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ブルドックソースの買収防衛策の発動を合法と認める最高裁の判断が出ました。が、私個人としては社会面の小さな記事のほうが好きなのでそっちから拾ってみます。今朝の毎日から。ブルドックではないと思いますが、ペットの犬の医療過誤の話。末期ガンにかかった愛犬がヘルニアと誤診されて入院措置を取られ、そのためペットの死に目に会えなかった、それを理由に85万円の損害賠償を求めていたケースで、大阪地裁で50万円で和解成立したと。裁判所による和解勧告に基づく和解らしい。(和解勧告とはどういうものかについては過去の記事を)大切なペットを亡くしたんだからそれくらいは当然、と思う方も多いかと思いますが、法的に考えると、冒頭につい小さな記事と書いてしまいましたけど、かなり画期的なことなのです。ペットを亡くした場合の損害賠償請求の根拠は何か。これが人であれば、殺人や事故である人が殺されると、その相続人は、その殺された人の生涯収入などを「逸失利益」として請求できるし、一定の親族(親、子、配偶者)は、その人を失ったことの精神的苦痛について慰謝料請求ができる(民法第711条)。ペットの場合は、エサを食べてるだけだから生涯収入などないし、上記の民法711条のような条文もない。以前にも書きましたが、動物は法律上は「モノ」なのです。ペットを死なせたというのは、法的には、モノを壊したというのと同じ。だから素直に考えると、モノの代金を弁償して終わり、ということになる。現に、過去にもペットの医療過誤訴訟というのはあったけど、認められる賠償額は数万円程度というのが多かったらしい。ただ、損害賠償の裁判は、要するにその損害をどこまで立証できるかの問題であって、人間の場合のように自動的に慰謝料請求権を認めてくれる条文がないのなら、証拠を持ってきて、自分はこんなに精神的損害を与えられたんだ、ということを証明すればいい。冒頭のケースの原告がどんな方法でそれを立証したのか、さすがにそこまで報道では触れられていません。でも、裁判所も、「しょせんはモノでしょ」というスタンスでなく、そういった原告側の主張・立証に耳を傾けてくれるようになりつつあるということで、そのこと自体は、獣医さんにはプレッシャーでしょうけど、一般論としては望ましいことだと思います。
2007/08/09
小さい記事ですが、刑事裁判に関して今朝の毎日から。ある専門学校生の男性(30歳)が、おなじ学校の後輩の女性(20歳)に対し、ホテル内で身体を触るなどして強制わいせつ罪に問われ逮捕・起訴された件で、大阪地裁は無罪の判決を出したと。無罪の理由の一つとして、そのホテルに行った日の直後にも男性との間で親しげなメールのやり取りをしたのが残っており、強制わいせつの被害を受けた者の言動とは考えにくいとされたことがあるようです。上記の事件が実際のところはどうだったのかは知りませんが、よくありそうな話ではあります。男性が女性を強いて姦淫(セックス)すると、強姦罪が成立し、そこまで至らなくても身体を触っただけで強制わいせつ罪になる。もちろん、男女合意の上であれば犯罪にあたらないけど、女性が本当に拒んでいる場合は、恋人同士であったとしても犯罪が成立しうる。だから男性は、女性が拒んでいるときには接してはいけない。「いやよいやよも好きのうち」などというのは多くの場合、男性の幻想に過ぎない。では「本当は望んでいるけど、さし当たってポーズとして拒んでいる場合、男性はどうしたらいいのだ」と感じる向きもありましょうけど、そういうややこしい女性には接しないに限ります。と、そんなことを言いたかったのではなく、上記事件に戻ります。男性として怖いのは、当時は男女合意の上で関係を持ったはずだけど、そのあと仲が悪くなって、女性から「あの日のセックスは無理強いされた」と主張される場合です。それで、男性が女性から、金銭的要求をされたり、警察に告訴されたりするケースがあるし、実際私もこれまでしばしば、そういう相談を受けたことがある。セックスした事実(または身体を触った事実)があって、女性側の「合意はなかった」という証言があれば、逮捕・起訴されてしまう可能性があることを、上記事件は示しているわけです。ただ私が相談を受けたケースでは、逮捕・起訴までいったケースはこれまでありません。女性が被害届さえ出せば男性がすぐに捕まるというわけではなく、相当程度に犯罪の疑いが濃い場合に限られるようです。それでも男性としては女性にうかつに手出ししてはならないのであって、単に肉体関係の一事にとどまらず、女性に望まれる関係を保つこと、女性に望まれる存在であり続けることが重要なのだと、大風呂敷を広げて締めくくります。
2007/08/08
栃木県の警察署で、保険金殺人の被疑者が、弁護士との接見(面会)後に接見室で首をつって自殺したとか。新聞などによりますと、この被疑者(58歳男性)は、夜7時半ころに警察署の接見室で弁護士と接見し、夜9時すぎにその接見室で首をつっているのを発見された。下着を裂いてヒモ状にして、それを接見室のドアのカドにかけて首をつったらしい。あってはならないことですが、確かに、ありうるかも、という感想です。接見室で接見する際、弁護士でなくて親族などであれば、1回20分程度という時間制限があり、時間帯も朝9時ころから夕方5時ころまでと限られているし、また接見に付添う警察官がいるため、このようなことは考えられない。でも弁護士との面会であれば、時間制限はないし、遅い時間帯でも接見できるし、立会いの警察官もいない。これは憲法および刑事訴訟法が、被疑者の弁護してもらう権利を保障していることからこういう扱いとなる。弁護士だと日中は裁判などで忙しいし、昼間だと一般の面会者と時間がかち合うから、夜になってから接見に行くことも多い。夜に接見室に入って、1、2時間程度話していることもザラでしょう(もちろん私にも経験がある)。上記の栃木の警察署でも、警官がそう思ってずっと放っておいたのでしょう。接見室は通常、留置場のすぐ横にあるので、弁護士は接見後、留置場の係官に終了した旨を告げるか、誰もいなければ留置場のブザーを押して係官を呼んだりする。でも、留置場も忙しいので、誰も来なければ、私でもたまにそのまま帰ることがある。その場合は、被疑者が接見室のドアをドンドン叩くと、留置場の中の係官がやってくることになる。上記の被疑者は、弁護士が帰った後、警察官が誰も来ないから、ふと自殺しようという念が生じたのでしょうか。留置場にいる人は、首を吊ったりしないように、ヒモ状のモノを身に着けることができない。服を差し入れるときにも、たとえばウエストの部分にヒモが入っていると、受付の際にそれをひっこ抜かれてしまう。でも、その気になれば、通常の服を固くねじるか、引き裂くかしてヒモ状にすれば、首をつることができるだろうにと思っていたら、実際にそれをやった人が出てしまったわけです。私は警察署で接見する際、もしかしたらどこかに盗聴器とか監視カメラがあったりするのではないか、という疑念を持つことがありますが、人が自殺しているのに気付かないくらいだから、どうもそれはないようです。しかし、あまりに「ほったらかし」だとこんな事態になるわけで、留置場の管理のあり方が警察内部で論議の的となることでしょう。面会した弁護士も、きっと後味が悪いことかと。こういう事態にならないよう、弁護士としても接見後の連絡はきちんとしないと、と改めて感じた次第です。
2007/08/07
漫画家・楳図かずお氏が東京で家を建てようとしたところ、周辺住民からクレームが来たとか。昨日の新聞やネット記事によると、家の外観が紅白の段々模様であるとかで、住宅街の景観を害し、また見物客がたくさん来て静謐な環境が害される、ということで、建築差止めの仮処分を申請したらしい。楳図氏が建てようとしている家の外観が、どうして事前に周辺住民に分かったのか、そちらに興味がありますが、それはともかく。この問題を一般化すると、自宅周辺で意に沿わぬ派手な建物が建築されようとしているとき、それを差し止める権利はあるのか、こういう問いになるでしょう。家を建てる側としては、その家が自分の財産である以上、建築基準法等に適合している限りは、どんな色の家を建てようが自由なはずです。自分の所有物は自由に使っていいことになっており(民法第206条)、財産権は憲法でも保障されている(憲法第29条)。ではそれに対抗しうる周辺住民の権利は何か。住宅地の静けさや景観を守るということで、環境権という言葉が思い浮かびますが、環境権というのは法律の条文にない(憲法25条とか13条に含まれるという議論は省略)。考えうるのは、周辺住民の人格権という権利(または利益)を侵害する不法行為(民法第709条)に該当するという立論くらいでしょうか。「人格権」というのも法律の条文にはないのですが、「法律の条文で明確に認められた権利」に限らず、「保護されるべき利益」を害すると「不法行為」が成立する。その結果、損害賠償や、場合によっては差止めの対象となる。ただ、人格権侵害の不法行為が認定されるのは、極めて稀だと思います。よほどひどいケースに限られるでしょう。騒音や悪臭といった現実的被害があるものならともかく、紅白模様であるということで人格権侵害が認められるかは、なかなか難しいようにも思います。ただ、法的なことはともかく、紅白模様の家を建てるという了見は、たしかによく分からないです。自分の隣の家がそれだったら、たしかにイヤだと思う。仮処分の結果が注目されます。何より、仮に訴えが認められると、どんな主文になるのか、それが最も注目されます。
2007/08/03
参院選での自民党大敗のことで、もう少しだけ雑感を述べます。私が最も注目したいのは、1人区で自民党候補は6勝23敗の惨敗、しかも地方の選挙区でも多くの民主党候補が当選した点です。選挙区から1人だけの議員を選出する1人区では、その選挙区で最も支持者の多い「第一党」だけが議員を送り出せる結果になります。大政党が有利となり、これまでは自民党が強いはずだった。そして地方の選挙区。ここでも自民党は強いはずだった。地方や農村部では与党・自民党の支持者が多い。自民党も地方・農村を大切にしてきた。だからコメ輸入自由化は強硬に反対されてきたし、そもそも通常国会が始まる12月という時期は農閑期に合わせて設定されたという話もある。投票価値の格差が問題となるときは常に、都会より地方のほうが「一票の重み」が大きくて、その逆はない。こうして、地方・農村が自民党政治を支え、一方、都会にいるサラリーマンは自分の意見を代弁してくれる党がいない。でも、サラリーマン達はあまり選挙に行かないから、自民党有利は変わらない。こういう構造が、長らく続いてきたのだと理解しています。少なくとも、私は大学での教養課程でそう教えられた(平成2年ころ)。今回の選挙結果を見ると、その構造が根本的に変わってしまったかのような印象がある。地方や農村においても、自民党が支持を失いつつあるようです。小沢民主党が地方での選挙活動を重視したこともあるだろうけど、それだけが理由なのかどうか。果たして、この変化が本当に日本の政治を変えるのか。私自身は、大学3回生のころ与野党逆転して細川政権が成立し(平成5年)、これで日本も変わるかと思ったら、爽やかにテニスしている姿なんかが報道されたのが目新しかっただけで、そう大したことをするでもなく退陣してしまった(識者の評価はともかく、私の印象ではそうだった)。ですので、今回の結果も、あまり過大な期待はしないのですが、地方と自民党の関わりは確かに、私が10数年前に勉強したのと違う状態になりつつあるように見える。それが今後、国政にどのような影響を及ぼすのか、その点は注目してみたいと思います。
2007/08/01
昨日の続き、といいますが、雑談の続きになってしまいますが…。政治はよくわからないのですけど、政治家の発言というものが結構好きなのです。政治家の発言で最も好きなのは、戦後すぐの吉田茂政権下で吉田の政敵となり、鳩山一郎政権を樹立すべく奔走した政治家・三木武吉(みき ぶきち)の発言で、とある演説会で対立候補が「ある候補は妾(めかけ)が3人もいる、そんな候補に投票していいのか」と自分のことを暗に指して批判したのに対し、「先ほどの発言は事実と異なる。妾は4人いる。私は彼女らを捨てるほど冷酷ではない」と言って喝采を浴びたのがお気に入りです。今の時代では通用しないでしょうけど。今般の参院選挙で自民党の大敗を受けて、安倍総理がどんなことを言うのかと思っていたら、選挙当日でも各局のテレビ中継で出ていましたが、どれも冴えない、歯切れの悪い発言ばかりでした。敗戦の弁といえば、かつて金丸信が、とある地方選挙で、「(自民党の候補が)負けたら坊主頭になる」と言って臨んだら自民候補が負け、記者に「坊主になると言われてましたけど」と問われ、憤然と、「それくらいの気持ちでやるということだ」と言いのけて結局坊主にしなかったのも、苦しい言い訳ではあるけど、一つの言い方かと思います。敗戦の弁で最も好きなのは、自民党総裁選挙で大平正芳に敗れた福田赳夫の、「天の声にも変な声がある」です。単純ながら韻を踏んでいて、なかなか爽快な言葉だと思います。今回の安倍総理はテレビ報道でも涙目になって「反省すべきところは反省し…」などと、不祥事を起こした企業の謝罪会見のような様子だから、大敗したという印象がいっそう濃くなったように思うのです。もちろん、反省すべきところは反省してもらえれば何よりですが、対外的には、金丸信みたいに開き直るなり、福田赳夫みたいにとぼけるなりすれば、政治的な失点はまだ少なかったと思うのです。「昭和の妖怪」と言われた祖父・岸信介元総理のように、今後何か凄みのある政治的手腕を見せてくれるのか、それとも引き際だけは祖父(安保改定の際の混乱の責任を取って辞任)みたいにきれいに去るのか。政治はわかりませんが安倍総理の言動だけは見ていきたいと思います。
2007/07/31
自民党が参院選で歴史的大敗。政治のことは基本的にあまり語らないことにしていますが、今朝の新聞はこればかりだし、少々触れます。なぜこんなに負けたのか。改選後の議席は、公明党と合わせても過半数に達せず、民主党の議席よりも少ない。大臣の経費処理などで明るみに出た「政治とカネ」の問題か、大臣たちの相次ぐ失言のせいか。そういう古くからあった問題にとどまらず、松岡農水大臣が自殺したせいか、赤城農水大臣が顔に絆創膏を貼っていたせいか。閣僚の問題だけでなく、年金記録消失とか、住民税増税とか、そういう分かりやすい失点もあったでしょう。もちろん、世論の動きだけでなく、民主党の小沢さんの票固めが上手かったこともあるかと。しかしこれまで、いろいろな悪い要素があっても、選挙でフタを開けてみたら結局自民党が勝っていたというのが、私の幼いころからの印象でした。一度だけ野党連立政権・細川内閣ができて、見ている分には面白かったけど、いま考えるとあの政権がどんな政治を行ったかは記憶にない。衆議院はまだ自・公が強いから、参議院とどううまく調整をつけていくのか、これから見守りたいところです。ここで民主党が、現実的な政策能力を発揮すると、日本にも二大政党制が根付くかも知れません。一昔前は、自民党に対抗できるのは(旧)社会党だけで、さすがに社会党はちょっと…という方は多かったと思いますが(社民党支持者の方にはすみません)、民主党ならまだ、やってもらってもいいかなという気がしなくもない。ちなみに私ですが、選挙前の報道で「自民不利」が伝えられていたので、「判官贔屓」で自民党に投票するつもりでした。でも選挙前、新聞で、地元選挙区の候補者の主張を対比する記事を見ていて、各候補が政策を訴えている中、自民党の候補は「いま自民党が負けると政局不安定になり、せっかく戻ってきた景気もダメになる。それでもよいのか」などと、恫喝に近いようなことを語ってたのを見て、自民党に票を入れるのはヤメました。景気がどうあれ自分はたくましく生きてみせる。それよりも選挙に際してそんな恫喝を言うような人に我が選挙区の議員になってほしくない、と思いました(なおこの自民候補は当選していました)。私の政治観はその程度の極めて浅いものです。でもそういう浅いところで多くの支持者をポロポロと失っていったのが今回の結果なのかな、とも思います。
2007/07/30
最近、少々ブログを書く頻度が落ちています。内容も、雑感的なものが多くなってしまっています。少々、業務が多忙になったためでもありますが、がんばって書いていきます。ここ最近は「ラジオでのお話」というカテゴリの記事を書いていません。ラジオ出演は今も毎週続けさせていただいているのですが、最近、ここで書くほどの内容をお話できていない気がするからです。番組開始当初は、弁護士の仕事についてとか、離婚や男女問題、それから年金や少年犯罪など、それなりにテーマを決めて法律問題を論じていたつもりでした。このところは、パーソナリティのお姉さんと雑談的にしゃべってしまうこともあって、たとえば私自身の女性問題とか、どうでもいいことをしゃべってしまっています。このあたりは今後変えていきたいと思います。で、久しぶりにラジオ番組の内容をご紹介しますと、今日のオンエアでは、私の知人を「特別ゲスト」にスタジオに招いて、お姉さんと三者で話をしました。芸人の「ツッチー」さんで、私も所属しているNPO法人お笑い研究会の所属タレントです。得意ネタは、衣装を早変わりしながらいろんな歌手のマネをして歌う歌謡ショーです。老人施設などでこれをやると、わかりやすさゆえ、大いにウケるらしい。そりゃ、高齢の方にとっては、今の若い芸人の何が面白いかよく分からないコントより、誰でも知ってる歌を派手なコスプレしながら歌っているのを聴いているほうが楽しいでしょう。なおツッチーさんの姿はここから見れます。私自身も、高齢者が絡む諸問題、たとえば、悪質な詐欺的商法にあったとか、後見人になってほしいとか、そういうのを受任することがあります。こういった問題が、これから不可避的に増えていくでしょう。私がやれることは法的な解決を目指すことだけですが、ツッチーさんがやっていることは、高齢の方に健やかに楽しく生きてもらう、そのきっかけをつくるための歌謡ショーでして、アプローチの仕方は違えど、それぞれの立場で、高齢者問題に対してやれることをやっていきたいものだと、お話しさせていただきました。
2007/07/29
昨日の続き。今日の日経夕刊には、メタボリック男性は心筋梗塞のリスクが2.5倍と大学の調査が出た、なんてものがありまして、やはり「だから何だ」と思いました。自分の人生をどう生きるか、そしてどう死にたいか、というのを考えずに、とにかく寿命をのばすことだけを最優先に考えるのはあまり意味のあることではないのではないか、という話です。かつてここでも書きましたが、私の父親は62歳で急死しました。前日まで普通に生活していたのが、会社で倒れてそのまま亡くなりました。前の晩も普通にビールやウイスキーを飲んでいました。肉や揚げ物などの油っこい料理が好きでよく食べていました。タバコも吸っていました。その死因は心臓の大動脈乖離で、一瞬で心臓が止まったはずなので、おそらくあっと思った瞬間に苦痛を感じる間もなく死んでいたと思います。そのいまわの際に、仮に神様が現れて、「お前を40歳に戻してやる。その後、酒もタバコも肉も揚げ物も食べずにいれば、お前の寿命はあと5年延びるがどうする?」と言ったとしても、たぶん父親はそうはしなかったのではないかと思っています。かように父親は、好きなように飲んで食べて仕事して、特に誰に迷惑をかけることもなく死んでいきました。高齢者が増えてこれから日本の医療費はどんどん膨らんでいくなどといった報道を見るたびに、父親のように死んだ人と、長生きしている人と、どちらが幸せなのだろうと考えてしまいます。父親に関しては医療費はゼロだった。話変わって、私の好きな作家の東海林さだお氏が、ある対談で、自分には自殺願望があって、ある程度の年齢になったら自殺するというのも一つの人生の幕引きの仕方ではないか、といったことをかなり真面目に語っておられて、少し驚いたことがあります。いつも愉快なエッセイや漫画を書いておられる東海林氏がそんなことを考えているのかと。私は一般論として自殺はすべきでないと考えており、辛いことから逃げるための自殺は醜いことであると、ここでも過去に書きました。でも東海林氏が言っておられるのは、老衰や認知症などで周囲に迷惑をかけないようにする一つの方法としてありうるのではないかということです。健康・長生きを無条件に良いことだとして、その先の老い方・死に方の問題を考えない人々よりは、よほど人生を真剣に捉えているのではないかと思ったのです。全くうまくまとまりませんでしたが、単なる雑感でした。私の雑感を読まされても面白くないと思うので、明日以降はもっと法律問題、時事問題を取り上げることができるようにしたいと思います。
2007/07/26
産経朝刊の記事。厚生労働省の調査によると、40歳の時点で喫煙している男性は、喫煙していない人に比べ、寿命が3.5年短いとのこと。私自身はタバコを吸いません。タバコは吸わないけど、葉巻が置いてあるバーなどに行くと、一本だしてもらってふかしたりします。葉巻はタバコと違って煙を肺に入れないので、肺は悪くならないと言われます。でも気管内に煙が全く入らないことはないでしょうし、口の粘膜からニコチンは吸収されるから、タバコとそんなに大差はないのかも知れません。上記の「喫煙」の定義に葉巻を嗜む人が入っているのかどうか不明ですが、私もきっと寿命は3.5年短いのでしょう。私ごとはともかく、上記の調査結果を踏まえて、やっぱりタバコは身体に悪い、だからやめなさい、という論調が盛り上がってくるのでしょうか。私はここで、喫煙者を擁護するつもりはありません。当ブログで以前にも書きましたが、人の行き交う往来で歩きタバコをする人は本当に頭が悪いと思うし、寿司屋なんかで隣りに座った人がタバコを吸いだすと、「お前の分の勘定は払ってやるからすぐ出てくれ」と言いたくなる(言ったことはないですけど)。それから、タバコが身体に悪いであろうことは、今さら言われなくても分かる。私がここで言いたいのは、喫煙に限らず「○○すると寿命が何年縮まる」とか「○○すると何々病のリスクが何%高まる」とかいった調査結果を見て、「だから何だ」と思うということです。喫煙する人に比べて、喫煙しなければ寿命は3.5年延びる。他にもたとえば、飲酒しなければ寿命は何年延びる、肉を食べなければ何年延びる、仕事もほどほどにしてストレスをためなければ何年延びる等々、いろんなことが挙げられそうです。タバコや酒や肉が嫌いであればともかく、これらを好きな人が「身体に悪いから」とこれらを断ち、仮に長生きしたとして、その長生きした分をどうしようというのだろう、というのが私の疑問なのです。健康情報、長生きするための情報が氾濫する中で、一方では、「生きる意味」とかいった本が売れているようで(私は読んでませんが)、生きること自体に悩みを持つ人も多いらしい。そういう形而上的なことでなくても、長生きしたらしたで、老衰に伴ういろんな疾患が(精神・肉体ともに)出てくるでしょう。私は別に、人は短命でいいとか、死ぬときは死ぬとか、単純に考えているわけではありません。自分の人生をどう全うするかという根本的に重要な問題を考えずに、寿命だけを気にすることは意味のないことのように思える、そう言いたかったのです。言いたいことが半分くらいしか書けていない気がするのでたぶん続く。
2007/07/25
司法試験制度改革について、私なりの浅い見解を述べてまいりましたが、これで最後にします。少し具体的な話なので、ここで書くことにためらいを感じなくもないですが、過去こういうことがありました。私はここ6年ほど、司法試験予備校や大学で講師をしていますが、ある年度の予備校のクラスで、講義に熱心に通ってくれる大学生がいました。彼を仮にA君としておきます。A君は講義後の質問などにも積極的に来る方だったのですが、その彼があるときを境に、ぱたりと講義に来なくなりました。何かあったのかなと思っていたら、後日、同じクラスの別の受講生から伝え聞いたのはこういうことでした。そのA君がとあるロースクールの入試面接を受け、面接官に「今どのようなことを勉強しているか」と問われた。A君は「大学での講義のほかに、司法試験の予備校に通って熱心に勉強している」といったことを答えた。すると面接官は、「うちのロースクールでは司法試験予備校に行っている人など要らない」といった趣旨のことを言ったらしい。A君はそれにショックを受けて、予備校に来れなくなったと。もしこれが事実だとしたら、私はこの面接官に憎しみを感じます。大学院側は、予備校などは受験のための小手先のテクニックを教えるためのところで、大学院がホンモノの法学を教えるところだという意識がある。でも私は、自分自身の受験生時代がそうであったように、今の受講生にも、小手先ではなく(小手先で受かるような試験ではない)真っ当な勉強をするように、受験テキストでなく学者が書いたきちんとした教科書(基本書)を読みこなせるように、意識して伝えて、かつそのような講義をしているつもりです。予備校に対する勝手な偏見で、若いA君の学ぶ気持ちを殺いでしまったその面接官には大きな反感を禁じえません。話かわって、最近、こういうこともありました。これも過去に私の講義を受けていた受講生の方の話です。B君としておきます。このB君が久しぶりにメールをくれて、質問したいことがあると。何かというと、大学の学部の講義で課題が出て、「内容証明郵便」を書かされることになった。その書き方が分からないから教えてほしい、とのことでした。質問にはお答えしましたが、私の考えでは内容証明郵便の書き方なんて、民法の基本がしっかりしていれば一瞬で理解できます。そんなことは小手先のさらに先のことであって、司法試験を終えてからでいい。最近の法学部や法科大学院は、法曹としての適性をじっくり養うために、実務的なことも学ばせるというのが一つの傾向らしいですが、そのやっていることが一片の内容証明郵便を書くことであるというなら、嗤うべき「実務教育」であると思います。少し前に書いた、ロースクール講義で司法試験の問題漏洩疑惑が生じたなど、制度はまだ混乱しているような印象があります。でも、こんな状況の中で司法試験に挑戦しようというこれからの受験生には、心から激励したいと思います。そして、時代や制度がどうあれ、真っ当な勉強をする人が最後に勝ち残るのだということを強調したいと思います。(何だか今回は、一般向けというより受験生向けの話になってしまいました)
2007/07/23
さて、ダラダラと書いてきました司法試験改革についてのお話ですが、先週末のうちに自分なりにまとめてしまうつもりが、いろいろ慌しくて更新できないままになりました。これまで書いてきたところからだいたいお分かりかと思いますが、私自身は今般の制度改革については懐疑的なスタンスでおります。苛烈な一発試験と、そのための極端に重い受験勉強の負担という弊害を取り除くことを目的としながら、結果的に司法試験が「受けにくい」ものになってしまったという点が問題だと思います。制度改革の建前はともかく、その本音の部分はこういうことでしょう。すなわち、受験生がみな大学ではなくて司法試験予備校に流れてしまう。本来なら、大学の学部教育を充実させることによって学生を大学に取り戻すべきなのだけど、そうはせずに、法科大学院という、国家お墨付きの機関を出ないと司法試験が受けられないようにする。教えることの「中身」ではなくて、「権威」によって学生を取り戻すということでしょう。とはいえ、批判ばかりではなくて、改革に見るべきところもあるということで、いちおうフォローしておきます。たとえば、すでに書きましたが、法科大学院を出た後の受験資格は、「卒業後5年以内、回数で3回以内」です。受験回数・年限に制約が設けられた。これまではどうだったかというと、このような制限は全くナシ。だから、中国の科挙みたいに、試験に受からないまま受験生歴20年や30年、というような人が実際にもいた。しかし、あくまで私の個人的な考えですが、5年も10年もやってダメな人は、20ないし30年やってもダメなように思います。そういう人は、どこかでやり方を間違っているので、それは年数をかけて解決できるものでもない。でも、いったん受験を始めてしまった人は、途中でやめると言い出せなくて、何年も受験を続けることになる。何年も努力してきたことを自分の意思であきらめるというのは、自分自身でも認めたくないだろうし、周囲に対しても恥ずかしい。それで仕方なく、あきらめる理由がなくて続けてしまう。3回以内、5年以内といった制限をつけてあげれば、受験する側もあきらめがつくのです。自分はホントならもっとがんばれたけど、制度上は仕方ないのだと。受験回数の制限にも賛否両論あると思いますが、私はこういう次第で、あきらめのつかない人に対して国家が強権的にあきらめがつくようにしてあげるという点で、意味のある改革ではあると思います。
2007/07/22
司法試験が一発試験でなくなったせいで、かつての私がそうであったように「一念発起型」の受験ができにくくなったことについて、もう少し書きます。この制度改革によって、例えば、経済的に裕福でない家庭の子供が働きながら夜学に通って苦学して司法試験に受かる、というようなパターン(NHKの「生活笑百科」の解説をしていた三瀬顕弁護士がたしかこれだった)もやりにくくなる。法科大学院に通うのにもまたお金がかかるわけですし。なぜこういう制度になったか。制度改革を中心になって推進した一人である、憲法学者の佐藤幸治教授などはこう言います。この人、司法試験受験生なら誰でも知っている教授です。一昔前の司法試験受験生は、ほぼ皆この人の書いた憲法の教科書を読んでいた。私も、600ページを越えるこの人の教科書を暗記するくらい(と言うと誇張ですけど)読み込みました。この佐藤教授は、私がかつて勤務弁護士として勤めていた事務所の所長(上坂明弁護士)と、とある審議会で席を並べていた時期があって面識があるらしく、そのため、この教授が著書を出すたびに、うちの所長あてに一筆箋つきでその本が送られてきていました。私は勤務弁護士時代、「へー、あの佐藤幸治が」と思いながら、所長室の本棚に並んだそれらの本を手にして読んだものです。と、私ごとに話がそれましたが、その佐藤教授がそれらの著書の中でこう言っていました。何の本かは忘れましたので記憶で書いているのですが(詰めが甘くてすみません)、「法科大学院制度に反対する人に対しては、人の人生に関わるような仕事をする法曹を採用する試験が『一発試験』でいいのですかと問いたい」と。医師国家試験などは、それを受けるまでに医学部で長年教育されることを引き合いに出して、充実した法曹教育の重要性を説いておられます。しかし…。一発試験はダメだから制度を変えるというのは、かなりの飛躍であるように思うのです。国家に関わる仕事をするキャリア官僚を採用する国家1種試験は一発試験なわけですから。それに、司法試験自体は一発試験でも、その後、司法研修所でそこそこしっかり勉強をやらされて、研修所を出るにも卒業試験があるので、法曹になるまでの過程は決して一発試験ではない。しかも、一発試験は望ましくないということを当然の前提のようにおっしゃるわけですが、一発試験だと優秀な法曹が育たないといった事実は実際に検証されたわけではない。普段は常々、人権を制約するような法律や制度に対しては、そのような制度が必要とされるような事実(「立法事実」のことです)があるかどうかを厳密に検証しないといけない、と言ってる憲法学者が、こと司法試験制度改革については、その検証を全く抜きにして制度を変えてしまった、それが私の印象です。たぶんもう少し続く。
2007/07/19
司法試験の制度改革について書こうとしています。前回書いたとおり、これまでの司法試験は、いわゆる「一発試験」でした。一発といっても、択一式(5月)、論文式(7月)、口述式(10月)というふうに行われるのですが、とにかくこのすべてに1回でパスすれば、司法修習生になって、法曹となる資格を得ることができます。今後は、法科大学院(アメリカのロースクールに倣ったもの)に2~3年通い、それを卒業してようやく司法試験の受験資格が得られます。これまでは、受けようと思えば基本的に誰でも受けられる試験だったのが、これからは、試験を受ける資格を得るために大学院に入らないといけない。その大学院にももちろん入試があります。大学院を出たあとの司法試験も、もちろん受かる保証はなくて、卒業後5年以内に3回に限り受験できる。それで受からなければ受験資格が失われる。制度改正当初は、大学院さえ出れば8割は受かるようにする、とか言われていました。大学院で時間をかけてじっくり教育を受けて、その代わりに試験自体は受かりやすいものにして、時に中国の「科挙」にもなぞらえられたほどの司法試験の苛烈さを和らげようというのが狙いでした。ところが実際は、ふたを開けてみると合格者は大学院出身者の4~5割程度にとどまっています。私自身は、前回も書いたように、大学卒業後、司法書士の資格を取って司法書士事務所に勤めていましたが、やっぱり弁護士になりたいと一念発起して司法試験の勉強を始めました。24歳のころのことです。でもこのとき、今の制度みたいに、司法試験を受けるにも大学院に2~3年行かないといけなかったとしたら、そういった方針転換をしたかは疑問です。私が司法試験予備校での講師の仕事を始めた平成14年のころは、受講生にも30歳前後の方や、またはそれ以上の年齢の人など、「一念発起型」と思われる人がチラホラとおられました。最近のクラスは若い方が多いです。もちろん、若い人が早い段階から進路を見定めて、司法試験を目指して勉強することはよいことです。でもその一方で、大学を出てある程度の経験をした人が、一念発起して法曹を目指すには、あまりにも面倒な制度になってしまったということです。制度が変わってしまったので、今さらこれを論じてもどうなるものでもないかも知れませんが、もう少しだけ続くと思います。この話。
2007/07/18
連休いかがお過ごしでしたでしょうか。大阪では、えらく大きな台風が来る、と身構えていたら、あまり大したものがこなくて、安心して連休最後の昨日に遊びに出たら夕立で大雨が来てやられた、といった方も多かったのでは。とは言っても幸い、大阪では大きな被害はなかったようです。台風や地震で被害を受けた地方の方にはお見舞い申し上げます。さて、先週の土日といえば、司法試験の論文試験が行われた日でした。司法試験受験生の最も暑い日だったかと。試験制度が改革されて、今後はロースクール(法科大学院)を卒業して初めて司法試験が受けられるという制度になります。この土日に行われたのは旧制度の試験で、この制度ももうすぐなくなるので、まさに駆け込みできるかどうかの瀬戸際です。私自身ももちろん過去にこの試験を受験しています。司法書士事務所に勤務していましたが、一念発起して弁護士になろうと決意して、勉強を始めて、平成10年の試験に合格しました。その後、毎年この時期には、「今年も受験生は大変だなあ」と他人事のように思っていたのですが、今年は、私が講義をしている司法試験予備校から、論文試験に出題された問題の参考答案と解説を書いてくれ、と依頼がありました。私なんかでいいのかなと思いつつ、6教科のうち2教科を担当することになってしまい、そのためこの連休は、たまっている残務を片付けるのと、司法試験の参考答案を書くために費やす羽目になりました。そんな私ごとはともかく、試験制度改革によって、今後かつての私のように、一念発起して一発試験に受かれば人生が変わる、みたいな話はなくなっていくわけでしょう。さて、このような試験制度改革の良し悪しと、それが今後の司法制度にどう影響を与えていくのか、私なりの浅い経験に基づく見解について、次回にでも書いてみたいと思います。
2007/07/17
全国の役所のトイレなどに封に入った1万円が置かれているという、ミステリアスで興味をひくけど、どうでもいいと言えばどうでもいいような事件が続いております。同封された書面には、いろいろ説教を垂れたあげくに、「修業の糧にお使いください」と書かれてあるらしい。最近よく引き合いに出す「ありがとう浜村淳です」で、今朝浜村氏が、この場合は「修行」と書くべきで、「修業」は間違いでしょう、と言ってました。浜村氏の補足をすると(そんな義理はありませんが)、「修行」とは、学問、宗教、武道など、一つの道を究めるべく努力することで、「修業」は、もっと一般的に、何らかの技術などを習って身につけることをいいます。この場合、手紙では、善行に励みなさいなどと「人の道」を説いているわけですから、「修行」を使うべきなのでしょう。そんな話はともかく、ここでは法的考察をしてみます。この封筒を、見つけた人が喜んで自分のポケットに入れてしまったらどうなるか。ある弁護士がテレビで、「役所に置いた時点でその封筒は役所が管理しているものとなる」といったことを言っていました。そう解すると、この行為は役所の占有の下にあるお金を取ったものとして、窃盗罪になる(刑法235条、10年以下の懲役)。しかし、役所といっても、トイレとか、住民票を出してもらうときに待っているベンチとかは、一般の人も出入りする、いわば「道ばた」と同じと考えることもできる。そうするとそこに置かれたお金は、道に落ちているのと同様、誰が管理しているものでもない。そう解すると、そのお金を取ることは占有離脱物横領罪になる(刑法254条、1年以下の懲役)。占有離脱物横領は、もとの所有者が亡くしたものを拾って奪う罪ですが、このケースでは、封書を書いた人は、中の1万円を「あげる」と言っているわけです。だからこれは民法上の贈与契約が成立しただけであって(奪ったわけではない)、罪にならないと考える余地も出てきます。一方、この封書を書いた人は何らかの違法行為に該当するか。何だか、「愉快犯」のような感じを受けなくもないのですが。たとえば爆弾や危険物を持って役所に入ると、建造物侵入罪(刑法130条、3年以下の懲役)が成立すると思いますが、お金の入った封書を持って役所に入るのは、愉快犯が目的でも微妙でしょう。(この辺は、住居侵入・建造物侵入の成立範囲についての住居権説と平穏説のどちらをとるかにも関わると思えますので、刑法を勉強している人は考えてみてください)何にしてもよくわからない事件です。ちなみに私がこの封書を見つけたらどうするかというと…きっとそのままもらうだろうなと思います。上記の理屈で無罪、ということで。
2007/07/13
参院選挙が本日公示。これから選挙戦です。いつごろからか、マニフェストなんていう言葉がはやってますが、各党の「マニフェスト」の要約・比較が今日の各紙に載っています。私は日経記事を見てこれを書いていますが、興味を持ったのは、自民党の公約の中に、「クールビズの定着とサマータイムの導入を検討」とあった点です。クールビズは自民党の公約だったのか。だから安倍総理はいつもネクタイをしていないのか。自民党のポスターにも、ジャケットとネクタイなしで写っているのか。私自身は年中、スーツとネクタイです。夏は当然暑いですが、スーツ姿ならたいていの状況に対応できて安心なのです。服装なんてものは個人の判断ですべきことであって、政党の公約としてクールビズ定着と言われると、大きなお世話だ、という気持ちもあります。(当事務所、夏でも冷房は弱めにするなど、いちおう「エコ」には気を使っているつもりです)それと、サマータイムの導入を検討とのこと。夏は時間を1時間早めて、明るいうちに仕事をやって明るいうちに帰ろう、というやつです。余暇が増えて、会社も早く終了するから省エネになるとか言われていますが、いかがなもんでしょう。終業時間が早く終わったら、多くの会社で、残業時間が1時間増えるだけの話でしょう。私は今、個人事業主ですから、始業・終業時間という概念はありませんが、1時間早く帰れと言われても、その1時間で片付けたい仕事はたくさんあるから、帰りたくない。それに、明るいうちに帰って余暇を楽しみなさいと言われても、私としては、1日仕事をして夕方以降のだんだん暗くなってくる時間帯が一番好きなのです。南堀江(事務所所在地)の風景が暮色に染まるのを横目に見ながら、夜までしっかりがんばるぞと気合を入れ直したり、また早く片付きそうな日なら、暗くなったらどこかで1杯飲んで帰ろうと思いめぐらせたりする。今これを書いているのは夜の7時すぎでして、もう一仕事残ってるけど一息ついてブログでもいじってみよう、なんていうひと時も好きなんです。だから明るいうちに帰れなんていうのも大きなお世話です。自民党の公約には他にもいろいろありまして、ちゃんと読んでませんがそれなりにいいことも言ってるみたいなので、ここだけ取り上げて批判するのも失当かも知れませんが、各人のライフスタイルに関わることまで公約に掲げるのはいかがなものか、と思いました。
2007/07/12
サンテレビの番組に当事務所を取材していただきました。本日、収録があって、事務所の様子などを撮影してもらったり、インタビュアーのお姉さんにいろいろご質問いただいて、拙いトークをしてしまいました。当事務所のメンバーが総出演(と言っても全3名)の予定です。オンエアは7月24日(火)朝8時、同31日(火)朝8時、「ファンキーチューズデイ」という番組で、2回に渡り、5分程度紹介いただけるのだそうです。こないだこの番組を見てみましたが、サンテレビならではの独特のノリと味わいのある番組ではないかと思います。先日書いたように朝8時といえばラジオで「ありがとう浜村淳」を聞いているのですが、火曜日はこちらを見るようにします。サンテレビといえば、高校生のころ、私が習っていたとある拳法の流派の全国大会があって、それがこの局で番組として流れたことがありました。私は「型」の部の決勝に出ることができたおかげで番組の中で演武の様子が流れました。それももう20年近く前の話です。約20年ぶりにまた出ることになるとは、サンテレビとは縁があるのかも知れません。サンテレビが映るのは関西、中でも兵庫県だろうと思います。大阪市内の私の自宅では不鮮明にしか映りません。当ブログ読者の方々の多くは視聴できないのではないかと思います。でも視聴できる方は、もしご興味おありでしたら、忘れていなければ、ご覧になってください。私も当日のオンエアを不鮮明な画像で見てみたいと思います。
2007/07/11
朝の出勤時間はよくラジオで「ありがとう浜村淳です」を聞いているのですが、今朝この番組で午前8時の番組冒頭で一番に取り上げられたのは、毎日朝刊の記事で、衛星放送のアダルト番組の手話に対して助成金が出ている、という話でした。細かい法的根拠についてはとばしますが、テレビ番組の放送に際し、手話放送をつけている場合は、政府出資の外郭団体みたいなところから、費用の一部が援助金として出るんだそうです。ニュース番組でたまに、画面の隅っこの輪の中で手話をやってる人が映っているのがありますよね、あれでしょう。手話をやる人に払うギャラとか、費用もかかることでしょうから。で、冒頭のアダルト番組なのですが、「裸のニュースステーション」という番組で、女性キャスターが裸でニュース原稿を読み上げるというものなんだそうです。ニュース内容も、「お色気」的な事件やネタが多いそうです。私は見たことありません。ウチは衛星放送が映らないんで。今朝のラジオでは浜村氏が「ニュースを1件読み終わるごとに服を1枚脱いでいって、最後に全裸になる」と、より詳細に解説していました。朝イチから思い切ったニュースを選択したものだなあと思いつつ聞いていました。他愛ないニュースと見るか、問題だと感じるか、考え方はそれぞれでしょう。そんな番組に助成金を出すとはカネの使い方を誤っている、と疑問視する向きもあるでしょう。毎日の記事にも、そういうニュアンスの障害者団体の方のコメントが掲載されていました。ちなみに浜村淳氏がどうコメントするかと思って聴いていると、この毎日記事の内容を面白おかしく語りながら、最後に(助成金支払いは)「見当違いかな」とおっしゃっていました。私は個人的には「あり」だと思っています。聴覚障害者がこの番組を見る際に手話が役立っていることは明らかです。お色気や裸をネタにした低俗な番組に政府が資金援助している団体がカネを出すべきでない、という考え方をとると、手話番組に援助金を出すにあたって低俗かどうかを審査する必要が生じる。審査をパスするために迎合的な内容になったりとか、審査でハネられるくらいならわざわざ費用をかけて手話をするのはやめよう、ということになりかねない。そうなれば、番組内容の当否はともかくとして、聴覚障害者がテレビを楽しむ機会を奪うわけでして、そのことのほうが問題にも思える。助成金は与えておいて、あとは観る者の判断に任せればよいというのが、私の感じたところです。皆さんはいかがでしょう。
2007/07/09
今朝の日経記事。今日は「社会」や「政治」でなく「消費」のページからです。自宅でシャンパンを飲む人が増え、売り上げが伸びているとか。景気回復による所得増で「手の届くぜいたく品」になったと。5000円から、1万円前後のものも売れているらしい。言われてみれば、最近、お酒売場でもシャンパンをよく見かけるようになったと思えるし、バーなどでもシャンパンを出す店が増えているように思える。話かわって、土曜の日経新聞の別冊についてる「プラス1」。こっちによると、「高級栄養ドリンク」の売り上げが伸びていると。1000円から5000円のものが売れ出しているらしい。こういう記事を同じ日に見ると、そろそろ、景気もよくなってきたのかな、とも思います。私自身、栄養ドリンクは、コンビニでたまに200円前後の栄養ドリンクは買うけど、5000円は出さないと思う。でも、効くのなら5000円出しても欲しい、と思うくらいに仕事で忙しい人がいて、そういう人が栄養ドリンクを飲んでばりばり仕事をして、そしてそ成果としてより多くの収入を得ているのだとしたら、これはまさに経済の「拡大再生産」です(用語の使い方を間違ってるかも知れませんが)。家で飲むお酒だって、瓶ビール1本とか、カップ酒(これはこれでおいしいのですが)1個だけではなくて、たまにはシャンパンでも開けてゆっくり飲もう、で、明日への活力を養おう、ということなのでしょう。人々が酒と栄養ドリンクを求める社会は、きっと忙しい社会であると思います。その忙しさが今後の経済発展に結びつくか、行く末を注目したいところです。
2007/07/07
昨日の日経朝刊によると、「民事裁判に満足」したのは24%と。とある研究会が、全国の裁判所で裁判の当事者約1000人にアンケートを取った結果だそうです。前回の調査では満足との回答は19%だったので、少しは増えている。一方、「不満」との結果は37%で、前回の50%から下がっている。改善しているとはいえ、不満のほうが数字が大きい。ある程度はやむをえないでしょう。裁判になるほど紛争がこじれてしまっているわけでして、そして多くの紛争は「どっちもどっち」の部分があるわけでして、完全に自分の満足のいく解決を得ることは、元々困難です。裁判に過大な期待が寄せられている場合もあるでしょう。たとえば、離婚することは認められたけど、慰謝料は意外に少ししか認められなかった、とか、そういう場合も「満足」は得られない。カネを返せという裁判では勝ったけど、相手に取り立てるほどの財産がないので、何も取れないといった場合も多い。この場合、判決文は紙切れでしかない。さて一般論はともかくとして、私のところへ来てくださる依頼者はどうだろうと考えてみます。交渉や裁判の結果、所期の目的を達成して喜んでもらえる場合が、主観的にはそこそこあるような気がしていますが、それはおそらく、そういう場合が記憶に残りやすいからそう思えているだけのような気もしています。暇があれば、一度統計をとってみようかと思います。一方、裁判の結果が思わしくなかった場合はどうか。「これが司法の判断です」と言って逃げるのが弁護士の常套手段……といいますか、実際そうとしか言いようがないのですが、それでも、満足したような表情を浮かべる方もいます。法廷で自分の主張を述べ、そしてお上(この場合は裁判所)が判断を下したということで、どんな結論であれ、それに納得して帰る方も多いです。もちろんそれはうわべだけで、心の中では「使えない弁護士だ」と思っておられるかも知れません。かくて顧客満足ということについては、これからも真摯に考えていかなければ、と思っています。ただ、冒頭の調査結果に戻りますが、裁判になるほどの紛争を抱えて、その結果24%、つまり4人に1人が「満足」な結果を得ているというのだから、数字は決して悪くはないとは思うのですが、これは弁護士的な考え方でしょうか。
2007/07/05
久間防衛相が「アメリカによる原爆投下はしょうがない」と発言したことで辞任。個人的心情として、原爆を落とされたのはしょうがないことなんだ、と割り切りをつけるのは自由です。原爆が落とされた最大の原因はアメリカ側にあるのか、日本側にあるのかについても、それぞれの考え方があると思う。しかし、(少なくとも建前上は)恒久平和を願う憲法を持つ国の大臣が、過去のこととはいえ原爆の使用を容認するような発言をすることは、憲法遵守義務に反するように思われるし、また、そういう建前以外にも、防衛省の大臣がそのような発言をすることで、今後の外交上につけいるスキを与えることになる。(もちろん、原爆による被害者やその親族の心情を逆なでする点も問題だけど、大臣としての発言である以上、上記の政治的影響のほうがより深刻であると考えます)私個人としては、政治家の失言には寛容といいますか、面白がっている部分もあります。たとえば、「しょうがない」に似ている点では、昭和20年代半ばの池田蔵相(のち総理)の、「中小企業が倒産してもやむをえない」という発言。もろにそう言ったのではなくて、戦後の財政引締めによる不況で「中小企業が苦しんでいるのをどう考えているか」と聞かれて「安定した復興を果たすという政策の前では、過剰な投資を行った者が倒産するのもやむをえない」といった趣旨のことを答えたのですが、これで池田蔵相は不信任決議を受けて辞任した。当時の経済状況は実感としてわかりませんが、私個人としては確かに「やむをえない」と思える。そうしないと物すごいインフレが起こっていたでしょう。ひるがえって上記の久間氏の発言は、いま言わなくていいことを、そして言って誰も何も得をしないことを、どうしてわざわざ言ったのか。その後の久間氏の弁明(テレビを横目に見ているときにチラッと聞いただけなのでうろ覚えですが)、「私は九州出身だから、何でもよく『しょうがない』と言ってしまう」とこれまた奇妙なことを言っていました。「昭和のいるこいる」の漫才じゃあるまいし何を、と茶化したくなる気も失せてしまうような失言と弁明です。かくて久間防衛相の辞任は「しょうがない」というか当然です。
2007/07/04
今朝、当ブログの管理用ページを見ると、ブログ開設からの日数が「365日」とありました。ちょうど1年です。昨年の今日、当ブログを開設したわけです。いつか書きましたが、もともと当ブログは、私が知人にお誘いをいただいて加入したビジネス関係のSNS(と言ってわからなければ、仕事つながりの仲間との相互交流のためのサイト、とでも思ってください)があって、そこで活動報告をブログで相互に公開しましょうと推奨されたことがきっかけでした。もともと事務所のホームページに、日々の事件に対する感想や雑感を書いていたので、それをブログ形式にしようと思って立ち上げたのが1年前。その後、昨年10月に事務所を移転して「湊町法律事務所」から「南堀江法律事務所」に事務所名称を変え、ブログのタイトルも変えましたが(URLに「minatomachilaw」とあるのは旧事務所名称の名残です)、ブログそのものは存続させました。駄文を書くのは嫌いではないし、日々思いついたことを書いている間に、けっこうな頻度で書き込んでしまっていました。当初は、上記のSNSの仲間たちや、その他の知人たちが見ている程度で、1日あたりの閲覧者数は30~50人くらいだったと思います。それが今は100数十人から多いときで500人前後になりました。無名の一弁護士が書いてるだけで、コメントや掲示板機能もつけていないのに、この数はかなりのものではないかと思います。自分で書いておきながら、いったい誰が見ているのだろうと思って緊張してしまいます。とは言いつつ、今後も変わらず駄文を書き連ねていきたいと思っておりますので、もし当ブログを、常にとは言わないまでもたまに見てくださっている方がおられましたら、これからの2年目もよろしくお願いします。
2007/07/03
宮澤喜一元総理が死去。昔から何となく、個人的には好きな政治家でした。政治家に多いギラギラした部分がなく、どこか斜に構えてて終始クールな様子が、世の中に対してひねくれていて弁護士にでもなるしかなかった私と似ているような、そんな親近感を勝手に持っていました。この人が総理大臣になったのは平成3年。私が大学の2回生のときです。そろそろ、政治や経済に興味を持たないといけないなあと思いつつ、テレビの評論家が言ってることの受け売りをしながら、大学の友人たちと日本の政治を語りだした時期でした。竹下総理のころに「リクルート疑惑」が発覚、「政治とカネ」の問題が大きく取り上げられました。続く宇野総理は、愛人問題で3か月程度で失脚。その後、若さと「政治改革」を掲げて登場した海部総理は、花さか爺さんやカウボーイのコスプレ(ブッシュ大統領との会談のときでしたか)をして、ビジュアル的に楽しませてもらえたけど何が政治改革? という疑問を残しました。そして遂に登場した宮澤総理。池田蔵相(後に総理)の秘書として若いころから注目され、「保守本流」の政治家として、自民党池田派(宏池会)を引き継ぐ。東大法学部から大蔵省というエリートコースから政治家、頭はいいし英語はペラペラだし、この人が総理になったら日本も変わるぞ、今度こそ本当の政治改革だ、と学生時代の私は期待しました。しかし宮澤政権下で内閣不信任案が可決。内閣不信任案に当の自民党議員がどんどん賛成票を入れるのを、涙目で見ていた宮澤総理のテレビ映像が、今も印象に残っています。衆院解散・総選挙をしたら自民党は大敗して、自民党が政権から陥落して日本新党などの野党連立政権が生まれることとなった。そのきっかけが、宮澤総理が「政治改革をやるんです」と言いながら何もしなかったことで、上記の解散は「嘘つき解散」とも言われた。かくて平成5年、細川総理が登場し、今度こそ政治改革だ、と思っていたら、よく分からないうちに辞めてしまった。あのころ「政治改革」を大学の友人と話していた私、実は政治のどこを改める必要があって、何をもって政治改革というのか、よくわからないままに議論していました。細川政権の下で成立した政治改革法案って、たしか衆議院に比例代表制選挙を導入するってものでしたか。そうすることで何が改革になるのか、よく分からなかったし、今もわかっていません。宮澤総理の著書「護憲宣言」の中で、うろ覚えですが私はあんまり強いリーダーシップは発揮したくない、そういうのは危険なことだと思う、と、あくまで淡々と語っていた、そんなリーダーのあり方もあるのだな、と印象づけられた存在でした。過去の記憶の羅列になってしまいましたが、政治改革なんてよく分からないけど、あのころの政治はテレビで見ていて面白かったなあと、ただそれだけが言いたかったのです。
2007/06/29
今朝の毎日から。アメリカでの話です。ニューヨークの路上で「物ごい」をした男が逮捕されたと。ニューヨーク州法は物ごいを禁じており、この男は路上で通行人に「1ドルくれ」と言って逮捕されたらしい。その男とその弁護士は、物ごいの禁止は憲法が保障する表現の自由を制限するものだ、と反論しているとか。日本にも、似たような法律はあります。以前にも当ブログで紹介しましたが、軽犯罪法1条22号は「こじきをし、又はこじきをさせた者」に拘留(30日未満)または科料(1万円未満)を科するとしている。これらの法律が「表現の自由」を侵害するかどうかは、これまで考えたことがなかったです。「表現」といえば自分の持つ思想や情報を他者に伝えることであって、「お金をくれ」と人に頼む物ごい行為は、表現とはちょっと違うような気がする。具体的な経済効果の獲得を狙って行われているから、経済活動にあたるのでは。憲法の勉強をしている方なら、ここで「二重の基準」の話を思い出すことでしょう。表現の自由のような精神的活動については、それを規制する法律は厳しくその合理性を審査されなければならないが、経済活動を規制する法律はある程度ゆるやかにその合理性を認めてよい、という考え方です。つまり、表現の自由だといえば法律の規制を受ける余地が少なくなるけど、経済活動だというと規制の余地が多くなる。表現の自由をタテにするほうが有利なわけです。日本では、上記の軽犯罪法が表現の自由を制約するかどうかという議論は聞いたことがないです。大阪の条例で繁華街での「客引き」行為が規制されることとなったときも、「表現の自由」の侵害だという議論は聞かなかった。やはりどちらかというとこれらは経済活動なのかな、と思います。いずれにせよ、ささいな物ごいでも逮捕できるという冒頭のニューヨーク州法は、その運用の実態として、「覚せい剤使用者」を検挙するのに利用されているとか。つまり、物ごいの現行犯で逮捕しておいて、「そう言えばオマエ覚せい剤もやってるやろ」と尿検査をして覚せい剤が検出されればそれでまた逮捕する、いわば「別件逮捕」みたいな利用がされているのも問題だ、と冒頭の弁護士は指摘しています。日本ではそのあたりの運用の実態はどうなっているかという話は、また機会があれば(つまり考えがまとまれば)書きます。
2007/06/28
このところ各紙で話題の、某社の「牛肉ミンチ偽装」事件。毎日のように、この会社がどんな偽装をしていたかということが報道されていますね。牛肉コロッケと称しつつ豚や鳥のひき肉を使っていたとか。もちろん、品質表示においてウソを言っていたわけですから、報道にあるように不正競争防止法違反(商品に関して虚偽の表示をした)とか、民法・刑法上の詐欺(安い素材を高い値段で売りつけた)の問題が生じる可能性がある。ただ、これは私の個人的感想であり、弁護士ということを離れて私自身が「あまのじゃく」で「判官びいき」な思考を持ってるから思うだけなのですが、そんなに騒ぎ立てるほどのことかな、とも思うのが正直なところです。牛肉コロッケに豚が入っていた、と言われても、私なら、ふうん、と思うだけです。昨日の日経夕刊の記事を興味深く読んだのですが、それによりますと、「牛ひき肉」に「焼き豚端材」を混入していたとのこと。でも、焼き豚の端っこの部分って結構おいしいですよ。下手な牛ひき肉よりは。「シカ肉ジャーキーに羊肉を使用」していたらしいですが、これなんてどっちが高いのかわかりません。なんとなく鹿より羊のほうが高級素材な気がしなくもない。違法か否かを別にすれば、私個人にはどっちでもいいような話で、私は別に気にしないと思います。某隣国の輸出品みたいに有毒な物質が入っているわけではないので。それから、これまでの弁護士としてのごく浅い経験からして、およそ人と人の紛争において、片方だけが一方的に悪いというケースなんてほとんどないし、また、ある会社で何か一つの不祥事や違法行為が露呈したとき、違法行為をしているのはその会社だけで、あとの会社には全く違法行為はない、なんてこともほとんどないと思える。だからこのたびの牛肉表示偽装問題において、自社にも影響が及ぶのではと恐々としているところは多いでしょう。もっとも、違法は違法ということで、当局においてしかるべく処分をされればよいと思います。気になるのは、この会社がここまで叩かれたことで、従業員全員を解雇する事態になったということです。清算(つまり廃業)するか否かは、昨日から今朝にかけての報道ではハッキリしていないようですが。社長は自業自得として、それを知らずに、またはそれに従わざるをえない立場で業務に従事していた従業員の方々には、同情を禁じえません。
2007/06/27
先週末の記事。司法試験の出題に「リーク」があったと。今年5月に行われた司法試験で、慶応大学の法科大学院に教授として勤める司法試験委員が、直前のゼミで本番の問題に出た論点を指導したり、その論点に絡むような書籍を紹介していたらしい。この司法試験は、近年の司法改革の一環として行われることとなった「新」方式の試験です。今、司法試験を受けようと思ったら、法科大学院(ロースクール)に2年か3年通わないといけない。その卒業後、5年のうちに3回だけ、受験する機会が与えられる。司法試験の試験委員には、法学者や実務家(裁判官・検察官・弁護士)から選ばれますが、中には、司法試験の試験委員と、法科大学院の教授・講師の両方を勤める人もいる。冒頭の「リーク」が疑われている教授がまさにそうです。こういう立場の人は、本番にどんな問題が出るかが事前にわかる。もちろんこういう状況は、私たちの世代が受けた「旧」司法試験でもありえました。大学の法学部の教授が、司法試験委員をやっていることも普通のことでした。でも、聞く限りにおいては、問題の漏洩はなかった。法学部の教授はある意味「超然」としていて、「司法試験の勉強? 勝手にやっときなさい」という感じなのでしょう。私のいた筑波大学の法学専攻でも、司法試験委員を務めるような教授もおられましたが(憲法の戸波教授や民事訴訟法の春日教授)、これといって司法試験のための指導をしていたという話も聞いたことがない。しかし、法科大学院時代になって、教える側の意識は変わってくるのだと思う。大学の法学部は、あくまで「法学教育の場」だけど、法科大学院は「司法試験に受かるための勉強をする場」です。「法曹としての素養を身に着ける場」だとタテマエでは言ってますが、実際には司法試験に何人が受かったかがその法科大学院の評価対象になる(「法曹としての素養」なんて計れるものでないし、実際に検証しようと思えば何十年も先のことになる)。だから合格者数が法科大学院の序列に直結するし、合格者がいないと法科大学院としての認可が取り消されるかも知れない。このことは特に私学において重大問題です。そこで、教える側に、問題をリークしてでも我が大学からの合格者数を押し上げねば、という意識が働くのかも知れません。上記はあくまで私の想像ですが、新制度開始から2年目において早くもこんな問題が出てくるとは、法科大学院制度の今後にちょっとした懸念を感じなくもないです。
2007/06/25
今朝の各紙から。大阪国税局の職員が、大阪・北新地の高級クラブで格安料金での待遇を受けていた問題で、職員らに対し、最高で停職3か月、それ以外にも減給や戒告の処分をしたと。どんな待遇を受けていたかというと、1回いくとだいたい3万円のところを、5000円から1万円にしてもらっていたとか。3万円か。まさにクラブって感じの料金です。私が行くとしたら、せいぜい1万円のラウンジかスナックですね。それから、その中心となった40代の職員は、クラブのママと一緒に鉄板焼きの店に連れていってもらって、4回で計5万円分ほどごちそうになったらしい。1回あたり1万円強の食事か。北新地なら普通でしょうか。でも私が北新地で食事するとしたら立ち飲みのヤキトリ屋なんかで2000円くらいです。タクシーチケットをもらったことがあるらしい。自己責任で夜遅くまで飲んだのだから、自分のお金でタクシーに乗ればいいのに。ホステスさんからネクタイをプレゼントされたこともあるらしい。あ、これは私にもある…。国税局側は、これらのせいで税務調査に手ごころを加えた事実はないとしているようですが、全くもって、恥ずべきことです。何がって、こういう夜の世界では、金は気前よく使ってこそ値打ちがあるんです。バーやクラブは「見栄を張る」ところでもあります。公僕として云々、というのはもうこの際どうでもよくて、安くしてくれるから通うという彼らの性根が、たいへん恥ずかしく感じます。クラブ側も、どういう意図でこんなことをしていたかは知りません。クラブのやったことは「贈賄」にあたる可能性もありうるのでしょうけど(特に立件はされないみたい)、「接待」との線引きはなかなか難しいかも知れません。私自身も上記のとおりネクタイくらいならもらったことはありますし(私は公務員じゃないからいいんです)。でも料金のあからさまな値引きはおかしい。店にとってはお金を落としていく客がいい客のはずで、クラブに座って5000円や1万円程度しか落とさない客は普通に考えていい客ではありえない。そんな客を度々歓待していたとなれば、「他の何か」(つまり手ごころ)を求めていたのだと勘ぐられても仕方ないように思えるのです。何だか取りとめなくなってきましたが、やっかみ半分だと思って聞き流してください。
2007/06/23
20日発売の転職雑誌「premier Be-ing」(プレミアビーイング)に掲載していただきました。「35歳までに難度の高い夢を実現した人」の特集なのだそうです。写真をアップしようと思ったのですが、ちょっと面倒なので後日ヒマなときにやります。私はもうすぐ36歳。たしかに昨年秋、35歳のときに、今の自分の事務所を作る、という目標を実現しました。「難度が高い」かというと、考え方は人それぞれだと思いますが(たとえば芥川賞を取るとか、オリンピックの金メダルを取るとか、俳優として映画デビューを果たすとかのほうがもっと難度は高いのでしょう)。さて、南堀江に移ってきてから、初の夏を迎えようとしています。私のデスクは窓際にあって、東向きの大きな窓なので朝は暑いです。そこでこの度ブラインドをつけることになりました。これまでなかったのです。来客用の相談室にも、ちょっとシックな色合いのブラインドをつけることにしたので、今よりもいい感じになるだろうなと、来週の取り付け工事を楽しみにしています。今回は何だか手抜き調の内容になってしまいすみません。おかげ様で今週は適度に忙しく業務させていただきました。依頼者の方はこれを見ていないでしょうけど、多数のご来所・ご依頼に感謝申し上げます。
2007/06/22
今日の朝刊より。消費者金融(サラ金)の業界団体が、様々な自主規制案を取りまとめて金融庁に報告したとありました。「ゴールデンタイムにはテレビCMを流さない」とかいった内容ですが、個人的に興味を持ったのは、「パチンコ店や公営ギャンブル施設の近くに無人契約機を置かない」というものでした。これを読んで私が思い出した光景があります。私の事務所は、昨年秋、湊町から今の南堀江に場所を移転しました。それに先がけて昨年の夏ころ、移転先の物件を探して、仲介業者の案内で難波かいわいのビルをいくつか見て回りました。その中で、外観を見た瞬間に「あ、このビルはダメだな」と思ったのがありました。ビルのほとんどのフロアがサラ金で占められていて、その看板がビルのそでに取り付けられている。サラ金業の方には悪いですけど、やはりあまり雰囲気のよくないビルです。でも、仲介業者への気兼ねもあって「ここは結構です」とも言えず、いちおう中を見ることにしました。ビルの管理人さんが部屋の鍵を開けに来てくれるまでの間、ビルの入り口で待っていました。このビルは難波の中心部に立地し、向かいにパチンコ屋があり、賑やかな音楽が漏れ聞こえていました。ほどなくして、そのパチンコ屋から暗い顔をした男性が出てきて、このビルに入ってきてエレベーターに乗っていきました。しばらく待っているうちに、何人かが同じようにこのビルに入って行きました。そしてそれらの人はほどなく、エレベーターで降りてきて、再びパチンコ屋へ吸い込まれていきました。「サラ金で借りた金でパチンコしてるのか!」サラ金もパチンコ屋も利用したことがない私には、そこまでしてパチンコするかと、ちょっと驚きでした。もしこのビルで法律事務所を開いたとしたら、向かいのパチンコでスッた客はこのビルのサラ金でお金を借りてまたパチンコに励む、それで借金がかさんだ場合は、このビルに戻ってきて今度はうちのフロアに来てもらえれば、債務整理ができる…。顧客拡大になって利用者にも便利だなあ、と悪い冗談が一瞬思い浮かびました。サラ金とパチンコ屋は、こういうセットで業績を伸ばしていたわけです。少し前に新聞で流し読みした記憶がありますが、サラ金の金利規制で融資審査が厳しくなったことで、パチンコ屋の売上げが下がっているという記事もありました。もちろん、サラ金もパチンコ屋も、利用するのは自己責任ですが、相当多くの人が、このセットで借金を膨らませて債務超過に陥っていたのだろうと想像します。うちにも債務整理の依頼はコンスタントにきますが、やっててあまり面白いものでもないので、自主規制はぜひどうぞとお願いしたいところです。
2007/06/20
昨日の続き。日弁連が、弁護士評価制度を導入しようとしていることについて。弁護士の仕事の評価には難しいところもある、特に信頼関係を基礎とする仕事であるから即座には評価しにくいのでは、ということを書きました。でも私は、評価制度を導入することは、望ましいことだと思っています。昨日、例えに出した小料理屋やバーでも、評価は難しいところはあるけど、飲食店の口コミ評価サイトはすでに成立している。その情報のすべてが信頼できるわけではないけど、ある程度は信頼してよいと思われる。日弁連がどういう方法で評価の調査結果を開示するのかは知りませんが、評価方法の難しさはあれ、弁護士に関する口コミも、もっと大っぴらにやってもらっていいと思う。そしてそうなったとき、打撃を受けるのは、ベテラン弁護士ではないかと思います。弁護士評価制度は元々、司法試験合格者の数が増加して弁護士が増え、今後は質が低下するのではという懸念から導入されたらしい。確かに、たまに質の悪いのもいるだろうけど、でもほとんどの若手は「弁護士人口増加→就職難」という最近の傾向を充分に知っていて、危機意識を持ちながらしっかり勉強をしている。一方、ある年代以上のベテランは、弁護士というだけで一生安楽に食っていけて、無条件に威張ることができた時代の人であり、肩書きにあぐらを書いて最近の法律や判例を全く知らない人もいる。そういう人は、「上からモノを言う」癖がついていて、依頼者にも横柄な態度を取りがちである。そして、昨日も書いたけど、新聞に載るような不祥事を起こすのは、これまで見る限り全てベテラン弁護士である。弁護士への口コミが大っぴらになれば、このあたりの人が打撃を受けるでしょう。まあ、偉そうなことを言いましたが、弁護士業7年目の私が、依頼者に対して常に満足を与えてきたかというと、心もとない部分もあるし、まだまだ研鑽すべき部分もあると思います。ただ私が、弁護士になったころから依頼者との関係において心がけていたことは、法律ではこう決まっている、と言って終わりではなくて、依頼者の「腑に落ちる」説明をする、ということです。法律用語は会話の中で使わないことを心がけています。私だけでなく、心ある多くの弁護士は、依頼者との関係のあり方を自分なりに考えて仕事をしていると思います。そしてそれを、依頼者が自由に評価することはあってよいと思います。
2007/06/19
先週末の報道によりますと、日弁連が、「弁護士の質」を調査することにしたらしい。方法は、たとえば、1 弁護士会でやっている法律相談に来た人にアンケートで回答を求める。2 経験5年以内の若手弁護士に対するベテラン弁護士の評価を求める。3 全国の弁護士に質問を送り、倫理観や交渉能力について自己評価を求める。などだそうです。1については、私は最近、この相談を担当していないのですが、評価の対象外となるのでしょうか。2については、ベテランのほうにこそ問題があるのが多い気がするのですが(実際、不祥事起こしてるのはベテラン弁護士ばかりだし)、そっちの評価もしたほうがよいかと。いずれにせよ私は経験7年目なので評価の対象外です。3は、自己採点でよいなら勝手に満点をつけておくこととします。まあ、この評価制度がうまく行くかはともかく、一定の評価は必要だと思います。ただ、扱っているものの性質上、弁護士の仕事はかなり評価が難しいかと思います。たとえば、依頼者が、どう考えても法的に通らない依頼をしてきたとき、「わかりました、がんばって裁判してみましょう」と言って高い着手金を取る弁護士がよいのか、または、「そんな話はまず通らないですよ」とピシャリと依頼を断る弁護士がよいのか。ただ、評価が難しいとはいえ、今やネット社会、いろんな事柄について「口コミ」評価のサイトが拡がっています。いずれは弁護士も、その波を逃れられないかも知れません。口コミサイトは、飲食店なんかが典型です。この飲食店なんかも評価は難しいですね。典型的なのは、「一見客には冷たい印象を与えるけど、馴染んでしまうととても居心地のよい店」なんかです。ちょっとした小料理屋やバーなどには多いでしょう。店は小さくても、通ってくれる馴染み客を大切にしたいと思うからそうなる。弁護士事務所も、特に小さい規模でやってるところには、多分にそういうところがあると思う。最初は敷居が高いと感じるかも知れない。弁護士としても、アウトローの違法な依頼は断らざるをえないから、一見の相談客なら最初は警戒している部分もある。そういう状態を経ながら築いていくのが本当の信頼関係だと思われます。弁護士会の30分間の法律相談では、なかなか、その辺が分かりにくいかも知れません。この話、たぶん続く。
2007/06/18
今週の日曜にラジオでお話ししたことについて書きます。少し前に、特急電車の座席で、男性が女性を脅してトイレに連れ込み、姦淫に及んだという事件がありました。電車内には他の乗客もいたらしいのですが、男性が女性を連れて行くのを制止するとか、車掌に通報するとかした人はいなかった。もちろん、この男性が強姦罪(3年~20年の懲役)で断じられるべきなのは当然として、周りの乗客は何をしていたんだ、というような意見も聞かれた。で、ラジオでもパーソナリティのお姉さん(兼定-けんじょう-さん)に聞かれました。こういう場合、周りの乗客に責任はないのですか、と。道義的責任ということならともかく、ここは法律家としての見解を求められているのだろうから、法的責任という意味では、ないと言わざるをえない。積極的に手を下さなくても、傍観しているだけでも、犯人と同じ刑事責任が問われる場合があります。刑法の勉強をしていると出てくる「不作為犯」(ふさくいはん)です。ただ、冒頭のケースで、女性が連れていかれるのを見ていただけの乗客がみな、強姦罪の共犯となり、3年~20年の懲役刑に処せられるとしたら、酷に過ぎるのは明らかだと思います。見ているだけで犯罪となるには、その犯罪を見ているだけでなくて止めないといけない義務があった、といえる必要があります。その義務は、刑法の教科書を見ていると、「法律、契約、慣習、条理」によって生じると、昔から言われています。たとえば、親は民法上、自分の子を監護する義務があるので、子が殺されかけているのに見ているだけだと殺人の共犯になる可能性がある(一方の親が子を虐待しているのを止めなかった、というケースが考えられる)。暴行や交通事故で人をケガさせたら、条理の上でその人を救助する義務があり、それをほうっておいて死なせると、暴行・傷害罪にとどまらず殺人罪となることがある。このように、止めないといけないというかなり強度の義務が発生していることが必要で、「怖いから見ていた」というだけでは法的責任は問えません。冒頭のケースでは、乗客には制止する法的義務はなかったと言わざるをえないから、不作為犯は成立しない。道義的責任の有無については、人それぞれに考えがあると思いますが、日常生活の中で突然そういう状況になったときに、果たして何人の人が実際に制止できるかと考えると、私自身は乗客の方々を道義的にも責める気にはなれません。
2007/06/16
今後の展開が注目される事件。朝鮮総連の本部建物が、元公安調査庁長官が社長を務める投資顧問会社に「売却」され、登記上の名義がこの会社に移転された。でも実際には、売買代金35億円の支払いは行われておらず、「仮装売買」の疑いもある。朝鮮総連は、整理回収機構から多額の債務の返済を請求され、これに応じられないと本部建物を差し押さえられる可能性があった。その状況下で登記だけ移転することは、普通に考えて「差し押さえを逃れるため」と評価される(朝鮮総連名義のままだと整理回収機構に差し押さえられる)。で、その取引に、日本弁護士連合会(日弁連)の元会長の弁護士・土屋公献氏が朝鮮総連の代理人として関わっていたという話が出てきました。東京地検特捜部は、公正証書原本不実記載罪(刑法157条、5年以下の懲役)、つまり公的な帳簿(登記簿)にウソの記載をした(売買が仮装なのに登記を移転した)との疑いで、総連本部はじめ、元公安調査庁長官そして土屋元会長の自宅などを捜索したとか。うーむ何だか、大沢在昌とか高村薫とかの小説に出てきそうな話です。土屋元会長は、正当な売買であって、例外的に登記が先行して、事情により代金の支払いが後になっただけだと釈明しているようです。たしかに、弁護士が不動産売買に関わることはあります。話が突然小さくなりますけど、私にもある。たとえば、依頼者の会社が破産するので、不動産を売却して返済にあてることになった。私としては、信頼している不動産の仲介業者を紹介して、あとは破産管財人と仲介業者にお任せしておいて、取引の中身にはタッチしない。この場合、仮に「仮装売買」が行われたとしても、私なら「管財人と仲介業者に任せてあるから一切知らん」で済ませることになる(もちろん過去にそういう例はないです)。あとは、相続がらみの問題で、不動産の一部を売ってみんなで売却代金を分けることになったとする。その場合は、信頼する司法書士に依頼して、代金が決済されたのを確認してもらった上で登記の移転をしてもらう。この場合、代金が支払われたことを私と司法書士が確認するので、「仮装売買」はありえない(それを行う利益や理由がない)。土屋元会長ほどの偉い方が、取引の中身にタッチしておきながら(もし売却先を紹介しただけで中身に関わってないなら、釈明せずに「知らん」というでしょう)、売却代金について確認せずに登記を先行させたのが、弱小な一弁護士にはよく分からないところなのですが、そのへんは弁護士としてのコンプライアンス精神を発揮して説明してほしいなあと思っています。
2007/06/15
アクセス数が33333を超えました。33333ヒット目の読者さん、ご報告メールをありがとうございます。ブログの内容に関係のないメールも歓迎しております。さて、今朝の日経、社会面の小さい記事ですが、見出しは「隣の女子大生のクッキー食べる」それで逮捕されたと。えっ何罪? と思ったら、酔っぱらい防止法違反です。夜11時ころの京阪電車の中で、隣に座っていた女子大生に肩や太ももを押し付けたりしたり、さらにクッキーも食べたらしい。しかも逮捕されたのは警察官だそうです。以前にも酔っぱらい防止法の事件について触れましたが(こちら)、このときも捕まったのは警察官でした。クッキー食べて逮捕なんて、記事の内容は滑稽ですらありますが、被害者の女子大生は不快だったでしょう。私自身、京都の司法試験予備校で講師をしている関係もあって、夜の遅い時間に、京都から京阪で大阪に帰ってくることがよくあります。特急の2人がけのシートに座って、大阪までの約45分間、一仕事終えたあとのホッとした時間を過ごすのは心地よいものです。周りの席の人たちも似たような状況なのでしょう。寝入る人もいるし、こっそりとお菓子を取り出して食べたりしている人もいる。で、そんなホッとしてるときに、横に酒くさい息をした酔っぱらいが座って、体を押し付けてきたり、お菓子を取り上げられたりしたら、それはもう、物すごく不快でしょう。警察官の仕事も大変なのは分かりますけど、仕事が終わっても、自分たちは社会の規範を体現する存在なのだということを、忘れないでほしいと思います。
2007/06/14
児童ポルノの所持を禁止すべきか否かについては慎重に検討すべきだと前回書きました。ただ私も、気持ちとしては、あんなものは規制してしまえばいい、と思うほうです。前々回に書いた作家の故・胡桃沢耕史氏の怒りは、全く同感です。成人ポルノは、まあ、その、見たい気持ちは分からなくもないですが、児童ポルノを見たいという気持ちは分からないし、そういうのが産業として成立しているというのもおかしなことです。ただ、その所持を禁止することに何となくひっかかりを感じるのは、前回述べた法的なところと、それに何より、「アメリカ政府が言ってきたから問題になった」点です。日本社会において本当に児童ポルノが大きな弊害をもたらすことが検証されたから規制する、というのならまだいいけど、アメリカが言ってきたから規制する、というのだったらすべきでないと思う。児童ポルノよりももっと多くの人を殺してきたであろう「銃」をすら規制できないアメリカ政府ごときが何を…と大人げない表現になってしまいましたが、そう思います。少し話を拡げますが、いま問題になりつつある憲法改正問題についても、アメリカが言ってるから、という気配を感じる方も多いのでは。このブログにも書きましたが(過去の記事)、国内的には今の憲法で何も不便はないはずで、改正の必要があるとしたら日本が「集団的自衛権」を行使できるように9条を変えることくらいに思える。では本当に安倍総理や日本政府は集団的自衛権が必要と考えているのか。どうも、アメリカが「国際社会での役割を果たせ」と言ってきたからであるように思える。「今の日本国憲法は戦後押し付けられたものだから変える」というのが改憲派の理屈の一つですが、アメリカの意向に沿って集団的自衛権を行使できるようにするとすれば、これまた「押し付け改憲」ではないかと。と、またも話がずれてしまいました。私は児童ポルノの所持を禁止すべきなのか否か、まだ結論に至っていないのは前々回に書いたとおりです。弁護士をやっていて、覚せい剤使用者が暴れて他人をケガさせたり物を壊したりした、という人の弁護は何人か担当しましたが、児童ポルノ所持者が女児にわいせつ行為を働いたとかその画像をネットで流したというケースはまだ担当したことないので、個人的な浅い経験の中では、児童ポルノを今すぐ規制しないといけないという実感まではない。ただ、今日の冒頭に述べたとおり、感情としては児童ポルノなんてあってはならないと思うので、規制するならすればいい。それでも、アメリカが言ってきたからハイしました、というのではなく、その弊害を実際に検証した上ですべきであると考えます。この話題はひとまず終了。
2007/06/13
昨日、児童ポルノの所持を禁止すべきだというアメリカ政府の申入れについて書いていて、ちょっと脱線して作家の胡桃沢耕史氏の話になりました。昨日は書きませんでしたが、紹介した日経記事には、女児が性的被害を受けたという母親の意見が載っていました。「ネット社会になって、自分の子供の映像が加害者のパソコンに残っていると考えると、それがいつ公開されるかと常に精神的不安を持たざるをえない」と、児童ポルノのデータを持つこと自体を規制するよう主張している。私の見解はというと、規制すべきである・ないについての結論には、まだ達していないということで、いつもの「逃げ」をしておきます。すみません。ただ、法律や制度を変えるには多面的で慎重な検討をすべきであることは、すでに当ブログでいろんな場面で述べてきたことで、それはここでも同様と考えます。今回、ことは「刑事罰」に関わることですから、なおのこと慎重にしなくてはいけない。上記のような児童の親の気持ちはよくわかる。ただ、児童ポルノをネットなどで公開する行為は、わいせつ図画陳列罪で検挙できるし、また一般の児童がわいせつ被害に遭ってそのとき写真を撮られたとしたら、その加害者を強制わいせつ罪で検挙した上、そのデータは犯罪行為によって組成された物として「没収」すればよい。条文は面倒だから引用しないけど、現行の刑法でもここまでできる。前回紹介した、「麻薬と同じ」だから麻薬と同様、所持自体を処罰すべきだという見解についてはどうか。麻薬や覚せい剤は間違いなく、その利用者の体を蝕みます。そして極めて常用性が高く、常用しているうちに幻覚症状が出て、他人に害を及ぼすことが多い。事実として極めて危険な物であるから、所持自体が禁止されている。では児童ポルノが果たして、これと同じレベルにおいて、所持者自身と社会に害を与えると言ってよいか。これも前回書きましたが、わいせつ図画を販売する行為が刑法で禁じられながら、それを買う行為は現在、禁止されていません。その趣旨は、わざわざそんなものを売る行為は悪いことだから処罰するけど、それをこっそり買って楽しもうということ自体は、恥ずかしいことではあるけど、人間の心情としてやむをえない部分もあるからあえて処罰まではしない、ということです。わいせつ図画を買った人が劣情を催してわいせつ犯罪に至ったら、その時に検挙すればよいというわけです。こういう「当事者の一方は罰するけど、他方は罰するまでもない」という考え方は、刑事関係の法律の中には度々見られ、少なくともそのことはこれまで承認されてきた。わいせつ図画の中でも、児童ポルノだけをそこから外して、所持だけで罰するということは、日本の法体系からすればかなり例外的な扱いと言ってよいと思います。このような例外的扱いが許されるためには、児童ポルノの存在が、日本社会において、麻薬や覚せい剤と同様の害悪となっているという事実が本当に存在するのか、検証される必要があるように思います。まだ少し説明が足りない気がしますのでもう少し続く。
2007/06/12
先週末の日経に、アメリカ政府が日本政府に、児童ポルノの所持を法律で禁止するよう求めた、とありました。児童ポルノの定義は調べていませんが、字の通り、子供のポルノ画像(写真やデータ)のことでしょう。これを所持することが合法なのは、先進諸国では日本とロシアだけだとか(上記日経記事による)。アメリカでは所持すること自体が禁じられているのに、日本では禁じられていないから、日本からのニーズがあり、アメリカでの「児童ポルノ市場」が根絶しない、と文句を言っているらしい。児童ポルノを「売る」行為は、日本でも取り締まることができる。ご存じと思いますが、「わいせつ図画販売罪」です(刑法第175条、2年以下の懲役または250万円以下の罰金)。でも、買うこと・所持することを処罰する法律はない。日本でも、所持すること自体が禁じられているものはたくさんあります。麻薬・覚せい剤(麻薬取締法、覚せい剤取締法)やピストル(銃刀法)などです。児童ポルノも「麻薬と同じ」だから所持自体を禁止すべきだ、という識者のコメントも日経記事に紹介されていた。ちょっと話がずれますが、児童ポルノの話を聞くと思い出す、ある小説があります。直木賞作家の胡桃沢耕史(くるみざわ こうし、故人)の代表作、「翔んでる警視」シリーズです。主人公・岩崎白昼夢(いわさき さだむ)は東大卒の警察官として警視庁に勤務し、都内の殺人事件を捜査する。冷静にして明晰な頭脳で法律を駆使し、殺人犯を挙げていく話です。今、その本が手元になくて記憶だけで書いていますが、この常に冷静な岩崎警視があるとき、突然の暴挙とも言えるような行為に出る、こんなエピソードがある。岩崎警視が、都内で児童ポルノの写真集を製作している業者を一斉検挙にかかる。何罪で検挙したかというと、「殺人罪」である。都内で女児にわいせつ行為を働いた複数の男性を取り調べたところ、児童ポルノを持っていて、それを見ているうちに女児に対する下劣な感情さらに殺意が芽生えた、という供述が多く得られたことから、岩崎はついに意を決して検挙に及んだというエピソードでした。(詳細はともかく、この業者に殺人罪を適用するのはまず無理です。小説も、検挙したところで終わっており、その後の裁判がどうなったかは描かれていない)このエピソードはきっと、岩崎警視の姿を借りて、作者の胡桃沢氏の気持ちが表れたものでしょう。胡桃沢氏はもともとは官能小説作家だったみたいだし、「翔んでる警視」シリーズにもそれなりに「濡れ場」も出てくる(このシリーズはマシなほうで、他の作品にはもっと出てくる)。そんな胡桃沢氏ですら、当時の児童ポルノの氾濫に、怒りを感じていたのでしょう。私がこのシリーズを愛読していたのは、学生時代です(約15年前)。だからこの作品も平成に入ったかどうかといった時点で発刊されていたはず。そこから長い年月がたって、日本でも児童ポルノの規制が始まるかも知れないという機運が出てきたわけです。私の見解については、次回以降に書きます。
2007/06/11
今週は何かと慌しくて、更新が飛び飛びになりました。それでも、なぜだか今週はアクセス数が非常に多いです。更新のない日でも。「自動巡回」を差し引いても、かなりのアクセス数です。更新を期待して見てくださっているのだとしたら恐縮です。今週の最後に、週はじめのラジオでお話ししたことについて触れます。最近の新聞、悲惨な刑事事件が依然多いですが、一つの特徴として、集団で暴行して死に至らしめるというパターンが結構ある。集団での暴行が行き過ぎて、というケースは昔からよくあるのですが、それはなぜか、という話です。回答は単純で、一人だとそこまで突っ走らないのですが、集団だとお互いが虚勢を張り合ってしまうからです。ある人を集団でリンチすることになった。自分はあまり乗り気ではないけど、いろんなしがらみがあって、また参加しないと怖気づいたと思われて参加する。暴行の際にも、手加減するとか、もうこの辺でやめようと止めるとかすると、「ビビッている」と思われる。少年を含め、若い人たちの仲間うちではこの「ビビッている」と思われるのが最大の恥辱であるらしい。それで、誰も止める者がいなくて、行き着くところまで行ってしまう。司法修習生のころ、刑事事件の勉強をしていてグループでの傷害致死事件の調書を何件か読みましたが、グループ全員がこういう心理状態のまま突っ走り、被害者が死んだのに気づいて皆、放心状態になっている、といったものばかりでした。弁護士になってからは、少年事件でグループでの暴行事件なども何件か担当しましたが(死んでしまった事案はまだ担当したことがない)、面会に行ってみると、いかにも気弱そうな普通の少年であることがほとんどでした。グループになると暴徒化するとは信じられないような少年ばかりでした。若い人には、何が生き方としてカッコいいのか、それを改めて考えてほしい。グループで人を傷めつけることの何がカッコいいのか。「ビビり」と言われようが悪いことに関わらない、または引き返すことの「臆病さ」を持つことこそが、カッコいいことではないのか、そんな話をしました。私自身も臆病者で何とか今日まで生きてきたと思います。臆病なので今後も、自分の事務所を大きく拡張するとか、新規事業を手がけるとか、そういうことはたぶんしないと思います。他愛のないブログでも書きながら、細々と弁護士業をやってまいります。
2007/06/09
昨日の夕刊から。「大和都市管財」事件で国に賠償責任を認める判決が大阪地裁でありました。抵当証券という、解説は省略しますがとにかく証券を買えば儲かるともちかけて、多くの人たちがそれを買って結局はお金を失った。ここの社長は詐欺罪で実刑が確定しております。ということは、刑事裁判では、最初から儲からないことが分かっていて、騙すつもりで取引きをもちかけたことが認定されている。民事責任のほうは、会社や経営陣を追及しても、日経記事によると回復できた損害は約8%どまりだった。となると、あとは抵当証券会社に対する監督権を持つ財務局つまり国の責任を追及するしかない。それが認められたわけです。財務状況が悪化しており、抵当証券業者としての登録を認めるべきでなかったのに、それを漫然放置した責任です。ただ、取引きに応じるほうも応じるほうだ、ということで、請求額の4割程度だけ、請求が認められた。満額回答ではなかったとはいえ、国が企業に対し適切な監督権限を果たさなかったという「不作為」(ふさくい=行為をしないこと)について国家賠償責任を認めたのは画期的といえます。同じく昨日の夕刊に、コムスンという訪問介護事業者が、介護報酬を不正請求していたなどの問題により、監督官庁の厚生労働省から、指定介護事業者としての指定を取り消されることとなったという記事がありました。これは国が「作為」を果たしたケースです。いずれの事件も、実際のところはあまり詳しく存じませんが、一般論として、行政が「作為」をなすべきか「不作為」で放置すべきか、その線引きは難しいところでしょう。現在の世の中の考え方は「規制緩和」が主流となりつつあります。分かりやすくいうと、「行政は企業の経済活動を事前に規制すべきでなく、自由に活動させるべきだ、それで問題が起こったら後から対処すればよい、国民に何らかの損害が及んだとしてもそれは自己責任だ」という考え方です。この考え方を徹底すれば、大和都市管財の事件でも国の責任は認められなかったはずで、コムスンの指定取消しも、「役所の要らぬ横ヤリ」ということになる。国側の官僚にとってみれば、「いつもは規制緩和だといいながら、何かあったら国の責任にされるのではたまったものではない」という感想を持つ方もいるかも知れません。そしてその気持ちが、全くわからないでもありません。しかし、行政の「許認可権限」というのはそれほど強大なものなのであって、だからこそ官僚たちは細心の注意をもってその権限を行使してほしいと思うところです。
2007/06/07
昨日の続きです。看護師と看護婦、俳優と女優、のように、一般名詞は主に男性を指し、女性の場合は別の呼び方をする、これは日本に限らず行われています。アクターとアクトレス、バーテンダーとバーテンドレスのように。なぜそういうことが行われたのか、元々の言語学的な起源は不勉強なので存じません。そこに差別的な意図があったのか否かは知りませんが、私はそういう意図を感じない。以下、あくまで私見であり、想像だけで根拠なく書いています。私たちの業界には、女性用の名称はない。弁護士という言葉はあるが、「弁護婦」といった名称は聞いたことがない。外国はどうだか知りませんが、少なくとも日本では、女性の弁護士だけを指す言葉はない。ドラマのタイトルなら「女弁護士」なんて言葉を見かけますが、職業を指す名称として一般化しているわけではない。それはなぜかというと、たぶん、昔、我々の業界が一つの職業・制度として成立した当初のころ、女性はこの世界にほとんど、または全くいなかったためだと思っています。弁護士の世界では、最初、女性は数が圧倒的に少なく、力もなかった。だから、女性の弁護士を指す名称を必要としなかった。それだけの話ではないかと。(もちろん、今は違います。訴訟で私と対決した女性の弁護士は皆、手ごわい方々でしたし、弁護士会の役職にも女性がたくさん進出しています)それに対して、俳優の世界では女性が男性同様に存在感を持っていたから、女優という言葉ができた。そして看護の世界では、女性が圧倒的に存在感を持って役割を果たしていたから、看護婦という言葉がむしろ一般化し、看護師なんて言葉はあまり聞きなれない言葉だった。つまり、女性用の名称があるというのは、それだけ、その世界で女性が役割を果たしていたことを示すものだと思うのです。もちろん、こう書いても、ここに差別的意図を感じる方はいるでしょう。「看護婦」という言葉があることによって、看護するのは女性の仕事、というイメージが形成される。それがひいては、性別によって職業や役割を固定化させることになってしまう。女性はすべからく看護婦さんのように、人に献身的に尽くすような存在であるべきだという観念が形成されてしまう、と。突き詰めていけば、呼称の男女の区別によって実際にそういう観念が形成されてきたのか、またさらに遡ると、そもそも性別による職業や役割の分担は忌避すべきことなのかといったことも考えてみないといけないように思えます。話が広がりすぎるのでここまでにしておきますが、私自身は今後も、女優やバーテンドレスといった名称と同様に、看護婦という呼称を、敬意を持って使い続けたいと思っています。
2007/06/05
先週末の新聞報道ですが、尼崎の病院で、「男性患者が女性看護師を刺した」と。この事件そのものとは関係ない話をしますが、いつごろからか、「看護婦」の言葉を見なくなりました。男性も女性も「看護師」と呼ばれるようになったため、従来「看護婦」と表記していたのを、最近では「女性看護師」と2文字多く使って書かないといけなくなった。職業・肩書きについて、女性と男性とを同じ呼称で呼ぶべきだ、という考え方は以前からあります。同じ職業でも、男性を指す場合は一般名詞が使用され、女性を呼ぶ場合は別の呼び名が使われるのは女性蔑視だ、という意見も聞く。看護師・看護婦がその典型で、そのため、多くの人が長く慣れ親しんできたと思われる看護婦の呼称も、公には使われないことになった。しかし、これまた完全な私見なのですが、私は看護婦という言葉に蔑称的なニュアンスを感じたことがないのです。私自身、子どものころは病気などで何度か入院した経験があるのですが、看護婦さんというと、いかにも優しいイメージがあった。それに対して(男性の)「看護師」というと、むさ苦しい、あまり診てもらいたくないイメージがあった。他の例としては、「俳優」という一般名詞は多くは男性を指し、女性の場合は「女優」と言われますが、これも、そこに蔑んだニュアンスを感じる方は少ないのでは。男性俳優にはない、美しい優雅な響きを感じる、むしろ敬称的ニュアンスを、私は感じるのです。それから、バーに行くと、「バーテンダー」がいる。女性の場合は「バーテンドレス」とも呼ばれたりしますが、バーテンドレスがカクテルを作るなんて、とても華やかなイメージが思い浮かぶ。ただ、これらも、人によっては、「いや、女性を、優しい、美しい、優雅、華やか、といったイメージで捉えようとすること自体が蔑視なんだ」とおっしゃるかも知れません。「つまりそれは、女性がそのような存在であることを強いて、男性の従属物と捉えようとする考えにつながるんだ」と、私自身はそんなこと言ってないのですが、そう感じる方もおられるかも。となれば結局は、女性の優しさ美しさを強調することが、蔑視と感じるか敬意と感じるか、その人の捉え方の問題と思われるのです。感じ方は人それぞれの問題だとしたら、慣れ親しんできた呼称をあえて廃止して、わざわざ男性と女性を同じ名称で呼ぶ必要はないと考えたのですが、皆さんはどう感じておられるでしょう。この話、もう少しだけ続くかも知れません。
2007/06/04
昨日の日経朝刊の記事。地方自治体の首長(知事や市長)が多選することを法律で制限することは、必ずしも憲法に違反しないと、総務省付属の調査研究会が報告書をまとめたと。同じ知事が何度も当選して長い任期を得ると、地元企業との癒着が進み、談合や汚職のもとになるのを防ぐ趣旨でしょう。諸外国でも、大統領の多選を禁止している国は多いらしい。アメリカは2選まで。大統領を3期務めることはできない。多選を制限することがなぜ憲法上の問題になるかというと、日経記事にもありましたが、職業選択の自由(憲法第22条)や平等権(同14条)を侵害するおそれがあるためです。たとえば、同じ知事が4選することを禁止したとすると、3選を果たした知事が引き続き知事という職業に就きたいと望んでも、それができないことになる。また、無当選から2選目までの人なら次の知事選に立候補することに何の障害もないのに比べて、3選目の人はもう立候補できないのは不平等だ、ということです。知事の多選を制限する法律は合憲か、という問題が、過去、司法試験の憲法の論文試験として出題されたことがありました。平成4年ころだったかと思います。私が司法試験に受かったのは平成10年で、受験生のときに、この「過去問」を検討していました。司法試験には、あまりに時事的にすぎる問題とか、個々人の政治的主張に関わるような問題は出題されないはずです。知事の多選問題は、出題されたころから時を経て、最近ようやく、実際の政治的トピックとなったわけです。ちなみに受験生当時の私は単純に、上記のような観点で、職業選択の自由や平等権を侵害するから違憲だ、という答案を書いていました。しかし、冒頭の研究会は、著名な憲法学者も名を連ね、必ずしも違憲でないという報告をまとめているわけです。日経の社説も、多選禁止を支持すると明確に述べていた。今の私がどう考えているかと言いますと、これまた答えはありません。すみません。素朴な疑問として、本当に優れた県政を施す優れた知事で、県民が続投を心から望んでいたとしても多選を制限されるのは、いかがなものか、と思ったのですが、実際にはそんないい知事さんは存在しないということなのでしょう。だから多選制限が議論されているわけです。
2007/06/01
日本は死を美化する傾向があって、それ自体は悪いことではないと思うが、それでも自殺は醜いことだと思う、と前回書きました。私も小さいころは、自殺は許されることなのか否か、幼い頭で考えたりもしました。最終的に、自殺はすべきでないことだと考えるに至ったのは高校生のころで、理由は、単純な話ですが文学作品に影響を受けたことによります。それは私が「座右の書」としているロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」で、音楽家ジャン・クリストフの苦難の一生を描いた作品です。この中で(全10章中、第2章)、クリストフが15歳のときのエピソードとしてこういう話があります。クリストフに恋人ができて、一時は互いに燃え上がったものの、家柄の違いや諸々の理由で、振られてしまう。クリストフは絶望して家に帰ってきて、その夜、ぼんやりと死ぬことを考える。すると家の入り口あたりが騒がしくなって、クリストフは、また父親が酔っ払って帰ってきたのだな、と思う。ところが本当は、父親は近くの用水路に落ちて死んだのを発見されて、家にかついでこられたのだった。クリストフは、悲惨な溺死体となって横たわる父親を見下ろして、自分もつい先ほどまで、こうなろうとしていたのだ、と思い直す。人生に対して、何と卑怯な方法を取ろうとしていたのかと。そしてクリストフは自分の「内なる声」を聞く。・・・・・・・・・・「往け、往け、決して休むことなく」「しかし私はどこへ往くのであろう、神よ。何をしても、どこへ往っても、終りは常に同じではないか、終局がそこにあるではないか」「死すべき汝は死へ往け! 苦しむべき汝は苦しみへ往け! 人は幸福ならんがために生きてはいない。予が掟を履行せんがために生きているのだ。苦しめ。死ね。しかし汝のなるべきものになれ―― 一個の人間に」(以上、岩波文庫版の翻訳を引用)・・・・・・・・・・・・このようにクリストフが自分の「内なる声」を聞く場面が何度かあって、それは「神」と表現されています。「神」と呼ぶかどうかはともかく、誰しも、目指すべき自分の理想像があって、その「理想の自分」の声を聞くことはあるでしょう(「しっかり勉強しろ」とか、「今日は酒を飲むな」とか)。その内なる自分と対話しているのです。上記引用中、「予が掟」つまり「私の掟」を履行するというのは、理想の自分(「一個の人間」)となるためになすべき労苦・努力を果たすということでしょう。一時の恋愛におぼれ、それが終わったがために人生を自ら終えようと考えていた自分を、内なる声が叱責しているわけです。詳細な解説は控えますがともかく高校時代の私はここの文章に甚く衝撃を受け、「一個の人間」になるために強く生きよう、それをせずに自ら死ぬのは卑怯なことだ、と考えるに至りました。付け加えて言うと、子どもの自殺対策としては、役人や教師がいろいろ考えるよりは、「ジャン・クリストフ」に限らず文学作品をしっかり読ませるべきではないか、と思う次第です。
2007/05/31
ご存じのとおり、松岡農水相が自殺しました。異常に高額な水道費の支出の理由を聞かれて「『なんとか還元水』を使っている」との答弁が方々で茶化されましたが、そんな話だけでは済まないような、「政治とカネ」に関する何らかの大きな問題を抱えていたのでしょうか。日本人は死んだ人を悪く言わない性質があって、それはそれで美しいことだと思います。ただ、本当に解明されるべき問題があるのだとすれば、松岡農水相の冥福を祈ることとは別問題として、解明を進めていくべきだと考えます。少し前、子供のイジメを理由とする自殺が問題となって、このブログでも何度か書きました。自殺をしないようにしよう、と政府が呼びかけても、当の内閣を形成している大臣がこうして自殺してしまうくらいですから、残念ながら自殺は今後もなくならないでしょう。今日は、「政治とカネ」という難しいテーマについて書こうとしているのでなく、「日本人と自殺」のことについて書こうとしています。日本では、切腹という制度が過去にあったためか、死ぬ行為がある意味、潔い、美しいと見られる傾向がある。「死んで詫びる」という言葉があるように、死ぬことによって罪が許されると考える傾向もある。そして上記のとおり、日本人は死んだ人を悪くいいません。かつて田中真紀子が、脳梗塞で倒れて急死した小渕元首相を指して「頭がプチッと切れてオブチさんがオダブツさんになった」と茶化したことでかなりの批判を受けたことがありました。毒舌と、ユーモアのある皮肉で人気のあった田中真紀子が、これで人気を失った感があった。かように、日本では、死ねば悪く言われない、という傾向もある。その日本人的な考え方の背景はどこにあるのか、というと、いろいろ研究がされているのでしょうけど、私にはそこまでの知識はありません。そういうわけで社会学的考察はこの程度で。浅い考察ですみません。私が言いたかったのは、日本人のこういう考え方は、一面では美しい部分もあると思いますが、それでも私個人は、自殺は醜いものであると信じているということです。次回へ続きます。
2007/05/30
当ブログの話題として「ラジオでのお話」というカテゴリがあって、毎週日曜の朝に出してもらってるラジオ番組で話したこととか、話しきれなかったことを改めてここに書こうと思っているのですが、ここ2週間ほど、その話を書いていませんでした。一つには、雑談的な内容の回であって法的な解説を加えるほどではなかったのと、もう一つは、私自身がオンエアを聞いておらず、事前に収録はしたけどこの回どんな話をしたか覚えていない、というのが理由です。何だか適当ですが。昨日の日曜も、雑談的な内容でした。パーソナリティのお姉さんのお話で、お友達が空港で飛行機を降りたときに、靴に「白い粉」がかかっていたため、それが発見されて、エミグレーションというのだかそういうところに連れていかれたという話でした。もちろん、麻薬かどうかは調べればすぐ分かるので、問題なく帰してもらえたとのことです。そういう、あらぬ疑いをかけられたときは、堂々としているのが何よりです、と私から話しました。私自身、過去に何度か「職務質問」を受けたことがありました。24、5歳のころ、司法試験の勉強をやっていて気晴らしに自転車で散歩していたときなどです。成人男性が平日の昼間に一人ぶらぶらしているわけですから、疑われたのでしょう。「職務質問」というのは、警察官職務執行法(警職法)の第2条1項に根拠があって、「異常な挙動その他の事情から判断して、何らかの犯罪を犯した、または犯そうとしている疑いのある人を、停止させて質問することができる」(要約)と定められている。ただ、強制力はないので、「そんな質問は受け付けません」と言って通り過ぎることは、タテマエ上はできる。第3項に「意に反して署に連行されたり、答弁を強要されることはない」と定めてある。明らかに犯罪に関わっていると見られる場合など、例外的に強制力が認められたケースは判例上ありますが、そうでない以上はそれに協力する義務はない。警察に呼び止められて、「受け付けない」と言える人は滅多にいないと思いますが(私もたぶん言わない)、本当に急いでいる場合は、「警職法上の職務質問に強制力はないでしょ」と言ってみてください。さて、職務質問を受けた24、5歳のころの私ですが、その警官の目をじっと見据えて、「僕は司法試験の勉強をしている山内というものです。不審な点があるなら、僕の氏名でも、この自転車の防犯登録でも、何でも照会にかけてください」と言ったのですが、何も照会にかけられることなく済みました。堂々としているのが何より、ということです。
2007/05/28
昨日の新聞の記事で見たのですが、最近、「こんにゃくゼリー」がノドにつまって7歳児が死亡するケースが2件ほどあったとか。以前にも、高齢者がこれをノドに詰めて亡くなったという事件を聞きました。だからといって「こんにゃくゼリーを製造中止にすべきだ」という議論はあまり聞きません。製造者側の責任は、と考えてみても、なかなか難しいのかも知れない。あれはあれでニーズがあるみたいだし、それに、およそ食べ物は「ノドに詰まる」危険性がゼロでない。食べる側が注意すべきなのでしょう。私が幼かったころ、母方の実家で祖母(故人)にふるまわれた海苔巻きを食べて、丸かじりではなくて切ってあったのですが、海苔をノドに詰まらせたことがありました。それ以後、祖母が心配して、スライスした海苔巻きをさらに4等分した扇形にして食べさせるようになりました。実家にいくといつも海苔巻きがふるまわれたのですが、私に出されるものは、私がかなり大きくなるまで、「スライスのさらに4等分」でした。おかげでその後、海苔巻きをノドに詰めて死ぬことはなく、今日に至っています。子供が食べるものは、周りの大人が細心の注意をすべきなのでしょう。話が変わって、私が独立前に勤務していた法律事務所で、小さい子供が休業中のプールに落ちて不幸にも死亡した事件がありました。ある市が管理しているプールで、親が目を話した隙に落ちてしまった。私がその事件の主任となり、市の管理責任を追及することになりました。目を離した親にも落ち度がなくはないので、全責任の追及は無理でも、5割くらいは責任を認めさせよう、と思いました。それで私が、その某市の市長との面談の約束も取り付け、まずは現場を見に行く準備をしていました。その法律事務所の所長の奥様(よく手伝いに来ておられた)にその話をして、じゃ、ちょっと話をまとめてきますね、と意気高く言うと、奥様は、「そんなの10割が親の責任でしょ」と、弁護士としては「それを言っちゃあ…」的なことをおっしゃいました。一昔前の方は、子供の行動について細心の注意をすべきだ、何かあったらそれは親の責任だ、という考え方が染み付いているみたいですね。不幸にも「こんにゃくゼリー」で死亡してしまったお子様の親の注意が足りないと言うつもりはないのですが、ふとそんな話を思い出しました。
2007/05/25
今朝の毎日朝刊の第一面の見出し。「異常見過ごし死亡」。妊婦が出産時に死亡した事件のようです。医療事故をめぐる判決が出たのかと思ってみるとそうではなくて、そういう主張の裁判が提起されたと。だから病院に過失があるか否かは不明で、これから裁判で審理される。事件の内容は、昨年、奈良県内の某病院で、女性が分娩中に容態が急変し、帝王切開で出産するも、女性は転送先の病院で脳内出血によりほどなく死亡したというもの。原告の主張では、医師は女性の容態が急変したあとも長時間放置していたらしい。さて、これが医師側の過失なのかどうか、新聞報道を見るだけではわかりません。いかに産科の診療技術が発達してきたといっても、出産にはリスクがつきものです。本件の医師は、主婦の容態の変化は出産に伴うものであって正常な範囲内であり、異常な病変ではないと判断したらしい。結果的に女性は死亡しているわけですが、その女性が、どの医師が注意深く診断したとしても病変だと気付きえないような症状であったとすれば、法律的には過失を問うことができない。法律は、誰にも果たせないような高度の注意義務を課することはないのです。ですからまさにこの点が、今後の裁判で、原告(遺族である夫)と被告(病院と担当医師)が主張と立証を尽くすことによって、明らかにされるべきなのです。私が個人的に、どうかと思ったのは、提訴の段階であるのに、大新聞が、原告側の主張のみを大きく、一面の見出しにまでして取り上げた点です。社会面には夫の手記も全文掲載されている。一般の人が一見すれば、いかにも病院側に過失があったかのような表現になっている。私自身、これまでにも患者や遺族の代理人となって、病院や医師を訴えたことが何度かあります。しかし、過失の有無は粛々と法廷で決着をつけるべきものであって、判決が出る前から新聞で取り沙汰されることについては、個人的には違和感を感じています。もちろん、この事件で遺族となった夫の気持ちは分かります。夫が病院側の対応に問題があるとして、その過失を主張して堂々と争うことは、もちろんそれでよいのです。その夫側の主張だけをことさらに大きく取り上げている新聞側の意図に疑問を感じるのです。私自身、医療事件に興味を持ちつつ、多くの場合は患者側の立場に立ちつつ、でも医療の現場が抱える問題を極力理解したいと努めているつもりでして、今朝の記事にはやや違和感を持ちながらも、今後の裁判の進行に注目したいと思いました。
2007/05/24
延命治療を中止した医師が殺人容疑で書類送検されたと。今日の各紙朝刊・夕刊から。舞台は和歌山の病院で、患者が脳死状態となり、人工呼吸装置をつけていたものの、家族から懇願されて、いったんは断ったものの、最終的には外したらしい。医師としては、脳死状態の患者を前に(脳が死んでるからもう二度と自力での呼吸はないはず)、植物状態で生き続ける患者を見ていられない家族の心からの要請を受けて、ぎりぎりの判断をしたのだと思います。それで「殺人罪」とは医師もやるせない気持ちになるでしょうけど、たしかに、人口呼吸器をつければ生きた状態でいる患者の呼吸器を外せば、それは殺害行為になる。患者が死ぬことをわかってやっているから殺意もある。じゃあこの人は殺人罪で処罰されざるをえないのか、というと、必ずしもそうではない。刑法第35条は「法令または正当な業務による行為は、罰しない」と定めてある。たとえば医師が患者を手術するために患者の患部を切り開くと、傷害罪にあたるはずだけど、それは「手術」という、医師としての正当な業務だから処罰されない。ただ、生きている患者の人口呼吸器を外すことが「正当な業務」といえるのはどんな場合か。それを定める法律やガイドラインはできていない。「やむなくやってしまった」場合に、それが殺人なのか正当業務なのか、裁判所が後から個別に判断しているだけというのが現状です。本件がどうなるかはわかりませんが、刑事裁判として立件されて、正当業務にあたるから無罪、とされたケースは極めて少ないらしい。医療の現場では、その基準を示してほしいところでしょうけど、法律はないし、最高裁の判例も出ていない。仮に基準を作るとすれば、基本的な考え方としては、1、延命することによって続く患者の苦痛よりも、少々命が短くなったとしても、延命しないことのほうが、患者にとって苦痛が少ないこと。2、患者本人の明確な同意があること。が挙げられるでしょう。しかし、1は純粋に医学的な判断になると思われ、法律で事前にそれがどんな場合かを示すことは困難でしょう。そして2は患者が脳死や意識不明となった後には確認できなくなります。それを事前に回避するには、重篤化が予想される全ての患者に、事前に「合意書」にサインさせることが考えられますが、それが正常な姿であるとは思わない。体の不安を抱えて入院してきた患者に、「あなたもしひどくなったら死んでもいいですか、それとも植物状態になっても延命治療を続けてよいですか?」なんて聞けないでしょう。ということで、安楽死の立法化が仮にされるとしても、まだまだ先の話になるのは間違いないでしょう。まずは、仮に自分がそうなったらどう考えるだろう、自分の家族がそうなったらどう考えるだろう、というあたりから、議論を始めていくしかないのかも知れませんが、生命に対する価値観は議論して結論が出るものでもなさそうなのが難しいところです。
2007/05/23
裁判員制度導入に向けて、刑事裁判の法廷での被告人の服装として、ネクタイなどをつける案が浮上しているらしい。今朝の毎日の記事から。今、法廷での被告人の姿の大半は、ジャージやスウェットです。拘置所の中では、ひも状のモノは自殺用具や武器に使われるおそれがあるということで持ち込めないことになっていて、ベルトやネクタイを着けることができない。そこでジャージやスウェットが多用されることになり、拘置所から法廷に出るときもその格好で出ることになる。(もちろん、保釈されている場合は自宅から法廷に来るので、スーツやジャケットを着用する人が多い)一方、弁護士や検察官は必ずと言っていいほどスーツ姿で、裁判官は黒色の法服です。被告人だけがジャージ姿だと、だらしなく見えて、一見するといかにも「悪いヤツ」の印象を与える。裁判官はその辺りの事情が分かっているし、専門家だから服装によって判断が違ってくることはないだろうけど、一般国民から参加する裁判員の場合、服装に引きずられて「こいつは悪い」と偏見を持つおそれがある。それで日弁連の申し入れを受けた法務省では、法廷で、「ネクタイが一体化したシャツ」、「ベルトが一体化したズボン」の着用を認める案が有力らしい(一体化してるのは、法廷で取り外して武器にするのを防ぐためでしょう)さらに日弁連は、サンダル履きでなく靴の着用を認めることを求めているとか(サンダル履きなのは逃走ができにくいように、とのことらしい)、女性の場合は化粧することを認めるよう求めているらしい。どんなものでしょうか、と私は個人的に思います。ちょっとやり過ぎの感もなくもない。もちろん、被告人の服装や身なりは、その人が法廷に臨む気持ちを表わす一端であると言えます。しかし、その人を裁くには、服装だけでなく、提出された証拠を踏まえて、犯罪の動機や経緯、さらにはその背景にあるその人の全人格的なところをしっかり見据えた上で判断を下すべきです。これは簡単なことではないと思いますが、現場の裁判官はこれをやっていると思います。ネクタイをしていなくてジャージ姿だとそいつが悪人だという偏見を生む、というのであれば、そんな偏見を持ってしまうような裁判員の資質を問うべきだし、さらには裁判員制度そのものの当否を考え直したほうがいいようにも感じます。また、被告人が、ネクタイは窮屈だからと着用を希望せずにジャージで法廷に出ると罪が重くなるのであれば変だと思うし、また女性の化粧まで認めると、化粧によって自分の外見を美化できない男性は不利になってしまうように思える。裁判員制度の導入を見据えて、「国民にわかりやすいように」「国民に誤解を与えないように」ということをかけ声に、いろんな制度改革がされているようですが、「分かりやすさ」だけでよいのか、刑事裁判に関わることの厳しさ、難しさをこそ、もっと分かってもらうべきではないかと、考えた次第です。
2007/05/22
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