|
---|
ぼくはいま「この世界」の幕開けにいた「あの」助産婦さんのことを思う。 「生の反対は何かな?」 きみたちは必ずこう答えた。 「死です」 ぼくたちはそんな世界に生きている。 もちろんその答えは間違いだ。 「死」は「生」に内包される概念だから。 ぼくは三十九年前のある春の日、名古屋の逓信病院にて生まれたという。 名も知らぬ「あの」助産婦さんにぼくは取り上げられたはずだ。 でもそのある春の日が たまたま なければ。。。。。 ぼくは いない。 生まれていない。 そして「この世界」も ない。 ぼくは「生」の反対が「死」ではないことに気付き、言葉を失う。 ・・・・・・「生まれないこと」 ・・・・・・「この世界」がないこと。 ・・・・・・どんな言葉も届かないこと。 ぼくははじめて「この世界」がすべてなんだと知る。 そして「この世界」が奇蹟なんだということも。 どうして「この世界」が ある の? 答えは・・・ないよ。言葉がないから。 だから意味も・・・ないよ。不安だけれど。 きみたちが取り上げるすべての子どもたちに「この世界」がある。 そして「この世界」はその子どものすべてだ。 でもほんとうのことをいえばその「この世界」にはきみはこれっぽっちも関われない。 その子どもの「この世界」にどうやって関われるというんだい? きみたちは子どもたちの輝かしい未来への門出に立ち会うわけではないよ。 ただ「この世界」の幕開けのカーテンをあげるんだ。 分娩室。 その子どもの「生まれないこと」と「生まれること」を思うとき きみは言葉を失う。 そう、子どもは ただ 生まれてくる。 どんな言葉もそこには似合わない。 いや、どんな言葉も ありえない。 だってそうだろ? きみの「この世界」が ある ことをどうやって言葉で表すことができるんだい? 目を閉じて、口をあけずに大きく息を吸ってみなよ。 そうだね。 すべての子どもは望まれて生まれてくるべきだ、なんて。。。。 そんな陳腐なこと言えなくなる。 「この世界」は誰かに望まれるとか望まれないとか、 そんな言葉で語られるほどの<たやすい>ものじゃないから。 子どもは ただ 生まれてくる。 そこにはどんな言葉も ない。 きみたちは、その幕開けに 偶然に 立ち会う。 そりゃいろいろな幕開けがあると思うよ。 ほのぼのとする幕開けも、泣いてしまうような幕開けも、怒りたくなるような幕開けも。 (あるいは幕が開かないことも) 「生」の反対が「死」ではないと知ったとき、 きみは、きみの「この世界」と、幕を開けたその子どもの「この世界」が、 永遠にリンクしないことを知り、言葉を失うだろう。 でもそれでいいんだよ。 その時、きみの中に波立つ心模様、 それがぼくたちの唯一の不思議な「あかり」だから。 どこまで広がっているのかわからない暗黒の宇宙。 そこかしこにともる小さなあかりたち。 誰かの「この世界」がたぶんそのあかりのもとにある。 そのあかりのもとに、このあかりをかかげていき、 ひとつのあかりにしたいのに。 きみはそこを動くことができない。 きみはいくら叫んでも、その言葉を届かせることができない。 きみの「この世界」がきみにとってすべてだから。。。。 きみたちは「この世界」の幕開けに どこかで ただ 小さなあかりをともす。 国立大阪病院附属助産婦学校閉校記念誌より |