まだまだ続くし~付点の足音~

(12) 2004年 12月




(12)  


まえへ(11)


就活へ


   2004   12/1(水)


昨日は義母より振込みを頼まれたのだが、いろんな偶然が重なりトラブル発生。
で、朝からその後始末。

振込先も義母の同級生なもので、電話で確認を取っても今ひとつ答えは不確かで…。
「あ~年をとるってこんなことなのかなぁ」としみじみ思ってしまう。

おまけに私のおめめもロービジョン度が進み、小さな字は読み飛ばしていたりする。
そろそろシニアグラスも考えないといけないのかなぁ。

人は衰えを感じると弱気になるのかもしれない。



*****


   2004   12/2(木)


午前中はヘルパーさん。
5~6人のヘルパーさんが交代で来てくださるが、皆さんお仕事も丁寧で気持ちがいい人ばかり。
定期的に人が来るのは今の我家にはとても重要だと思っている。

明日から入院というのに義父は用意の様子もない。
以前なら旅行でも入院でもさっさと荷物をパッキングしていたのだが、必要な書類さえまだ記入もしていないようだ。

だんだん手術に対しての気持ちがトーンダウンしているように見えてならない。
手術を決めるまでのプロセスが足りなかったかな。

数日前から義母が用意していた入院道具を義父に確認させながら一つずつバックにつめる。
リストも用意して一つずつ入れていても、「あれはいれたか、これはまだか?」と数秒前の記憶も覚束ない様子はこちらが不安になってしまう。オイオイ大丈夫?

義母は義母でそんな様子の夫を見るのが辛そうだ。
話しかける口調もついついキツメになっているのが分かる。

私も義父に対しては、オイオイと思いながらも冷静に対応しているつもりだが、shinに対してはそうはいかない。
やはり配偶者となると感情が先にたってしまうのかも。

何か指摘する時も事実だけを冷静に伝えればそれでいいのに、やはり感情的な物言いになっている自分に気がつく。
そしてその事で自己嫌悪。
今の私の最大の敵は、自分の心、かもしれない。



*****



   2004   12/3(金)


義父入院。
手術は6日なのだが腎機能アップのため週末はずっと点滴だとか。

病室で荷物の整理をしていると手術の説明のため担当の先生からカンファレンス室へ呼ばれる。
と、言ってもリスクに関しては先日外来で聞いた事と同じ内容なのだが義父は記憶が無いらしく、初めて聞くような表情で、だんだん不安になってきたのか顔色が冴えない。

年令に加えて腎機能の問題、手術そのもののリスクが改めて説明され、また術例をモニターで見せてもらった。
カンファレンス室で貰った手術の同意書は病室へ持ち帰ったのだが、義父はなかなかペンを取ろうとしない。

「随分おどされたなぁ」とポツリ。
かなり迷っているようなので私もゆっくりと待つことにした。

「今更止める訳にもいかんだろう…」そう言いながら義父はサインをしたのだが、いつも威張っている義父だけに何となく可哀相になってしまった。



*****



   2004    12/4(土)


今日は皆予定があったので、夕方病院集合とした。

実は昨日今日とshinはF病院、H病院の受診日だった。
特に脳外は今まで私も外した事は無かったのだが、良い機会と思いそれぞれ一人で行ってもらった。

近況や1月からの求職活動スタートについて、また書類の依頼など数日前からメモ帳にまとめていた。
今日のH病院は9時の予約だったが適当なバスの時間が無く、かなり早く家を出た。

夕方病院へ行くと神戸の義弟も来てくれており、思いがけず皆が集まる事ができた。
「知らせなくてもよい」と言っていた義父も嬉しかったらしく表情も昨日より落ち着いて見え、安心。

皆がぞろぞろ行ったからって何が出来る訳ではないのだが、不安な気持ちの病人が少しでもリラックスできたり気持ちが落ち着いたりするのであれば、それでよいと思えるようになった。

子供達もある程度の事は分かるようになってきているので、昨年のshinの入院にしてもそれぞれのレベルで感じる事はあったろうし、病院での家族の姿をきちんと見ておくのは大事な事だろう。



*****



2004 12/5(日)


入院前は「毎日来なくてもいいから」と言っていた義父も、昨日私が帰るときは「明日は何時に来るの」。
やはり心細いのだろうか。

日曜日の病院はお見舞い客も多く、デイルームも混んでいた。今日は夕方からすぐ近くの競技場でサッカーの試合があるので2時ごろからすごい人出。

ここのデイルームも眺めのよい南西の角にあり、ざくざく集まるサポーターが間近に見える。
病院のパブリックスペースが明るく広いと患者も家族も気持ちが良い。

H病院もそうだったけれど。
皆で共有できるものは多いほうが幸せな気分になれるのかもしれない。

明日の手術のスタートは「早くて2時です」と看護師さんより説明があったのだが
「何が起こるかわからないので早く来て」と義父が言う。
やはり先日の説明の事もあり不安なのだろう。



*****


2004 12/6(月)


待つのは覚悟の上で12時には病院着。
長い付き合いなのでshinも義母も義父の性格は知り抜いており、出かける前からあきらめムード。

病棟へ行くと丁度ナースステーションに居合わせたDr.Yにshinも義母もご挨拶が出来た。
義母は一度会ったくらいでは顔も覚えられない人で、「あの先生だっけ?」と心もとない反応。

この病院では循環器の先生はいつもグリーンの手術着のようなものを着ているのだが、今日のDr.Yはその上にちょっと大き目の白衣を羽織っている。

「前が押しているので3時過ぎになるかもしれません」と申し訳なさそうに言われたが、結局義父が病室を出たのは4時過ぎで戻って来たのは6時半を過ぎていた。

その間、日当たりのいいデイルームで待っていたのだが、雲ひとつ無い青空がだんだん夕暮れ色になっていく。
うつらうつらしていたのか、ハッと目が覚めた時はもう夜の空になっていた。

昨日は6万4千人もの観客で埋まったスタジアムも今夜は静かにその巨大な姿を暗闇の中に映している。

手術の説明がDr.Yからあり「すべて成功」との事だった。
心配された造影剤のショックも無く、術前術後のモニターからは手術の効果もはっきり確認でき、家族の心配もいつの間にか溶けていく。

局部麻酔だったので義父ともすぐに話ができ、shinも義母もほっとした表情で言葉を交わしているのが嬉しかった。

その後遅い夕食を食べさせ(8時間は絶対安静でひざも曲げられないらしい)私も10時過ぎに帰宅。

とても長い一日だったが手術も成功し義父の状態も安定しているのが何よりだった。
それにしても疲れた。早く休もう。



*****



2004 12/7(火)


昨夜は動けなかったためトイレの度にナースコールを押さねばならず早くも文句を言っていた義父だが、
「今日は誰が来るの?」と昼過ぎに電話をかけてきた。

昨日の疲れで元気の無い義母は最初からパス。
私一人で病室へ行ってみるともう点滴も外され、昨夜私が帰ってからの事を縷々と話す義父を見て安心した。
「ああいつもの通り。フツウだ」

標準コースだと術後2日で退院なのらしいが、義父も明日には出られそう。
話すだけ話すと満足したのか「疲れたろう、今日は早く帰ったら。明日は早めに迎えにきて」だって…。



*****


2004 12/8(水)


予定より早く病院には着いたのだが、もう足踏みをするような気配で待っていた義父。
「前のベットの人はもう出たぞ」

義父の入っていたのはどうやら短期ステイ専用の部屋らしく、月曜の手術日に合わせて週末に入り手術が済むと順次退院というパターンらしい。

もはや術前のションボリさんはいなくなり、いつものワガママさんに戻っている。
まぁ元気になったという事か。

義父の入院中は天気も良く、比較的暖かな日が続いた。
義母は「なにも12月に焦ってしなくても年が明けてからでもいいんじゃない?」と言いはしたが、1月に延ばせばまたいろんな条件が変わってしまうかもしれない。

出来る時にする。波が来たらのる。
shinが病気してから私はあれこれ考えなくなったのかもしれない。いつもその時が良いタイミングだと思うことにしている。

子供達の定期テストとはバッチリ重なってしまったが、予定通りに無事終了出来たのは本当に感謝だ。



*****


2004 12/9(木)


朝からボーッとしていて体に力が入らない。
今回は自然体を心掛けていたので、特別にテンションは上がっていなかったと思うのだが。
こんな日は無理をせず、ボンヤリ過そう。

午後から両親は駅前まで外出。
退院前に「○さん、沢山歩いてね」と先生から言われたとか。
それにしても翌日から出かけるとは…。
恐るべし、82歳。
私より元気。



*****


2004 12/10(金)


昨日よりはマシな状態になったが、まだ調子が出ない。
とりたてて急ぐ用事もないので、今日もジワッと過そうか。



*****



2004 12/11(土)


1月からの求職活動に備えて情報収集も兼ね、都内の障害者専門の人材登録会社へ行く。

今日の説明会の参加者は5名で男性はshinのみ。
50代に見えた女性は補聴器を着けていたが、他の若い3名の女性はは内部障害なのか外見上からは分からない人ばかりだった。

全体のオリエンテーションの後、個別面接があり、こちらの情報・希望等を細かく聞いてもらう。
3人の今日の担当者もそれぞれ手帳をお持ちだとか。
この会社自体、よく聞く人材派遣会社の特例子会社で社員のほとんどが障害を持った方らしい。

さて、覚悟はしていたがやはり障害者の雇用ニーズは厳しいようだ。
加えてshinは1月には51歳になり年令のハードルもある。
…と落ち込んでいてもしょうがないのだが。
きっときっと巡り合える職場がある…と信じたい。

shinが病気になってから次々と出てくる厳しい現実。
シンドくてもイヤでもそれを受容しないと前へは進めない。

その現実をゴクリと飲み込む度に、私の胃の中では理科の実験で使ったようなブンドウがゴロゴロと動き回る。私の中で現実がいつの間にか落ち着き、居場所を見つけ、代わりに何かを捨てる…その繰り返しだったようにも思える。

shinとは現実認識のレベルも違うので、そこでも私はストレスを感じてしまう。
これは良くない循環だと分かってはいるものの、じゃぁどうすればよいのか…。

今の私にはこうやって自分の気持ちを言葉にする事ぐらいしか出来ない。
後から読んで「全~部グチだ」と思えるものでも、言葉にする事で支えられている私がいるのだと思う。



*****



2004 12/12(日)


次女曰く「私達ももうサンタクロースを信じる年頃でもないんだよね」 「じゃぁクリスマスプレゼントもいらないってこと?」 「そうじゃなくて一緒に買い物に行って自分で欲しい物を決めたいな…って」 「ふ~ん」

…先日からそんな会話をしていたのだが、ちょうど定期試験も終わったので今日は子供達と外出。

いろんなお店が入っているショッピングセンターでそれぞれ予算内で欲しいものをチェック。

私も見たいものはあったが昨日も一日がかりの外出だったので頭が働かずボンヤリしている。
こんな時は変な買い物をする事が多いので、敢えて私の買い物はしない。

昨日の銀座もそうだったがボーナスサンデーのショッピングモールはクリスマスショッピングの家族連れでどこも一杯だった。

子供達は限られた予算の中でも楽しみながら迷っている。
shinは病前から、ユックリモードの買い物に付き合うのは好きでない人なので、今日は子供達と3人ノンビリ過す。

お昼も気に入った所でゆっくり出来て二人ともいい笑顔を見せてくれた。
思えば去年のshinの発病から子供達も結構シンドイ思いをしているはずなのに、shinの事・祖父母の事・家の事と手伝ってくれる二人は私にとっても大きな支えになっている。

これから二人とも進路を決める時期になるのだが、それぞれのやりたい事や夢を叶える為の努力を惜しまず、自分の道をしっかり歩んで欲しい…と思う。




*****


2004 12/13(月)


私が土曜日に飲み込んだブンドウの重さは確実にshinと違っていたらしく、優先度の違いが原因でとうとう私がキレる。

shinの優先度の違う行動が病気の為か只のモノグサなのかが分からない。
でも疲れているとダメね。
普通ならもう少し忍耐できる事でもガマンがきかず、出てくる言葉も超キツイ。

こんな時はshinにも自分にも苛立ちが増す。
早めに気分転換をしなければ…。



*****



2004 12/14(火)


皆それぞれの外出予定があったので私も出かける。
高速に乗って100kを出し、かなりスカッとして帰ってきた。

今抱えている問題の解決にはならないが、自分の気持ちを早めに切り替えないと私も周囲もキツイから。

と言っても私はアブナイドライバーではないのよ。
いつもは安全運転を心掛ける優良ドライバー。

今日は天気もよく(私の守り星座は太陽らしい)運良く高速もスイスイと空いていたので、アクセルを踏む右足にもグーンと力が入ったわけで。

落ち込んだ時、元気が湧かない時などに出来る気分転換の方法を沢山持ちたいと最近よく思う。
私は気持ちの切り替えがあまり上手ではないので、いつまでも引っ張ってしまう事がある。

そんな時うまく自分を弾けさせることが出来たら、もっと気持ちも楽になるだろう。



*****



2004 12/15(水)


12月に入り喪中のお知らせが沢山届いている。
その中でも同年代の友人知人からが今年は目立つ。
実家のお父さん、ご主人のお母さん…。
私達も親を見送る世代になってきた…ということだろうか。

そう言えば私が高校生の頃(母は今の私より少し若かった)、母方の祖父や父方の祖母が続けて亡くなった。
孫としての悲しみは充分あったつもりだが、その頃の両親の気持ちまでは理解出来なかった…と思う。

悲しみの中にもいろいろと処理をしないといけない決まり事も多々あり、日常の生活も止まってはくれない。
子としての責任、親としての責任…40代50代は抱えているものも結構大きく重いのかもしれない。



******



2004 12/16(木)


本日は主婦業の日。
お天気も良く、フトン・洗濯物をジャンジャン干し、しばらくサボっていた掃除もま~るく済ませる。

午後からは長女のリクエストのクッキーも作り何だか充実の一日だった。

オーブンを使うのは大好きだ。粉系もお芋もチーズ系もオーブンを使うととてもいい香りがする。
子供の頃、学校から帰って玄関を開けたとき、プーンと暖かい香りがすると何か幸せな気分になったものだ。

「お母さん、今日は何を作ったの?」…数十年前の私も、私の子供達も靴をぬぎながら同じ事を聞いているのがおかしい。

クリスマスが近づくとフルーツケーキやシュトーレン、クッキーなどを焼いてはおやつにしたり、親しい人にプレゼントしたりもしていたのだが、去年今年と生活のサイクルも変わりちょっとサボっている。

それでも今日は長女がお友達の家に持って行くクッキーを作れた。買えば何でもある時代だけれど、私はオーブンを使って子供達に小さな思い出を焼いているのかもしれない。



*****



2004 12/17(金)


我家の近辺にはまだ少しながら雑木林が残っている。
ベランダから見える東側の雑木林は結構横に広くて大きい。
春先にはあちこちにモヤモヤっと咲く桜もあるので、秋になると寒い地方ほどではないが紅葉もし、常緑樹とのバランスが美しい。

季節が進むと葉の落ちた木々は枝だけの姿になるが
朝日の逆光にくっきりとシルエットを見せるその枝々の繊細さは早朝だけに見られる美しさかもしれない。

でも昼間の力強さもある。
雲ひとつない青空に映える葉を落とした木々。
葉も花もついていない枝にあるのは次の春への準備の証しである冬芽だけだ。それでも裸の枝の重なりからは春の予感が
漂い、冬空に透けて見える枝の色も日々変化するのが分かる。

余分なものをすべて捨てた潔い姿に私は何度勇気づけられたことだろう。
小さい事に拘らないで、春は必ず来るから…。
見上げた木々からのメッセージは、ちっぽけな私にも直球でズシリと、変化球でフンワリと届く。

それにしても植物はエライと思う。
芽吹きから爽やかな新緑、開花、冬芽の準備…と段取りを違えることもなく、淡々と永々と命をつなげる。

それぞれに組み込まれたDNAの成せる業と言えばそれまでだが、どんなに厳しい天候が続いても弱音をはいたり諦めたりしない強さには、しなやかな力を感じてしまう。

この一年間の生活で挫けそうになった事も実は何回もあったけれど、その気持ちを軽くしてまた元気にしてくれたのは
いろんな形でサポートして下さった沢山の人々とあの雑木林かもしれない。

太古の昔から人は森から自然の恵みを分けてもらい、更にエネルギーをも吸収してきたのかもしれない。
私は木々に何のお返しも出来ないけれど、感謝の気持ちだけは忘れないでおこうと思う。




*****



2004 12/18(土)


今朝は次女のリクエストでまたまたオーブン仕事。
クッキーとブラウニーを焼いたのだけれど、BPや型紙用の紙を切らしていた。

いつもと違うモードへの切り替えが最近は上手くいかない。
私も注意力が落ちているなぁ。

ブラウニーはワンボールケーキなので材料をマゼマゼしていけば出来るのだけど、今日は砂糖で失敗した。
半端に残っていた粉砂糖を卵と合わせたのだが、いつまでたってもモッタリと泡立たないし。

きっと粉糖のコンスターチがまずかったのかも。
以前の私ならもう一度やり直すのだが、いい加減なところで諦めてそのまま焼いてしまった。
BPも泡立ちも不足していたので上がりは悪かったけれど、ソコソコのお味。

まぁ、これでもいいではないか。。。と開き直ってみたものの、暫くブランクがある事をする時は要注意。

shinは今年最後のPT。
F病院の入院サイクルは大体3ヶ月で、退院しても通院が可能なら外来リハになる。
リハビリの先生はどなたも入院患者と外来患者を担当しているのだけれど、担当のO先生の患者は増える一方なのでそろそろshinも卒業になるのかなぁ…と思っていたのだが。

来年の予約が取れたと言ってshinが帰ってきた。
あぁ、良かった。
昨年の病後半年間のような目覚しい進歩は無いにしても、専門家の指導の下でリハビリに励む事が出来るのは本当に幸せなのだ。

あちこちの病院のシステムなども時々耳にしたりするのだが、退院後3ヶ月の通院リハでスパッと切られたり…なんて事を聞くと胸が痛む。そこからの道のりが長いのだし、時として不安になる患者は技術的にも精神的にも専門家にサポートしてもらいたいと思っているのだ。

救急救命の技術が進歩し脳卒中の死亡率は以前に比べると大幅に減少したと言う。
その一方でリハビリの充実度はどうだろう。

F病院のように質の高いリハビリを提供できる所ばかりではないのが現実のようだし、慢性期のリハビリの受け皿が少ないのも現実のようだ。

また高次脳機能障害についての認識が医療機関でもばらつきがあり、適切な治療を何年も受けられないままの人も沢山いるらしい。

お年寄りの場合は「あら、おじいちゃん病気のせいでボケちゃったのかしら・・・」なんて思われる事もあるのかもしれないが、若い人はそうはいかない。

また症状によっても高次脳機能障害と分かれば早い段階から適切なリハビリを行う事で随分と回復できるのだから、まずは高次脳機能障害の社会的な認識の広がりが重要だと思う。

夕方Zさんからハガキが届いた。
shinが病気をしてから幾度Zさんに励ましてもらっただろう。
ハガキもメールも電話も、いつも私のシンドいタイミングを見計らったように届き、元気付けてくれるのだ。

今私が悪戦苦闘している事はすでにZさんは経験済みで、優しくでもしっかりとした言葉は私の心にグングン沁み込んでいくのがよく分かる。
ありがとう、Zさん。



*****



2004 12/19(日)


shinは年賀状の印刷。
並行して出来ないこともないのだけれど、shinの分が完成しないと私のも子供のも落ち着いて出来ない気がして随分せかせた。
一番ホッとしているのはshinかもしれない。

去年の年末はお客様状態のshinだったが、今年は大掃除や片付けも手伝ってもらおう。
早めにオーダーを出して段取りを立てるところからしてもらうのも良いかもしれない。




*****



2004 12/20(月)


shinはPCとOT、二人の娘は学校へと久々に皆外出。
明日から冬休みの長女は終業式があり、「夕方はキャロルがあるから」と言って出かけた。

長女の学校は終業式の日にクリスマスキャロルがあり、その後ナゼかお汁粉が出るのが恒例になっている。
今どきの子供達もお汁粉は好きらしく、毎年キャロルは賑わうらしい。

讃美歌に限らずクリスマスソングも最近は次々と出ており、ちなみに今年の私のお気に入りは某FM局のクリスマスイメージソング
~This Christmas Time/KERI NOBLE~。

小さい頃、幼なじみのMちゃんが私に歌を一つ教えてくれた。
「Tちゃん、シュワキマセリ教えてあげるね」
Mちゃんはきれいな声で
「シュワキマセリ~シュワキマセリ~シュワ~ア~シュワ~ア~ア~キマ~セ~リ~」と何回も歌ってくれた。

私もこのフレーズだけはマスターして家でも歌ってみた。
母も一緒に歌ってくれたのでこの曲は「シュワキマセリ」の曲だと一人納得したのだ。(ここで母がキチンと説明してくれていれば…)

その後成長して楽譜が読めるようになった時、母の讃美歌の曲集の中にこの曲を見つけた。
ナント「シュワキマセリ」は「主は来ませり」だったのだ。

私は一人合点の子だったので「シュワキマセリ」はクリスマスの呪文のような言葉だと思いこんでいたのだった。

この思い込みがとけた時の可笑しさと言ったら。
一人で暫く笑い続けて…。

その幼なじみのMちゃんとは4年前に会うことができた。
進学、就職、結婚とそれぞれ違う20年あまりを過してきたのだがお互いに一目で判った。

懐かしい思い出や現在の事など話すうちに時間は瞬く間に過ぎてしまったが、Mちゃんはジックリとした大人の女性になっており、「会えて良かった」と思えた事がとても嬉しかった。

新しいクリスマスソングもいい曲は沢山あるのだが、讃美歌
112番~諸人こぞりて~は幼い頃の懐かしい思い出と重なり、いつの間にか口元がほころびる一曲だ。

夕方shinは小さな花束を持って帰宅した。
「はい。今日は結婚記念日だから」
朝からも「今日は記念日だね」と言って出かけたが、ずっと曇りオツムが続いていて夕方まで覚えているとは思ってもいなかったので、驚きと共に嬉しさもこみ上げて来た。
ありがとう、shin。



*****



2004 12/21(火)


午前中ケアマネージャーのKさんの訪問日。
義父の手術の経過についても丁寧に話を聞いてもらい、本人も気持ちが落ち着いたようだ。

毎回そうなのだが、Kさんは約2時間を費やして話を聞いてくれる。
前半は両親とのカンファレンス。
内容によってはメールで先にお知らせしておく事もあるのだけれど、それでも両親の話も素早く記録をとりながら丁寧に聞いて下さる姿勢にはいつも頭が下がる。

後半は両親の状態を家族から聞き取る事と、shinとのカンファレンス。
こちらもポイントを押さえながら丁寧な対応。

今日は先日の登録の件や一月からの予定などをshinが話し、私は「最近shinが曇り気味なんです」と気がかりを説明。

特に血圧などに問題が無くても、脳血管系の病後は時々曇ることもあるそうで、あまり神経質にならないようにとのアドバイスがあった。

また来年からの事もあるので、そろそろノンビリモードから求職モードへの切り替えをしたいのだが、なかなかうまく行かない事も相談したら、
「いきなり新しい事への切り替えと言うよりは、一度ニュートラルになってみてはどうですか」
と優しい言葉が帰って来た。

ああ、そうだ。ニュートラル。
一気にこの一年間のペースを変えるなんて、やはり無理なのだ。
一度心を空っぽにして、新しい空気を詰め替えていけばいいのかもしれない。

Kさんの言葉にはハッとさせられる事が多いのだが、今日は特に目からウロコが落ちたような気持ちになった。
これはshinも同様だったらしく、「うんそうだ、ニュートラルだ」と感心していた。

shinが病気になってから何か問題が起きたり壁にぶつかった時に、必ず解決への糸口になるような言葉やアドバイスがあった。
「もうイヤだ。限界」とギブアップしたくなるような事も多々あったのだが、「もう少し頑張ってみようか」と思うようなエネルギーを誰かしらに貰っている。

頑張りすぎるのもシンドいが、諦めない粘りも以前よりは私に備わったのかもしれない。
人間は一人で生きては行けない…人間は一人では生きていない…明日を信じる気持ちって大事だと思う。



*****



2004 12/22(水)


今まで私の思いばかりを書いてきた。
「闘病記」は普通病気と闘った本人が書くパターンが多いようだが、shinには記憶に無い部分も多々あり、まだ気持ちの整理もついていないのかもしれない。
(この点について私はshinに尋ねたことがないのだが)

子供達はどうだっただろうか。
shinの発病以来、不安な気持ちになったり悲しくなったりした事もあったと思う。

それでも入院中も自宅復帰後も子供達は自然にshinと関わってくれた。
リハビリの見学、学習の手伝い、外出の補助…家族としてできる事を本当に自然にやってくれた。

リハビリのプロセスを一緒に見守ることでshinの回復を実感してくれたのだと思う。
shinにしても出来ない事は家族の協力を素直に受けていたし、出来る事が増えて来ると時間がかかっても自力でしようと努力もしていた。

ここで次女の文章を紹介しよう。
次女の小学校では毎年全学年の作文集を出すのだが、次女は6年生の作文でshinの病気にふれている。

「お父さんの事を書こうかな」と言っていたので「小学校最後の文集だしもっと楽しいテーマにしたら」とアドバイスしていたのだが、結局shinのことにしたようだ。

11月頃の文章らしいが、短いので原文のまま。





     「がんばろうか」
 これは、私の人生の大きな山の一つかもしれない。六月十四日、父が倒れた。脳の血管が切れて、入院した。梅雨の頃の出来事だった。私の夏休みは、病院に行って父に会うのが日課になった。
 父は、右手右足がまひをしていた。髪の毛一本の細さの血管が切れたため、車いすに乗っていた。リハビリでは、バーにつかまってゆっくり歩く事や、ボール投げ、話す練習をしていた。それもだんだん出来るようになってきた。
 「がんばろうか」
と言う言葉が、私の合言葉になった。
 病院では私は色々な人と出会った。父の命をみつめ、かかわっていくうちに、心が優しくなれる気がした。患者さんたちと話しているうちに、私もがんばろうと思えた。
 今、父は退院し、リハビリをしている。
これからが大変だ。けれど、がんばろうか。





******


2004 12/23(木)


昨日は次女の作文から短い文章を紹介した。
長女は昨年の夏休みの「自分史を書く」宿題にshinの事をテーマに選んだ。

「ちょっと自分史とはずれてない?」と私が尋ねると「先生に相談したらお父さんの病気の事もOKって言われたから大丈夫」と言う。

それなら記録の一つにもなるし書いてみたら…と言っておいたのだが。
結構長いものなので途中少し削った部分もあるが、ほぼ原文のままである。







 6月14日。自宅の1階でテレビを見ていると、2階から奇妙な声が聞こえてきた。上がってみると、午前中授業参観に来ていた父が床に座り込み訳の分からぬ事を口走っていた。ただ事ではないと思ったが、どうして良いか分からずに立ち尽くしていると、祖母が様子を見に来た。そして、父を一目見るなり「救急車をよんで!」と叫んだのである。

救急車?なんで?どうして?そんな思いや不安が頭の中を交錯したが、私は弾かれた様に電話に飛びつき119番通報した。
その後、父の手を握り「もうすぐ救急車がくるからね。大丈夫だからね」と励ましたが、相変わらず妙な事ばかりを口走っており、よく見ると右手右足がぐにゃりとしていた。

数分後、救急車が到着した。救急隊員の人が部屋に入り父に話しかけたりするのを私はぼんやりと見ていた。
まもなく父は救急車に運ばれ、私も祖父も乗った。受け入れてくれる病院が中々見つからなかったが、ようやく見つかったのか、走りだした。

 父が運ばれた病院はH病院であった。この病院は、最先端の医療機器などが備えてあり、カルテは全てコンピュータ化されているのだと言う。

治療の間、先程連絡した母が来るのを待っていた。時間がどんどん経つのに比例して私の不安も増していった。
その不安も最高潮に達しかけた時、妹と外出していた母が来た。「大丈夫だった?よく頑張ったね」この言葉に思わず涙が出た。

暫くすると先生の説明があった。
診断の結果、父の病名は脳出血だった。左脳の視床と言う部分の血管が切れていたらしい。
左脳は言葉や記号を使った論理的機能や言語能力、時間の観念、計算などを司っている。
そこにある髪の毛一本分の血管が切れたのだと言う。

この説明を聞き、私は父が死んでしまうのではないかという不安に襲われた。
意識はしっかりとしているらしいので少し安心したが、「24時間以内に再出血すれば命の保障は出来ないし、体の麻痺や言語障害などの後遺症が残るかもしれない」と言われた。

場合によっては手術をしますと宣言され、母はその後、手術に対する同意書を書いて提出した。

3階のICU(集中治療室)にいる父との面会を許された。ICUは重症患者を収容しているので出入りは厳しく、入るのに3つのドアを抜けなければいけない。
さらに手の消毒は必須である。

父は奥のベッドにいたが顔を合わせた瞬間その場から逃げたい衝動に駆られた。私を見つめていた目が普通ではなかった。まるで科学者を見つめる実験用の動物の様な目だったのだ。  

仕方がないと解っていても、父をまともに見ることが出来なかった。
それでも母は「絶対大丈夫だから。諦めないで、頑張って闘おう!」と父に言った。
後遺症の事などで頭が一杯で混乱していた私に比べ、こんな時にもいつもの気持ちを保ち続けている母は強いと思った。

 その後、病院に母を残して私は祖父と家に帰った。祖母と妹に病状の説明を簡単にした後、部活の先輩と友達に明日の予定のキャンセルを連絡した。
そしてテレビを見ながら帰りを待った。
待たずに寝ていなさいと言われていたが、何かせずにはいられなかった。

11時頃に母から電話があった。「今夜中に手術をする」と言う内容であった。結局その電話の後、私はベッドに入って無理矢理寝ようとしたが、意外とあっさり眠れてしまった。

次の日、起きてすぐに母に様子を聞いた。手術は長時間におよび、帰宅したのは日付が変わってから。手術後、父の頭には髄液を出す為の管を2本差し込んであると言う。

「今は落ち着いているから。お父さんは悪運が強いから大丈夫。これからは母さんもお見舞いとかであんまり家にいないけれど、そこは分かってね」母の言葉は最強のお守りだ。
この時ほどそう思った事は無かった。

「明日から1週間は念のため部活を休んで欲しい」と母から言われていた。何となく学校へ行くのが恐かった。

月曜日、私はいつもどおりに登校した。毎朝学校へ一緒に行く友達が、普通に話をしてくれるのが嬉しかった。その後、担任の先生と部活の顧問の先生に事情を話した。
担任はすでに知っていたので励ましてくれた。顧問の先生も快く部活を休む事を承諾してくれた。

それからの一週間は大変だった。生徒呼び出しの校内放送を聞くたびにヒヤッとする。
部活がとても恋しかった。

何より辛かったのは駅や街中で親子連れを見かける時で会った。今まで存在自体が当たり前だった家族が欠けている、当たり前だった人がいないと感じてしまうのだ。親に叱られた時にはよく「親なんてウザいだけだ!」と思っていた。
それなのに、その叱ってくれた人がいなくなると、あの笑い声が懐かしくまた聞きたくてたまらないのだ。
人間ってこんなものなのだろう。ウザいと思っていても、結局心のどこかではその人の事が大切だと感じているものなのだ。

父が入院してから1週間後、私は母と妹と3人で病院へ行った。私にとっては2度目、妹にとっては初めての面会であった。

ICUに入るときは1週間前の事もあってか、少し緊張した。しかし父は1週間前とは明らかに違っていた。私や妹が話しかけると何かしら反応を示し、時々照れたように顔を背けるのだ。

何より自分から話しかけてくれる。意味不明な事ばかりだったが、それでもこれは驚くべき変化である。
帰り際に握手をしてもらった。私の手を握る父の手から「負けるものか」と言う気持ちがヒシヒシをと伝わった。

 父が入院していからちょうど10日目の6月24日。母から、父が一般病棟に移ったと聞かされた。久々に聞く明るいニュースであった。母の話では、これから本格的なリハビリに移るようだ。父はとても負けず嫌いな性格なので、きっと頑張れると私も母も信じていた。

その次の日からリハビリが始まった。父の場合は作業療法(OT)理学療法(PT)が用意されていた。
作業療法では手の訓練、理学療法では足の訓練を行っていた。
ある程度調子が出てきたら、リハビリ専門病院へ移る予定だと言う。

それからの20日間、父のリハビリは進んだ。そして7月16日、更なるリハビリのためF病院に転院した。ここでは作業、理学に加えてH病院ではなかった言語療法も加えられた。

転院後、夏休みになった事もあり私はちょくちょく面会に行った。面会に行くと父はその日の出来事や同室のKさんの事などをよく話した。
一つ私が気に入らない事は叔父の名前と私の名前を取り違える事であった。

家族4人の会話の時間が以前より増えたかもしれない。転院後2ヶ月目からは、言語療法の宿題に加えて右手のリハビリも兼ねて母が買った算数や国語の文章問題のドリルを解くようになった。

8月の後半になると、父は理学療法の一環として外歩きを理学の先生と始めた。わずかな段差、階段、坂道、人ごみ、健康な時には何でもなかったものが、父をひどく緊張させる。
しかし、最後に3階の病室まで階段を上り終えた時は疲労と共に大きな充足感が得られたようだ。

母はその事を聞いて、散髪を兼ねた初外出を計画している。
発病当日、授業参観の帰りに散髪したきりだったので、父の額には管を差し込んだ時の傷口が二つあったが、傷もきれいになり部分的にカットされた髪も傷口を隠すまでに伸びている。

リハビリ科のドクターをはじめ、理学の先生や、担当の看護師さん達は大賛成だ。
患者さんたちに対して、いい刺激はどんどん与えるのが病院の方針らしい。
父は外出に備えてステッキを1本借りる事にした。

そのステッキは当分返さなくてもよくなった。
今まで車イスの移動が主だったが次週からはステッキ歩行となったからだ。
勿論誰かと一緒であるのが条件だが、これは大きな進歩である。

この話を聞いた時、私はH病院で歩行訓練を受けていた父の姿を思い出した。その頃の父は、極度に緊張した顔で最初の一一歩を踏み出していた。
それと比較すると、今、父に少し出てきた余裕の表情を私は嬉しく思い、父の頑張る姿を誇りに思った。

今年は天候も不順で冷夏と言われたが私にとってもいつもと違う夏休みだった。
以前は夕食の配膳ぐらいしか手伝わなかった。最近は母が用意してくれた夕食を温め、私が作った味噌汁を出せるようになった。味にムラがあったり具の大きさがマチマチだったりしたが、今では私の自慢料理である。ちなみに好きな具は茄子である。

 父の突然の病気により、本人はもとより家族全員がパニックに陥った。
特に70代、80代の祖父母は気丈に振る舞っていたものの、息子が命に関わるような病気になり大きなショックであっただろう。

母は父の病状に加えて祖父母の事も注意深く見ていた。
頑なに面会を断っていた祖父母も先日、発病後70日ぶりに父と会った。
二人の肩の力が少し抜けたように見えるのは気のせいだろうか。

さて私達はどうだったか。
妹と相談し、家事の分担を決めた。とりあえず出来る事は母の負担をなるたけ減らす事だと気づいたからだ。
しかしいつも出来ていた訳でもなく、反省する事もしばしばだが、以前よりは家事全般に多く関わるようになり、母からも感謝されている。

 9月の連休には父の初の外泊も予定されている。車の乗り降りをはじめ、2階への13段の階段、狭いトイレや風呂など、課題は沢山ある。でも父は外泊を楽しみにリハビリを頑張っている。私も茄子の味噌汁を味わってもらいたい。

その後さらに1ヶ月、父の入院は予定されている。リハビリの内容は、益々ハードなものになっていくだろう。
しかし私達は希望を失わず父をサポートしていきたい。
来年の6月14日、この話を笑いながら出来るようになるために。





以上が長女の文章である。
夏休みに書いたので9月10月についての記載はないが、長女もこんな風に感じていたのかと思うと改めて子供達へ与えてしまったものの大きさを感じずにはいられない。




******

以上ここまでが2004年分の記録です。
2005年からの日々の記録は日記の過去ログをご覧ください。

2005年からはいよいよ就職活動が始まります。






まえへ(11)


就活へ











































© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: