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知恵は出した分だけ賢くなれるいつも反省するのですが。知恵の出し惜しみはどうもいい結果を齎さないようです。それほど知恵がある訳でもないくせに、私のような自惚れの強い人間に限ってそんな事をするんです。知恵を披歴する必要はありませんし、見せびらかす事も要りませんが、必要な知恵はそれとなく提供することで新たな知恵が浮かぶものです。また、その知恵を頂いた方々が、それに倍する知恵を授けてくれますし、人間的な評価だって上がって来るものです。悲しいかな、持ち合わせがないにもかかわらず、深い知恵を如何にも持っているかのような所作や言動はそのうち見透かされて、人としての値打ちまで落とし、かつ失ってしまいます。「物事はオープンにしなさい」「オープンにした以上に情報は集まってくる」とも教えて頂きました。事業でもそうです。よりオープン化されている企業、見える化が徹底している企業は却って顧客との信頼関係が深まり、関係企業ともつながりもより徹底し、第一社員の意識が違って見えます。ベールに包まれた行動は一時的には、カリスマ的だとか、何か深いものを感じるように思えますが、実は薄気味悪くて実態が見えませんし、不安だとか恐怖心を煽る結果を招きます。実は知恵の塊と言われる人を良く観察してみると、自分の事を包み隠さず見せる事に衒いが見えませんし、人の言う事に目を輝かせて頷いているようです。そんな人はまた、人の知恵を引き出すことに長けているのかもしれませんね。私のように、勉強しても知恵や知識が深まらない所を見ると人との知識の出し合いの行動が足らないかもしれませんね。多くの人と対面して、笑顔を重ねながら大いに知識知恵のやり取りをしないといけないようです。『他人の知識で物知りになれるとしても、智恵者には私たち自身の智恵によってでなければなれない。モンテーニュ』『知識を増やすほど、創造できる。ジュリアチャイルド』『知識で最も重要なことは、得た知識を生かすことである。孔子』
2012.03.01
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お陰さまの四世代クリスマス昨日の午後はお陰さまで四世代のクリスマスのクリスマスパーティを開催出来ました。94歳の母を筆頭に、一番下の孫まで年齢差92歳。お陰さまです。その一番の功労者は母でしょう。小説にもなる位の大変な一生を歩んだ人でした。このブログに書けるほど、単純な事でもありませんので割愛致しますが、普段のおばあちゃんの人生の倍くらいは波乱万丈な人生でした。新聞にもその一端が掲載された事もありました。私にもその多くを語ってはくれませんが、いつか、私にも詳細の片鱗を語ってくれるものと思っています。でも、残された時間が少ないのが問題です。或いは、片方ではここまで来て今更ながら思い起こさせるのも酷の様な気もしますし、取り戻せる人生でも年齢でもありませんから、そっとしておいてあげるのが親孝行の様な気もします。最近、生活の場が小さくなりましたし親兄弟と都会の中で共に生活するのも難しくなりました。三世代も四世代も一緒に揃って、お祝い事や行事をこなす事が稀有な時代となりました。田舎育ちの私にしても、自分の祖父母までは知っていても曾祖父母までは全く知りません。増してや都会育ちの子供にとって、祖父母と過ごす時間は無いか、若しくは僅かかもしれませんね。孫たちには、曾祖母の姿に接することで人の生き様であったり、歳を重ねる事がどういう事なのか、人が終焉に向かってどのような経過を辿るのか・・・・・多くを学んで欲しいと思っています。四世代のクリスマスパーティは、ただ可笑しく楽しく美味しいものを食べただけではなく、人間そのものを真剣に見つめる絶好のであった事を孫たちに学んで欲しいと思っています。多分、彼らが成人を迎える頃にでもそんな曾祖母の存在を思い起こしてくれる事を望んでいます。人は経験や過去から学ぶよりも歴史や先人から体を張った生き様から学ぶものです。本当に楽しい、五時間にも及ぶ家族のクリスマスは終わりましたが、実に「お陰さまのクリスマス」でした。最も楽しんだのは当の私かもしれません。
2011.12.24
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台風15号から「薩摩義士」を思い出しました。今頃は、名古屋地方に上陸しているのではないでしょうか。殆どの台風は、発生時点よりも幾らか勢力を落としながら、日本本土へ近づいてくるのですが今度ばかりは事情が異なります。奄美付近で、台風の中心が一回転するなどとても普通の台風とは思えませんでした。岐阜県、愛知県付近へ上陸しそうな事を受けて思いだしました。皆さんは、「薩摩義士」の話をご存知ですか。「赤穂浪士」は主君の仇打ちの為に起こった事件ですが、薩摩藩は江戸幕府から命じられて洪水の絶えない木曽三川の普請・治水工事を命じられました。当然、薩摩藩の弱体化を狙った一石二鳥を狙ったのです。この事で、薩摩藩は財政難となりしかも多くの犠牲者を失うこととなったのです。今でも、岐阜の海津町ではその偉大な事業に対して尊敬の念を持って感謝のお祭りが場されていると聞きます。**********宝暦3年(1753年)12月25日江戸幕府は薩摩藩(現、鹿児島)に木曽三川(岐阜県)治水工事を命じた。工事は薩摩藩の家老平田靱負が総奉行となり幕府の厳しい監督の元にすすめられた。大勢の犠牲を強い、また藩の財政を圧迫するなどして工事が成し遂げられました。◇治水神社と千本松原◇工事の総奉行である平田靱負はその責任を負い「住みなれし 里も今更 立ちぞわずらふ 美濃の大牧」と辞世の歌を残して命を絶ちましたが、治水神社はその平田靱負を祭神に(昭和13年)に建てられました。治水神社と同じく宝暦治水関係の史蹟で治水工事の完成を記念して幕府の命により薩摩から取り寄せた日向松が千本植えられました。今では樹齢200年を超える松林となり千本松原と呼ばれ人々に親しまれています。**********資料提供 常栄寺様(海津市平田町今尾)より頂きました。ありがとうございます。
2011.09.21
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今日は、facebookのセミナーです最近、毎月1回のペースでセミナーの講師を勤める事があります。参加される方々に十分に納得頂けるセミナーになっているのか、なるのか分かりませんが、持っている私自身のスキルの全てをぶっつける事にしています。今日の、facebookのセミナーもそうです。私が取得したもの、経験上感じた事を少しでもご参考にされて、お役にたてれば本望と言う事でしょう。日頃、走り回っている中での資料づくりですから、自分でも満足なものは出来ていませんが、あとは私の話で意図するところを汲み取って頂ければ。Facebookが、本当に社会から必要なものとして根ざしていくのか、過去にもあったように一過性になるのか、それは多くの方々がfacebookに参加してみて評価を繰り返しながら育てていくもののような気がします。まずは、関わってみること。それからが始まり。役に立ちそうでなければ、周りの意見も参考にしながら止めればいいし、少しでも感じるものがあれば突っ込んで勉強をしてみる。とにかく、今日も一生懸命にぶつかって、話します。
2011.08.22
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アダムス中佐が見た安政地震時の日本人アメリカのアダムス中佐が日本との条約の批准に下田を訪れたのが、1855年1月26日。安政東海地震が発生したのが、1854年12月23日。マグニチュード8.4到着の一ヶ月後に下田に降り立ったアダムス中佐は、その悲惨な悲しい姿を目の当たりにする事になったのです。後日書かれた遠征記に往時の日本人の様子がつぶさに書かれている事を知りました。『地震によって生じた災禍にもかかわらず、日本人の特性たる回復力が発揮されていた。これは彼らのエネルギーを物語るものである。彼らは気落ちせず、不運を嘆かず、雄々しく仕事にとりかかり、ほとんど意気消沈してはいないようだった。ポータハン号(アダムス中佐が乗ってきた船)が到着した時、日本人たちは忙しく片付けと再建に取り掛かっていた。連日、あらゆる地方から石材、木材、屋根葺き材、瓦、石灰などが運び込まれ、ポータハン号が出発するまでには約300軒ほどの家がほとんど、または完全に出来上がっていた。ただし同艦の滞在中にも時折かなり強い余震があり、再び災禍が起きるかもしれないと警告されていた』実はこの32時間後に安政南海地震、マグニチュード8.4の巨大地震が勃発し、大変な被害が出ている。今度の東日本震災で日本人の立派な姿が改めて認識されたのですが、安政の地震の頃にもやはり外国人の目に同じような状況が映っていたのですね。
2011.08.11
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命には限りがある事を少しづつ認識を・・・・・最近、様々な事を経験しました。命にかかわる事、心に関わる事、・・年齢を重ねると、つい気弱になってみたり、将来が不安になってみたり、病のことで必要以上に神経質になったり、脳裏を霞める事が、いい事だけではないようです。命を考える機会を頂きました。自らの命の限りを知る事も大事なようです。命は天から与えられたものと信じますが、自ら先を見る事も出来ませんし、宿命として受け入れざるをえませんが、いつかは絶えるもの、永久(とわ)の命などあり得ないこと、必ず別れの機会が訪れる事を、認識しておく必要がありそうです。年輪を重ねるごとに、常にその心構えや備えを怠ってはいけないような気がします。突然襲ってくる命の限りもありますが、たいていはじわりじわりとにじり寄って来るような気がします。宗教の存在もそうでしょうし、命の終焉に立ちあう事や、告別式やお別れの会などの行事に参列する事、或いは周囲の方々と命や死について、忌憚のない気持ちを伝えあったり、教え合ったりする事も命を全うする過程で重要な事のように思えます。いつ絶えるともしれない私どもの命ですが、確実に絶える時が来る事、そうであれば日常をどのようにする事が自分にとって最も相応しい生き方であるかを考えておく事が大切で、それが、穏やかで平穏な命の全うへ誘う有用な有り方のように思えます。それが歳を重ねることであって、命の限りを尽くすことであるような気がします。
2011.07.20
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人生で大切なこと、生き続ける理由は?ある方からネット上でこんな質問を頂きました。多分私のブログをご覧になられてのことだと推察いたします。難しい質問です。出来れば簡単には答えたくないほど、勿体ない質問でもあります。でも、短い時間にかつ、簡潔に答えなくてはいけませんし、重い答えでも困りますよね。このように答えました。人生、人それぞれですから、万人に万人なりの生き方、人生観がありますから押し並べて語る事などできませんし解答なども存在しませんよね。でも、生きる根幹、与えられた生き方の基本みたいなものは人類に共通して存在するように思うのです。『○● ◎○さんへ・・・・・(学生さんのようでした』簡潔にお答えするには、余りにも紙面に限りがある事を勘弁して下さい。1、 人生で大切なこと、学生時代は良く遊べと言われますが?学生時代は大いに遊んでおけとは良く言いますよね。でも遊ぶという事は実は学べという事であって、学校で学べないこと、来るべき人生に備える事を言っていると私は解釈しています。社会をリードしている多くの人々を見れば一目です。2、 生き続ける理由それは社会や家族など守るものがあり、未来に繋がるものがあるからでしょう。義務とか責任とかではないですよね。護る事が自然体で本能的に備わっているからでしょう。生病老死、人生はむしろ機会としてはそんな四苦に悩まされる事が多いものですが、人はそのようなことに耐える、乗り越える知恵を重ねてきたのです。生きる事が人としての最大の喜びとして感じるように出来ているからと私は理解しています。答えになっていませんが、極めて個人的な思いとしてお聞きください。』
2011.07.10
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知恵は出した分だけ賢くなれるいつも反省するのですが。知恵の出し惜しみはどうもいい結果を齎さないようです。それほど知恵がある訳でもないくせに、私のような自惚れの強い人間に限ってそんな事をするんです。知恵を披歴する必要はありませんし、見せびらかす事も要りませんが、必要な知恵はそれとなく提供することで新たな知恵が浮かぶものです。また、その知恵を頂いた方々が、それに倍する知恵を授けてくれますし、人間的な評価だって上がって来るものです。悲しいかな、持ち合わせがないにもかかわらず、深い知恵を如何にも持っているかのような所作や言動はそのうち見透かされて、人としての値打ちまで落とし、かつ失ってしまいます。「物事はオープンにしなさい」「オープンにした以上に情報は集まってくる」とも教えて頂きました。事業でもそうです。よりオープン化されている企業、見える化が徹底している企業は却って顧客との信頼関係が深まり、関係企業ともつながりもより徹底し、第一社員の意識が違って見えます。ベールに包まれた行動は一時的には、カリスマ的だとか、何か深いものを感じるように思えますが、実は薄気味悪くて実態が見えませんし、不安だとか恐怖心を煽る結果を招きます。実は知恵の塊と言われる人を良く観察してみると、自分の事を包み隠さず見せる事に衒いが見えませんし、人の言う事に目を輝かせて頷いているようです。そんな人はまた、人の知恵を引き出すことに長けているのかもしれませんね。私のように、勉強しても知恵や知識が深まらない所を見ると人との知識の出し合いの行動が足らないかもしれませんね。多くの人と対面して、笑顔を重ねながら大いに知識知恵のやり取りをしないといけないようです。『他人の知識で物知りになれるとしても、智恵者には私たち自身の智恵によってでなければなれない。モンテーニュ』『知識を増やすほど、創造できる。ジュリアチャイルド』『知識で最も重要なことは、得た知識を生かすことである。孔子』
2011.06.29
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??宣告をされなくて済みました歯切れの悪い言い方はあまり好きではないのですが、今日は歯切れの悪さで終始致します。約1ヶ月の間、それは悶々とした日々を送りました。でも一切表情には出しません。だって変な憶測を呼んだり、関係のない人に無用の心配をお掛けするのも嫌ですから。まさしく今日の午後2時がそうでした。ここ数日間の検査結果が出る日でしたし、或いは私の今後に決定的な影響を及ぼす事態が待ち受けているかも知れない由々しき事態でした。人は、結果が分からないが為に最悪の憶測に終始したり、本来ならしなくてもいい腐心に塞ぎこんでみたり、悟られない為にわざとらしい行動に出てみたりするものです。結果は幾らか雲のかかった晴れでした。何かしら、ふっきれたような、ふっきれていないような不思議な気分です。でも、今後も従来と同じような行動が制約なしで出来ることには大いに喜びたいと思います。幾らか治療が残ってはいるものの、命に係わる事ではありませんから胸を張って専念できそうです。その間、色んな思いが交錯しました。中身はいつかまた、時期が来ればブログにも書いてみたいとも思います。皆様のご参考になる事も十分あるでしょうから。??宣告をされる前の恐怖感や焦燥、せつなさや無力感、申し訳ない思い、あるいは諦めなど今まで経験する事のない精神的苦痛と言うか、人生のはかなさと言うか自分の力では如何ともし難い現状にどうしようもない自分の哀れさを重ねたりしたものです。これでまた、人生に大きな試練に立ち向かう事になりました。決して無駄にはならないでしょう。人の生き様は、様々な困難や苦難をひとつひとつ乗り越えながら、成長していくものでしょうから新たな勲章として生きる力にしていかなくてはいけませんよね。『自分の生命(いのち)を愛しても憎んでもいけない。だが生きている限りは生命を大切にするがよい。長く生きるか短命に終わるかは、天に任せるがよい。ミルトン』『天が私にあと十年の時を、いや五年の命を与えてくれるなら、本当の絵描きになってみせるものを。葛飾北斎』『心も歓喜と快活に保つがよい。そうすれば百害を防ぎ、寿命をのばす。シェイクスピア』
2011.06.28
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厳しい言葉だけど、人間としての逞しい生き様を教えて頂けます福岡市中央区と南区の境目に鴻巣山が存在します。山と言うにはそんなに高くもありませんから言わば丘と言うのが相応しいかも。多分、江戸時代には鬱蒼とした山里だったのでしょう。人が余り近づかない場所だったかも。近くに、高杉晋作や平野二郎国臣等がひそかに集まった、或いは匿われたとされる野村望東尼さんの居宅もある位ですから福岡藩から目につかない場所であった事は否めません。その鴻巣山の一部が平尾霊園になっていますが、そのお墓の中でひときわ際立った存在のお墓がそびえたっています。霊園の入口正面に立っているので、霊園に足を運んだ事のある人であればだれでも一目を置かれたのではないでしょうか。福岡相互銀行、福岡シティ銀行の創業者一族の方々のお墓です。と言うか、私どものようにしばしば訪れる者にとっては、一つのモニュメントのような存在です。建立は、昭和37年、四島一二三と記載されています。お墓に書きしたためられている言葉が素晴らしいのです。厳しい時代背景も伺えますが、地域のトップ経営者としてリードしていかれる立場を感じますし、迸るような気概を感じます。皆さんも平尾霊園のお近くにお見えの時には是非立ち寄って頂き、ご覧くださいませ。ご覧になるときっと感動されます。『堅持せよ 鉄の意志と精神力断行せよ 信念の前に不可能無し』『希望なきは 死なり 満足は腐敗なり勇気なきは 精神的死者なり一も努力、二も努力 努力なくして家庭の繁栄なし 平和なし 幸福なし』『安心と自惚れと油断は禁物心の弛みは強盗より怖い精神は常に武装せよ』『祖先に対する最上の祭りは道を守り 業を励むにあり』
2011.06.27
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人を上げ諂ったり、悲しませたり、苦しめたり、困惑させては駄目人はそうでなくても、上げ諂(へつら)ったり、悲しませたり、苦しめたり、困惑させているものです。人間の精神の根底にそんな思いや行動が潜んでいるのでしょうね。若しかすると私だけかもしれませんが。そのような言動をした後には、後悔はするんです。後悔する位なら始めからしてはいけないんですよね。人の性(さが)と言うか、業(ごう)と言うか、人たる所以かもしれませんが考えたら悲しい事です。人を陥れたり、苦しい環境に追い入れたりする事は結局、自らの道をそこに導いていく事に繋がるようですし結果を作りだしているに過ぎないような気がします。所謂、自業自得、因果応報、先ほどの言葉ではありませんが業(ごう)と言う事でしょう。怒りの表情の絶えない人は、どうも怒りの中でしか生きていけないような気がしますし、笑顔の絶えない屈託のない人は終生、屈託のない人生を送れるように思えるのです。また、そのように信じ、行動する事が大切なんでしょう。人を上げ諂(へつら)う事に終始する人は、人から蔑視の眼差しで見られ、いつの日にか足元から崩れ去るように人生の根幹を失う事にもなってしまいます。人を悲しませることに終始する人は、その悲しみが倍加して戻って来る事を記憶するべきです。人を苦しめることに罪悪を覚えない人は、そのうち奈落の底に落ちる事を想像しておかなくてはいけませんし、地獄の釜が蓋をあけて待ち受けている事を知るべきです。人を困惑させることに終始する人は、重大な岐路に立った時に間違いなくとんでもない悪路を自らの判断で選択してしまうものです。「引き寄せの法則」と言われます。自らの人生は自らの引き寄せによって実現されたものであって、その修復や改善は極めて難しいものと言っても過言ではないでしょう。明日から、その事を肝に銘じて生きるのか。私の今の心の在り方こそ明日の命運を分けそうです。
2011.06.24
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ブログがfacebook上に自動でアップされることに自分個人のURLや企業のウエブサイト上に自動で掲載されるようになると有難いと思っていましたが、やっと念願が叶いました。ブログを書き始めて約7年。A5サイズの冊子にして、6000から7000ページビュー位になっていると出版関係の方が教えてくれました。衆目にさらされるほどに恥ずかしく非才に泣くばかりですが生の心が迸(ほとばし)っていると感じて頂ければ有難い・・・・・ただその思いで書いたつもりです。そんな事をさらけ出していいのかとか、みっともないとか、恥ずかしくないのかとか、自己顕示欲の現れではないかとさえ、自分自身危惧しますが、その目的はただ一つ、「今までを大いに反省し、戒め、これからに勇気を与え、自身を励ますため」明らかに自分の為と釘をさしながらの事ではありますが、ブログの性格上、多くの方々が目にする訳ですから私の人生や考えを垣間見ることで、ご参考に給する事が出来ればこれに勝る有難さはないと思っています。恥じる事のない人生いを送るために、これからも継続を旨として無理なく自然体で書いていきたいと思っています。
2011.06.23
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人物判定?今日、たまたま出かけて病院の週刊誌で見つけた記事です。久しぶりに週刊誌を手にしました。政治関連と原発関連の記事が殆どです。一番ニュースバリューがあるのでしょうね。中でも政治関連は、もう食傷気味、「いい加減で退陣してくれ!!」と言いたくもなります。三行半を下された人間が未練がましく、しがみつくのも滑稽で見ていても可笑しいものです。国民の80%を越える人々が、退陣をすべきと考え、自身の党内や閣内を問わず退陣を要求されているのですからいさぎ良くしないと、後世で恥をさらすことにもなってしまいます。身内や昔の同僚からまで「彼が総理大臣になったら日本から離れる」「ペテン師、嘘つき」「心がない」「信用できない」・・とまで言わせる総理は未だ勝手聞いた事がありません。ブログに書くのも嫌になってしまいます。さて、アメリカの人々の人物判定の記事が載っていました。1、瞬発力 2、論理的発言 3、ユニークさ4、ネアカな気質とユーモアセンスらしいです。これは、通常で言う人間性ではなくて、リーダーとしての素質を見る時の人物判定と見た方がいいでしょうね。その目で見れば、1、信頼に基づく行動力、実践力 2、倫理に基づく論理的発言や行動 3、強力な説得力と独自的、明晰な発想 4、人を引き付ける人間性私流に言えばこんな所でしょうか。私に不足している所ばかりで恥ずかしい限りですが、そんなリーダー、とりわけ国の宰相はそんな人であって欲しいものですね。
2011.06.18
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愛の押し売り今はそんな事は殆どなくなりましたが、昔は良くあったような気がします。相手が、子供であったり、例えば妻であったり、若しくは友人などに対してもそう言う所があったような気がするのです。皆さんには記憶はありませんか。「俺はこんなにお前たちを愛している」「これほど愛しているのは俺の他には誰も存在しない筈」「俺以上に愛する人がいれば、その存在を見てみたい」結局は「俺の愛情が分からないのか」となってしまいます。愛情の限りを言葉だけでなく、様々な所作で表現していたような気がします。アメリカやヨーロッパの人々が、これでもか。これでもかとこれ見よがしに表現する愛情はどうも私ども日本人にとっては、オーバーな表現としか映りませんし、どうも希薄な感じがして仕方ありません。そんな見方をする私どもが、自らが行っている愛情表現をオーバーと言おうとしている訳ですから、人によっては何をかいわんやと言う事になってしまうかもしれませんね。愛情表現は、受け止める側の人間によっても左右される所ですし一概には言えませんが日本人らしい愛情表現があるわけで、私どもがオーバーだと感じる表現に固守する事はないようにも思います。感受性の豊かな人、敏感な人は他人の言動や所作にも鋭敏に反応する訳ですしね。日本人の国民性は、その方ではないでしょうか。これ見よがしの愛情表現は、鼻もちなりませんし、時には嫌みにも感じてみたら、鬱陶しくもなるものです。日本人は日本人らしい、古来からの国民性を大事にして、心の繋がりを大切にできる愛情表現であって欲しいものです。私どもが一番下手なのが、愛情表現と良く言われますが実は「人を愛する技術が存在すると日本人が一番」と思うのですが如何でしょうか。愛の押し売りはどうも一時的にはOKでも、長続きはしないようです。愛は相手にそれとなく、心地良く受け取れる程度が良さそうです。大いに反省を込めて。良く言います。「溺愛は子供を駄目にする」!!
2011.06.17
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苦しみ、悲しみを避けては駄目!!先日もこれに近いタイトルで書いたような気もします。最近、我が身を憂う事態に襲われる事が多くなってしまいました。何も世の中に反逆的な行為をした訳でもなく、事業や家庭生活で苦痛を与える事をしたでもなく、人に悲しみを与えた訳でもありませんが、避けて通れない事態に悩まされることになってしまいました。でもでも、私の理屈からすれば決して避けてはいけない事態です。正面から対峙して、恐れることなく物事の推移に逆らわないで全うする事が重要と思われます。苦しみを掛けては駄目、避け始めると逃げの坩堝にハマってしまい、いよいよ這い上がる事さえできなくなってしまいます。悲しみに負けては駄目、悲しみは悲しみにどっぷりつかることで、言うに言われぬ快感に満たされるものです。それこそ、悲しみの思う壺。避けないこと、負けないことが重要なことです。萎える気持ちを奮い起して、立ち向かってこそ解決の糸口が見えて来るものです。人生は絶え間なく、好まないことが押し寄せてくるものです。その解決にあたる為に、人生が存在すると言っても過言ではないでしょう。生病老死、どれをとっても大変なことですが、幸せはその合間を縫って存在するようなものです。苦しみや悲しみは、経験し、乗り越える所にこそ醍醐味がありそうです。醍醐味などと勇ましい事言う私にしても、与えられた今の試練を逞しく乗り越えられるかが大きな課題でもありますが。
2011.06.16
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子供たちへ贈る言葉の筆が進まない数ヶ月前から、どう言う訳か「子供たちへ贈る言葉」を纏めようと思いながら筆がなかなか進みません。六つの項目に分けて、書こうとタイトルは決めているのですが。1、人や自分を大切に出来る人に。人の痛みの分かる人に。2、仕事や物を大切にできる人に。3、お金を大事に使える人に。4、社会で役立つ人に。5、心身ともに健康な人に。6、努力の人に。ある意味、私に出来なかった事を子供達には伝えたいという思いの発露とでも言うのでしょうか。或いは、大いなる人生の反省の上に立った私の叫び声とでも言っていい位です。私にあと少しの裁量があれば、人生もあと少しは旨く渡れたのかもしれませんまた、私にあと少しの器量があったなら、あと少しは増しな人生をみんなに差し上げられたのかもしれません。そして、私にあと少しの度量があったなら、親として経営者として、ふところ深く包み込んであげる事が出来たやも知れません。もうそろそろ纏め上げないといけない事態になってきました。時間はそんなに残されてはいないようです。
2011.06.15
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自分を大切にしていますか?自己保全を図るとか、自己保身の事ではなく、本当に自分を大切に出来る人間になりたいものですね。誰でも自分は可愛いものです。ですから、「大切にしています」と答えそうですが、自分を大切に取り扱うという事は自分の尊厳とか、命や想いを大切にすることであって、先ほど書きました保全、保身、自己防衛の事ではないのです。自らを大切にすることは、自らを助ける他人をも大切にすることであって、それが優先する事がであると解釈を致します。自分を大切にする事の中には、当然、文字通り自分を大切に取り扱う事もそうであると理解されそうですが、自分に危害をもたらす者、物や事、損害を与えるであろうと思われる事象や対象から自分を守る事ではないことが想像されます。それは単なる保全や保身、防護、防衛であって、自分を大切にする事には繋がっていかないように思うのです。理不尽な出来事や常軌を逸した行動、倫理や正義を無視した行動には人間として毅然とした行動を取る事は当然であって、それは身を守ると事とは別次元の事のように思うのです。自分を大切にするという事は、自らの尊厳や命を守る事がひいては、家族を守り、社会、自然を守ることに繋がるような行動、それを「自分を大差つにしていますか」の言葉の意味にしたいと思っております。独断、独善のようにも思えますが。
2011.06.07
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この世に無駄は無いような気がするとは言いながら、私自身は随分と無駄な人生を歩んできたような気がしないでもありません。無駄の「駄」を調べてみました。のせる、つむ、はきもの、荷役に使うだけで乗馬に適さない所から、転じて、そまつなもの。駄馬・・・荷物を背負って運ぶ馬。駄々・・・幼児が甘えてわがままを言う事。むずかる。駄作・・・つまらない作品。悲しいかな、有難い表現はありませんが、考えてみましたら決して否定をしている訳でも、良くないことでもないですよね。駄馬がいなくて良い訳はありませんし、幼児が駄々をこねる事も大事な意思表現ですから成長にとってはなくてはならないものです。駄作があるから秀作があるわけで、もしかすると駄作が極めて素晴らしい作品になることだってあり得ます。ですから、無駄はなくていいものでもありませんし、意味合いから言っても大事な存在である事が伺えます。決して無駄の存在を否定しない生き方こそ大事かもしれませんよね。「無から有が生じる」と昔から教えてもらっていました。仏教でもそうですよね。無の大切さを教えてくれます。無駄は無駄そうに見えても、意義深い人生はその積み重ねにこそ招かれるもののような気がします。過去の無益、無駄な人生が今の私の人生を作ったことに想いが馳せる時、そんな無益、無駄な過去が愛おしくさえなるものです。これからも大いに無駄を経験するのでしょうが、無駄の上に咲く花々こそ美しく、人をなごませてくれるものです。『自分の心に描く夢の実現に向かって努力する時、普段なら思いもよらぬ、成功が得られる。空中に楼閣を建てても無駄骨には終わらない。楼閣は空中に建てるものだ。さあ、その下に土台を建てよう。ソロー思想家』『人生、3つの道。寄り道、脇道、回り道。忙しくても、きちんと留まるところは寄り道をし、華やかな道でなくても、脇道を通らなくてはならない時もあり、近道をと願って無駄が多くなることがあるように、労を惜しまず、回り道をする。寄り道、脇道、回り道、人生の道ですね。』『何を始めるにしても、ゼロからのスタートではない。失敗や無駄だと思われたことなどを含めて、今までの人生で学んできたことを、決して低く評価する必要はない。カーネルサンダース』『最も無駄な日とは、一度も笑わなかった日のことである。セバスチャンチャムフォート』
2011.06.06
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「命がある事」の有難さを東日本大震災は私どもの想像を遥かに超えるものでした。残念ながら命を落とされた方、未だに行方が分からない方、家や仕事を失った方、精神的な支柱を失ってしまった人、・・多分、多くの被災された方々が「助かって良かった」「命があって良かった」と思っておられる事は間違いないでしょう。或いは、身内やご家族を失って自暴自棄になられたり、悔しさに胸が打ちひしがれた方々もおられる事でしょうし、「出来るなら自分も一緒に死にたかった」とも、一時的には「命など要らなかった」とさえ思われた事だと思います。命は失ったからどうと言う事ではなく、生きているから命なのであって、存在そのものが大事だと思うのです。人は命は、存在することで喜びも有り、悲しみも存在する訳で、そんな一喜一憂が命の齎す最大の機微であって、だからこそ人は生きようと努めるのであります。最近、頻繁に告別式に出る事になりました。確かに悲しみに打ちひしがれますが、時の経過とともに少しづつ少しづつ離れて行くのを感じます。いつまでも癒えないのようではありますが、記憶の片隅から全部ではなくても消えて行くのを抑える事は出来ません。そんな無碍な事を言わなくてもと言いますが、命あってのモノダネ、命あっての語り草だと思うのです。ですから、命を授かっている事に心から感謝の気持ちを忘れず、大切にしなくてはいけないと思われます。人間の尊厳を語るには、幾ら時間があっても語り尽くされるものではありません。それにも、命の存在の大切さが根源ではないでしょうか。与えられた命は、与えられた時間の限り大切に!!『あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。ブッダ』『命を知れる者は天を恨みず、己を知る者は人を恨まず。「十訓抄」より』『命があるかぎり、希望はあるものだ。セルバンテス』『人生に命を賭けていないんだ。だからとかくただの傍観者になってしまう。岡本太郎』
2011.06.01
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悪い事を企む者には、悪い結果が待ち受ける人は日常的にそんなに悪い事を考えたり想像したりしている訳ではないのですが、意識して自分を見つめてみると案外、マイナス的な思考や、ネガティブな判断、後ろ向きな想いを抱いたりしているものです。その全てを、プラス、ポジティブ、前向きという訳にもいきませんし、それこそノー天気と揶揄される結果を招いてしまいます。私の性格は、こんな事を書く位ですから、マイナス、ネガティブ、後ろ向きの典型的な人間である事は間違いありません。こんな言葉を発見です。『悪いことを考えながら良い結果を期待することはできない。良いことを考えて悪い結果を得ることはできない。カーネギー』確かに心当たりがあります。悪い想像や予感は、不思議と的中するのです。「あの時、そう言えばそうなる予感がした」などとよく言います。最近、良く言われる「引き寄せの法則」不思議なものです。確かに今の自分は自らが引き寄せた人生を実感します。「幸せはそれなりに準備した人に廻って来る」と言います。過去を振り返ってみると、確実に実感できるものです。苦しい判断を求められた時、状況がどうも不利、苦境に立たされた時、心配が重なった時、・・判断や行動の全てを、プラス、ポジティブ、前向きと言う事も出来ませんが一部にでもそんな思いがあると案外目指した結論が舞い込んだりするものです。しかも思わぬ結論、望まぬ結果が出たとしても怯まずに、心塞ぐことなく希望を持ち続けることではないでしょうか。「悪い事を企む者には、悪い結果が待ち受ける」と言う事もありますが、「悪い結果を想像するものには悪い結果が待ち受ける」と言い換えてもいいと思っています。
2011.05.31
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人はいつまでも未熟人間はいつまで経っても、未熟・未完成と思っていた方が良さそうです。謙虚にだってなれますし、人から物事を教えて頂くにもわだかまりなく、心置きなく、恥ずかしさや気後れ無し、気負いなしで教えて頂けそうです。自分を完全とか、そうでなくても人よりも素晴らしい知識や能力を要していると思うより、幾ら努力しても完成はしない、学ぶべきものは幾らでも存在する位に思っていた方が、より良く人生が送れるように思います。私などの性格は、負けず嫌いですから物事を知らないことを恥ずかしい事と思っていますし、人から教わる事に抵抗を感じるものです。かと言って、自分自身に能力や知識がそれだけ豊富かと言うとそれは全く逆で、乏しい事をただ認めたくないだけなんです。出来れば、無垢無欲な気持ちで人に接する事が出来ると嬉しいですね。未熟、未完成と思えばこそ、成長もありますし、人間的な謙虚さも維持できるものでしょうから。自分が未熟、未完成という想いは逆に自信に裏付けられた気持ちの表れでもありますから。『我々の願い通りになることなんて、そうそうあることじゃないんだよ。たいていの人間の生涯は、未完成なエピソードの続きじゃないか?Tカポーティ』『ディズニーランドはいつまでも未完成である。……現状維持では、後退するばかりである。ディズニー』
2011.05.30
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子供や社員達に弱みは見せられない私は父親なしで育ちましたので、子供と接する父親が修羅場に出くわした時や一旦緩急の時の姿を想像する事ができません。ドラマの世界を垣間見る事はあっても。事態に遭遇して、怯(ひる)む父親像など想像もしたくありませんし、毅然として逞しく戦う姿が父親像であります。企業の経営者でも似たようなものかもしれませんね。社員に弱みなど見せたくありませんし、見えない所でこそ頑張ってみたいものです。社員以上に働けない自分が出現したときには、それは社長を辞する時だと思っています。決断が鈍り始めた時などもそうかもしれませんね。今時、逞しい父親像などと語ること自体がすでに置いてきぼりを食った時代錯誤的な考えと中傷されそうですが、家の大黒柱などと揶揄される父親像はいつまでも毅然として存在してほしいものです。「家庭に母親は二人は要らない」などと言われます。「父親不在」ともいいます。男親の役割、女親の役割、それぞれに存在してこその教育であって家庭生活だろうと思うのです。特に私は、父親を知りませんし、7歳の時に初めて出会った実の母親が努めて父親を演じてみたり、時には母親であったりしたものですが、やはり両方を演じるには役不足は否めませんでした。経営でもそうだと思われます。家庭で毅然とした、存在感のある父親が必要なように、揺るがない理念信念を持って、真摯に経営に取り組む経営者の姿は社員の心を揺り動かし、盤石の態勢を構築できるものです。父親にしろ、経営者にしろ難しい課題ですが、そのような命題を抜きにして家庭を守る、経営を守るという事は果たし難い事のように思えるのです。これからもそうですが、頼れる父親、尊敬される経営者像を追い求めて、長い道のりをひたすら走る事を義務付けられているような気がします。『世界で一番有能な教師よりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子供は立派に教育される。ルソー(仏・思想家)』『父親は、最も厳しく叱る時も、言葉はきついが父親らしいそぶりを見せる。メナンドロス「断片」 前4世紀』『経営者がなさねばならぬ仕事は学ぶ事が出来る。しかし、経営者が学び得ないが、どうしても身につけていなければならない資格が一つある。それは天才的な才能ではなく、実にその人の品性である。ピーター・F・ドラッカー』
2011.05.29
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何一つ究める事も出来なくて随分を生きてきたような気がしますが、何一つ究めるものもなくて悲しい気がします。努力を怠った訳でもなく、自分なりには頑張ったつもりですがそんな人生の有り様に心が残ってしまいますね。人はそれぞれに持ち味があるとは言いますが、自分を振り返って何が持ち味だったのか、他人よりも少しでもきらりと光ったものは何だったのか。「天はそれぞれに役割を与えてこの世に生を与えた」と言いますが、本当なのでしょうか。あるとしたら、私に課せられた役割は何だったのでしょうか。何も役割を果たすことなく、ましてやその役割が何なのかさえ、理解できていない現実に悲しさを覚えます。「人はナンバーワンでなくてもいい。オンリーワンでいいんだ」と言います。人は誰しも最初からナンバーワンなんてなれるものではありません。それは目指し努力する目標であって、世の中の全ての人がオンリーワンになれるほど、オンリーワンの地位なんて何処にありますか。最初から、オンリーワンなんです。でも、オンリーワンであるからこそ、一人の人間として果たすべき役割を担っている訳で、只の個体として存在する訳ではありません。経済的ゆとりや社会的地位が存在するから、果たす役割が大きいという事でもないでしょう。人は与えられたそれぞれの環境の中で、きらりと光るように出来ている筈なんですけどね。当人の私とってのそれは何だったのでしょうかね、今更思いめぐらせても、答えは出そうな気はしませんが、でも探し求める事だけは辞めてはいけないようです。それは事切れる時なら許される事なのかもしれませんね。
2011.05.28
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そんな気難しい顔をしなくても今日も、感じ入ってしまいました。ある人にお会いしました。初めてお会いする方で、過去の面識は当然ありませんが、その方の近くの方から「物凄く、気難しい、変わった人」と聞いてはいたのです。今まではお会いする必要もなかったのですが、全く関わりがない方ではありませんから、いつの日か機会があればお会いしたいとは思っていたのです。そんな気難しい、変わり者の方だから興味があってという事ではなく、いつかお会いしなくてはいけない方だからという程度の事でした。お会いすると、確かに気難しい顔です。普通でしたら、初対面の私ですから「こんにちわ」とか、言葉でなくても、笑顔の一つで十分だと思うのですが。周りにいる人々も緊張状態で、多くを語ろうとはしません。所謂ピリピリモードです。別に私と喧嘩するのでもなく、対抗するのでもないのですから。お会いするのに仲介の方がいましたからお会いしましたが、今後は直接には余りお会いしたい方ではありませんでした。でも、何処かで一度はお会いしなくてはいけませんでしたから、それでも今日のこの機会は良かったと思っています。人は、やはり印象深くなくてはいけないと普段から思っていますが、印象でも人を不愉快にさせるようではいけませんよね。多くを語る必要も、上手を言う事も要りません。少しの明るい表情で十分もの足りるのです。逆に、このような方もおられる事を知っただけでも収穫としておきましょう。人にお会いした後に、仄かな心地良い香りを残せるようになれるといいですね。いい勉強を致しました。
2011.05.27
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「お前は何と幸せな境遇に生まれたのか」そう思う事にしました。今までどんなに悔やんだり、自分を蔑んだりしたことでしょうか。それが却って苦しみや悲しみを助長してきたような気がするのです。そっとしておいてあげたら、実はそれほどでもなかったでしょうに。これからは、「お前は何と幸せな境遇に生まれたのか」と言ってあげる事にしました。褒めちぎる必要はありませんが、適度にうぬぼれない程に。生まれた以上は仕方ありませんしね。現実を直視する姿勢や逃避しないで自分のありのままの姿をさらけ出す事も満更ではなさそうです。人によっては、そうではないと否定する人もいるでしょうし、そうだと共鳴してくれる人もいるかもしれません。また、人生はそんなに軽いものではない、我を知れとお叱りを請うことかもしれませんね。でも、人それぞれ、自分のあり方を真剣に真摯に捕えようとする姿勢は、それぞれに正しく評価してあげても良さそうです。明日から、「何と幸せな境遇に生まれたのか」と自分の言い聞かせる日々を重ねてみたいものです。「ありがとう百万遍」を重ねている内に、人生が明るく変化を始めましたし、不思議な現象を目の当たりにする機会が増えました。だとそれば、「何と幸せな境遇に生まれたのか」と唱えている内に、また新たな人生の展開が待ち受けているかもしれませんね。そうあって欲しいと思います。
2011.05.24
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「苦は苦を持って制す」「毒を持って毒を制す」と良く使っていましたよね。私がその例で一番思い出すのが、猛毒をもつはハブに咬まれた時にいち早く血清を打つのですが、その血清はハブの毒から作られている事を知った時でした。東大の研究所から開発されたと聞いています。これで沖縄や奄美大島の人々は、多くの方々が命拾いをしたものです。普通でしたら思いますよね。毒を持って毒を制すなんてあり得ないと。言葉を換えて「苦しみは苦しみを持って制す」、そんな事はないのかと。もがき苦しんでいる時に、重ねての苦しみは耐えきれないような気がしますがどうもそうでもないような気がします。その苦しみが償いを必要とするのであれば潔く償った方がいいでしょうし、そうでなく自らに課せられた苦しみであれば、むしろ挑戦的に立ち向かう事の方が苦しみを和らげたり致します。「楽(らく)を持って苦を制す」道を選ぶと、解決は早く、しかも楽そうに見えますが、却って虚しさを感じ、根本的な解決を得られず、一時凌ぎの解決となるように思えます。「神は乗り越えられない苦難は与えない」と教えられました。振り返ってみると確かにそうです。越えたハードルは案外と小さく見えますし、次は難なく飛び越える事が可能ですし、楽しくさえ感じるものです。苦しみを乗り越えようと思うならば、厭わず苦に立ち向かう事が必要であって、決して逃げてはいけないようです。逃げの姿勢は、ますます人生を困難なものとし、挫折と逃走の連続を呼び起こします。「苦は苦を持って制す」
2011.05.23
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癌が消えた?ある先輩から「○○君、俺の癌が消えた」といきなりの弁。話は3月に遡ります。確か3月の中旬でした。「俺の肺に癌が見つかった。明日は???に精密検査に行って来る」普段はすこぶる元気な先輩が、幾らか憔悴したような表情で語られました。「それは大変ですね。何でもないといいですね」別れて約2カ月。気にはなっていましたが。お会いした途端の言葉に私は唖然としたのです。「○○君、俺の癌が消えた」事の顛末を語って頂きました。その後の検査でやはり肺癌と診断され、入院。5月10日が手術日と定められたようです。所が、手術日を目前にした1週間前に再検査がされた様です。まさしくこの時に「癌が消えた」と告げられたとのこと。ご本人のびっくりしたご様子が目に浮かぶようです。それは結果としては極めて嬉しい話ですが、肺癌を宣告され、気を揉んだ月日は何だったのでしょうかね。或いは死をも意識して、悶々とした切実な日々は何だったのでしょうか。誤診、間違いはあると十分承知はしていてもご本人にしてみれば釈然としない想いが本当ではないでしょうか。或いは、「癌が消えた」事までもが若しかすると誤診ではないのかと疑ったりもしてしまいます。さらにお聞きすると、年齢の離れた弟さんが一年前に、しかも肺癌で亡くなったばかりとのこと。「今度は自分の番」だと愕然とされたとのことでした。世の中、不思議な事があるものです。近くにおられたお医者さんにそんな事があるのかとお尋ねしたら、あり得る事と答えられました。また、ある病院の婦長をされた方にもお聞きすると、同じように「あり得る」と言われたのです。とすると、そのような方々がやはりおられると言う事ですよね。「希望は捨ててはいけない」と取るのか、「信用してはいけない」と取るのか。やはり、セカンドオピニオンを実践しないといけないようですね。大いに学びました。
2011.05.20
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20年皆勤、達成です何事も、休むことなく健康で継続できる事は有難いことです。小さい事は小学校の皆勤賞などと言うのもありましたよね。もっと小さい頃は幼稚園や保育園。何となく誇らしげで、浮き浮きして親に報告をしたものです。大人の世界はそこまで嬉しいものではありませんが、何となく達成感は感じるものです。昨夜は業界の総会でしたが、業界加入以来、20年にわたって業界活動や例会参加、諸活動に皆勤をしたという事で報告を頂きました。余程の事があれば別ですが、休み事は好きではありません。かと言って他を犠牲にする事は嫌いです。色んな事が重なっても、首尾よく調整をして、出来れば全てが旨く行きように段取りをするのが大切だと思っているのです。あちらを捨てて、こちらを立てる。それは誰にでも出来ることですし、容易なことです。安易に答えを出すのではなく、全てが丸く収まるような調整をする。時には、どうにもならない事もありますが、その時には苦しい判断ですが優劣をつけねばなりませんよね。20年ですから、大きな節目を迎えたような気もしますが自然体で気負うことなく、自慢することなく、無理をすることなく・・・・・25年、30年に向かって再スタートしたいものです。また、新たな旅立ちのような気分です。『恋はほどほどにするものだ、そのような恋こそ長続きする。シェイクスピア』『賞賛による堕落から逃れる方法はただひとつ。仕事を続けることである。人は立ち止まって賞賛に耳を傾けがちであるが、唯一なすべきことは、賞賛から目をそらし、仕事を続けること。それ以外の方法はない。アインシュタイン』『だれでもある時期、情熱的になることはある。ある人は30分間熱中できるし、ある人は30日間続く。しかし人生の成功者は30年間情熱が続く人である。米著述家:エドワードBバトラー』
2011.05.19
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「涙は心の目を洗う」今日の夕刻、福岡市博多区、空港の近くを車で走っていますとこんな言葉が目に飛び込んで来ました。お寺の入口に書かれていた言葉です。無断で拝借させて頂きました。「悲しい時には泣くが良い。涙は心の目を洗う」一種の快感さえ覚える時がありますよね。痛い時、苦しい時、悲しい時、悔しい時、相手に同情する時、純情でない程嬉しい時、感極まる時、笑いが過ぎる時、当然、老齢化して涙腺が緩んでしまった時、・・いろんな場面で涙が溢れます。とりわけ涙には心の浄化作用があるものです。また、癒しの効果や慰め、開き直りの心、物事に改めて対峙させる勇気なども授けてくれるものです。ですから、時には思い切って涙を流すのも捨てたものではありません。頼り過ぎるのも困りますが。私などは、涙脆い方ですから比較的簡単に涙を流してしまいますが、本当は辛抱する所が欲しいものです。「男は簡単に涙など流すものではない」などと言われましたが、確かにそんな側面はありますよね。家の大黒柱の親父が、めそめそするのも困りますし、家族を本当に支えられるのか危うくなります。会社の経営者だって、いちいち涙を流されては社員は不安になってしまいます。でんと構えて、社員の先頭に立ってくれなくては困ります。涙などで解決してもらっても嫌なものです。流すなら、トイレや車で一人になって流す涙こそ、良さそうですよ。『気持ちが萎え、ときには涙することもあった、だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ。フランクル』『涙は苦痛の聖なる権利だ。グリルパルツァー』
2011.05.16
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人から学ぶ姿勢最近、学ぶ事の大切さを痛感する日々が続きます。学ぶ事に衒(てら)いが邪魔をしたり、無知が恥ずかしさを誘因したり、或いは教わることに悔しさが交錯したり、自らの力の無さを痛感したり・・・・・そんな精神作用な成す技だと思うのですが、積極的な気持ちで人から学ぶ事を避けてきたような気がします。それでいて、それなりの知識智恵を有しているのならいいのですが、人並み以下した持ち得ていない自らの能力の有り様を反省することなく、良くも今まで生きてきたものだと反省しきりです。教えてくれる人が若くても、老練でも等しく耳を傾ける事に抵抗がなくなってきたのも年の精でしょうか。孔子の言葉に「60にして耳順う」(みみしたがう)という言葉がありますが、漸くそんな年ごろに到達したという事でしょうね。「60にして耳順う」とは、人間は60歳くらいになると、人の言葉も素直に聞く事が出来る・・・・・という事のようです。また、素直な心を大切にされた松下幸之助さんは、あれだけの大事業を最高に導き、経営の神様と呼ばれるまでになられました。人は様々な事を教えてくれます。時間を惜しむことなく、寸暇を惜しんで教わる事は人生をより意義深く楽しいものにしてくれそうです。『経営者がなさねばならぬ仕事は学ぶ事が出来る。しかし、経営者が学び得ないが、どうしても身につけていなければならない資格が一つある。それは天才的な才能ではなく、実にその人の品性である。ピーター・F・ドラッカー』『これこそが学ぶということだ。これまでずっと知っていたことが突然新しく見える。英作家:ドリスレッシング』『猿が新しい木登り技術を学ぶために、ある試みをして落ちるなら、これは尊い経験として奨励したい。本田宗一郎』
2011.05.11
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皆さんの母の日は?昨日は、当然日本中が母の日でした。如何過ごされましたか。母親がご健在の人、残念ながらご病気で伏せておられる母を抱えている人、極めて、残念なことですが母親が他界をされている方、離れ離れで近くに母親がおられない方、その環境は様々ですが、最も困る、いけないのは、近くに母親が居ながら、親孝行の出来ない人間。それも色んな事情が存在するものですが、中でも、親には問題がないのに自らが親孝行を放棄している人間ですよね。或いは、本人は親孝行をしているつもり、若しくは形ばかりで心が伴っていない、母の日など知らない、酷いのは無視する、いつもしているから改まってしない、祝う必要などない・・・・・色んな態度や行動がある事でしょうね。私自身は、親不孝者を自認している人間で、母親自身はもっと親孝行者であって欲しいと思っているかもしれません。どのようにする事が母親にとって素晴らしい孝行なのかも非常に難しい事ですよね。それぞれの親子関係がありますから。無理やりも親孝行も嫌ですしね。こんな話を見つけました。「お父さんは、なぜ目を覚ますの?」かわいい坊やがお父さんに無邪気に尋ねました。お父さんは即座に「お母さんを幸せにするためだよ」と答えました。坊やは、安心してスヤスヤ眠りについたそうです。子どもは夫婦の愛のこぼれで育ちます。良き親子関係は、豊かな夫婦関係から生まれます。『母親の涙には、化学で分析できない深く尊い愛情がこもっている。ファラデー』『母の日に電話1本することすら照れているような奴は、どんなスーツを着ていてもかっこよくないと思いますけどね。リリー・フランキー』
2011.05.09
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恩返しもしていないのに大事な方を失ってしまいました。人の命は平等とは言いますが、個人的にはそれぞれに重みがあるものです。恩返しが十分になされる事はありませんが、せめて借りたかりの半分くらいは返しておきたいものです。やはり日頃からのお付き合いが大事なんでしょうね。その時が来てからは時既に遅いものです。日頃から心配りをして、付き合いを大事に心がけ、その時に及んでも、後悔を少なくする事が大切なんでしょうね。過去を振り返ってもそうです。そんな思いを抱いた方が数名おられますが、全てがそうでした。いつか恩返しは出来るとか、そのうちなどと考えない方が良さそうです。「後悔先に立たず」とも言いますし、人として果たすべき義理やお返しは先延ばしは禁物。これからは常に心の留置かなくてはいけないようです。懺悔、懺悔!!でも、今からでも出来る事があるのかもしれませんね。或いはその思いを社会に還元するとか、残された家族の方々へするとか。
2011.05.05
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桜婚って?「まだら婚」と言う言葉を聞いた事がありますか。実はどういう訳か急に頭に浮かんだ言葉ですが、ネットで検索もしましたが出てきませんでした。確か数日前のブログに書いたような気もします。それで急に浮かんだのかもしれませんね。所で、「桜婚」ってご存知ですか。先日ある方から教えて頂きましたが、所謂、桜の季節、ひらひらとサクラ舞う時期に結婚をすること。人も動物ですから、ある意味最も相応しい時期なのかもしれませんね。そうでなくても、社会や経済が改めて動き出す時期、子供たちが新しいスタートを切る季節。その方曰く、桜の季節に結婚すると、桜のようにぱっと咲いてぱっと散る、つまり離婚も早いと言うらしい・・・・・桜婚にはそんな解釈もある・・・・・そんな事はありませんよね。むしろ、早めに子供が出来るでしょうから、「子は鎹(かすがい)」という言葉を出すまでもなく、却っていいかもしれません。ある意味、素晴らしい季節です。最も相応しい結婚の季節でもあるように私はもうのですが。『急いで結婚する必要はない。結婚は果物と違って、いくら遅くても季節はずれになることはない。トルストイ』『結婚をしばしば宝くじにたとえるが、それは誤りだ。宝くじなら当たることもあるのだから。バーナード・ショウ』
2011.05.03
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「聞き上手は話上手」とはいいますが、昔から「聞き上手は話上手」と教わってきました。多くの皆さんがそうではないでしょうか。饒舌で、澱みなく、聴きやすい言葉で話すのが話上手とは言わなかったんですよね。人の話を、静かに、相手の目を観て、相槌を打ちながら聴ける人。そんな人が本来の話上手だと。私もそう思っていました。所が、相槌を上手に打てて、相手の目を観て聴けるだけでは、そうではないような気がするのです。なぜならば、私がそうだから。そうであれば私は一番の「聞き上手」かもしれません。聴くだけであれば、私の能力で十分なんです。私は上手に話せなくても、人の話は物静かに聞いて差し上げる事が誰よりも出来ると信じています。人の話を十分に咀嚼できなくても、聞くだけは得意技です。最近感じるのです。話は、お互いのやり取りの中から、話題を様々に変化をさせ、お互いの持てる情報の交換ができることであると思うようになったのです。自らは、情報の発信は出来なくても、相手に時宜を得た質問の投げかけや、新しい会話の糸口を見つけてあげたり、きっかけを作って上げる事が出来て、新しい展開を創りだせる人が聞き上手ではないかと思うようになりました。どうもそれにはある程度の能力が必要なのだと気付きました。それには、やはり日頃からの勉強だったり、研鑽の重ねなのかもしれませんねむしろ、その事は話す事よりも難しく、大切な事のように思えます。どうも、今までの私は「ただ人の話を聞いていればそれで話上手」なんだと身の程知らずな我儘、身勝手な、自己都合解釈をしていたようです。相手が話したくなるような状況づくりや雰囲気づくり、話すのが心地良くなるような誘い水を差し出す事が出来る事が大切なようですね。『相手の話に耳を傾ける。これが愛の第一の義務だ。ポールネイリッヒ』『あらゆる人間関係に役だつ提案を一つあげてくれと言われたら、私は真っ先に「いい聞き手になること」と答えるだろう。カールソン』『常に何かを聞き、常に何かを考え、常に何かを学ぶ。これが人生の真の生き方である。何事も切望せず、何事も学ばない者は、生きる資格がない。Aヘルプス』『人には口が一つなのに、耳は二つあるのは何故だろうか。それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだ。ユダヤの格言』
2011.05.02
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絆(ほだ)され婚は?昔は、行きがかり上とか、仕方なくとか、自分の想いよりも周辺の関係性を重視したが為に結婚したなどという事があったものです。例えば、仲人さんの顔を立てるために、紹介して頂いたのに、断るのもどうかや本当は結婚したくはないが、行きがかり上結婚したとか、或いは、ここまで付き合って頂いた相手に今更断るのもいけないので・・・など。最近の若い方々はそんな事はないとは言いませんが、極めて少ない事ではないでしょうか。当たり前といえば当たり前のことですよね。結婚は、自らの幸せの為であって、仲人さんや他人の為ではないのですから。結婚は両性の合意を持って・・・・・となっているのですから。気持ちがはっきりしない、仕方ないから等は、将来の二人の為にも良くはありません。が、本人の気持ちは進まないのに、回りや関係者から「背中を押される事で決断できた」という事は確かにあります。どんなに望まれた結婚であっても、結婚前には不安が付きまとったり、「本当にこの人でいいのか」などや「私が相手にとって相応しい人間なのか」、「結婚そのものに不安か付き纏う」などという事は誰にでもある事のように思います。絆されて結婚したから、不幸な訳でもありません。私の周りには、大恋愛の二人にも関わらず破局を迎えた人々がどんなに多いことか。『君がよい妻を持てば幸福になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる。ソクラテス』こんな言葉だって存在する位です。『結婚とは、熱病とは逆に、発熱で始まり悪寒で終わる。リヒテンベルグ』絆されるとは、読んで字の如く、人の絆を大切にすると言う事。人間の行動の中で、人の絆を大切にできない人は終生付き合う事は出来ません。そういう意味から「絆され婚」を考えてみると、まんざらいけないことでも避けるべき事でもないですよね。或いは私どもが忘れかけている事が行けないのかもしれません。
2011.05.01
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愛を学ぶために孤独がある平原綾香さんの楽曲「ジュピター」がテレビで流れていました。興味のある女性ですし、唄も魅力的だし、何となく品格を感じます。私だけでしょうか。低音の素晴らしさや音域の広さも私どもを引きつけます。歌詞の中に「愛を学ぶために孤独がある」という一節があります。確かに、人は孤独を感じること自体がすでに人との交わり、愛の交歓の大切さを学んでいる証拠でもあり、人と人との係わりや煩わしさの中であっても人を愛する事を抜いては考えられないのが人生です。私などはどちらかと言うと、孤独を楽しむと言うか、人との交わりがへたくそ、隅で小さくなっている方ですから、かと言って人との関係を否定している訳でもなく、極端に係わりを避けているのでもないのですが、こればかりは性格なのでしょうね。人によっては、多くの人々との係わりの隙間を縫って孤独感を味わおうとする人もいますよね。愛情の大切さや貴重さは誰でも理解できている事ですが、時には孤独を味わいながら、愛情のあり方について再認識するためにも確認する時間が必要なようです。愛情は時として、豹変するものです。「可愛さ余って憎さ百倍」などと言う事も、つぶさに全ての人々が経験する事でしょう。時には冷静さを保ちながら、放たれた空間、時間の中で見つめなおしたり、充電したり、再構築したり、セット、リセットを繰り返す事も大切なようです。『総じて、人は己に克つをもって成り、自らを愛するをもって敗る。西郷隆盛』『自分自身を愛し、その愛を人々に分け与えよう。あなたが感じているすべての愛を、いますぐに。Dウェイトリー』『純粋に愛することは、へだたりへの同意である。シモーヌベイユ(仏 思想家)』『自分は愛されている、と思っている女はいつも魅力があるものだ。伊藤整「変容」』
2011.04.30
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いい歳を重ねる「いい歳のとり方をする」「いい老人になる」「いい歳を重ねる」とか言いますよね。誰しもいずれは、歳をとっていきますし、老いを重ねるものです。でも歳の重ね方があるような気がしませんか。先輩達の中に、「ああ、いい歳をとられているな」と感じる方がおられます。羨ましい限りですがどうも秘訣があるような気がするのです。誰しもそのような風采にはなりませんし、同じように過ごせばなると言うような事でもなさそうです。かと言って持って生れている事でもないようだし。思うに、いくつもの苦難を乗り越えてきている、前向きに解決しようとする姿勢がある、どんな事があっても笑顔を忘れない、人に心痛を与えない、穏やかな心理を保とうと勤める、人に会う事を苦にしない、苦難、心配を引きずらない、家族を大切にする、他利を優先し、自己犠牲の精神に富んでいる・・・・・観察しているとそのように見えます。難しい事ですが、修錬なんでしょう、そうありたいと願う心が強いのでしょうね。『ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代わりに、「あいつもかなり老人力がついてきたな」というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。赤瀬川原平「老人力」』『四十歳は青年の老年期であり、五十歳は老年の青年期である。ビクトルユーゴー(仏小説家)』『血気に老少ありて、志気に老少無し。佐藤一斎「言志四録」』『青春とは、人生の一時期だけではない。それは心の状態だ。長く生きただけで老いる者はいない。人は理想を放棄することによって老いるのだ。ダグラス マッカーサー』
2011.04.27
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惹かれる?引かれる?日本語は難しいですね。つい疑問に思ってしまいました。「惹かれる」と「引かれる」それとなく使っている言葉ですが、日本人の繊細な感情や表現性の豊かさがこのような漢字や言葉を作ってきたのでしょうね。「惹かれる」はひきつける、ひきよせる、乱れる、音符の「若」は、髪をふり乱し、神がかりになった人の象形。心が乱れる、引きつける・・・・・その意味から行くと、「若い」と言う事は一生懸命とか、自分を忘れてとか、恋愛や物事に神がかり的に真剣に身を賭して頑張る時期なのかもしれませんね。と言う事は、激しく引かれる、心を奪われる、虜になる・・・・・そういう時に使う言葉なのでしょか。「引かれる」は、魅力を感じるとか、何となく心引かれる、そんなに強烈な印象ではありませんよね。恋愛などのひかれるは、「惹かれる」なんでしょうね。場合によっては、時として憎しみに変わったりもしますし、展開によっては生死に係わることだってあり得ますよね。逆に、心奪われる状態や、虜にだってなってしまいます。言葉や漢字は使い方によって千変万化するんですよね。
2011.04.25
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花も咲くには懸命な努力が伴っている私は毎年、桜のエネルギーの凄さを感じます。植物の研究をしている訳でもありませんから、桜の生態をつぶさに知っている筈がないのです。ですが、桜が満開に花びらを身につけるには相応の努力が必要だし、大変な力を必要としている筈なんです。例えば、私どももそうですよね。人並み以上に、素晴らしい人になろうと思えばそれなりに努力が伴わないと結果はついてきません。成績でもスポーツでも人並み以上に、なろうと思えば尋常な努力ではなり得ないでしょう。美貌だって、人よりも美しく、輝くにはそれ相応の関心と継続、心の張りだって要求される事でしょう。この場合は、土台の事や先天性も加味されるでしょうが。いずれにしても努力なしでは成しえないことであります。桜にしても、春を迎えるまでに耐えなくてはいけない冬もあるものです。桜を擬人化することには、可笑しく感じる人もいるかもしれませんが、色んな事に想いを馳せる事は可笑しい事でもないでしょうし、人間としての感情の豊かさを養うには自然界から教わる事の方が多いものです。全ての自然が、人間とともにここまで生きてきたのですから、或いは人間の知らない精神や言葉を持って語り合っているかも知れませんよね。『明日ありと思ふ心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは。親鸞』『時にあわば散るもめでたし桜花(さくらばな)めずるは花のさかりのみかは。幕末の兵学者 佐久間象山』
2011.04.23
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日本中は神様だらけ日本人であれば、誰しも感じている所でしょうが、至る所に神様が存在しますよね。昔から、祖父母の口癖がそうでした。私を戒めるのに使っていたようですが、事実、日本のいたるところに神様が存在する事は間違いなさそうです。昨年から、「トイレの神様」の唄だってそうですよね。トイレにも、山にも、火にも、お家にも、海にも、川にも、当然お空にも、私の背中にも、足元にも、船にも・・・・・古来から八百万(やおよろず)の神様がいると言われましたが、或いはそれ以上かもしれません。ですから日本は多神教国家と言われます。神様はたくさんいた方が、いいですよね。一人の神様が睨みを利かせているよりも。たくさんいると、それぞれの神様にも表情や癖があるでしょうからそれを観察するだけでも面白いものです。或いは神様同志、ぶつかる時だってあるわけでどの神様が言う事が真実なのか、見極めることだって日本人の得意技です。また、多くの神様に見守って頂いていると思えば心強いことですし安心です。何処に行くのでも、神様がご一緒と思えば楽しくもあり、喜びも一入になる事、請け合いです。
2011.04.22
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肝臓に頑張って欲しい先ほど、『「がんばろう」の言葉を使うのに躊躇は要らない』のタイトルでブログを書いていましたら掲題のような妙な事を思い出してしまいました。滅多に健康診断などしない男が、家内など周辺からがんじがらめにされて健康診断を受ける羽目に。健康には自信がありましたから、出てくる数値に驚嘆することなど想像もしなかった事でした。或いは、人生長く苦労をしていると、何か少しくらいは可笑しい事もあるだろうくらいに鷹をくくっていた事も間違いありませんし、或いは何かあっても大丈夫!!と自分に言い聞かせながらの健康診断でした。従前から、腎臓に石がある事は分かっていました。数年に一度、そうですね、3~5年位の周期でしょうか。激痛に襲われますから、その覚悟は普段から備えているつもりで身構えているつもりです。所謂、尿管結石です。頭の出来が悪い事はありますが、それ以外は危惧する所はないと踏んでいたのですが。いくつか問題点はありましたが、その一つに肝臓機能を現わすγGTPの数値が高いのです。決してお酒を繁く飲む訳でもありませんし、飲んでも深酒や二日酔いをする訳でもないのですが。母親が全くお酒を飲めない体ですので、私自身もそうアルコールに強い体ではないのでしょうね。お医者さんからの指導は、やはり運動と与えられた薬の処方を忘れないようにとの事でした。真面目に指導に従っている時にはやはり数値が下がるのですが、油断は禁物、数値は正直なものです。最近、怠っていましたら久しぶりの健康診断で再び数値が上がっていたのです。体質的に肝臓の機能が余り良くないのでしょうね。健康診断の結果としては、むしろこの肝機能よりも他の所が問題だと指摘をされる始末で、即刻内科医の先生の診断を受けるように指示をされているのですが、未だに実行に移していない事態。心の中には、どうにかなると思っているんです。一病息災ともいいますし。そうでした、この言葉はちゃんと病気と真剣に向き合い人の話でした。所が「経営者なるものは、その前にやるべき事はほかにある」などと変な理屈を捏ねて本来対峙するべき事を忘れようとしているものです。でも、当分の間は「肝臓に頑張って欲しい」
2011.04.21
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穏やかに穏やかに!!この度の震災で、当面先行きの見えない時期があるように思います。ある時期と申し上げたのは、決して長続きはしないと踏んでいるからでもあります。大変な被害によって、GDPもかなり押し下げられるでしょうし、何よりも被災地の経済が壊滅的な打撃を受けることで不透明になったからです。また、精神的な衝撃もそうですよね。なかなか以前の状態に気持ちが戻る事は時間を要する事でもありますし、人の気持ちはそんなに簡単に変わるものでもないからです。でも日本人の過去がそうであるように決して悲観する材料ばかりではないとも考えています。むしろ大きな被災をしたのではありますが、以前にも増して活力ある東北地方や日本が立ちあがって来る事は間違いありません。隣の韓国でも例がない訳ではありませんよね。通貨危機に見舞われて、IMFの管理下に置かれる状況が現実に置きましたが、確実に盛り返してきました。この日本においては、もっともっと顕著な形でそれが現れてくる気がするのです。日本人の特性である穏やかな心持で、時代に備える事が大事なように思います。悲しい事態、苦しい事態ではありますがそれを乗り越えるには「穏やかに、穏やかに」の心を持ってこの一大事に備える事が大切でしょう。この一大事を乗り越えた暁の東北地方は、社会資本の整備、企業の構造的変化、人々の心のあり方・・・・・などなど若しかすると日本国内でも素晴らしい地域として目覚ましい発展をすると思うのです。或いは世界でも冠たる社会の実現が可能ではないのでしょうか。戦後、もう立ち直る事は不可能と言われるまでに打ちのめされた私どもの日本は見る見るうちに驚異的な発展を見せ、GDP世界第2位になるまでに復興を遂げたのであります。いくつもの前例が証明するように、夢物語ではないようです。頑張って、頑張って、支え合って、支え合って。
2011.04.20
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人間にはきっかけが要るいつもそうですが、人にはきっかけが色んなものを解決したり、後押ししたり、前進したりしませんか。苦しい時や悲しみに暮れる時、人間関係を改善した時、事業の方向転回をしたい時・・・・・きっかけを機会と言いかえると、駄目ですよね。あくまでもきっかけ。「機会」はどちらかというと、人の手が加わっているような、人為的のような、能動的のような、大よそ想像が出来て想定の範囲。きっかけは、突如として出現したり、想定外で、自ら作り出す事は不可能で・・・・・きっかけを作るのは、打算でもいけませんし、胸襟を開いて、真摯に物事や社会に向かっている事が大事なのではないでしょうかね。色んな事を経験します。あるきっかけが存在した為に、物事が急転直下、解決に向かったり、人間関係が劇的に修復できたり、事業が、突然として新しい展開を始めたり。『人生を変えるきっかけっていうものは、日常茶飯のいろいろなところに転がっていると思うんです。転がっているのに気付くか、気付かないか。気付いたときに取るのか、取らないのか』
2011.04.19
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「がんばろう」の言葉を使うのに躊躇は要らない「がんばろうね」言葉ほど、人を励ます、勇気を授ける言葉は見当たらないように思えますが、最近、この言葉を使う事に躊躇してしまいます。頑張ろうと言うと、「私はこれ以上頑張れません」「今までも嫌と言うほど、頑張ってきました」などなど・・・・・言葉の意味自体は語源的には、強い言葉ですが使い方は極めて優しく、相手を思いやればこその言葉であります。それが証拠に、誰でも気軽に、心を込めて言える筈なんです。この度の震災でも、人々のコメントを聞いていても「がんばってね」の言葉を発するのに明らかに躊躇している姿を見受けます。命を投げ打つほどに、体を壊すほどに、心がへし折れるほどに、頑張れと誰も言っている訳ではないのですが。日常的に私どもが使っている「がんばってね」は素直な気持ちのほとばしりとして発せられている筈なんです。本来は優しい言葉ですよね。多分、この言葉に反発を感じる人は、優しい「がんばれ」コールを貰った事がないか、或いは頑張った事がない人か、素直でないか。純粋に言葉を理解しようとする気持ちがあれば、相手の想いやる気持ちが伝わって来る筈です。大いに使いましょうよ。「がんばってね」言葉の裏には、「私も一緒に頑張るよ」、「辛い気持を共有したい」そんな心遣いが隠れているものです。『今自分にできること。頑張ればできそうなこと。そういうことを積み重ねていかないと、遠くの大きな目標は近づいてこない。イチロー(メジャーリーガー)』『ただ一言言いたいのは、「頑張っている人」は、とてもかっこいい、ということ。そういう人を見ると涙が出そうになるほど感動します。「頑張ること」をみっともないと思わないでください。「頑張ること」にテレないで、夢をつないでください。コツコツ努力する姿は、かっこいいですよね。』
2011.04.18
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「今日の悲しみは明日の花咲くため」人生は確かに苦難の連続のようにも思えます。多分、生涯を振り返っても苦労の大小はあっても「一度も苦労なんてした事はない」、「悲しい涙など流した事はない」、「人との関係で悩んだ事は無い」、「自分の心との葛藤などどんなものか知らない」等ということはあり得ないでしょうし、人はただ体の成長過程であっても、それだけでも葛藤を繰り返し、何処と無く泉のように苦難や悩みは湧き出るものです。片方では人には希望であるとか夢であるとかを想像、連想させる力をも与えられてます。また、立ち向かう勇気を奮い立たせる力が備わっており、喜びや感動の心も持ち合わせてます。そう考えると、人生は上手くバランスが取れるように出来ているのかもしれませんね。或いは、一人の人生でバランスが取れているのか、人間が寄り合ったところでバランスが取れるようになっているのかも。私は余り幸せな人生は歩んでいないけど、片方では私の分まで幸せな人がいたりして。ですが、私も歩んだ人生は長くもなりましたし、決して平坦ではない人生を歩んできたつもりですが何故かしらどうもバランスが取れているようにも感じ取れます。また、人生ってそんなもんだと認識していないと悲嘆に暮れる日々ばかりで、つまらない希望の無い人生になってしまいます。そうだとすると人間をやっているのが嫌になりますよね。どうも、人には幸せを引き付ける秘訣がありそうです。それを早く学んで実践する人ほど、早く幸せを掴みそうです。誰の言葉か知りませんが、こんな言葉が見つかりました。『朝顔は朝の光を受けて開く…のではありません。24時間光を当てた蕾はついに開かなかったからです。意外にも、夜の冷たさと闇の深さが開花に不可欠だったのです。人間も、暗く悲しいことがあっても、それによって人生の色彩を作っているのかもしれません。今日の悲しみは明日の花咲くためです。』
2011.04.17
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今が普通人並み以上に優れている事も望みませんし、人並み以上に裕福であろうとも思いません。普通に生活ができて、普通の食事が出来て、普段通りの生き方ができれば。では、向上心や人以上に在りたいと言う欲望はないのかと言われれば「あります」と答える事になると思います。個人としての心情はそうですよね。でも、外に対しては競争心を露わにはしたくありませんし、偉ぶった態度や行動も慎まねばなりませんし、露骨な向上心も出したくはありません。常に冷静で、落ち着いて、世間並み、それこそ普通の在り方でいいと思うのです。今が普通、普通でいい・・・と東北、関東の被災された方々にとっては、今の日常が普通ではない状態が続いています。果たしていつまで、何処まで続くのか想像もできない状況に追い詰められています。私どもが普通である事が、被災された方々にとっては現実ではないと言う事を知らなくてはいけません。普通である事が、どんなに幸せで、有難いことなのか。私どもは余りにも普通でないことを望みすぎてきているような気がします。振り出しに立ち戻って、普通であると言う事がどういうことなのか改めて考えてみる必要がありそうですね。普通である事は実は大変なことであることを。貧しくても心豊かに助け合って生きる事、生き馬の目を抜くような、人を押し抜けて我が幸せをだけ追い求めることと、本来の人間の生き方は果たして何処にあるのでしょうか。「今が普通」である事の幸せを改めて噛みしめたいものですね。
2011.04.16
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明日は我が身?今回の震災は、唐突として襲いかかってきた災いでした。実は日本の何処にあっても、世界中のどこかしら起きていた事に他ならないのです。日本には昔から「災い転じて福と為す」という言葉がありました。悲しみや苦しみを乗り越えて、新しい展開に心を砕きましょう。やがては幸せも訪れますと言う事。また「神様は乗り越えられない苦難は与えない」とも言います。それにしても、極めて困難な苦しい悲しい現実を目の当たりにすることになってしまいました。あまりにも過酷で、深刻な被害となってしまいました。明日は我が身だったかもしれませんね。それだから良かったと言う事ではなく、それだからこそ明日に備える心構えが大切ですよね。学ぶ事も際限なくあるような気もします。経験をした方々、被災をされた人、行政、ボランティア、救済に当たった消防や自衛隊、米軍・・・・・私は、今回の震災を乗り越えた暁には、東北地方や関東地方が素晴らしく立ち直り、日本の何処の地域よりも素晴らしい発展やインフラの整備、行政機関の整備、企業の活力や次代に即応した姿に生まれ変わるように思えます。逆に考えると、そうでなかった地域は或いは取り残されることにもなってしまうのです。今回の事で大変なご苦労をされる訳ですから、せめてそのようにあって欲しいものですね。「明日は我が身」と言いますが、様々な苦難解決のノウハウは当然今後に生きてきますし、大いにリスク回避に役立つものと思います。学ばせて頂く意味でも、周りの私どもが復興にお手伝いをするのは当たり前ですよね。
2011.04.15
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捲土重来(けんどちょうらい)を心に秘めて「けんどじゅうらい」とも読むそうです。人生は何があるか分かりません。昔から「一寸先は、闇」とも言いました。明日の我が身にも何かが降りかかる事もあり得る事を、胸にしまっておくことにしないといけないようですね。今回のように想像を超える地震、津波、原発事故。この三重苦を考えた人は誰一人たりともいないのではないでしょうか。被災された方々には、大変に気の毒な事態ですし、そうでない私どもにとっても胸が詰まる悲しい事態でした。想いをそっくり共有できる事は難しいのですが、早く心の傷が癒え、一日でも早く復興の道を歩んで頂きたいと願うのは国民の等しい思いであります。その先には、或いは改めて希望が抱ける世界が待ち受けているやもしれません。幸せは、その為に準備した人にこそ訪れるとは良く言います。そうです、希望を失うことなく、一歩でも前に進もうとする努力にこそ救いの神は早く訪れるものです。捲土重来(けんどちょうらい)を調べてみましたら、『一度敗れたり失敗したりした者が、再び勢いを盛り返して巻き返すことのたとえ。巻き起こった土煙が再びやって来る意から。「捲土」は土煙が巻き上がることで、勢いの激しいことのたとえ。「重来」は再びやって来ること。もとは一度敗れた軍が再び勢いを盛り返して攻めて来ることをいった。』私は、苦しい悲しい経験を重ねた人ほど、人間性豊かで、思いやりの心が深く、他人の幸せこそ優先したい想いを持てると信じています。この大震災は、日本人の心を再び蘇らせてくれました。世界が驚嘆のまなざしで日本を見ています。永い日本の歴史は、災害を乗り越えた歴史と言っても過言ではないでしょう。営々として、私どものDNAに刷り込まれた国民性は、再び蘇ろうとしている事を我々は知らないといけません。捲土重来(けんどちょうらい)の歴史がまた廻ってきたのです。被災された方々と、心を一つにして戦う時代が来たのです。久しぶりにこの言葉、捲土重来(けんどちょうらい)を思い出しました。
2011.04.14
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毎日、お経をあげている心境 毎日、ブログを書く意義を良く聞かれます。 「どうして毎日書くんですか?」「良く続きますね」「役に立ちますか?」「多くの人が読んでくれますか?」 実は誰の為でもなく、誰に読んでもらいたいためでもないのです。そういうと、「読んでもらえ得ないとしたら、寂しいでしょう?。書く意味がないのでは?」などと言われます。 そりゃ、読んで頂ける方がいて共感していただいたり、反省して頂けたり、或いは反発して下さったりするとしたら望外の喜びではありますよね。 でも、それを望んではいないのです。 なぜなら、自分の為だから、自分が一番得しているから。 毎日、お経をあげていると思えばいいと自分を納得させています。 続ける理由、過去の自分への戒め、そして大いなる反省。これからへの勇気づけ、そして励まし。 ただそれだけの理由なのです。 お読みになる方が、私と同じように感じて頂ければ本当に有難いと思っています。 人間は不思議なものです。毎日唱えていると、それぞれが心の襞の中にしみこんでいくような気がするのです。 やはり続ける事が大事なんですよね。「継続は力なり」と言いますから。 特に私のような気弱、ひ弱な人間にとっては後押しがあると元気が出るんです。
2011.04.13
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人を好きになる 平成16年12月3日人を好きになることが自分の人生をどれだけ、意義深く明るく豊かなものにするかは、色んな経験を踏んでみないとわからないもの。人は様々なものを教えてもらえるし、示唆を授けてくれる。言葉を交わさなくてもそれはしぐさや目つき、顔の表情、体の動き。後姿でさえ物語を提供してくれる。様々な経験や機会を重ねる中で他人から教わる事の多さや自分の知識の浅さ、常識のなさを痛感することも多い。時には聞きたくない苦言もあり、誹謗や中傷がないでもない。根拠の無いものもあり煙の無いところに立った火もある。憤りを感じないでもないがそれも時間が解決したり自分の日頃の行いや姿で本来の自分を改めて評価してもらえる事がほとんど。逆に雨降って地固まるの如く以前にもまして人間関係が深まったり信頼度が高まったりする事が多い。苦言は謙虚に受け止めて又一歩前進するために刺激をもらったと思えば腹も立たないし有難い事として受け止められる。だから、私は人が好きである。人々は知識の宝庫であり、智恵の塊であり、英知を授けてもらい、明日への勇気を与えてくれる。私のように対人恐怖を持っていた人間にとっては尚更の事、多くの人に会うことがその恐怖から救われる唯一の処方箋だったのである。私の辛い経験から行くと人間は人間によって救われるように出来ており、元来、人は人間好きに出来ているようにも、思われる。これからも多くの人々を好きになり、自分の活力源として積極的に飛び込んで行こうと思っている。相手に嫌がられない程度に!!。
2011.04.12
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