初代MR.タイガース景浦将さん



 在籍したのは1936年~1939年と兵役から一時復員した1943年の計5年と僅かだがチーム406試合中227試合で4番を打ち、25本塁打222打点。
 1937年に首位打者、1937年春と1938年春に打点王に輝いた。さらに投手としても1936年秋に最優秀防御率、最高勝率を獲得するなど27勝9敗。

 投打に戦前のタイガースを背負ったのが景浦さんだった。

 とりわけ、毎年のように優勝を争ったジャイアンツ戦での沢村栄治投手との一騎打ちは、日本プロ野球を彩る「エースVS4番」対決の原風景でした。

 そんな景浦選手のキャラクターを物語るエピソードは、タイガース誕生1年目の1936年に生まれた。

 とある試合、ライトを守っていた景浦選手だが、フライが来ても追うそぶりを見せず、ヒットが来ても動きもしない。打席に入ればとんでもないボール球をわざと空振り・・・石本監督は日誌に「今日も景浦、飛球を捕らず、追わず、走らず、動かず、理由不明」と書き残したという。

 実はこの行動には、後のタイガースを暗示しているような理由があったようだ。

 タイガースの初代監督は、景浦選手にとって松山商の先輩にあたる森茂雄さんだったが、タイガースの成績自体は決して悪くないのに、夏のトーナメントでライバル会社、阪急に優勝をさらわれたために記念すべき日本プロ野球最初のシーズン半ばにして事実上更迭されてしまったのです。

 サボタージュはそんな人事に対する無言の抗議だった・・・。

 また、チャンスで打席を迎えると、監督に「ここで打ったらナンボ出す?」と賞金を要求し、ホームランを打つとその金額を叫びながらダイヤモンドを一周した--などという痛快な逸話も残されています。

 愉快・痛快・破天荒。黎明期のタイガースに眩しい光彩を残した天才スラッガーは1940年に徴兵され、いったん復員したものの1944年に再び南方へ。敗戦わずか3ヶ月前の1945年5月20日、フィリピンにて30歳の若さで非業の戦死をとげてしまう。
 宿敵沢村栄治さんも1944年に台湾沖で散った。27歳。

 注)平成7年6月22日発行 「NUMBER」#368 甦る猛虎魂より引用





© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: