあ。浜辺に苫葺きの粗末な小屋だけがある晩秋の夕暮れ。註苫屋とまや:苫(とま)で屋根を葺(ふ)いた粗末な小屋。漁師などの仮の寓居。
December 1, 2010
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寂蓮(じゃくれん)野分のわきせし小野をのの草臥くさぶし荒れ果てて 深山みやまにふかきさを鹿のこゑ新古今和歌集 439嵐が去った小さな野辺の草の褥(しとね)は荒れ果てて今宵は山の奥深くで若い牡鹿の鳴く声がする。註野分のわき:秋の嵐、暴風。野を分けて吹くような風の意。今でいう台風など。「分き」は、古語動詞「分く(分ける)」の連用形。草臥くさぶし:草の寝床。草枕。さを鹿:小男鹿。牡鹿の雅語的表現。
October 5, 2010
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曾禰好忠(そねのよしただ)おきて見むと思ひしほどにかれにけり 露よりけなるあさがほの花新古今和歌集 343起きて見ようと思っている間に凋しぼんでしまったなあ。露にもまさって儚はかない朝顔の花。註けなり:異(け)なり。特異だ。まさっている。ここでは、古来儚いものの代名詞である「露」にまさって、いっそう儚いという意味。なかなかに洗練された言い回しといえる。
September 14, 2010
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西行(さいぎょう)よられつる野もせの草のかぎろひて 涼しく曇る夕立の空新古今和歌集 263真夏の強い日差しに萎しおれ捩よじれた野原一面の草々が翳かげりを帯びて涼しく曇ってきた夕立ち催もよいの空。註よられつる:「撚(よ)る」「縒(よ)る」の受身形に、完了の助動詞「つ」の連体形「つる」が接続した形。炎暑と熱風で捩(よじ)られたようになった。野もせ:野のおもて。野面(のづら)。一面の野原。
September 1, 2010
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寂然(じゃくぜん)みちのべの蛍ばかりをしるべにて ひとりぞいづる夕闇の空新古今和歌集 1951道のほとりの蛍だけを案内役にしてひとりで出かける夏の夕闇の空。註みちのべ:道の辺。道のほとり。道端。しるべ:案内人、ガイド。現代語「道標みちしるべ」は、若干ニュアンスが異なる。
August 25, 2010
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紀貫之(きのつらゆき)大空をわれもながめて 彦星のつままつ夜さへひとりかもねむ新古今和歌集 313大空を私も眺めて彦星が妻を迎えるこの夜さえ独り寂しく寝るのだろうか。註今年の旧暦七夕(本来の七夕)は、さる8月16日だった。
August 19, 2010
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藤原俊成(ふじわらのとしなり・しゅんぜい)昔思ふ草の庵いほりの夜の雨に 涙な添へそ山ほととぎす新古今和歌集 201帰らぬ昔をしみじみ思う草庵を濡らしてやまぬ夜の雨に涙を添えないでくれ 山不如帰ほととぎすよ。註な添へそ:添えるな。「な・・・そ」で動詞の連用形を挟んで、制止・禁止の意思を示す古語用法。
June 1, 2010
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藤原良経(ふじわらのよしつね)うちしめりあやめぞかをる 時鳥ほととぎす鳴くや五月さつきの雨のゆふぐれ新古今和歌集 220しっとりと湿って軒に挿したアヤメが妙なる香りを放っているホトトギスが鳴いているのか五月の雨の夕暮れ。註五月さつき:ほぼ現在の6月。梅雨。
May 30, 2010
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藤原定家(ふじわらのていか、さだいえ)春の夜の夢の浮橋とだえして 峰にわかるる横雲の空新古今和歌集 38春の夜の夢の浮橋がとだえて峰に分けられ、峰から別れ横雲が空にたゆたってゆく。註夢の浮橋:源氏物語「夢浮橋」や、狭衣(さごろも)物語・巻四「はかなしや夢のわたりの浮橋を頼む心の絶えもはてぬよ」(儚いことだ、夢の渡しの浮橋を頼みとする心が絶え切ることもないのだなあ)を踏まえる。加えて、前エントリーの藤原家隆の歌も本歌取りしている。定家彫心鏤骨の代表作で、和歌史上の最高傑作の一つ。意味的にはきわめて曖昧模糊としているが、もしかすると、非常に手の込んだ失恋(・・・あるいは“引恋”、引きずる恋)の歌かも知れないと思う(筆者説)。金春禅竹(こんぱる・ぜんちく)作の幽玄な能の謡曲「定家(ていか)」などが生まれた所以(ゆえん)とも思われる。
May 7, 2010
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藤原家隆(ふじわらのいえたか)霞立つ末の松山ほのぼのと 波にはなるる横雲の空新古今和歌集 37春霞が立ち込めている末の松山のあけぼのにほんのりと波を離れていく横雲の空。註霞:普通、春の気象現象をいう。似たような現象でも、ほかの季節のものは「靄(もや)」などという。末の松山:陸奥国(むつのくに)宮城野(現・宮城県多賀城市八幡付近)にあった山。歌枕。ほのぼのと:ほんのりと。ほのめいて。ほのかに。この歌では、「ほんのりと情景が見える」ことと、「ほのかに夜が明ける」ことの両義にかけてある。
May 7, 2010
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藤原家隆(ふじわらのいえたか)思ふどちそことも知らず行き暮れぬ花の宿かせ野べの鶯新古今和歌集 82思い合っている者同士でどこということもなく散策している間に日が暮れてしまった。花の宿の巣を貸してくれ、野辺のウグイスよ。■栃木・鬼怒川温泉 花の宿 松や
April 11, 2010
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西行(さいぎょう)ながむとて花にもいたくなれぬれば散る別れこそかなしかりけれ新古今和歌集 126ずっと眺めていることで花にもすっかり情が移ってしまったので散る別れが哀しいなあ。
April 10, 2010
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俊成女(としなりのむすめ、しゅんぜいじょ)風かよふねざめの袖の花の香かにかほる枕の春の夜の夢新古今和歌集 112春のそよ風が通ってくるうたた寝の寝覚めの袖に移った花の香りに薫っている枕の春の夜の夢(に、もっと浸っていたいなあ)。註俊成女:藤原俊成の孫娘で、藤原定家の姪。本名不詳。意味的には、今一つ何が何だかよく分からないようなところが幽玄微妙でいい 。なお、この花は、あるいは梅かも知れない。これまた微妙。
April 9, 2010
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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日も飽かぬ色かな新古今和歌集 99桜が咲いている遠い山に棲む山鳥の枝垂り尾のように長々しい日も飽きない花の色だなあ。註柿本人麻呂作に擬せられている「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(拾遺(しゅうい)和歌集778/小倉百人一首3)の本歌取り。この本歌は、万葉集2802の歌の詞(ことば)書き(註)に、別案(参考)として記載されている。ただ、この歌が柿本人麻呂作であるという確証はなく、歌風から見ても現在ではほぼ否定されているが、古来、年代を経るにつれて評価が高くなっていったのは事実であろう。僕も、和歌史上、屈指の名歌と思う。なお、万葉集2802は、「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を(思っても、思いは尽きない、山鳥の尾のように長いこの夜を)」。なお、冒頭引用の歌を、帝王にふさわしいおおどかな名歌と見るか、人麻呂の名歌をアレンジしただけの机上の遊戯と見るかは、大きく評価が分かれるところだろう。詩人・大岡信氏、作家・丸谷才一氏ら古典文学に造詣の深い論者は、いくつかの著作で絶賛しているが、近現代の歌人には、こういった技巧を嫌う人が多いのも事実だと思う。
April 6, 2010
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彼岸桜 ── けさ、近所で撮影。式子内親王(しきし・ないしんのう)いま桜咲きぬと見えて うすぐもり春に霞める世のけしきかな新古今和歌集 83今桜が咲いたと見えて薄曇の春に霞んでいる世の景色だなあ。
April 4, 2010
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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)見わたせば山もとかすむ水無瀬川みなせがは 夕べは秋と何思ひけむ新古今和歌集 36見渡せば山の麓に霞んでいる水無瀬川。夕べの趣は秋に限ると何を思い込んでいたのだろう。註水無瀬川
March 24, 2010
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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)ほのぼのと春こそ空に来にけらし 天あまの香具山霞たなびく新古今和歌集 2ほのぼのと春は空にやって来たらしいなあ。天の香具山に霞がたなびいている。註新古今和歌集編纂の事実上の“勅命者”であった後鳥羽院による、おおどかなる名歌。万葉集1812「ひさかたの天(あめ)の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも」の本歌取り。春こそ:「こそ」があるので、強調・詠嘆のニュアンスになる。天:万葉集では普通「あめ」と読み、古今集以後は「あま」と読む。ちなみに「雨」は、あるいは同じ語源(推定「天つ水」などの約)か?(くまんパパ説)。
March 22, 2010
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藤原定家(ふじわらのていか、さだいえ)おほぞらは梅のにほひに霞みつつ 曇りもはてぬ春の夜の月新古今和歌集 40大空は梅の彩りと香りに霞みつつそうかといって曇り切るわけでもない幻のような春の夜の月。註有心幽玄(うしんゆうげん)の新古今調を代表する、定家彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の名歌の一つ。同歌集55、大江千里「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」の本歌取り。にほひ:一語で簡明に対応する現代語はない。主として、はなやかで溢れこぼれるような美しい情景や色合い(視覚)について言うが、妙なる芳香(嗅覚)や余韻(一種の詩情、脳内感覚)なども含意する。この意味の一部(嗅覚)だけが現代語「匂い、臭い」に残った。具体的には、花や紅葉、女性の美しさなどについて用いることが多い。井上陽水/奥田民生/小泉今日子「月ひとしずく」歌詞
March 16, 2010
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大江千里(おおえのちさと)照りもせず曇りもはてぬ春の夜の 朧月夜に如しくものぞなき新古今和歌集 55照りもせず、そうかといって曇り切ってもしまわない春の夜の朧月夜に及ぶものはないなあ。註はてぬ:「果てぬ」だが、現代語と異なり「・・・しきらない」の意味。
March 16, 2010
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藤原清輔(ふじわらのきよすけ)冬枯れの森の朽ち葉の霜の上に おちたる月の影のさむけさ新古今和歌集 607冬枯れの森の朽ち葉に置いた霜の上に落ちた月の光の寒々としたありさま。
February 7, 2010
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西行(さいぎょう)さびしさにたへたる人のまたもあれな 庵いほりならべむ冬の山里新古今和歌集 627じっと寂しさに堪えている人が私のほかにもいてほしいなあ。草の庵を並べて住もう 冬の山里に。註覚悟の出家者にとっても堪え難いほどの、酷寒の寂寞と孤独に浮かぶ儚い夢幻か。・・・突飛な連想だが、ふとアンデルセン童話「マッチ売りの少女」を思ったりする。またもあれな:「私以外にもいてほしい」の意だが、反語的疑問形「またとやあらむ(またとあろうか、・・・いや、いるはずがない)」という諦念のニュアンスも含意しているようだ。庵ならべむ:庵を並べて住むであろう。
February 6, 2010
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藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野のわたりの雪のゆふぐれ新古今和歌集 671馬をとめて袖の雪をうち払う木蔭さえもない佐野のあたりの雪の夕暮れ。註藤原定家:有職読み(ゆうそくよみ、尊敬の意を込めた音読み)では「ていか」。万葉集265、長忌寸意吉麻呂(ながのいきおきまろ)「苦しくも降り来る雨か三輪が崎さののわたりに家もあらなくに」の本歌取り。佐野:現・奈良県桜井市狭野、和歌山県新宮市の三輪崎および佐野など、諸説ある。わたり:「辺り」説と、「渡し(場)」説がある。
February 6, 2010
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藤原良経(ふじわらのよしつね)うちしめりあやめぞかをる時鳥ほととぎす鳴くや五月さつきの雨のゆふぐれ新古今和歌集 220しっとりと湿って軒に挿したアヤメが妙なる香りを放つ(・・・ホトトギスが鳴いているのか)五月の雨の夕暮れ。註五月さつき:ほぼ現在の6月。梅雨。
June 23, 2009
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近所の寺で、けさ写す。式子内親王(しきし、しょくし、のりこ・ないしんのう)はかなくて過ぎにしかたをかぞふれば花にもの思もふ春ぞ経にける新古今和歌集 101なすところなくむなしくて過ぎて行った歳月を数え上げると桜の花に物思う春は去ってしまったんだなあ。
April 7, 2009
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よみ人知らずいまさらに雪ふらめやもかげろふのもゆる春日はるひとなりにしものを新古今和歌集 21今になって雪が降るとはなあ。陽炎の燃える春の日になったというのに。
March 21, 2009
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藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどはおもかげぞたつ新古今和歌集 1389かきのけたその黒髪の一筋一筋に至るまで、独り寝ている時には面影が浮かぶのだ。
January 19, 2009
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大伴家持(おおとものやかもち)鵲かささぎの渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜よぞ更けにける家集「家持集」 / 新古今和歌集 620 / 小倉百人一首 6かささぎが翼を連ねて渡した天の川の橋に置いた霜が真っ白なのを見ると夜はすっかり更けたんだなあ。註天の川の白いほのめきを霜に見立てた幻想。その一方、夜の宮中の階段の写実であるともいわれる。おそらく、その両方の両義的な表現なのかも知れない。かささぎの渡せる橋:〔1〕七夕(たなばた)に、牽牛(けんぎゅう、鷲座アルタイル)と織女(しょくじょ、たなばたつめ、琴座ベガ)の二星を会わせるため、カササギが翼を並べて天の川に渡すという橋。男女の仲を取り持つものの意にもいう。鵲橋(じゃっきょう)。〔2〕(〔1〕から転じて、宮中を天上になぞらえて)宮中の殿舎の階段。
December 17, 2008
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藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)見わたせば花も紅葉もみぢもなかりけり浦の苫屋とまやの秋のゆふぐれ新古今和歌集 363はるか見わたすと、花も紅葉もないのだなあ。この海辺の、苫葺きの粗末な小屋だけがある秋の夕暮れの光景。註苫屋:苫(とま)で屋根を葺(ふ)いた粗末な小屋。漁師などの仮の寓居。和歌史上の最高傑作。新古今和歌集全編の白眉といえる「三夕(さんせき)の歌」の掉尾を飾る、歌聖・藤原定家の代表作。この大方の評価は揺るがないだろう。日本人が愛してやまない季節、秋の歌のシメとしてご紹介する。もし、この歌に著作権が存在して、オークションにかけられるとしたら、落札価格は、現在の貨幣価値で、1兆円ぐらいかな~?・・・もっとだろ~という声が、今空耳で聞こえたよ~な気もする・・・なんか、すげ~こと書いちゃった~ただし、この歌の観念性の強さを嫌う人も、まれにはいる。シュルレアリスティクな感性は、定家の持ち味なんだけどね。僕が畏敬してやまない現代短歌の巨匠・塚本邦雄氏が「凡作」だと明言していたのを記憶している。その出典はだいたい覚えている(確か「短歌朝日」だった)ので、その点はあとで加筆します。・・・このエントリーを書き込みながら、僕はビビって手が震えております~【ところで、ふと気がついたら、「短歌人」2月号の締め切りが目前に迫っていました~っ!!・・・ブログ更新は2~3日休ませていただきま~す】
December 2, 2008
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式子内親王(しきし・ないしんのう)暮るる間も待つべき世かは化野あだしのの末葉すゑばの露に嵐立つなり新古今和歌集 1847 日が暮れる須臾(しゅゆ)の間も安穏と待っていられるこの世だろうか。京の化野の梢の葉に置く露にさえ、時に嵐は襲いかかるのだ。
October 22, 2008
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慈円(じえん)極楽へまだ我が心ゆきつかず羊の歩みしばし留まれ新古今和歌集 1934極楽へ、まだ私の心は程遠い。どっちみち万人平等な「死」という屠殺場へ向う羊の歩みだけれども、もう少し何とかなるまで時間がほしいのが人情というものだよね。
October 22, 2008
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西行(さいぎょう)古畑ふるはたの岨そばの立木たつきにゐる鳩の友呼ぶこゑの凄すごきゆふぐれ新古今和歌集 1674古畑の切り立った崖の立ち木にとまっている鳩が友を呼ぶ声のぞっとするほど寂しい、孤独な夕暮。
October 22, 2008
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西行(さいぎょう)はるかなる岩のはざまにひとりゐて人目思はでもの思はばや新古今和歌集 1099遥か遠いどこかの岩の物陰に独り身をひそめて、人目をはばからずじっと思っていられたらなあ(・・・貴女のことを)。註なかなかの秀歌であり、大真面目に評価されているが、僕の個人的意見では、どうもこれは言葉遊びのニュアンスが強い歌のように思われる。当時「岩」は、旧かなづかいの通り「イハ」と発音した。「ハルカナルイハノハザマ」がハ音の言葉遊び。ついで、「ひとり」と「ひとめ」、「思はで」と「思はばや」と、思いっきり遊んでいるように見える。内容も、世俗の煩悩を解脱した僧侶にあるまじき(?)恋の歌であり、これは宴席か何かの座興で即興的に詠んだ言葉遊び歌と断定していいのかも知れない。・・・以上、くまんパパ新説でした。日本文学大賞ください
October 20, 2008
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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)さびしさはみ山の秋の朝ぐもり霧にしをるる槇まきのした露新古今和歌集 492寂しさは、深山の秋の朝曇りの霧にしっとりと濡れた槇の葉から滴(したた)り落ちる露。註しをる:現代語「しおれる」の語源で、意味もほぼ重なり合うが、ここでは「ぐっしょりと濡れて、ぐったりしている」ニュアンスで用いた。ある意味、妖艶濃美なイメージであるといえる。
October 20, 2008
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寂蓮(じゃくれん)村雨むらさめの露もまだ干ひぬ真木まきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮新古今和歌集 491通り雨の雫の露もまだ乾かない常磐木(ときわぎ)の葉に霧が立ち上っている秋の夕暮れ。註素直で写実的でありながら、雄大さも合わせ持つ秀歌。村雨むらさめ:晩秋などに急に強く降る通り雨。真木まき:檜(ひのき)、松、杉などの立派な常緑樹。
October 20, 2008
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式子内親王(しきし・ないしんのう)跡もなき庭の浅茅あさぢに結ぼほれ露の底なる松虫のこゑ新古今和歌集 474訪れる人の足跡もない寂しい庭の浅茅に結ぼれて、涙のような露の底の松虫の声。註式子内親王:平安末期の流行歌謡「今様」の集大成である「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」(ただし、現存するのはごく一部)の編纂者として知られる後白河天皇(のちに法皇)の皇女。和歌史上最高の女流歌人の一人。名前については、有職(ゆうそく)読み(貴族社会での伝統的な敬意をこめた音読み)では「しょくし」、現在一般的には「しきし」と読むことが多い。推定される当時の実際の読み方は「のりこ」。式子内親王に伺候し、和歌の顧問格のような存在だったといわれる藤原定家との関係は後世伝説化し、金春禅竹作の能謡曲の名作「定家」(全文)にもなったが、近年の研究により、内親王の意中の人は浄土宗の開祖・法然だったという説もある。結ぼほる:「ムスボオル」と読む。結ぼる。「(露などが)置く」と「気がふさぐ」の両義があり、ここでは巧みに掛けている。松虫:現在のスズムシ。現在のマツムシは、古典では「鈴虫」。
October 19, 2008
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藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)白妙しろたへの袖の別れに露おちて身にしむ色の秋風ぞ吹く新古今和歌集 1336白妙の袖をからませて共寝した夜が明け、後朝(きぬぎぬ)の朝の別れに紅涙の露が落ちて、身に染みるような色の白秋の風が吹いているなあ。註何気ない言葉遣いの中に、定家一流の凝りに凝った暗喩や重層的なイメージが交錯し響き合っている、彫心鏤骨の力作。
October 19, 2008
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藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)秋風にたなびく雲の絶え間より洩もれ出いづる月の影のさやけさ新古今和歌集 413秋風に棚引く雲の切れ間から洩れ出ている月の光の清澄さ。
October 17, 2008
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藤原家隆(ふじわらのいえたか)詠ながめつつ思ふも寂しひさかたの月の都の明け方の空新古今和歌集 392ぼんやりと眺めながら、思っただけでも寂しい。月の都の明け方の空。註現代語訳も必要ないぐらいの易しい言葉遣いだが、何が言いたいのかよく分からないようなところに余韻がある佳作。ぽつねんと、うら寂しい明け方の有明の月を見ながら、さらに「月の都」(・・・かぐや姫の本籍地?)を想像して寂しいと言っている。発想がシュールというか、ぶっ飛んでるというか、さすが新古今集の鎌倉モダニズムである。800年前の日本に、すでにこれほど洗練された感性があったとは、脱帽。なお、「寂し」は終止形なので、2句目でいったん切れている。ひさかたの:「日」「月」「天」などに掛かる枕詞(まくらことば)。語源は「久堅」などと解されている。
October 17, 2008
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藤原有家(ふじわらのありいえ)風渡る浅茅あさぢがすゑの露にだに宿りもはてぬ宵の稲妻新古今和歌集 377風が吹き渡る低い茅(ちがや)の葉の末の露にさえ映り留まりもせずに消え去る宵の稲妻。註「稲妻」は、「稲の夫(つま、偶)」の意味で、初秋の縁語。ご紹介の時機をちょっと逸した。凄愴な美を孕んだ、スタイリッシュでカッコいい歌だと思う。なんとなく、「嵐が丘」(エミリー・ブロンテ)みたいな
October 16, 2008
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鴨長明(かものちょうめい)石川や瀬見せみの小河をがはの清ければ月も流れを尋ねてぞすむ新古今和歌集 1894石も清らかな川、賀茂川がきれいなので、月もわざわざ流れを尋ねて来て住んでいる(澄んでいる)のだなあ。註意味的には、何が言いたいのか今ひとつ分からないような歌だが、神職だった作者の面目躍如たるものがある「神祇歌(じんぎか)」(宗教的な色彩のある歌)である。瀬見の小河:京・賀茂川の別称。なお、古くは「賀茂川」と「鴨川」の表記は区別せず混在していたが、現在では慣用的に、上流を「賀茂川」、下流を「鴨川」と呼んでいるらしい。語源的には、むろん「鴨川」の方が古いだろう。古い知識階層の、一種の縁起担ぎの文字遊びである。ちなみに「衣川(きぬがわ、ころもがわ)」と「鬼怒川」の表記などにも似たようなことが言える。すむ:「澄む」と「住む」を掛けている。
August 30, 2008
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藤原俊成(ふじわらのとしなり、しゅんぜい)昔思ふ草のいほりの夜の雨に涙な添えそ山ほととぎす新古今和歌集 201帰らぬ昔を思う草庵に降る夜の雨に涙を添えないでくれ、山のほととぎす。註「な・・・そ」:動詞の連用形を挟んで、婉曲な制止を示す。「どうか・・・しないでくれ」。
June 24, 2008
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